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第一帖「桐壺」の巻・全文訳(1)

2016年4月11日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第1回)

先程のブログに書きました「桐壺」の巻の冒頭部分の全文訳です。
(新潮日本古典集成本の最初から12頁の3行目まで。12頁の4行目
から13頁の1行目までは、4/28(木)のほうで書きます)


どの帝の御代でしたか、女御、更衣と呼ばれるお妃方が大勢お仕えして
いらっしゃる中で、さほど高い身分ではない一人の更衣が、格別のご寵愛を
受けていらっしゃいました。入内当初より、私こそが寵愛を受けてしかるべき、
と自負しておられる女御方は、この更衣のことを、目障りな人、と蔑み、また、
妬んでもおられるのでした。女御方でもそうなのですから、更衣と同じ程度の
出自の方、それよりも低い出自の更衣たちは、ましてや心穏やかではありません。

日々の宮仕えの場で、他の妃たちの気持ちを掻き乱し、恨みを受ける
ことが積もり積もったからでありましょうか、大層お具合が悪くなり、
何となく心細そうに実家に帰っておられることが多くなるのを、帝はいよいよ
愛しくてたまらない者だとお思いになって、他人の批判に遠慮なさることも
お出来にならず、世間の語り草にもなってしまいそうなご寵愛ぶりでございました。
上達部や殿上人たちも、困ったものだと、始終目を背けているような、帝の
更衣へのお気持ちのお入れようだったのです。

唐の国でも、帝のこうした一人の女性へのご寵愛がもとで、国が乱れ、
良くないことが起こったのだと、だんだん世間でも厄介なことと思われ、
人々の苦痛の種となり、挙句には楊貴妃の例まで引き合いに出されそうに
なって行くので、更衣はとてもいたたまれないことが多いのですが、畏れ多い
帝の類まれなるご寵愛を頼りにして、宮中での生活をしておられたのです。


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第一帖「桐壺」の巻・全文訳(2)

2016年4月28日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第1回)

今日読んだところの後半、「桐壺」(12頁・4行目~13頁・1行目)
の全文訳です。全文訳だけを、通してお読みになる時は、
「カテゴリ」の中の「源氏物語の全文訳」から入って、御覧ください。


父の大納言は既にお亡くなりになっており、母の北の方が、
古いお家柄の出身で、教養も身に着けておられたので、
両親が揃っていて、今現在の世間の評判が華々しいお妃たちにも、
さほど引けを取らないよう、どんな儀式のお支度もご用意なさって
いましたが、これといった、しっかりとした後ろ盾のない身なので、
更衣は、こと改まった時にはやはり頼れるものがなく、心細そうで
ございました。

前世からのご因縁が深かったのでしょうか、世にもたぐい稀な、
輝くほどの美貌を持った皇子(のちの光源氏)までもがお生まれに
なりました。帝はこの御子とのご対面を、まだかまだかと待ち遠しく
お思いになって、急いで参内させてご覧になると、それはもう
滅多とない、若宮のご容貌でありました。

この帝(桐壺帝)の第一皇子は、右大臣の娘でいらっしゃる
弘徽殿の女御がお生みになった方で、後見もしっかりとして
おいでですから、間違いなく皇太子になる方だと、世間でも
大切にお扱い申し上げておりましたが、今度お生まれになった
若宮の照り映えるような美しさには到底適いそうにもありません
でしたので、帝は一の御子は、それなりに大切にはお思いでしたが、
この二の御子を、秘蔵っ子としてお可愛がりになるのは、
この上もないことでございました。


第一帖「桐壺」の巻・全文訳(3)

2016年5月9日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第2回)

本日読みました「桐壺」の巻(13頁・2行目~19頁・10行目)までの
前半に当たる部分(13頁・2行目~17頁・7行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)

更衣は、初めから妃として入内されたのですから、女官として帝のお側に
ご奉仕する方ではございませんでした。世間でのご声望もとても厚く、
貴婦人としての風格もお備えでしたが、帝がむやみにお側から
お放しにならず、しかるべき管弦の遊びの折々や、何事につけても
重々しい催しごとがあると、真っ先に更衣をお召しになっておりました。

またある時は寝過ごされて、そのままお側に置いておかれるなど、
無理にもお側に引き寄せておいででしたので、自然と普通の女官の
ようにも見えていたのですが、この若宮がお生まれになってからは、
特別大切に扱おうとお心積もりをなさったので、「皇太子にも、
下手をすると、この若宮が就いてしまわれるかもしれない」と、
一の御子の母である弘徽殿の女御は疑念を抱いておられました。

