「百人一首」の索引
2023年5月6日(土)
GWも明日迄となりましたね。
昨日は石川県で強い地震があり、お天気も下り坂となって
おります。被災地の雨は二次災害をもたらし易くなりますし、
まだ余震もある中、どうかこれ以上の被害が出ないように
と、祈るばかりです。
3月に百首目の歌の紹介が終わり、4月中には索引を作って
ブログにUPしますと、オンラインクラスで宣言しておきながら、
蓋を開ければ1ヶ月遅れとなってしまいました(;^_^A
やっとここで1番から順番に並べて、当該の歌の記事とリンク
させました。カテゴリも「百人一首」の中で独立させました。
列のゆがみや、気になる修正箇所も多いのですが、追々手を
加えるとして、取り敢えずUPしておきます。
1番 秋の田の(天智天皇) 2017・10・12⇒こちらから
2番 春過ぎて(持統天皇) 2017・5・1⇒こちらから
3番 あしひきの(柿本人麻呂) 2020・3・4⇒こちらから
4番 田子の浦に(山部赤人) 2016・12・4⇒こちらから
5番 奥山に(猿丸大夫) 2020・11・7⇒こちらから
6番 鵲の(中納言家持) 2019・2・1⇒こちらから
7番 天の原(安倍仲麿) 2020・10・3⇒こちらから
8番 わが庵は(喜撰法師) 2019・9・28⇒こちらから
9番 花の色は(小野小町) 2017・4・3⇒こちらから
10番 これやこの(蝉丸) 2018・5・6⇒こちらから
11番 わたの原(参議篁) 2017・6・3⇒こちらから
12番 天つ風(僧正遍照) 2020・12・1⇒こちらから
13番 筑波嶺の(陽成院) 2020・6・3⇒こちらから
14番 陸奥の(河原左大臣) 2021・2・1⇒こちらから
15番 君がため(光孝天皇) 2017・1・8⇒こちらから
16番 立ち別れ(中納言行平) 2020・5・2⇒こちらから
17番 ちはやふる(在原業平) 2016・11・5⇒こちらから
18番 住の江の(藤原敏行朝臣) 2020・7・5⇒こちらから
19番 難波潟(伊勢) 2021・3・5⇒こちらから
20番 侘びぬれば(元良親王) 2015・3・11⇒こちらから
21番 今来むと(素性法師) 2017・9・10⇒こちらから
22番 吹くからに(文屋康秀) 2021・9・4⇒こちらから
23番 月見れば(大江千里) 2015・4・8⇒こちらから
24番 このたびは(菅家) 2017・11・6⇒こちらから
25番 名にし負はば(三条右大臣) 2020・9・1⇒こちらから
26番 小倉山(貞信公) 2021・11・6⇒こちらから
27番 みかのはら(中納言兼輔) 2015・5・13⇒こちらから
28番 山里は(源宗于朝臣) 2018・2・5⇒こちらから
29番 心あてに(凡河内躬恒) 2018・10・16⇒こちらから
30番 有明の(壬生忠岑) 2015・6・10⇒こちらから
31番 あさぼらけ(坂上是則) 2018・1・6⇒こちらから
32番 山川に(春道列樹) 2021・12・4⇒こちらから
33番 ひさかたの(紀 友則) 2018・4・2⇒こちらから
34番 誰をかも(藤原興風) 2021・5・1⇒こちらから
35番 人はいさ(紀 貫之) 2017・2・5⇒こちらから
36番 夏の夜は(清原深養父) 2015・7・8⇒こちらから
37番 白露に(文屋朝康) 2018・9・13⇒こちらから
38番 忘らるる(右近) 2015・8・12⇒こちらから
39番 浅茅生の(参議等) 2022・4・1⇒こちらから
40番 忍ぶれど(平兼盛) 2018・3・4⇒こちらから
41番 恋すてふ(壬生忠見) 2018・3・4⇒こちらから
42番 契りきな(清原元輔) 2022・1・7⇒こちらから
43番 逢ひ見ての(権中納言敦忠) 2022・2・5⇒こちらから
44番 逢ふことの(中納言朝忠) 2015・9・2⇒こちらから
45番 あはれとも(謙徳公) 2017・7・2⇒こちらから
46番 由良の門を(曾禰好忠) 2022・5・21⇒こちらから
47番 八重むぐら(恵慶法師) 2015・10・14⇒こちらから
48番 風をいたみ(源重之) 2021・10・2⇒こちらから
49番 御垣守(大中臣能宣朝臣) 2022・6・4⇒こちらから
50番 君がため(藤原義孝) 2020・1・3⇒こちらから
51番 かくとだに(藤原実方朝臣) 2022・7・24⇒こちらから
52番 明けぬれば(藤原道信朝臣) 2015・11・11⇒こちらから
53番 嘆きつつ(右大将道綱母) 2015・12・9⇒こちらから
54番 忘れじの(儀同三司母) 2021・6・4⇒こちらから
55番 滝の音は(大納言公任) 2018・7・12⇒こちらから
56番 あらざらむ(和泉式部) 2016・8・1⇒こちらから
57番 めぐり逢ひて(紫式部) 2016・1・13⇒こちらから
58番 有馬山(大弐三位) 2018・6・10⇒こちらから
