良心の呵責の裏にあるものは
2023年5月25日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第34回・通算81回・№2)
オンライン「紫の会」の講読会は、第13帖「明石」の後半
に入っていますが、今月は、源氏が入道の娘と結ばれた
ところからを読みました。
第3月曜日のクラス(5/15)のほうで書きましたが、入道
の娘は、実際に逢ってみると、想像していたよりも遥かに
魅力的な女性でした。それならば、以後源氏は熱心に娘
の許にお通いになったか、というと、そうでもなかったの
です。
特に、源氏自ら京の紫の上に、入道の娘の存在を告白し、
紫の上から嫉妬をほのめかす返書が届いてからというもの、
源氏は「名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず」(その後、
長い間お忍びで娘の所にお通いになることもなかった)、
とあります。
源氏は、入道の娘を愛しく思うものの、紫の上が離れ離れ
になって、不安な中で日々を送っている、と思うと、「いと
心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ」(とても
心苦しいので、独り寝が多く過ごしておられる)のでした。
紫の上に対する「心の鬼」(良心の呵責)がそうさせていると
言うのです。でもこれは裏を返せば、源氏が入道の娘に
心惹かれているゆえではないでしょうか。入道の娘が、只の
浮気相手に過ぎない程度の女なら、逆に源氏は、紫の上に
後ろめたさもさほど感じることはなかった気がするのです。
源氏、紫の上、入道の娘、このままでは三者三様の悩みを
抱えたままの状態が続くことになりますが、事態は大きく
変化します。ポイントは二つ、源氏の京への召還と、入道の
娘の懐妊です。次回からはそれに沿って読み進めてまいり
ます。
オンライン「紫の会」の講読会は、第13帖「明石」の後半
に入っていますが、今月は、源氏が入道の娘と結ばれた
ところからを読みました。
第3月曜日のクラス(5/15)のほうで書きましたが、入道
の娘は、実際に逢ってみると、想像していたよりも遥かに
魅力的な女性でした。それならば、以後源氏は熱心に娘
の許にお通いになったか、というと、そうでもなかったの
です。
特に、源氏自ら京の紫の上に、入道の娘の存在を告白し、
紫の上から嫉妬をほのめかす返書が届いてからというもの、
源氏は「名残久しう、忍びの旅寝もしたまはず」(その後、
長い間お忍びで娘の所にお通いになることもなかった)、
とあります。
源氏は、入道の娘を愛しく思うものの、紫の上が離れ離れ
になって、不安な中で日々を送っている、と思うと、「いと
心苦しければ、独り臥しがちにて過ぐしたまふ」(とても
心苦しいので、独り寝が多く過ごしておられる)のでした。
紫の上に対する「心の鬼」(良心の呵責)がそうさせていると
言うのです。でもこれは裏を返せば、源氏が入道の娘に
心惹かれているゆえではないでしょうか。入道の娘が、只の
浮気相手に過ぎない程度の女なら、逆に源氏は、紫の上に
後ろめたさもさほど感じることはなかった気がするのです。
源氏、紫の上、入道の娘、このままでは三者三様の悩みを
抱えたままの状態が続くことになりますが、事態は大きく
変化します。ポイントは二つ、源氏の京への召還と、入道の
娘の懐妊です。次回からはそれに沿って読み進めてまいり
ます。
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入道の娘の印象
2023年5月15日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第34回・通算81回・№2)
このところ梅雨の走りを思わせるような雨の日が続き、
気温も20度に届かないまま過ごしてまいりましたが、
明日は25度まで上がって夏日に、そして明後日は
30度の真夏日に、との予報が出ています。身体を
こんなにも激しい気温変化に対応させるのも並大抵
