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訳すのが勿体ない名文

2016年10月21日(金) 溝の口「枕草子」(第1回)

「紫式部日記」を講読している頃から、「次は枕草子を」という
ご要望は多かったのですが、当時は溝の口で「百人一首」を
読んでいましたので、「源氏物語」と「百人一首」と「枕草子」が
重なっては通うのが大変、というお声もあり、「紫式部日記」の
後には「伊勢物語」を入れました。その間に「百人一首」も終了し、
今月から「枕草子」開講の運びとなりました。

「枕草子」は言わずと知れた、「源氏物語」と並び称される、
王朝女流文学の代表作品ですが、両者は、ジャンルの違い
だけではなく、作者である「紫式部」と「清少納言」の個性の
違いなども如実に窺うことが出来るので、併せて読むと、
面白さも倍増すること請け合いです。

今日は初回ですので、まず、「枕草子の概説」から始めましたが、
例によって、話があちこちに飛んでいるうちに、後半の本文講読
の時間を圧迫してしまい、本文は第一段の「春はあけぼの」を
読んだだけで終わってしまいました。

「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる」

この感性、端的な表現力。文句なしですね。「やうやう」が
「次第に」とか「だんだんと」という意味だとわかりさえすれば、
あとは、なまじ現代語訳などつけたくない名文です。

目を閉じ、その情景を思い浮かべて、一人一人が感覚的に
味わうのが一番かと思います。そしてもう一度、声に出して
第一段を読んでみてください。出来れば暗唱可能レベルまで。
そうすれば、清少納言ワールドが、より身近に感じられるに
違いありません。


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昔も今も・・・

2016年11月18日(金) 溝の口「枕草子」(第2回)

一度は「枕草子」の日記的章段を、年立てに従って読むことに
しましたが、上巻、下巻の二冊を行ったり来たりしながら、しかも、
段も飛び飛びになるとあって、却って煩雑になってわかり難い、
とのお声が上がり、この案は今回で止めて、次回からは、従来通り、
上巻のはじめから、順番に読み進めることになりました。

初回は第一段の「春はあけぼの」だけで終わりましたので、
今日は「日記的章段」の最も古い話、いわゆる「打聞(うちぎき)」
(伝え聞いた話)の第174段と第175段を読み、その後、下巻の
最初の第137段から第145段までの「類聚章段」・「随想章段」を
読みました。

どの話も、清少納言の鋭い感性に彩られ、「枕草子って面白い!」
と思われた方も多いのではないでしょうか。

一例です。第145段「人映えするもの」(人前で調子に乗るもの)から。

出仕先で、隣り合わせの部屋に住んでいる女房の子供が、こちらの
部屋に入って来て、手あたり次第、物に触って散らしたり、壊したり
するので、袖を引っ張って押さえていたら、その子の母親が来たので、
袖を放してやると、母親に「ねえねえ、あれ取ってよ」などとねだり、
母親が自分のおしゃべりに夢中で、相手にしてもらえないとなると、
勝手に出して来て、その辺に広げてしたい放題。それを、母親は「ダメ!」
と、きつく叱って取り上げることもせず、「そんなことしちゃダメよ」とか
「壊さないようにね」なんて笑って軽く注意するだけ。こうなると、母親のほう
にも腹が立つ。でも、母親の目の前で、この悪ガキを叱りつけるわけにも
行かず、黙って見てるのは、「ん、もぉーっ!」って気がするわ。

と、千年余り前に清少納言が書いているのです。

今日のタイトル「昔も今も・・・」、実感して頂けましたか?