59番 やすらはで(赤染衛門) 2021・7・2⇒こちらから
60番 大江山(小式部内侍) 2019・1・17⇒こちらから
61番 いにしへの(伊勢大輔) 2017・3・9⇒こちらから
62番 夜をこめて(清少納言) 2016・2・10⇒こちらから
63番 今はただ(左京大夫通雅) 2020・8・1⇒こちらから
64番 朝ばらけ(権中納言定頼) 2018・12・16⇒こちらから
65番 恨みわび (相模) 2023・1・28⇒こちらから
66番 もろともに(前大僧正行尊) 2019・5・5⇒こちらから
67番 春の夜の(周防内侍) 2016・3・9⇒こちらから
68番 心にも(三条院) 2022・12・26⇒こちらから
69番 嵐吹く(能因法師) 2022・10・30⇒こちらから
70番 寂しさに(良暹法師) 2022・8・27⇒こちらから
71番 夕されば(大納言経信) 2022・9・25⇒こちらから
72番 音に聞く(祐子内親王家紀伊) 2016・4・13⇒こちらから
73番 高砂の(大江匡房) 2015・3・30⇒こちらから
74番 うかりける(源俊頼朝臣) 2016・5・11⇒こちらから
75番 契りおきし(藤原基俊) 2022・11・26⇒こちらから
76番 わたの原(法性寺入道前関白太政大臣) 2017・8・5⇒こちらから
77番 瀬をはやみ(崇徳院) 2018・8・1⇒こちらから
78番 淡路島(源 兼昌) 2016・6・18⇒こちらから
79番 秋風に(左京大夫顕輔) 2016・9・7⇒こちらから
80番 ながからむ(待賢門院堀河) 2015・5・29⇒こちらから
81番 ほととぎす(後徳大寺左大臣) 2015・7・31⇒こちらから
82番 思ひわび(道因法師) 2023・2・28⇒こちらから
83番 世の中よ(皇太后宮大夫俊成) 2016・7・13⇒こちらから
84番 長らへば(藤原清輔朝臣) 2021・1・5⇒こちらから
85番 夜もすがら(俊恵法師) 2022・3・6⇒こちらから
86番 嘆けとて(西行法師) 2021・4・4⇒こちらから
87番 村雨の(寂蓮法師) 2016・8・10⇒こちらから
88番 難波江の(皇嘉門院別当) 2015・8・31⇒こちらから
89番 玉の緒よ(式子内親王) 2016・9・14⇒こちらから
90番 見せばやな(殷富門院大輔) 2019・6・2⇒こちらから
91番 きりぎりす(後京極摂政前太政大臣) 2015・10・30⇒こちらから
92番 わが袖は(二条院讃岐) 2019・7・15⇒こちらから
93番 世の中は(鎌倉右大臣) 2016・10・12⇒こちらから
94番 み吉野の(参議雅経) 2015・11・30⇒こちらから
95番 おほけなく(前大僧正慈円) 2021・8・3⇒こちらから
96番 花さそふ(入道前太政大臣) 2020・4・3⇒こちらから
97番 来ぬ人を(権中納言定家) 2020・2・2⇒こちらから
98番 風そよぐ(従二位家隆) 2016・6・9⇒こちらから
99番 人も愛し(後鳥羽院) 2016・11・9⇒こちらから
100番 百敷や(順徳院) 2023・3・5⇒こちらから
GWも明日迄となりましたね。
昨日は石川県で強い地震があり、お天気も下り坂となって
おります。被災地の雨は二次災害をもたらし易くなりますし、
まだ余震もある中、どうかこれ以上の被害が出ないように
と、祈るばかりです。
3月に百首目の歌の紹介が終わり、4月中には索引を作って
ブログにUPしますと、オンラインクラスで宣言しておきながら、
蓋を開ければ1ヶ月遅れとなってしまいました(;^_^A
やっとここで1番から順番に並べて、当該の歌の記事とリンク
させました。カテゴリも「百人一首」の中で独立させました。
列のゆがみや、気になる修正箇所も多いのですが、追々手を
加えるとして、取り敢えずUPしておきます。
1番 秋の田の(天智天皇) 2017・10・12⇒こちらから
2番 春過ぎて(持統天皇) 2017・5・1⇒こちらから
3番 あしひきの(柿本人麻呂) 2020・3・4⇒こちらから
4番 田子の浦に(山部赤人) 2016・12・4⇒こちらから
5番 奥山に(猿丸大夫) 2020・11・7⇒こちらから
6番 鵲の(中納言家持) 2019・2・1⇒こちらから
7番 天の原(安倍仲麿) 2020・10・3⇒こちらから
8番 わが庵は(喜撰法師) 2019・9・28⇒こちらから
9番 花の色は(小野小町) 2017・4・3⇒こちらから
10番 これやこの(蝉丸) 2018・5・6⇒こちらから
11番 わたの原(参議篁) 2017・6・3⇒こちらから
12番 天つ風(僧正遍照) 2020・12・1⇒こちらから
13番 筑波嶺の(陽成院) 2020・6・3⇒こちらから
14番 陸奥の(河原左大臣) 2021・2・1⇒こちらから
15番 君がため(光孝天皇) 2017・1・8⇒こちらから
16番 立ち別れ(中納言行平) 2020・5・2⇒こちらから