ではありませんね。
本日の講読箇所では、「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けて来た源氏と入道の娘がようやく結ばれ、第13帖
「明石」も終盤へと向かって行きます。
8月13日の夜、源氏は初めて入道の娘の住む岡辺の宿
を訪れました。入道が源氏を迎え入れるために、女房に
命じておいたのでしょう。月明かりの差し込む妻戸が少し
だけ開けてあり、そこから入った源氏は、娘にあれこれと
話かけます。
源氏の突然の訪問に娘は驚き、気を許そうとしない態度
を取り続けます。それに対し、源氏は「こよなうも人めき
たるかな」(随分といっぱしの貴婦人めいた振舞いをする
ことだ)と、不快感を募らせています。「京の高貴な女君
たちでも、ここまで近づけば、強情に拒んだりしないもの
なのに」、と思う源氏の心の内には、「受領の娘ふぜいで、
なに気取ってるんだ」、という身分差別の意識が見え見え
です。
源氏に歌を詠みかけられて、娘は返歌をします。その歌
を詠む雰囲気が、「伊勢の御息所にいとようおぼえたり」
(伊勢に下向した六条御息所にとてもよく似ている)、と
あります。
最初は馬鹿にしたようなところもあったのですが、言葉を
交わしたことで、がらりと印象が変わっています。
六条御息所といえば、貴婦人中の貴婦人で、「心にくき
よしある人」(奥ゆかしく教養溢れる人)です。その御息所
によく似ている、ということは、源氏がそれまで抱いていた
「所詮受領の娘」の想像が外れ、娘が京の上流階級の
姫君に劣らない女性であると、読者にも知らしめている
ことになります。
詳しくは先に書きました第13帖「明石」の全文訳(11)を
ご覧頂ければ、と存じます⇒こちらから。
このところ梅雨の走りを思わせるような雨の日が続き、
気温も20度に届かないまま過ごしてまいりましたが、
明日は25度まで上がって夏日に、そして明後日は
30度の真夏日に、との予報が出ています。身体を
こんなにも激しい気温変化に対応させるのも並大抵
ではありませんね。
本日の講読箇所では、「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けて来た源氏と入道の娘がようやく結ばれ、第13帖
「明石」も終盤へと向かって行きます。
8月13日の夜、源氏は初めて入道の娘の住む岡辺の宿
を訪れました。入道が源氏を迎え入れるために、女房に
命じておいたのでしょう。月明かりの差し込む妻戸が少し
だけ開けてあり、そこから入った源氏は、娘にあれこれと
話かけます。
源氏の突然の訪問に娘は驚き、気を許そうとしない態度
を取り続けます。それに対し、源氏は「こよなうも人めき
たるかな」(随分といっぱしの貴婦人めいた振舞いをする
ことだ)と、不快感を募らせています。「京の高貴な女君
たちでも、ここまで近づけば、強情に拒んだりしないもの
なのに」、と思う源氏の心の内には、「受領の娘ふぜいで、
なに気取ってるんだ」、という身分差別の意識が見え見え
です。
源氏に歌を詠みかけられて、娘は返歌をします。その歌
を詠む雰囲気が、「伊勢の御息所にいとようおぼえたり」
(伊勢に下向した六条御息所にとてもよく似ている)、と
あります。
最初は馬鹿にしたようなところもあったのですが、言葉を
交わしたことで、がらりと印象が変わっています。
六条御息所といえば、貴婦人中の貴婦人で、「心にくき
よしある人」(奥ゆかしく教養溢れる人)です。その御息所
によく似ている、ということは、源氏がそれまで抱いていた
「所詮受領の娘」の想像が外れ、娘が京の上流階級の
姫君に劣らない女性であると、読者にも知らしめている
ことになります。
詳しくは先に書きました第13帖「明石」の全文訳(11)を
ご覧頂ければ、と存じます⇒こちらから。
入道の喜びの表れ
2023年5月8日(月) 溝の口「紫の会」(第67回)
昨日から降り続いた雨も、午前中で止み、出掛ける頃には
薄日が差すようになっていました。ただ気温は低めで、上着
無しでは外を歩けない寒い一日でした。この気温の乱高下、
