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月齢と呼称

2016年6月23日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第3回)

6月13日(月)のクラスと同じ箇所を読みました。

一昨日も「ストロベリームーン」で、「月」のことを書いたばかりなのですが、
今日もまた「月」の話です。

「夕月夜のをかしきほどにいだし立てさせたまひて」(夕月の美しい時刻に
出立させなさって)と、帝が、靫負の命婦を宮中から亡き更衣のお里へと
出発させた時刻が、月によって表わされています。

今は、辺り一帯が一斉に停電にでもならない限り、夜中でも真っ暗、という
ことはありませんが、平安時代の夜の灯りは貴重な油を燃やしたもの。
一晩中灯りをつけっ放し、なんて貴族の邸でもあり得ないことでした。

屋内でさえそうなのですから、ましてや外はもっと真っ暗。ものが見えるのは
月の美しい夜に限られた現象だったのです。ですから、当時の人々は、月の
存在にとても敏感で、「月齢」に従って、呼び名を付けていました。

「夕月夜」の「夜」は、語調を整えるための接尾語のようなもので、特に意味を
持っているわけではなく、「夕方に見える月」という意味です。所謂「上弦の月」
がこれに当たります。

十五夜になると、月は一晩中出ており、雲に覆われることがなければ、最高の
明かりでもありました。一番望まれる月なので「望月」。藤原道長が栄華の頂点を
極めた時、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と
歌を詠んだのは有名な話です。

16日の月は、十六夜〈いざよひ〉の月。「いざよふ」というのは「たゆたう」ことを言い、
月が少しためらって出てくるように思えたのでしょう。

月の出は、一日で約50分ずつ遅くなりますので、以下、段々と月の出を待つ時間が
長くなり、17日の月は「立待〈たちまち〉の月」、18日の月は「居待〈いまち〉の月」、
19日の月は「寝待〈ねまち〉の月」と呼ばれていました。

20日を過ぎると、月の出は深夜以降となり、明け方にも月が残っていることから、
「有明の月」と称され、これも多くの歌に詠まれています。

一昨日が「十六夜の月」でしたので、今日は「居待の月」です。やっと先程(22:30頃)、
東の窓から見えました。出来れば写真を撮って、先日の「ストロベリームーン」と比較
したくて待っていました。まさに「居待の月」。もう「ストロベリー」ではありませんでした。

           DSCF2626.jpg

このあと続いて、6月の「紫の会」両クラスで講読した「桐壺の巻」の
「靫負の命婦の弔問」場面の後半部分の全文訳を書きます。


長恨歌(1)

2016年7月11日(月)  溝の口「紫の会・月曜クラス」(第4回)

今月の「紫の会」は、「源氏物語」の講読を中断して、「長恨歌」を
読むことにしました。

「桐壺」の巻の前半、更衣を失った帝の悲しみは、楊貴妃を失った
玄宗皇帝のパロディのように描かれており、作者・紫式部が、
「桐壺」の巻を書くにあたって、最も影響を受けた先行作品は、
「長恨歌」に他ならないと思います。

主人公・光源氏の誕生を記した「桐壺」の巻が「長恨歌」に始まり、
光源氏の物語の最終章「幻」の巻で、再び「長恨歌」へと回帰して行く
「源氏物語」。それが単なる偶然であろうはずはありません。

作者がそこまで意識して物語中に取り込んだ漢詩「長恨歌」を、
一度も読むことなく済ませることはできないと思っておりますので、
今回、「長恨歌」を全部(120句から成る)通して読みました。

7月の「紫の会」は、月曜クラスも木曜クラスも、液晶プロジェクター
が付帯している「視聴覚室」が確保できましたので、狩野山雪画の
「長恨歌絵巻」を映しながら、読み進めました。

今回は、絵巻の上巻の中から、一部ご覧ください(28日の木曜クラス
のほうで、下巻の一部をUPします)。

    長恨歌(1)

この場面は

「春宵苦短日高起   従此君王不早朝
承歓侍宴無閑暇    春従春遊夜専夜 」
(春の宵が短いのを嘆き、日が高くなってからお目覚めになった
この時から、玄宗皇帝は朝の政務を怠るようになられた
玄宗の寵愛を受け、いつも宴席に侍り、楊貴妃は暇がなかった
春は春の遊びのお供をし、夜は夜で玄宗の寵愛を独占した)