17番 ちはやふる(在原業平) 2016・11・5⇒こちらから
18番 住の江の(藤原敏行朝臣) 2020・7・5⇒こちらから
19番 難波潟(伊勢) 2021・3・5⇒こちらから
20番 侘びぬれば(元良親王) 2015・3・11⇒こちらから
21番 今来むと(素性法師) 2017・9・10⇒こちらから
22番 吹くからに(文屋康秀) 2021・9・4⇒こちらから
23番 月見れば(大江千里) 2015・4・8⇒こちらから
24番 このたびは(菅家) 2017・11・6⇒こちらから
25番 名にし負はば(三条右大臣) 2020・9・1⇒こちらから
26番 小倉山(貞信公) 2021・11・6⇒こちらから
27番 みかのはら(中納言兼輔) 2015・5・13⇒こちらから
28番 山里は(源宗于朝臣) 2018・2・5⇒こちらから
29番 心あてに(凡河内躬恒) 2018・10・16⇒こちらから
30番 有明の(壬生忠岑) 2015・6・10⇒こちらから
31番 あさぼらけ(坂上是則) 2018・1・6⇒こちらから
32番 山川に(春道列樹) 2021・12・4⇒こちらから
33番 ひさかたの(紀 友則) 2018・4・2⇒こちらから
34番 誰をかも(藤原興風) 2021・5・1⇒こちらから
35番 人はいさ(紀 貫之) 2017・2・5⇒こちらから
36番 夏の夜は(清原深養父) 2015・7・8⇒こちらから
37番 白露に(文屋朝康) 2018・9・13⇒こちらから
38番 忘らるる(右近) 2015・8・12⇒こちらから
39番 浅茅生の(参議等) 2022・4・1⇒こちらから
40番 忍ぶれど(平兼盛) 2018・3・4⇒こちらから
41番 恋すてふ(壬生忠見) 2018・3・4⇒こちらから
42番 契りきな(清原元輔) 2022・1・7⇒こちらから
43番 逢ひ見ての(権中納言敦忠) 2022・2・5⇒こちらから
44番 逢ふことの(中納言朝忠) 2015・9・2⇒こちらから
45番 あはれとも(謙徳公) 2017・7・2⇒こちらから
46番 由良の門を(曾禰好忠) 2022・5・21⇒こちらから
47番 八重むぐら(恵慶法師) 2015・10・14⇒こちらから
48番 風をいたみ(源重之) 2021・10・2⇒こちらから
49番 御垣守(大中臣能宣朝臣) 2022・6・4⇒こちらから
50番 君がため(藤原義孝) 2020・1・3⇒こちらから
51番 かくとだに(藤原実方朝臣) 2022・7・24⇒こちらから
52番 明けぬれば(藤原道信朝臣) 2015・11・11⇒こちらから
53番 嘆きつつ(右大将道綱母) 2015・12・9⇒こちらから
54番 忘れじの(儀同三司母) 2021・6・4⇒こちらから
55番 滝の音は(大納言公任) 2018・7・12⇒こちらから
56番 あらざらむ(和泉式部) 2016・8・1⇒こちらから
57番 めぐり逢ひて(紫式部) 2016・1・13⇒こちらから
58番 有馬山(大弐三位) 2018・6・10⇒こちらから
59番 やすらはで(赤染衛門) 2021・7・2⇒こちらから
60番 大江山(小式部内侍) 2019・1・17⇒こちらから
61番 いにしへの(伊勢大輔) 2017・3・9⇒こちらから
62番 夜をこめて(清少納言) 2016・2・10⇒こちらから
63番 今はただ(左京大夫通雅) 2020・8・1⇒こちらから
64番 朝ばらけ(権中納言定頼) 2018・12・16⇒こちらから
65番 恨みわび (相模) 2023・1・28⇒こちらから
66番 もろともに(前大僧正行尊) 2019・5・5⇒こちらから
67番 春の夜の(周防内侍) 2016・3・9⇒こちらから
68番 心にも(三条院) 2022・12・26⇒こちらから
69番 嵐吹く(能因法師) 2022・10・30⇒こちらから
70番 寂しさに(良暹法師) 2022・8・27⇒こちらから
71番 夕されば(大納言経信) 2022・9・25⇒こちらから
72番 音に聞く(祐子内親王家紀伊) 2016・4・13⇒こちらから
73番 高砂の(大江匡房) 2015・3・30⇒こちらから
74番 うかりける(源俊頼朝臣) 2016・5・11⇒こちらから
75番 契りおきし(藤原基俊) 2022・11・26⇒こちらから
76番 わたの原(法性寺入道前関白太政大臣) 2017・8・5⇒こちらから
77番 瀬をはやみ(崇徳院) 2018・8・1⇒こちらから
78番 淡路島(源 兼昌) 2016・6・18⇒こちらから
79番 秋風に(左京大夫顕輔) 2016・9・7⇒こちらから
80番 ながからむ(待賢門院堀河) 2015・5・29⇒こちらから
81番 ほととぎす(後徳大寺左大臣) 2015・7・31⇒こちらから
82番 思ひわび(道因法師) 2023・2・28⇒こちらから
83番 世の中よ(皇太后宮大夫俊成) 2016・7・13⇒こちらから
84番 長らへば(藤原清輔朝臣) 2021・1・5⇒こちらから