この女御は、誰よりも先に入内なさっており、帝が大切に思って
おられるのも一通りではなく、お二人の間にはお子様方もおいでに
なりましたので、この女御からのお諫めだけは、やはり煙ったくは
あるものの、一方では済まないともお思いでいらっしゃいました。
 
更衣は、帝の勿体ないほどのご庇護をお頼りになっていても、
自分を蔑み、あら捜しをされることも多い上に、身体も弱く、
いつまで生きていられるかわからない有様で、なまじなご寵愛
ゆえの気苦労をなさっておりました。

更衣のお部屋は桐壺でございます。大勢のお妃方のお部屋の前を、
帝が素通りなさって、ひっきりなしに桐壺へとお渡りになるので、
他のお妃方が気を揉まれるのも無理のないことと思われたものでした。
桐壺の更衣が清涼殿へと参上なさるにつけても、余りにもそれが
度重なる時には、打橋や渡殿のあちらこちらの通路にとんでもない
ことをしかけては、送り迎えの女房たちの着物の裾を、我慢できない
ような状態にしてしまう、不都合なこともございました。またある時は、
避けられない馬道の戸を両側から錠を下ろして閉じ込め、あちらの
お部屋とこちらのお部屋で示し合わせて、進むも引くも出来ないように
するなど、嫌がらせも頻繁に生じておりました。

何かにつけて、数えきれないほどの苦しみが増えて行くので、
更衣がひどく辛そうにしているのを、帝は一層不憫と思し召して、
後涼殿に以前から賜っていた別の更衣のお部屋を、他所に
移させなさって、桐壺の更衣の控室としてお与えになったのです。
そのお部屋を移された更衣の恨みは他の妃たちにも増して
晴らしようのないものでございました。

この若宮が三歳になられた年に、「着袴の儀」が行われました。
一の宮の儀式の時にも劣ることなく、内蔵寮、納殿の物をありったけ
お使いになって盛大になさいました。それにつけても、世間では
非難ばかりが多かったのですが、若宮が成長して行かれるにつけ、
ご容貌やご性質が、世にもたぐいなく珍しいほどにお見受けされるので、
皆々、憎み切ることも出来ずにいらっしゃいました。物事の道理が
お分りの方は、「このような人も、この世に生まれておいでになるもの
なんだなあ」と、あきれる思いで、目を見張っていらっしゃるのでした。

その年の夏、御息所(桐壺の更衣)は、ふとした病にかかって
宮中から退出しようとなさるのを、帝は決してお許しになりませんでした。
ここ数年、ずっと病がちでいらっしゃったので、それに目が慣れて
おしまいになり、「やはりこのまましばらく宮中で様子を見なさい」と
ばかりおっしゃっておりましたが、日に日にお具合が悪くなられ、
ほんの五、六日のうちに、ひどく衰弱してしまわれたので、
更衣の母君が泣く泣く奏上して、退出させなさったのでした。

こんな時にも、行列があらぬ嫌がらせを受けるようなことになっては
いけないと用心して、若宮は宮中にお残しになって、更衣は自分だけ
こっそりと退出なさいました。

宮中に留め置くには限界があり、帝もいつまでも更衣を引き止めて
おけず、ご身分上、お見送りさえままならないのを、言いようもなく
もどかしくお思いでありました。匂い立つほど美しく、可愛らしい人が、
たいそう面窶れして、しみじみと悲しく思いながらも、もう言葉にもならず、
意識も薄れがちでいらっしゃるのをご覧になるにつけても、帝は、
これまでのことも、これからのこともお考えになることも出来ず、
あれこれ泣きながらお約束しようとなさいますが、更衣は、もうお返事も
お出来にならず、眼差しなどもとてもだるそうで、いっそう頼りなげに、
意識もないような状態で横になっているので、帝はどうしたらよいのかと、
途方にくれておられました。

輦車の宣旨を出されたあとも、更衣のお部屋にお入りになって、
どうしても退出をお許しになれないでいらっしゃいます。
「死出の道にも一緒に行こうと約束したのに、いくら何でも私を残しては
出て行けまい」とおっしゃるので、更衣もとても悲しいと帝を見申し上げて、

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり(もうこれまで、
と、死出の道に赴く悲しさにつけても、もっと生きていとうございました)
こんなふうになることが、わかっていましたならば」