という部分を描いたものです。

「桐壺」の巻には、

「さるべき遊びのをりをり、何事にもゆゑある事のふしぶしには、
まづまうのぼらせたまふ。ある時には大殿籠りすぐして、やがて
さぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひし
ほどに・・・」
(しかるべき管弦の遊びの折々や、何事につけても重々しい催し事が
あると、真っ先に更衣をお召しになっておりました。またある時は
寝過ごされて、そのままお側に置いておかれるなど、無理にも
お側に引き寄せておいででしたので…)

と、類型的な表現が使われており、これは完全に「長恨歌」を意識して
書かれている、と言って間違いないでしょう。

プロジェクターで絵巻の絵を映しながら「長恨歌」を読む試みは、
私も初めての試みでしたので、不行き届きな点も多かった、と
反省しております。28日は、もう少し改善できる点は改善して、
再度試みるつもりです。

今日も「紫の会」の会員以外の方が、5名ご参加になりました。
「長恨歌」にだけ参加ご希望の方も、7月28日(木)にどうぞ。


長恨歌(2)

2016年7月28日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第4回)

ようやく関東甲信地方の梅雨が明けました。去年よりも、18日も
遅い梅雨明けだそうです。久しぶりに暑さを感じましたが、まだ
この程度なら楽ですね。

今日は「紫の会・木曜クラス」のほうで、11日の月曜クラスと同様、
「長恨歌」を読みました。11日のブログでは前半よりピックアップ
しましたので、今回は後半からです。

楊貴妃を失った玄宗皇帝の悲しみは深く、とうとう不眠症に陥って
しまいました。玄宗の使者となった方士が、仙界に楊貴妃の魂を
尋ね出し、面会します。方士は楊貴妃から、玄宗への形見の品を
託されるのでした。

先月の「紫の会」では、桐壺の更衣のお里を弔問した靫負の命婦が、
更衣の母上から、形見の品を戴いて帰参する、というところまでを、
読みました。来月の講読箇所になりますが、それに続く場面で、
宮中に戻った靫負の命婦は、帝に、頂戴した物をお見せします。
それをご覧になって帝は次の歌を詠まれました。

「尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」
(亡き更衣の魂を捜し出してくれる幻術士がほしい。人づてでも
よいから、魂の在処をそこだど知ることができるように)

「桐壺」の巻の前半は、「長恨歌」の一つのバリエーションの
ような形で語られていますが、「光源氏」を主人公とする最後の
巻「幻」で、今度は源氏が紫の上を追慕して、同じような歌を
詠んでいます。

「大空をかよふ幻夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ」
(大空を飛び交う幻術士よ、夢にさえ現れてくれない紫の上の
魂の行方を尋ね出しておくれ)

「光源氏」の物語は、「長恨歌」に始まり、終幕に至って、再び
「長恨歌」に回帰して行くのです。

やはり「長恨歌」を抜きにして、「源氏物語」を読むことは出来ない、
それが、今月の「紫の会」で、「長恨歌」を取り上げた所以です。

もう一つ、今度は狩野山雪の「長恨歌絵巻」と「源氏物語」との
繋がりです。

       絵巻の最後に描かれている部分です。
   長恨歌絵巻・夢の浮橋
 天に架かる虹のような浮橋の絵です。おそらく山雪が描こうと
したのは「夢の浮橋」だと思われます。直接的には、定家の名歌、

「春の夜の夢の浮橋途絶えして峰に別るる横雲の空」
(春の夜の浮橋のようなはかない夢から覚めて、ふと見上げると
峰から離れて行く横雲が目に映った空であることよ)

を下地にして描いたかと考えられますが、定家の歌そのものが、
「源氏物語」の物語情趣をふまえたものであり、この絵も、男女が
再び結ばれることのない、「源氏物語」の最終章・「夢の浮橋」の巻を
連想させる着眼のもとに描かれたことは間違いないでしょう。


長恨歌の影響の深さ

2016年8月8日(月)  溝の口「紫の会・月曜クラス」(第5回)

暦の上では既に秋を迎えましたが、先程、明日の天気予報を
聞いていましたら、何と「東京でも37度になる」と言っているでは
ありませんか! いやぁー、これでは秋は程遠いですね。

先月の「紫の会」は、番外編とも言うべき「長恨歌」を読みましたが、
今日の前半は、7月28日の記事でも少し触れました、最も長恨歌の
影響を受けている場面を読みましたので、そこをご紹介しておきます。
後半部分は、また第4木曜日のクラスのほうで書くことにしましょう。