85番 夜もすがら(俊恵法師) 2022・3・6⇒こちらから
86番 嘆けとて(西行法師) 2021・4・4⇒こちらから
87番 村雨の(寂蓮法師) 2016・8・10⇒こちらから
88番 難波江の(皇嘉門院別当) 2015・8・31⇒こちらから
89番 玉の緒よ(式子内親王) 2016・9・14⇒こちらから
90番 見せばやな(殷富門院大輔) 2019・6・2⇒こちらから
91番 きりぎりす(後京極摂政前太政大臣) 2015・10・30⇒こちらから
92番 わが袖は(二条院讃岐) 2019・7・15⇒こちらから
93番 世の中は(鎌倉右大臣) 2016・10・12⇒こちらから
94番 み吉野の(参議雅経) 2015・11・30⇒こちらから
95番 おほけなく(前大僧正慈円) 2021・8・3⇒こちらから
96番 花さそふ(入道前太政大臣) 2020・4・3⇒こちらから
97番 来ぬ人を(権中納言定家) 2020・2・2⇒こちらから
98番 風そよぐ(従二位家隆) 2016・6・9⇒こちらから
99番 人も愛し(後鳥羽院) 2016・11・9⇒こちらから
100番 百敷や(順徳院) 2023・3・5⇒こちらから
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今月の光琳かるた(最終回)
2023年3月5日(日)
2015年3月にブログを開始した当時、溝の口と湘南台で「百人一首」
の講座を持っていましたので、その日に取り上げた四首の中から、
「今日の一首」として、ブログでもその一部を紹介しておりました。
2016年に「百人一首」講座が終わってからは、残った歌を毎月一首
ずつ「今月の光琳かるた」としてブログ記事に書いてきました(何ヶ月
か更新できない時もありましたが)。それも今月が最後の一首です。
昨年後半あたりから、遅れ遅れになっていましたが、やはり最終回が
月末では様にならないので、本日更新いたしました。
「百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり」
百番・順徳院

(宮中の古い軒端に生えているしのぶ草、その「しのぶ」
ではないが、いくら偲んでも偲び切れない昔であることよ)
「百人一首」の最後の百首目は、父・後鳥羽院と共に「承久の乱」を
起こし、敗れて佐渡に流され、父院と同じように配流先で生涯を終えた
順徳院の歌です。この歌は承久の乱(1221年)の5年ほど前、順徳院
20歳頃に詠まれた「二百首和歌」の中の一首です。
順徳院は建久8年(1197年)、後鳥羽天皇の第3皇子として誕生。翌9年、
後鳥羽天皇は、わずか4歳の第1皇子・土御門天皇に譲位して院政を
開始。更に承元4年(1210年)、後鳥羽上皇は、まだ16歳の土御門天皇
を譲位させ、14歳の守成親王を天皇にしました。これが順徳天皇です。
後鳥羽上皇による院政は継続され、直接政務に与らない順徳天皇は、
王朝時代の有職故実の研究に傾倒し、鎌倉幕府に対抗して朝廷の
威厳を示す目的もあったのでしょう、それを『禁秘抄』にまとめました。
また、父院の影響を受け和歌にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を
磨きました。歌論書の『八雲御抄』は、当時の歌論を集大成したものと
して知られています。
父・後鳥羽院の討幕計画に賛同した順徳天皇は、それに備えるため、
承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位しました。
同年5月の「承久の乱」は、幕府軍に完敗。佐渡へ配流となった順徳院
は同地で21年の歳月を過ごし、仁治3年(1242年)46歳で崩御されました。
「承久の乱」から10年後に土御門院が、13年後に仲恭天皇が、18年後
には後鳥羽院も亡くなられ、順徳院は生きる望みも失ったのか、最後は
食を絶っての自死だったと伝えられています。
定家は文暦2年(1235年)、単独撰で第9番目の勅撰集『新勅撰和歌集』
を撰進しましたが、罪人として配流中の後鳥羽院、順徳院の歌の入集は
憚られたのでしょう、一首も採られていません。同じ年の5月、息子・為家
の岳父である宇都宮頼綱(蓮生)が、定家に、嵯峨中院にあった山荘の
襖に貼る色紙形の和歌の揮毫を求めてきました。定家がそれに応じて
送り届けたことが「明月記」の5月27日の条に記されています。これが
「百人一首」の原型であろうと考えられており、よって今、5月27日は
「百人一首の日」とされています。ただ、宇都宮頼綱が幕府方の人で
あることを思うと、文暦2年の時点で、「後鳥羽院」・「順徳院」の歌が
色紙に書かれていたとは考え難いことです。
ではなぜ後になって、定家はこの二首を加えたのでしょうか。それは、
1番・2番を「天智天皇」・「持統天皇」という、天皇を中心とする律令国家
の礎を築いた天皇親子で始めた以上、その終焉を招いた「後鳥羽院」・