もういい加減にしてほしいですね。
「紫の会」の会場クラスは、このところ1回でオンラインクラス
の2回分を読んでいますので、今日はオンラインクラスの3月、
4月の講読箇所を読み終えました。来月で何とか両クラスの
足並みを揃えることが出来そうです。7月からは、会場クラス、
オンラインクラス、或いはどちらも都合がつかないときはCDで、
というのも可能ですので、「紫の会」も、参加選択肢が増え、
利用していただき易くなると思います。
第13帖「明石」の後半です。入道の話で、娘との宿縁を感じた
源氏は、入道に結婚承諾の意を伝えます。入道は、「思ふこと、
かつがつかなひぬるここちして」(願って来たことが、何とか
叶ったという気がして)、翌日は源氏からの手紙を期待して、
娘の居る岡辺の館に来ておりました。その期待通り、源氏から
娘に宛てた手紙が届けられました。
入道は、手紙を持参した使者が「いとまばゆきまで酔はす」
(とても面映ゆく感じられるほど歓待して酔わす)とあります。
この表現によって、入道の喜びようが伝わってきますね。
「入道の喜びこの上なし」などど直接心情を書くよりも、その
行為によって表すほうが、より読者に入道の高揚感が伝わる
ことを知っている作者の心憎い表現です。
肝心の娘が、いくら入道が急き立てても返事を書こうとしない
ので、男親(それも俗世の事に関わらぬはずの出家の身)の
入道が代筆するという奇妙な返書となりましたが、使者に
与えた禄も、「なべてならぬ玉裳」(並々ではない立派な裳)と
いう、後朝の文でもない、初めての手紙を届けただけの使い
に対しては破格の品でした。ここにもようやく悲願達成に向け、
第一歩を踏み出すことの出来た入道の喜びが溢れていますね。
昨日から降り続いた雨も、午前中で止み、出掛ける頃には
薄日が差すようになっていました。ただ気温は低めで、上着
無しでは外を歩けない寒い一日でした。この気温の乱高下、
もういい加減にしてほしいですね。
「紫の会」の会場クラスは、このところ1回でオンラインクラス
の2回分を読んでいますので、今日はオンラインクラスの3月、
4月の講読箇所を読み終えました。来月で何とか両クラスの
足並みを揃えることが出来そうです。7月からは、会場クラス、
オンラインクラス、或いはどちらも都合がつかないときはCDで、
というのも可能ですので、「紫の会」も、参加選択肢が増え、
利用していただき易くなると思います。
第13帖「明石」の後半です。入道の話で、娘との宿縁を感じた
源氏は、入道に結婚承諾の意を伝えます。入道は、「思ふこと、
かつがつかなひぬるここちして」(願って来たことが、何とか
叶ったという気がして)、翌日は源氏からの手紙を期待して、
娘の居る岡辺の館に来ておりました。その期待通り、源氏から
娘に宛てた手紙が届けられました。
入道は、手紙を持参した使者が「いとまばゆきまで酔はす」
(とても面映ゆく感じられるほど歓待して酔わす)とあります。
この表現によって、入道の喜びようが伝わってきますね。
「入道の喜びこの上なし」などど直接心情を書くよりも、その
行為によって表すほうが、より読者に入道の高揚感が伝わる
ことを知っている作者の心憎い表現です。
肝心の娘が、いくら入道が急き立てても返事を書こうとしない
ので、男親(それも俗世の事に関わらぬはずの出家の身)の
入道が代筆するという奇妙な返書となりましたが、使者に
与えた禄も、「なべてならぬ玉裳」(並々ではない立派な裳)と
いう、後朝の文でもない、初めての手紙を届けただけの使い
に対しては破格の品でした。ここにもようやく悲願達成に向け、
第一歩を踏み出すことの出来た入道の喜びが溢れていますね。
源氏が「心くらべ」に負けたのはなぜか
2023年4月27日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第33回・通算80回・№2)
先月のこのクラスの記事は、「源氏と入道の娘の『心くらべ』」
というタイトルで書きました(⇒こちらから)。今月講読した