更衣のお里を弔問した靫負の命婦が更衣の形見分けとして戴いてきた
髪上げの道具類を見て、帝は

「亡き人の住処を尋ねいでたりけむ、しるしの釵ならましかば、と思ほすも、
いとかひなし」(亡くなった更衣の居場所を尋ね出した、その証拠の釵
だったなら、どんなに嬉しかろうに、とお思いになるのも、まったく甲斐の
ないことでした)

これは、「長恨歌」の中で、方士が、仙境に楊貴妃の魂を見つけ出し、
釵を託った、ということに拠る記述です。

この後に、7月28日に記した「尋ねゆく~」の歌が続き、「太液の芙蓉」、
「未央の柳」と譬えられた楊貴妃の容貌、更衣と誓い合った「翼をならべ、
枝をかはさむ」(比翼の鳥と作り、連理の枝と為らん)と、まさに、長恨歌
からの引用のオンパレードです。

まだ終わりません。

「燈火をかかげ尽くして起きおはします」(孤灯挑げ尽くして未だ眠りを
成さず)

「明くるも知らで、とおぼしいづるにも、なほ朝政はおこたらせたまひぬ
べかめり」(春宵短きに苦しみ日高くして起く   此れ従り君王早朝
したまはず)

とあり、この段落の最後は、近臣たちが「人の朝廷の例まで引きいで、
ささめき嘆きけり」(唐の朝廷の例まで引き合いに出して、ひそひそ
と嘆いておりました)と、締め括られています。「人の朝廷の例」とは
言うまでもなく、玄宗皇帝が楊貴妃を追慕して止まなかった「長恨歌」
の世界を指しています。

ここで、長恨歌を模して描かれて来た桐壺帝と更衣の話は終わり、
この先は、「光源氏」の話となってテンポも上がりますが、そこからは、
8月25日の木曜クラスの時に書きたいと思います。

全文訳も、今日の講読箇所の前半を、この後書きますので、全体を
通して、「長恨歌」の深い影響を読み取って頂ければ、と存じます。


「光源氏」の物語の始まり

2016年8月25日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第5回)

8月8日のブログで、「紫の会」第5回目の前半をご紹介しました
ので、今日は後半をご紹介します。

これまで「桐壺」の巻は、ほとんど「長恨歌」を下地とした物語で、
桐壺の更衣を失った帝の悲しみが、楊貴妃を失った玄宗皇帝に
なずらえられながら、多くの紙面を割いて語られてきましたが、
それが終わると、途端にテンポアップして、話が展開して行きます。

三歳の夏に母・桐壺の更衣が亡くなり、更衣のお里に退出していた
若宮(のちの光源氏)は、その冬、祖母と離れて宮中に参内したと
思われます。

翌年(若宮四歳)の春、一の皇子(のちの朱雀院)が皇太子に
決定します。

六歳の時、祖母(桐壺の更衣の母)が他界し、それからはずっと
宮中で、父・帝と共に過ごすことになりました。

七歳で「読書始め」を行い、美しさ、聡明さは、この世のものとも
思えない程突出しており、「すべて言ひ続けば、ことことしう、
うたてぞなりぬべき人の御さまなりける。」(若宮の優れている
点をずべて挙げて行くと、余りにも大げさな感じになり、嘘では
ないかと嫌になってしまいそうなご様子でした。)と、草子地に
書かれています。

帝はこのような才気あふれる若宮の処遇をどうしたものか、
悩んでおられました。親王宣下をすれば、皇太子側の者から
あらぬ疑いをかけられる恐れもあり、またこれといった後見の
ない若宮を皇籍に残して置いても将来性は乏しく、いっそ臣籍に
降下させて、賜姓源氏として朝廷を補佐させるほうがよいの
ではないか、ともお考えでした。

丁度そのころ、高麗の優れた観相人が来朝していたので、
帝は若宮を右大弁の子どものように見せかけて、観相人の
宿泊している鴻臚館(迎賓館のような所)に連れて行かせ
なさいました。観相人は「帝位に就くべき相ではあるが、
そうすると、国の乱れを招く恐れがある。朝廷の柱石として
国政を補佐する相というふうにみると、それも違うような。」と、
言います。

帝はこれだけではなく、倭相(日本流の観相)、宿曜(星占い)
でも、同様の占いの結果が出たことで、臣下にするには惜しい
と思いながらも、若宮を「源氏」にする決心をなさいました。

さあ、いよいよ「光源氏」の物語が始まります。

次回から、源氏の永遠の女性となる「藤壺」が登場し、源氏は
元服して「葵の上」と結婚します。「桐壺」の巻も、あと一回で
終われそうです。

このあと引き続き、第5回講読部分の後半の全文訳を書きます。


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