「順徳院」という親子を最後に置くべきだと考えたからではないでしょうか。
そうして見た時、順徳院がまだ20歳の青年天皇であった頃に詠まれた
この歌も、「承久の乱」後の悲しみに満ちた順徳院の姿を思い起こさせる
ものがあります。
最後だと思うと長くなってしまいましたが、これで「今月の光琳かるた」は
お終いです。毎月楽しみにしている、とおっしゃってくださる方もあり、励み
になりました。有難うございます。
カテゴリとしての「百人一首」はありますが、歌の順番が前後してわかり
難くなっていますので、近いうちに(と言っても、かなり先になるかもしれま
せんが)索引を作ってUPしたいと思っています。
2015年3月にブログを開始した当時、溝の口と湘南台で「百人一首」
の講座を持っていましたので、その日に取り上げた四首の中から、
「今日の一首」として、ブログでもその一部を紹介しておりました。
2016年に「百人一首」講座が終わってからは、残った歌を毎月一首
ずつ「今月の光琳かるた」としてブログ記事に書いてきました(何ヶ月
か更新できない時もありましたが)。それも今月が最後の一首です。
昨年後半あたりから、遅れ遅れになっていましたが、やはり最終回が
月末では様にならないので、本日更新いたしました。
「百敷や古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり」
百番・順徳院

(宮中の古い軒端に生えているしのぶ草、その「しのぶ」
ではないが、いくら偲んでも偲び切れない昔であることよ)
「百人一首」の最後の百首目は、父・後鳥羽院と共に「承久の乱」を
起こし、敗れて佐渡に流され、父院と同じように配流先で生涯を終えた
順徳院の歌です。この歌は承久の乱(1221年)の5年ほど前、順徳院
20歳頃に詠まれた「二百首和歌」の中の一首です。
順徳院は建久8年(1197年)、後鳥羽天皇の第3皇子として誕生。翌9年、
後鳥羽天皇は、わずか4歳の第1皇子・土御門天皇に譲位して院政を
開始。更に承元4年(1210年)、後鳥羽上皇は、まだ16歳の土御門天皇
を譲位させ、14歳の守成親王を天皇にしました。これが順徳天皇です。
後鳥羽上皇による院政は継続され、直接政務に与らない順徳天皇は、
王朝時代の有職故実の研究に傾倒し、鎌倉幕府に対抗して朝廷の
威厳を示す目的もあったのでしょう、それを『禁秘抄』にまとめました。
また、父院の影響を受け和歌にも熱心で、藤原定家に師事して歌才を
磨きました。歌論書の『八雲御抄』は、当時の歌論を集大成したものと
して知られています。
父・後鳥羽院の討幕計画に賛同した順徳天皇は、それに備えるため、
承久3年(1221年)4月に子の懐成親王(仲恭天皇)に譲位しました。
同年5月の「承久の乱」は、幕府軍に完敗。佐渡へ配流となった順徳院
は同地で21年の歳月を過ごし、仁治3年(1242年)46歳で崩御されました。
「承久の乱」から10年後に土御門院が、13年後に仲恭天皇が、18年後
には後鳥羽院も亡くなられ、順徳院は生きる望みも失ったのか、最後は
食を絶っての自死だったと伝えられています。
定家は文暦2年(1235年)、単独撰で第9番目の勅撰集『新勅撰和歌集』
を撰進しましたが、罪人として配流中の後鳥羽院、順徳院の歌の入集は
憚られたのでしょう、一首も採られていません。同じ年の5月、息子・為家
の岳父である宇都宮頼綱(蓮生)が、定家に、嵯峨中院にあった山荘の
襖に貼る色紙形の和歌の揮毫を求めてきました。定家がそれに応じて
送り届けたことが「明月記」の5月27日の条に記されています。これが
「百人一首」の原型であろうと考えられており、よって今、5月27日は
「百人一首の日」とされています。ただ、宇都宮頼綱が幕府方の人で
あることを思うと、文暦2年の時点で、「後鳥羽院」・「順徳院」の歌が
色紙に書かれていたとは考え難いことです。
ではなぜ後になって、定家はこの二首を加えたのでしょうか。それは、
1番・2番を「天智天皇」・「持統天皇」という、天皇を中心とする律令国家
の礎を築いた天皇親子で始めた以上、その終焉を招いた「後鳥羽院」・
「順徳院」という親子を最後に置くべきだと考えたからではないでしょうか。
そうして見た時、順徳院がまだ20歳の青年天皇であった頃に詠まれた
この歌も、「承久の乱」後の悲しみに満ちた順徳院の姿を思い起こさせる
ものがあります。
最後だと思うと長くなってしまいましたが、これで「今月の光琳かるた」は
お終いです。毎月楽しみにしている、とおっしゃってくださる方もあり、励み
になりました。有難うございます。
カテゴリとしての「百人一首」はありますが、歌の順番が前後してわかり
難くなっていますので、近いうちに(と言っても、かなり先になるかもしれま
せんが)索引を作ってUPしたいと思っています。
今月の光琳かるた
2023年2月28日(火)
ええっ、気づけば今日はもう2月の最終日ではありませんか!