ところで、その決着がついています。
「心くらべ」とは、意地の張り合い、根競べ、という意味合いを
持った言葉です。
源氏はプライド、世間体、紫の上への後ろめたさ、良清への
配慮などから、入道の娘を自分の許に侍らせ召人(お手付き
の女房)にしようと、考えていました。
一方の娘は、そもそも身分差のあり過ぎる源氏と結ばれた
ところで、それは源氏が明石に居る間の慰め相手となるだけ
であって、将来長きに渡って源氏に愛され続けることなどあり
得ない、と認識しており、気位の高さでは都の高貴な姫君にも
劣らない娘は、安易に源氏に靡く気には到底なれないのでした。
季節は秋となっています。源氏が須磨から明石へと移って
来たのは、晩春の3月13日でした。入道が源氏に初めて
娘の話をしたのが初夏の4月。その後文通が始まっている
ので、「心くらべ」も既に3ヶ月余に及んでいることになります。
思えば、京を離れて1年半近く、源氏は「独り寝」の夜を重ねて
来ました。紫の上に逢いたい気持ちを抑えに抑えて過ごし、
これ以上寂しさに耐えられなくなっていたのでしょう。秋という
殊更侘しさの募る季節も、その気持ちを駆り立てたようです。
源氏は「『このころの波の音に、かのものの音を聞かばや。
さらずは、かひなくこそ』など、常にのたまふ」(「この頃の波の
音に乗せて、そなたの娘の奏でる琴の音が聴きたいものだ。
そうでなくては、この秋という季節の甲斐もなかろう」と、常に
入道におっしゃるのでした)とあります。「常にのたまふ」という
のは、源氏が始終、そのよう入道におっしゃっていたわけです
から、そこには「段取りさえしてくれたら、自分が娘の所へ
行ってもよい」との意思表示が見て取れます。
入道は源氏の意を汲んで一人奔走し、8月13日の夜に源氏を
迎える準備を整えたのでした。
夜更けを待って、馬で娘の居る岡辺の宿へと向かいましたが、
途中、入江に映る月の光を見て、源氏は、このまま馬を駆って
京の紫の上に逢いに行きたいと思っておりました。これによって、
源氏の気持ちが向いている相手はやはり紫の上であり、入道
の娘に対しては、あくまで今の侘しさを慰めて欲しいだけなのだ、
ということがわかりますね。
この辺りにつきまして、詳しくは先に書きました「明石の全文訳
(10)」をご覧頂ければ、と存じます(⇒こちらから)。
先月のこのクラスの記事は、「源氏と入道の娘の『心くらべ』」
というタイトルで書きました(⇒こちらから)。今月講読した
ところで、その決着がついています。
「心くらべ」とは、意地の張り合い、根競べ、という意味合いを
持った言葉です。
源氏はプライド、世間体、紫の上への後ろめたさ、良清への
配慮などから、入道の娘を自分の許に侍らせ召人(お手付き
の女房)にしようと、考えていました。
一方の娘は、そもそも身分差のあり過ぎる源氏と結ばれた
ところで、それは源氏が明石に居る間の慰め相手となるだけ
であって、将来長きに渡って源氏に愛され続けることなどあり
得ない、と認識しており、気位の高さでは都の高貴な姫君にも
劣らない娘は、安易に源氏に靡く気には到底なれないのでした。
季節は秋となっています。源氏が須磨から明石へと移って
来たのは、晩春の3月13日でした。入道が源氏に初めて
娘の話をしたのが初夏の4月。その後文通が始まっている
ので、「心くらべ」も既に3ヶ月余に及んでいることになります。
思えば、京を離れて1年半近く、源氏は「独り寝」の夜を重ねて
来ました。紫の上に逢いたい気持ちを抑えに抑えて過ごし、
これ以上寂しさに耐えられなくなっていたのでしょう。秋という
殊更侘しさの募る季節も、その気持ちを駆り立てたようです。
源氏は「『このころの波の音に、かのものの音を聞かばや。
さらずは、かひなくこそ』など、常にのたまふ」(「この頃の波の
音に乗せて、そなたの娘の奏でる琴の音が聴きたいものだ。
そうでなくては、この秋という季節の甲斐もなかろう」と、常に
入道におっしゃるのでした)とあります。「常にのたまふ」という
のは、源氏が始終、そのよう入道におっしゃっていたわけです