と、息も絶え絶えに、もっと申し上げたいことはおありのようでしたが、
たいそう苦しくてだるそうなので、帝はこのまま宮中に留まらせて、
生死の程も見届けたいとお思いになっていると、「今日始める加持祈祷
ための然るべき僧たちも承って、今夜から待機しております」と急き立て
申し上げるので、帝もたまらなくお思いになりながらも、更衣を退出させ
なさいました。

胸がぐっとつまって、一睡もなさることが出来ず、夜を明かしかねて
いらっしゃいます。ご様子を窺うお見舞いの勅使が行って戻って来る
ほどの時間も経たないうちに、帝はしきりに気がかりだとおっしゃって
おりましたが、「夜中過ぎ頃に、お亡くなりになりました」と、更衣のお里の
人たちが泣き騒いでいたので、勅使もどうしようもなく帰参したのでした。
ご報告をお受けになった帝は、うろたえて何もお考えになれなくなり、
お部屋に閉じこもってしまわれました。


第一帖「桐壺」の巻・全文訳(4)

2016年5月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第2回)

本日読みました「桐壺」の巻(13頁・2行目~19頁・10行目まで)の
後半に当たる部分(17頁・8行目~19頁・10行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)


若宮のことは、更衣が亡くなられても、このまま宮中で
お側に置いてご覧になっていたいと帝はお思いでしたが、
母親の喪中に子が宮中に残るというのは例のないこと
ですので、退出なさいます。

若宮は何が起こったのかもおわかりにならず、お仕えしている
女房たちが泣きうろたえ、帝もとめどなく涙をお流しなのを、
不思議そうにご覧になっているので、普通の場合でさえ
母親との死別は悲しいものでありますが、ましてやこのような
頑是ないお姿を見ると、いっそう悲しく、言うべき言葉も
見つからないのでございました。

ご遺骸をそのままにしておくこともできませんので、
火葬にて葬り申し上げるのですが、更衣の母上は、
自分も同じ煙になって上ってしまいたい、と、
泣き焦がれなさって、野辺送りの女房の車に後から
お乗りになって、愛宕という所で、たいそう厳かに葬儀が
行われているところにお着きになりました。その時の
お気持ちは如何ばかりであったかと、ご拝察申し上げます。

「むなしい亡骸を目の前にして、やはりまだ生きて
おられる気のするのが、どうにも仕方のないことなので、
灰になられるのを見届けて、もう今はいなくなった人、と
きっぱり諦めましょう」と、気丈にはおっしゃるものの、
牛車から落ちてしまわれるのではないかと思われるほど
泣き悶えられるので、「やっぱり思った通りだわ」と、
女房たちも手を焼いておりました。

宮中から勅使が参りました。三位の位を追贈する旨、
勅使がその宣命を読み上げるのも、悲しいことで
ございました。「女御」とも呼ばせずに終わったことが
心残りで無念に思われて、せめて今一段上の位だけでも、
と帝がお考えになって贈られたのでした。これにつけても、
更衣を憎むお妃方が大勢おいででした。

それでも、人の世の情けがお分りの方々は、更衣の
容姿の美しかったことや、気立てが穏やかで欠点がなく、
憎めないお方だったことなどを、今になって思い出されて
おりました。帝のお見苦しいまでのご寵愛ゆえに、
冷たくして嫉妬もなさいましたが、亡くなった更衣の
人柄が優しく、情愛に満ちたお心の持ち主だったことを、
帝付きの女房なども、懐かしく偲び合っておりました。
「亡くなってこそ恋しく思われる」というのは、こんな場合の
ことを言うのではないかと思われたのでした。

いつしか日が過ぎ、七日ごとの法要などにも、帝は
ねんごろに弔問の使者をお遣わしになりました。
時が経てば経つほど、帝はどうしようもなく悲しく
お思いになって、お妃たちを御寝所にお召しになる
ことも全くなく、ただもう涙にくれて日夜お過ごしなので、
それをお側で拝見している者までもが涙がちな秋で
ございました。

「亡くなった後まで、人の心をいらいらさせるご寵愛ぶり
だこと」と、弘徽殿の女御などは、相変わらず手厳しく
おっしゃっておられました。帝は一の宮をご覧になるに
つけても、若宮をひとしお恋しく思い出され、気心の知れた
女房や、乳母などを更衣のお里に遣わされては、若宮の
ご様子をお尋ねになっていらっしゃいました。