このところずっと遅れがちな「光琳かるた」の入れ替えですが、
いくらなんでも末日に駆け込みになるなんて(;^_^A
毎月一首ずつご紹介してきた「百人一首」も、残り二首となり、
来月の順徳院の歌で終わりです。最後から二番目となる
「今月の光琳かるた」はこの歌です。
「思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり」
八十二番・道因法師

(恋に悩み苦しんでも、それでも命は長らえているのに、
辛さに堪えられずこぼれ落ちるのは涙だったことよ)
82番の道因法師と83番の藤原俊成は、長寿繋がりでの配列
ではないかと思えるほど、当時としては珍しい90歳を超える
迄生きた二人です。今で言うなら110歳超え位に相当するか
と思われます。
道因法師の凄さは、老いてなお、和歌への執心ぶりが強く、
90歳まで現役を貫いたことでありましょう。まさに「生涯現役」
のお手本のような人で、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、
そのエピソードが語られています。
承安2年(1172年)3月、京都白河の寺院で、藤原清輔(84番)
の主催で、和歌の「尚歯会」が開催されました。「尚」は尊ぶ、
「歯」は「よわい(=齢)」と同じ意味ですから、老人を敬って
長寿を祝うという、いわば敬老会。唐の詩人白居易(=白楽天)
が創始者ともいわれ、 平安時代初期には日本に伝わっていた
ようです。
『古今著聞集』がこの話を採り上げたのは、ふつうは漢詩の会を
催すのに、清輔たちが開いたのは和歌の尚歯会だったからだと
考えられています。集まった七叟(7人の老人)は、道因法師84歳
(正しくは83歳)、神祇伯顕広78歳、成仲宿禰74歳、藤原永範71歳、
源頼政69歳、藤原清輔69歳、大江維光63歳。今なら100歳代の
道因を筆頭に、90代、80代のお爺さん7人という感じでしょうね。
先ず主催者の清輔が、「散る花はのちの春ともまたれけりまたも
来まじきわがさかりはも」(散る花はこの先の春も待つことができる。
でも、また来ることがないのは我が身の盛りだよなぁ)と詠むと、
この日、第一の上席者となっていた道因が、すかさず次のように
詠みました。「待てしばし老木の花にこと問はむ経にける年は
たれかまされる」(ちょっと待てくださいな。 老木に咲いた花に
尋ねてみましょう。この中でだれが一番歳を取っているかと)。
「その歳で何しんみりしているんですか、私なんぞまだこれから
ひと花もふた花も咲かせようって思ってますよ」、という道因の
老人パワーあふれる歌ですね。
「人生百年時代」と言われるようになった今、道因法師の生きる
姿勢は、私も一人の高齢者として見倣うべきでは、と思っている
今夜です。
ええっ、気づけば今日はもう2月の最終日ではありませんか!
このところずっと遅れがちな「光琳かるた」の入れ替えですが、
いくらなんでも末日に駆け込みになるなんて(;^_^A
毎月一首ずつご紹介してきた「百人一首」も、残り二首となり、
来月の順徳院の歌で終わりです。最後から二番目となる
「今月の光琳かるた」はこの歌です。
「思ひわびさても命はあるものを憂きに堪へぬは涙なりけり」
八十二番・道因法師

(恋に悩み苦しんでも、それでも命は長らえているのに、
辛さに堪えられずこぼれ落ちるのは涙だったことよ)
82番の道因法師と83番の藤原俊成は、長寿繋がりでの配列
ではないかと思えるほど、当時としては珍しい90歳を超える
迄生きた二人です。今で言うなら110歳超え位に相当するか
と思われます。
道因法師の凄さは、老いてなお、和歌への執心ぶりが強く、
90歳まで現役を貫いたことでありましょう。まさに「生涯現役」
のお手本のような人で、鎌倉時代の説話集『古今著聞集』に、
そのエピソードが語られています。
承安2年(1172年)3月、京都白河の寺院で、藤原清輔(84番)
の主催で、和歌の「尚歯会」が開催されました。「尚」は尊ぶ、
「歯」は「よわい(=齢)」と同じ意味ですから、老人を敬って
長寿を祝うという、いわば敬老会。唐の詩人白居易(=白楽天)
が創始者ともいわれ、 平安時代初期には日本に伝わっていた
ようです。
『古今著聞集』がこの話を採り上げたのは、ふつうは漢詩の会を
催すのに、清輔たちが開いたのは和歌の尚歯会だったからだと
考えられています。集まった七叟(7人の老人)は、道因法師84歳
(正しくは83歳)、神祇伯顕広78歳、成仲宿禰74歳、藤原永範71歳、
源頼政69歳、藤原清輔69歳、大江維光63歳。今なら100歳代の
道因を筆頭に、90代、80代のお爺さん7人という感じでしょうね。
先ず主催者の清輔が、「散る花はのちの春ともまたれけりまたも
来まじきわがさかりはも」(散る花はこの先の春も待つことができる。
でも、また来ることがないのは我が身の盛りだよなぁ)と詠むと、
この日、第一の上席者となっていた道因が、すかさず次のように
詠みました。「待てしばし老木の花にこと問はむ経にける年は
たれかまされる」(ちょっと待てくださいな。 老木に咲いた花に
尋ねてみましょう。この中でだれが一番歳を取っているかと)。
「その歳で何しんみりしているんですか、私なんぞまだこれから
ひと花もふた花も咲かせようって思ってますよ」、という道因の
老人パワーあふれる歌ですね。
「人生百年時代」と言われるようになった今、道因法師の生きる
姿勢は、私も一人の高齢者として見倣うべきでは、と思っている
今夜です。
今月の光琳かるた
2023年1月28日(土)
厳しい寒さが続いていますが、今夕は、ちらちらと雪が舞い散って
おりました。