から、そこには「段取りさえしてくれたら、自分が娘の所へ
行ってもよい」との意思表示が見て取れます。
入道は源氏の意を汲んで一人奔走し、8月13日の夜に源氏を
迎える準備を整えたのでした。
夜更けを待って、馬で娘の居る岡辺の宿へと向かいましたが、
途中、入江に映る月の光を見て、源氏は、このまま馬を駆って
京の紫の上に逢いに行きたいと思っておりました。これによって、
源氏の気持ちが向いている相手はやはり紫の上であり、入道
の娘に対しては、あくまで今の侘しさを慰めて欲しいだけなのだ、
ということがわかりますね。
この辺りにつきまして、詳しくは先に書きました「明石の全文訳
(10)」をご覧頂ければ、と存じます(⇒こちらから)。
弘徽殿の大后と朱雀帝親子
2023年4月17日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第33回・通算80回・№2)
第13帖「明石」も後半に入りました。
季節は夏から秋へと移り、ずっと「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けてきた源氏と入道の娘の間に進展がありますが、その前に
一度、舞台が明石から京に替わる場面が出てまいります。
今日は全文訳も、その部分になっていますので(⇒こちらから)、
ここで紹介する話題もそこから取り上げました。
話は晩春の3月13日に戻ります。桐壺院が源氏の夢枕に立ち、
「住吉の神のお導きに従って、早く須磨の浦を立ち去るように」
とおっしゃった後、「帝にも奏上せねばならぬことがあるので、
これから急ぎ京に上ることにする」と言って、立ち去られました。
その言葉通り、京でも雷鳴が轟き、風雨が激しい中、桐壺院は
朱雀帝の夢の中に姿を現し、とてもお怒りのご様子で、朱雀帝
を睨んでおられました。「聞こえさせたまふことども多かり。源氏
の御ことなりけむかし」(桐壺院が朱雀帝に向かって、申し上げ
なさったことは沢山ございました。源氏に関することだったよう
ですね)とあります。
桐壺院の怒りというのは、第10帖「賢木」での遺言が守られて
いないことにあったのだと考えられます。父院が、源氏を重用
するように、と強く言い残され、朱雀帝自身もその遵守を誓った
にも拘わらず、母・弘徽殿の大后や外祖父の右大臣に阻まれ
て、果たせずにいたからです。
怖くなった帝は、母・弘徽殿の大后に相談します。すると、どう
でしょう。
「雨など降り、空乱れたる夜は、思いなしなることはさぞはべる。
軽々しきやうに、おぼしおどろくまじきこと」(雨などが降って、
天気が悪い夜には、そうだと思いこんでいることが、そんなふう
に夢に現れるものなのです。下々の者のように、おどおどする
ものではありません)と、一刀両断のもとに切り捨てています。
「怨霊」なるものが恐れられていた時代です。古くは藤原四兄弟
が疫病(天然痘)で次々と亡くなった時、陥れた長屋王の怨霊の
仕業だと噂され、近くは清涼殿に雷が落ち、5人の死傷者を出し、
醍醐天皇は体調を崩して譲位、まもなく崩御されたのも、菅原
道真の怨霊による祟りだと信じられていました。このような中で、
弘徽殿の大后の科学的で胸のすくようなセリフは、肝っ玉の
据わりようが窺え、痛快でさえあります。
その後太政大臣(もとの右大臣)の死去や、弘徽殿の大后の
体調不良なども加わって、ますます気弱になった朱雀帝は、度々、
源氏を復位させよう、と大后に提案なさいます。でも大后は頑と
して受け入れず、「罪に懼ぢて都を去りし人を、三年をだに過ぐ
さず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」(罪に
問われるのを懼れて都を捨てた人を、三年も経たないうちに許し
ては、世間でもどんなふうに噂するか知れたものではありません)
などと、逆に厳しくお諫めになるのでした。
この「三年」というのはちゃんと法律に照らし合わされたもので、
757年に施行された「養老律令」の中に、流罪に相当しなくても
配流された者の仕官の許可は最低三年後、と定められていま
