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「二月のしだり柳」に譬えられる女性とは…

2015年3月20日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第9回)

全12回の予定の「紫式部日記」ですが、今日は早くも9回目、
寛弘5年(1008年)12月29日から、翌年の寛弘6年1月3日までの記事と、
「消息文」と呼ばれている部分の最初のところを読みました。

「紫式部日記」に、なぜこうした「消息文」の体裁をとった文章が挿入されたのか、
また、これが誰に対して、何のために書かれたのか、未だ結論は出ておりません。

それはさて置き、「消息文」は、中宮彰子にお仕えしている女房たちの容姿の
記述から始まります。作者自身が「すこしもかたほなるはいひはべらじ」(少しでも
見劣りするところのある人のことは言いますまい)と書いているように、「美人限定」
なのですが、その中の一人「小少将の君」と呼ばれている女房を「二月ばかりの
しだり柳のさましたり」と譬えています。

あれっ?どこかで見たような表現、と思われた方もいらっしゃることでしょう。

そうです。「源氏物語」の「若菜下」で、光源氏が女三宮を「二月の中の十日ばかりの
青柳の、わづかにしだりはじめたらむここちして」と評しています。

小少将の君は、上品で可愛らしげな容姿で、性質が、「あまり見苦しきまで
子めいたまへり」(とても見るにしのびないほど子供っぽくていらっしゃる)と
書かれていて、このあたりが女三宮とよく似ています。

「見るからに弱々しく頼りなさそうで幼い感じのする女性」、紫式部は
「二月のしだり柳」にはそうした女性をイメージしていたようです。


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大晦日の宮中に強盗現る!!

2015年3月27日(金) 向河原「紫式部日記の会」(第9回)

暖かな春の日差しを受けながら、もう一つの「紫式部日記」のクラスで
3月20日の「溝の口クラス」と同じところを講読しました。

今日は20日とは別の箇所をご紹介しましょう。
寛弘5年(1008年)大晦日の夜の条です。

追儺〈ついな〉(鬼に扮した舎人を、内裏の四方の門を巡って追い回し、
一年の悪鬼を払う宮廷の儀式。これが今の節分の豆まきにつながった、
と言われています)も終わり、皆静かに大晦日の夜を過ごしていると、
突然、中宮さまのお部屋のほうで大声がし、人の泣き声が聞こえて
きます。紫式部は自分の局に居合わせた三人で、震えながら恐る恐る
近づいて行きますが、なんとそこで目にしたのは、身ぐるみ剥がされた
女房が二人、裸でうずくまっている姿でした。

今ほどセキュリティーも高くはなく、しかもこの時は内裏が焼失して
今内裏(仮の内裏でこの時は一条院)だったにせよ、警護も厳しい
はずの宮中に、強盗が出現したというのは驚きです。「儺やらひ果て
けるままに、みなまかでにけり」(追儺の行事が終わるやいなや、皆
退出してしまっていた)とありますが、いくら何でも、という気がします。

「朔日の装束はとらざりければ、さりげもなくてあれど、裸姿はわすられず。
おそろしきものから、をかしうともいはず。」(幸いにも、正月用の晴れ着は
盗られなかったので、二人共、何事もなかったかのように振る舞っていますが、
あの裸姿が忘れられません。恐ろしいことでしたが、一方では可笑しくって、
でも、もちろんそんな「可笑しい」なんては言いませんよ。)と、書かれていて、
翌正月一日の条では、「正月早々、縁起でもないことを話題にすべきでは
ないけれど、みんな話題にせずにはいられませんでした」、とあります。

気の毒なのは被害にあった二人の女房ですよね。


斎院サロンに勝てない口惜しさ

2015年4月17日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第10回)

前回に引き続いて「紫式部日記」の「消息文」の箇所を読みました。

たまたま弟の惟規から、彼と恋人関係にあった斎院に仕える中将の君の
手紙をこっそりと見せて貰った紫式部は、そこに綴られている斎院サロンの
自慢に憤りを覚え、風流だけを楽しんでいられる斎院側と、人の出入りも激しく、
のんびりとしていられない中宮方との環境の違いも考慮せず、中将の君が
得意気になっていることに厳しく言及しています。

ただ、そうしたことを考慮したとしても、中宮(彰子)のサロンの、活気や風情に
乏しい現状も認めざるを得ず、嘗て、清少納言ら活き活きとした女房たちが、
定子中宮のサロンを華やかに彩る存在であったことを思うと、紫式部の歯ぎしりが
聞こえて来そうな気もします。

この時の斎院は村上天皇の皇女・選子内親王。本来は斎院も天皇一代毎に
交替することになっていたのですが、伊勢の斎宮ほど厳格ではなく、選子内親王
は、なんと円融・花山・一条・三条・後一条の天皇五代に渡って、57年間も斎院を
務めました。よって「大斎院」と言われるようになったのです。

斎院、斎宮というのは、もともとは賀茂と伊勢に奉仕する斎王の住まいを指して
いたのですが、どちらも「斎王」では区別し難いので、賀茂の斎王を「斎院」、
伊勢の斎王を「斎宮」と呼ぶようになりました。ですから、今でも「葵祭」の斎院役
や、野宮の「斎王行列」の斎宮役の女性のことは、どちらも「斎王代」と称して
います。

余談になりますが、斎院制度は、平城上皇が弟の嵯峨天皇と対立して、
平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は山城の国の鎮守の神・
賀茂大神に対し「我が方に利あらば皇女を阿礼少女〈あれおとめ〉(=賀茂神社の
神迎えの儀式に奉仕する女性の意)として捧げる」と祈願し、弘仁元年(810年)、
「薬子の変」で勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが
始まりであると言われています。