残り3枚となった「光琳かるた」ですが、以前は月初めにしていた
更新がどんどん遅れるようになり、1月もあと数日となっての更新
です(;^_^A
今月は久々に女流歌人の恋の歌となります。
「恨みわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」
六十五番・相模

(恨み嘆き、流す涙の乾く間とてない袖が朽ちてしまうだけ
でも口惜しいのに、その上私の名までもが、実らぬ恋の
ために朽ちてしまうのが残念でならない)
作者・相模は、『後拾遺和歌集』に和泉式部の67首に次いで40首
入集している優れた王朝女流歌人ですが、彼女もまた和泉式部
同様に、恋多き女性として知られています。
まだ10代の頃、橘則長(清少納言が最初の夫である橘則光との
間に設けた子)の妻となりましたが離別し、後に相模守大江公資
の妻となって、夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活は
万寿2年(1025年)頃に破綻しました。この頃、藤原定頼(64番の
歌)との恋愛も知られています。また、『更級日記』の中で、作者
の菅原孝標女が淡い恋心を抱いた源資通も相模の恋人でした。
和泉式部も相模も、恋によって名を朽ちさせるどころか、数々の
恋の歌で歌人としての名声を上げましたが、またその陰では幾度
となく涙に袖を濡らすこともあったに違いありません。
この歌が詠まれたのは、『後拾遺和歌集』の詞書に「永承六年
内裏歌合に」とありますので、後冷泉天皇の永承6年(1051年)
5月5日に行われた「内裏根合」の場で開催された「歌合」に於いて
だったことがわかります。「根合」とは、「物合」の一つで、5月5日の
端午の節句に、左右に分かれて菖蒲の根の長さを競い合うという
ものでした。
王朝文化が隆盛期を迎えようとしている時に開かれたのが「天徳
四年内裏歌合」(960年)なら、こちらは王朝文化が衰退期に向かう
最後の輝きとも言える歌合でした。
「恨みわび~」の歌は、「恋」という題で、左方から出され「勝」となり
ました。右方は源経俊という人の歌で、「下もゆる歎きをだにも知らせ
ばや焼火神のしるしばかりに」(人知れぬあなたへの辛い恋心を知ら
せたいものだ。焼く火の神に祈る効験として)でした。これはもう相模の
楽勝といったところでしょう。相模の歌が女としての経験に裏打ちされた
ドキリとするほどの艶めかしさを漂わせているのに対し、「下もゆる~」
のほうは、表現も単純で面白味に欠けています。永承6年には、当時と
しては立派な老人の50代半ば過ぎだったと考えられる相模ですが、
そんな年齢を少しも感じさせない妖艶な恋の歌に脱帽です。
厳しい寒さが続いていますが、今夕は、ちらちらと雪が舞い散って
おりました。
残り3枚となった「光琳かるた」ですが、以前は月初めにしていた
更新がどんどん遅れるようになり、1月もあと数日となっての更新
です(;^_^A
今月は久々に女流歌人の恋の歌となります。
「恨みわび干さぬ袖だにあるものを恋に朽ちなむ名こそ惜しけれ」
六十五番・相模

(恨み嘆き、流す涙の乾く間とてない袖が朽ちてしまうだけ
でも口惜しいのに、その上私の名までもが、実らぬ恋の
ために朽ちてしまうのが残念でならない)
作者・相模は、『後拾遺和歌集』に和泉式部の67首に次いで40首
入集している優れた王朝女流歌人ですが、彼女もまた和泉式部
同様に、恋多き女性として知られています。
まだ10代の頃、橘則長(清少納言が最初の夫である橘則光との
間に設けた子)の妻となりましたが離別し、後に相模守大江公資
の妻となって、夫の任地相模国に随行したものの、結婚生活は
万寿2年(1025年)頃に破綻しました。この頃、藤原定頼(64番の
歌)との恋愛も知られています。また、『更級日記』の中で、作者
の菅原孝標女が淡い恋心を抱いた源資通も相模の恋人でした。
和泉式部も相模も、恋によって名を朽ちさせるどころか、数々の
恋の歌で歌人としての名声を上げましたが、またその陰では幾度
となく涙に袖を濡らすこともあったに違いありません。
この歌が詠まれたのは、『後拾遺和歌集』の詞書に「永承六年
内裏歌合に」とありますので、後冷泉天皇の永承6年(1051年)
5月5日に行われた「内裏根合」の場で開催された「歌合」に於いて
だったことがわかります。「根合」とは、「物合」の一つで、5月5日の
端午の節句に、左右に分かれて菖蒲の根の長さを競い合うという
ものでした。
王朝文化が隆盛期を迎えようとしている時に開かれたのが「天徳
四年内裏歌合」(960年)なら、こちらは王朝文化が衰退期に向かう
最後の輝きとも言える歌合でした。
「恨みわび~」の歌は、「恋」という題で、左方から出され「勝」となり
ました。右方は源経俊という人の歌で、「下もゆる歎きをだにも知らせ
ばや焼火神のしるしばかりに」(人知れぬあなたへの辛い恋心を知ら
せたいものだ。焼く火の神に祈る効験として)でした。これはもう相模の
楽勝といったところでしょう。相模の歌が女としての経験に裏打ちされた
ドキリとするほどの艶めかしさを漂わせているのに対し、「下もゆる~」
のほうは、表現も単純で面白味に欠けています。永承6年には、当時と
しては立派な老人の50代半ば過ぎだったと考えられる相模ですが、
そんな年齢を少しも感じさせない妖艶な恋の歌に脱帽です。
今月の光琳かるた
2022年12月26日(月)
今日が今年の仕事納めの予定でしたが、コロナの感染拡大により
休講となり、代わりと言っては何ですが、今月もまた、ここまで遅れ
遅れになっていた光琳かるたの入れ替えをしましたので、12月の