第一帖「桐壺」の巻・全文訳(5)

2016年6月13日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第3回)

本日読みました「桐壺」の巻(19頁・11行目~25頁・11行目まで)の
前半に当たる部分(119頁・11行目~22頁・11行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)

野分めいた風が吹いて、急に肌寒くなった夕暮時、帝はいつもより
思い出されることが多くて、靫負の命婦という女房を、更衣にお里に
お遣わしになりました。夕月の美しい時刻に出立させなさって、帝は
そのまま物思いに耽っていらっしゃいます。このような月の美しい夜は、
管弦の遊びなどをおさせになったものでしたが、更衣は格別な琴の
音色で演奏をし、ふと帝のお耳に入れるお言葉や人よりも優れていた
風情や容貌が、面影となってひたと身に添っているように思われるに
つけても、それはやはり夢のようで、闇の中の現実にも及ばないもの
でございました。
 
命婦は更衣のお里に着いて、門の中へ牛車を引き入れるやいなや、
雰囲気に哀れなものが感じられました。夫はすでに亡くなっていても、
娘一人の後ろ盾として、とかく手入れをして、見苦しくないように気を
遣ってお暮らしになっていましたが、子に先立たれた悲しみに目の前
が真っ暗になり、悲嘆にくれていらっしゃるうちに、草も丈高くなり、
それが野分で一層荒れた感じがして、月光だけが生い茂る雑草にも
遮られずに差し込んでおります。

寝殿の南面に命婦を牛車から降ろして座らせ、母君もすぐには
何もおっしゃることができません。「今まで生きておりますのが
大層情けのうございますのに、このような帝からのご使者が
草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、まことに
身の置きどころもございません」と言って、本当にこらえ切れない
ご様子でお泣きになります。命婦は、「こちらに弔問にお伺いした
典侍が『お訪ねしますと、いっそうお気の毒で、胸も張り裂けそうで
ございました』と帝におっしゃっておられましたが、私のような物の
情趣のわからない者にも、いかにも堪え難く存じられます」と言って、
少し気持ちを落ち着けてから、帝のお言葉をお伝え申し上げました。
「『更衣が亡くなってからしばらくの間は夢ではないか、とばかり
思われたが、次第に心が静まるにつれて、覚めるはずもないこととて
耐えられぬ思いがするのは、どうすればよいのかと、相談できる相手
さえいないので、母君がこっそりと参内しては下さいませんか。
若宮のことがとても気掛かりで、涙がちなところにお過ごしになって
いるのも、おいたわしく思われるので、急ぎ参内して頂きたい』などと、
はっきりと最後までおっしゃることも出来ず、涙にむせ返らせなさり
ながらも、一方ではお側の人も何とお気の弱いこととお見受けしよう
と、人目を憚っておられぬわけでもないご様子がおいたわしくて、
お言葉を最後まで承らないような有様で、退出して参りました」と言って
帝からのお手紙を母君に差し上げました。「涙にくれて目も見えませんが、
只今の恐れ多いお言葉を光として拝見いたします」と言ってご覧になります。
 
 時が経てば少しは紛れることもあろうかと、心待ちに過ごす月日が
 経つにつれて、とても我慢が出来ない状態なのが困ったことです。
 幼い若宮がどうしているかと案じながら、一緒に養育できないのが
 気掛かりでなりませんので、今は若宮を更衣の形見と思って一緒に
 宮中に参られよ

などと、お心を込めてお書きになっておられました。 
 
 「宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」
 (宮中を吹き渡る風の音を聞くにつけても、涙を催し、若君のことが
 思い遣られてなりません)

と、書いてありますが、母君はとても最後まではご覧になれません。
「長生きが、たいそう辛いものだと思知らされるにつけ、高砂の松が
どう思うかということさえ、恥ずかしいことでございますので、宮中に
お出入りするのは、ましてや憚られることが多うございます。
畏れ多いお言葉を度々頂戴しながら、私自身はとても決心できそう
にはございません。若宮はどこまでお分りなのか、しきりに早く宮中へ
お出でになりたがっておられるようですので、それもごもっともと、
悲しく拝見していることなど、私が内心思っておりますことを、
ご奏上くださいませ。私は娘に先立たれた不吉な身でございますから、
若宮がこうしてここにいらっしゃるのも、憚られ、畏れ多いことで」と
おっしゃいます。


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