第35代斎院礼子内親王(後鳥羽天皇皇女)が病の為、建暦2年(1212年)に
退下した後、承久の乱の混乱と財政困難により、斎院制度は終焉を迎えました。

     櫟谷七野神社
紫野の斎院があったとされる現在の「櫟谷七野神社」


紫式部は清少納言がお嫌い

2015年4月24日(金) 向河原「紫式部日記の会」(第10回)

先週(17日)の溝の口クラスと同じところを読みました。今日は後半の
「和泉式部」、「赤染衛門」、「清少納言」に対する批評をご紹介します。

トップバッターは「和泉式部」。
派手な男関係で浮名を流した和泉式部ですので、紫式部のようなお堅い人
からすれば、どうしても眉を顰めたくなるのですが、それでも天性の歌詠み
としての資質は認めざるを得ません。「口にまかせたることどもに、かならず
をかしきひとふしの、目にとまるよみそへはべり。」(口から出まかせに詠んだ
歌の中に必ず「うまっ!」と目に留まるものが詠み添えられております。)と、
記されています。しかしながら、和泉はよく歌の勉強をしているわけでもなく、
「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」(こちらが気が引けるほどの
歌人だなあ、なんて思いません。」と、紫式部、なかなかの強気です。でも、
残念ながら歌人としては、和泉式部のほうが一枚も二枚も上なんですよね。
「天才に勝る努力はなし」、これは私の持論です。

二番手は「赤染衛門」。
彼女は大江匡衡夫人として、また挙周〈たかちか〉等の母として、その良妻賢母
ぶりを示す話も数多く伝わっており、素行のいただけない和泉式部とは異なり、
紫式部も一目置く存在だったようです。歌もそつなく詠み、「それこそはづかしき
口つきにはべれ。」(この方こそ、こちらが気が引けるほどの立派な歌をお詠みに
なります。」と、和泉を「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」と言ったのに
対照させて称賛しています。

最後が「清少納言」です。
彼女に対しては「そこまで言うの?」と、紫式部を責めたくなるほどこき下ろして
います。「偉そうに漢字なんか得意げに書き散らしているけど、よく見ればぜ~ん
ぜ~んダメなのよね。」と言い放ち、目立ちたがり屋さんで、なんでもない時でも
風流がって見せるのが癖になっちゃうと「そのあだになりぬる人の果て、いかで
かはよくはべらむ」(そんな軽薄さが身についた人の最後は、どうしてよいことが
ありましょうか。)と、まるで呪うかのような言葉で締め括られています。

ここまで書くと、読んだ人が自分を蔑むのではないか、と、あの賢い紫式部が
考えないわけはないでしょうに、それでも書かずにいられなかったのはなぜ?

この頃の清少納言は既に零落しており、ライバル意識を燃やす対象では
なかったはず。それでも、華やかだった定子サロンの残照は未だ人々の
中から消えておらず、その噂を耳にするにつけ、控え目で活気に乏しい
彰子サロンに仕える身として、口惜しくてたまらない気持ちになったのかも
しれません。また、宮仕えを常に「憂きこと」と捉えている紫式部には、
宮仕えの場で、水を得た魚のように活き活きと振る舞う清少納言のような
タイプが、生理的に受け入れられなかったのかもしれません。

「枕草子」の中に、自分にはない才能を見出して嫉妬したのではないか、と
おっしゃっている方もありました。

いずれにせよ、これはまさに「千年の謎」なのです。


「日本紀の御局」だなんて、冗談じゃないわ!

2015年5月15日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第11回)

昨年の7月から読み始めた「紫式部日記」も終わりが近づいて来ました。
次回が最終回となります。

今日は「消息文」の最後のところと、「断簡」と呼ばれている、たった二つの
記事からなる部分の、一つ目を読みました。

「消息文」の中で、紫式部が、左衛門の内侍という人に中傷された、と
憤っています。

紫式部は、当然のことながら、子どもの頃からすっごくお利口で、父親が
弟に漢籍を教えているのを傍で聴いていて、弟がもたもたして答えられない
ところなども、すらすら言ってしまうので、「口惜しう、男子にてもたらぬこそ
幸なかりけれ」(ああ残念だ。この子が男の子でなかったのが、私の不幸と
いうものだよ」と、父は「つねになげかれはべりし」(いつも嘆いておられました)
という状態でした。「つねに」ですから、たまたまとか偶然というのではありません。

でも、当時は漢籍を学ぶのは男子のみで、女子には不用なものでした。
なまじ女が漢字など読めるとろくなことはない、と思われていた時代です。
ですから、紫式部は、宮仕えの場でも「出る杭は打たれる」のは嫌だとばかり、
無知を装っていました。

ところがです。「源氏物語」を人に読ませてお聴きになっていた一条天皇が
「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」(この人=
紫式部は、国史をちゃんと読んでるに違いない。本当に学識のある人のようだ)
とおっしゃったものですから、それを耳にした左衛門の内侍が「いみじうなむ才がる」
(すごく自分の学識を鼻にかけているのよ)と、紫式部のことを殿上人などに
言いふらしたあげく、「日本紀の御局」とあだ名をつけてくれたのですから、
紫式部、怒り心頭に発するのも無理からぬことだったかもしれません。

「このふるさとの女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて、才さかし出で
はべらむよ」(自分の召使いにだって、私は自分の学識をひけらかしたりしないのに、
どうして宮中でそんなことする?ありえないでしょう?)

紫式部も清少納言のように、「私って、帝からお褒めの言葉戴いちゃったぁ」と、
逆にみんなに吹聴できるような性格だったら、もっと楽しく宮仕えが出来たのでは
ないかと思われますが、そんな軽い性格では、おそらく「源氏物語」を生み出す
ことは無理だったでしょうね。


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