「百人一首」の歌をご紹介しておきます。
「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」
六十八番・三条院

(願っているわけでもないのに、もし辛いこの世に生き永らえて
いたならば、恋しく思い出すであろう、今宵の月であることよ)
『栄花物語』の巻第12「玉の村菊」では、この歌の詠まれた事情が
詳しく語られています。それによると、長和4年(1015年)12月10日
過ぎの月を見て(これが12月の歌として取り上げた理由です)、
三条天皇が中宮妍子(道長次女)に詠み与えられた歌ということ
になっています。ただ、文中にはこの三条天皇からの歌に対し、
「中宮の御返し」と記載されているものの、中宮の返歌自体は
どこにも伝わっていません。『栄花物語』は、ひたすら道長を賛美
する歴史物語なので、この作詠事情を疑問視する向きもあります。
「百人一首」には、平安時代の前期、中期、後期においてそれぞれ
一人ずつ、心ならずも退位に追い込まれてしまった天皇の歌が採ら
れています。前期の陽成天皇(13番)、後期の崇徳天皇(77番)、
そして中期の三条天皇です。陽成天皇の場合は自業自得と言われ
ても仕方のない退位でしたが、三条・崇徳両天皇の場合は、道長・
鳥羽院、という時の権力者に追い詰められた上での譲位でありました。
三条天皇は一条朝の東宮でした。一条天皇はわずか7歳で即位し、
東宮に立った居貞親王(三条天皇)は天皇よりも4歳年長で、以後
一条天皇の御世の25年間を東宮として過ごしました。三条天皇は
36歳にしてようやく天皇の座に就きましたが、いち早く孫の敦成親王
(のちの後一条天皇)を帝位につけ、外祖父として権力をほしいまま
にしたい道長にとっては、我が意のままにならぬ三条天皇は、
鬱陶しい存在だったに違いありません。
それでも道長は、次女の妍子を三条天皇に入内させ、次なる布石を
打ちましたが、三条天皇には寵愛深い娍子という女御がいて、娍子
との間には四男二女の御子がありました。それに対し、妍子はただ
一人皇女(禎子内親王)を産んだだけでした。妍子が中宮に冊立
されると、三条天皇は強引に娍子を皇后にし、これも道長との溝を
深める一因となりました。
即位より4年経った長和4年(1015年)頃には、三条天皇の眼病も
いっそう悪化し、道長に官奏を覧ることをお命じになりましたが、
道長はこれを拒否。暗に天皇に対して職務が遂行できないなら
譲位すべきだと促しました。こうした嫌がらせと抵抗の繰り返しの後、
二度の内裏焼失という不幸も重なって、遂に三条天皇は長和5年
(1016年)、9歳の敦成親王に譲位し、その翌年に崩御なさいました。
今日が今年の仕事納めの予定でしたが、コロナの感染拡大により
休講となり、代わりと言っては何ですが、今月もまた、ここまで遅れ
遅れになっていた光琳かるたの入れ替えをしましたので、12月の
「百人一首」の歌をご紹介しておきます。
「心にもあらで憂き世に長らへば恋しかるべき夜半の月かな」
六十八番・三条院

(願っているわけでもないのに、もし辛いこの世に生き永らえて
いたならば、恋しく思い出すであろう、今宵の月であることよ)
『栄花物語』の巻第12「玉の村菊」では、この歌の詠まれた事情が
詳しく語られています。それによると、長和4年(1015年)12月10日
過ぎの月を見て(これが12月の歌として取り上げた理由です)、
三条天皇が中宮妍子(道長次女)に詠み与えられた歌ということ
になっています。ただ、文中にはこの三条天皇からの歌に対し、
「中宮の御返し」と記載されているものの、中宮の返歌自体は
どこにも伝わっていません。『栄花物語』は、ひたすら道長を賛美
する歴史物語なので、この作詠事情を疑問視する向きもあります。
「百人一首」には、平安時代の前期、中期、後期においてそれぞれ
一人ずつ、心ならずも退位に追い込まれてしまった天皇の歌が採ら
れています。前期の陽成天皇(13番)、後期の崇徳天皇(77番)、
そして中期の三条天皇です。陽成天皇の場合は自業自得と言われ
ても仕方のない退位でしたが、三条・崇徳両天皇の場合は、道長・
鳥羽院、という時の権力者に追い詰められた上での譲位でありました。
三条天皇は一条朝の東宮でした。一条天皇はわずか7歳で即位し、
東宮に立った居貞親王(三条天皇)は天皇よりも4歳年長で、以後
一条天皇の御世の25年間を東宮として過ごしました。三条天皇は
36歳にしてようやく天皇の座に就きましたが、いち早く孫の敦成親王
(のちの後一条天皇)を帝位につけ、外祖父として権力をほしいまま
にしたい道長にとっては、我が意のままにならぬ三条天皇は、
鬱陶しい存在だったに違いありません。
それでも道長は、次女の妍子を三条天皇に入内させ、次なる布石を
打ちましたが、三条天皇には寵愛深い娍子という女御がいて、娍子
との間には四男二女の御子がありました。それに対し、妍子はただ
一人皇女(禎子内親王)を産んだだけでした。妍子が中宮に冊立
されると、三条天皇は強引に娍子を皇后にし、これも道長との溝を
深める一因となりました。
即位より4年経った長和4年(1015年)頃には、三条天皇の眼病も
いっそう悪化し、道長に官奏を覧ることをお命じになりましたが、
道長はこれを拒否。暗に天皇に対して職務が遂行できないなら
譲位すべきだと促しました。こうした嫌がらせと抵抗の繰り返しの後、
二度の内裏焼失という不幸も重なって、遂に三条天皇は長和5年
(1016年)、9歳の敦成親王に譲位し、その翌年に崩御なさいました。
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