今は昔に比べたら楽よねぇ

2016年12月16日(金) 溝の口「枕草子」(第3回)

前回は、日記的章段を年立てに従って読みましょう、ということで、
テキスト下巻の、第174段(村上天皇の御代の話)から読みましたが、
上巻下巻を行ったり来たりしながら読むのは却って大変、とのこと
でしたので、今回からは、段の順に読んで行くことにしました。

第1段は初回に読みましたので、今日は第2段~第5段の途中までを
講読しました。

第2段は、「ころは」(頃は)という類聚章段で、正月の行事の頃、
四月の葵祭の頃などについて、かなり長く書かれている段ですが、
行事そのものについてではなく、人々の様子が活写してあります
ので、まるで、風俗絵巻を見ているかのような面白さがあります。

第3段、第4段は数行にわたって書かれているだけの短い段ですが、
第4段の最後の一行にこう書かれています。

「これは、むかしのことなめり。いまは、いとやすげなり。」(こんなことは
むかしの話のようで、今はずっと楽そうです。)

この段は、「大切な息子を僧侶にした親御さんは気の毒だ」という書き出し
で、「出家するといつも精進料理の味気無い物ばかり食べて、眠るのも
自由にならず、年若い僧侶が女性に興味を持つことも許されない。」と
その理由を述べ、ましてや、当時は、病は物怪のしわざと考えられており、
修験者に加持・祈祷で物怪を退散させる、というのが一般的な考え方
でしたから、「修験者が祈り疲れて居眠りでもしようものなら、手厳しく
非難されて身の置き所もなく、辛いことだろう」と続いています。そして、
上記の一文となるのですが、要は「昔は厳格で大変だったけど、今は
随分気楽になっているわよね」という話です。

いつの時代でもあるのですね。千年はもとより、百年もの違いがあるわけ
ではありません。1generation の差だけなんですよね。「今どきの若い者は
だらしがない!」「昔は大変だったけど、今は楽よね!」。これって、千年前
(いやもっと前かも)から、変わらぬ現象というのが、何とも不思議な気が
してくる段です。

第5段は、「日記的章段」で、もうだいぶ後のほうの「長保元年」(999年)の
出来事です。まだ、最初の1/3ほどを読んだだけですので、この段のことは
次回で詳しくご紹介したいと思います。


清少納言の執筆姿勢

2017年1月20日(金) 溝の口「枕草子」(第4回)

今日は大寒。その暦通りの極寒の一日となりましたが、
心配していた雨にも雪にも降られることなく、携帯していた
傘の出番もないまま帰宅しました。

「枕草子」も4回目となり、皆さまもだんだん「清少納言ワールド」
に慣れてこられたのではないでしょうか。

今回は第5段「大進生昌が家に」の途中から、第6段「上にさぶらふ
御猫は」、第7段「正月一日、三月三日は」までを読みました。

第5段は、中宮定子が出産に備え、大進(中宮職の次官)である
生昌の邸にお移りになった時の話です。

生昌は、清少納言に「門」のことでやり込められ、夜、彼女の
寝所にやって来て、また、散々笑い者にされました。その後も
言葉の訛りを笑われ、兄の自慢をしては笑われ、ぶざまな事
この上ない生昌ですが、それをおおらかに優しく取りなす中宮さま
の姿を「いとめでたし」(たいそうご立派でいらっしゃいました)と
称賛して、作者はこの段を閉じています。

実はこの話の三年前、長徳2年(996年)10月に、中宮らの母・貴子が
危篤に陥り、兄の伊周にしきりに会いたがったため、伊周は仮の配所
であった播磨を抜け出し、中宮御所に潜伏していたのを、道長に密告
したのが生昌でした。それによって、伊周は母の死に目にも会えず、
大宰府に護送されました。ですから、清少納言たちにとって、生昌は
許し難い人物だったのでしょう。、むろん中宮さまとて同じ気持ちだった
でしょうが、父を失い、実家も焼失、兄弟も罪人となったこの時の定子には、
生昌を頼るしかなかったのです。

しかし、清少納言は「枕草子」で、そうした中宮さまの不幸な境遇には
一切触れていません。それが彼女の一貫した執筆姿勢であり、
「中の関白家」、とりわけ中宮定子を敬愛して止まなかった清少納言の
意地の見せ所だった気がいたします。

第5段も、田舎者の無粋な生昌を、清少納言が、からかい、いたぶって
面白がっているかのように見えますが、こうした歴史的背景を踏まえて
読むと、印象はまた違ったものになるのではないかと思います。