した。
以前に、弘徽殿の大后が中国の『史記』にも通じた人であると
述べましたが(その記事は⇒こちらから)、ここで更に法律にも
明るい知的な女性であったことがわかります。これはそのまま
作者紫式部自身にあてはまることでありましょう。
それにしても、弘徽殿の大后からすると、この朱雀帝の気弱な
性格は、どんなに歯がゆく感じられたことでしょうね。
第13帖「明石」も後半に入りました。
季節は夏から秋へと移り、ずっと「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けてきた源氏と入道の娘の間に進展がありますが、その前に
一度、舞台が明石から京に替わる場面が出てまいります。
今日は全文訳も、その部分になっていますので(⇒こちらから)、
ここで紹介する話題もそこから取り上げました。
話は晩春の3月13日に戻ります。桐壺院が源氏の夢枕に立ち、
「住吉の神のお導きに従って、早く須磨の浦を立ち去るように」
とおっしゃった後、「帝にも奏上せねばならぬことがあるので、
これから急ぎ京に上ることにする」と言って、立ち去られました。
その言葉通り、京でも雷鳴が轟き、風雨が激しい中、桐壺院は
朱雀帝の夢の中に姿を現し、とてもお怒りのご様子で、朱雀帝
を睨んでおられました。「聞こえさせたまふことども多かり。源氏
の御ことなりけむかし」(桐壺院が朱雀帝に向かって、申し上げ
なさったことは沢山ございました。源氏に関することだったよう
ですね)とあります。
桐壺院の怒りというのは、第10帖「賢木」での遺言が守られて
いないことにあったのだと考えられます。父院が、源氏を重用
するように、と強く言い残され、朱雀帝自身もその遵守を誓った
にも拘わらず、母・弘徽殿の大后や外祖父の右大臣に阻まれ
て、果たせずにいたからです。
怖くなった帝は、母・弘徽殿の大后に相談します。すると、どう
でしょう。
「雨など降り、空乱れたる夜は、思いなしなることはさぞはべる。
軽々しきやうに、おぼしおどろくまじきこと」(雨などが降って、
天気が悪い夜には、そうだと思いこんでいることが、そんなふう
に夢に現れるものなのです。下々の者のように、おどおどする
ものではありません)と、一刀両断のもとに切り捨てています。
「怨霊」なるものが恐れられていた時代です。古くは藤原四兄弟
が疫病(天然痘)で次々と亡くなった時、陥れた長屋王の怨霊の
仕業だと噂され、近くは清涼殿に雷が落ち、5人の死傷者を出し、
醍醐天皇は体調を崩して譲位、まもなく崩御されたのも、菅原
道真の怨霊による祟りだと信じられていました。このような中で、
弘徽殿の大后の科学的で胸のすくようなセリフは、肝っ玉の
据わりようが窺え、痛快でさえあります。
その後太政大臣(もとの右大臣)の死去や、弘徽殿の大后の
体調不良なども加わって、ますます気弱になった朱雀帝は、度々、
源氏を復位させよう、と大后に提案なさいます。でも大后は頑と
して受け入れず、「罪に懼ぢて都を去りし人を、三年をだに過ぐ
さず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」(罪に
問われるのを懼れて都を捨てた人を、三年も経たないうちに許し
ては、世間でもどんなふうに噂するか知れたものではありません)
などと、逆に厳しくお諫めになるのでした。
この「三年」というのはちゃんと法律に照らし合わされたもので、
757年に施行された「養老律令」の中に、流罪に相当しなくても
配流された者の仕官の許可は最低三年後、と定められていま
した。
以前に、弘徽殿の大后が中国の『史記』にも通じた人であると
述べましたが(その記事は⇒こちらから)、ここで更に法律にも
明るい知的な女性であったことがわかります。これはそのまま
作者紫式部自身にあてはまることでありましょう。
それにしても、弘徽殿の大后からすると、この朱雀帝の気弱な
性格は、どんなに歯がゆく感じられたことでしょうね。
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