「枕草子」の講読会の後、有志の方々とご一緒に只今「出光美術館」
で開催中の「岩佐又兵衛と源氏絵」を見に行きました。

混雑もなく、ゆっくりと一つ一つの絵を鑑賞して、ちょうど良い時間(18時)
から始まった学芸員の方による作品解説を聴くことが出来ました。

岩佐又兵衛の絵は数ある「源氏絵」の中でも、独特の画風で目が引かれる
のですが、学芸員の方の「又兵衛は、源氏物語を700年前の世界の作品と
して捉えず、その時代に引きずり降ろして描いたことによって、それまでの
源氏絵とは一線を画したものを生み出した」という説明を伺い、とても納得
できました。

源氏物語ファンなら必見のこの展覧会、会期は2月5日迄です。


ずうーっとこのままであってほしかったけど・・・

2017年2月17日(金) 溝の口「枕草子」(第5回)

朝から気温はグングン上がり、風はビュンビュン吹きまくり・・・。
はい、それで「春一番」となりました。判断を誤ってダウンのコートを
着て出かけてしまった私は、帰りの電車ではコートを脱いで抱えて
いました。でも、明日はまた寒さが戻って来るようで、4月中旬の
気温から冬至の頃の気温に、たった一日で変化するとのこと。
体調を崩さないよう、皆さまもお気をつけください。

今回の「枕草子」は、第8段から第20段の前半までを読みました。

第20段は、清少納言が中宮定子のもとに出仕してまだ数ヶ月しか
経っていない正暦5年(994年)のうららかな春の一日を、後に回想
して書いた、かなり長い段です。

中宮さまのお部屋は登花殿ですが、清涼殿に上られた時の控室と
して「弘徽殿の上御局」が与えられておりました。折から花盛りの
桜を挿した大きな青磁の瓶が、高欄の外にまで花が咲きこぼれる
ようにして置かれている、そんなのどかなお昼頃に、格好良く、
直衣の下から衵をシャツアウトした中宮さまの兄・大納言伊周が
訪ねて来られます。一条天皇もこちらにお出でになっていたので、
大納言は遠慮して、簀子(縁側)で控えています。

天皇さまがお食事のために立たれた後、「月も日もかはりゆけども
ひさにふる三室の山の」(たとえ月や日が変わることがあったとしても、
いつまでも変わらない三室の山の)という古歌を、大納言がゆったりと
口ずさみなさった時は、本当に「千年もあらまほしき御ありさまなるや」
(今日のタイトルです・・・ずうーっとこのまま変わらないでほしいこの場の
ご様子でしたよ)、と作者は回想しています。

一条天皇も、御膳を下げるための配膳係が呼ばれるか呼ばれないかの
うちに、もうこちらに戻って来られます。そこで、中宮さまは、女房たちに
覚えている古歌を一首ずつ書くようにお命じになります。皆が四苦八苦
している中で、清少納言は「年経れば齢は老いぬしかはあれど花をし
見れば物思ひもなし」(年が経ち、私も年老いました。でも、桜の花さえ
見れば何の物思いもありません)の、「花をし見れば」を「君をし見れば」
(中宮さまさえ見れば何の物思いもありません)と書き換えてご覧に入れた
のでした。中宮さまから「こんな気の利いたのが見たかったのよ」と褒められ、
「いえいえ、これは若い人では無理な、亀の甲より年の劫でして」と照れながら
も、早くも中宮さまとの呼吸がピタリと合った嬉しさを隠し切れない作者でした。
今なら「ヤッター」とVサインを出したところでしょう。

時に、清少納言29歳位。中宮定子18歳、大納言伊周21歳、一条天皇15歳。

この僅か1年余りの後、定子らの父・関白道隆が亡くなり、中の関白家が
没落の一途を辿る運命にあろうとは、この幸せを絵に描いたような場に
居合わせた誰もが想像だにしなかったに違いありません。

続きは次回となります。


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