「源氏物語」のあらすじ…第二帖「帚木」(その2)
「帚木」の巻の2回目です。
「雨夜の品定め」の後半になりますが、左馬頭、頭中将、藤式部丞が語る体験談
です。 ↑
色文字をクリックしてください
殊に、頭中将の体験談は、「夕顔」・「玉鬘」 の物語の伏線となっていますので、
憶えておいて頂きたいところです。
「雨夜の品定め」の後半になりますが、左馬頭、頭中将、藤式部丞が語る体験談
です。 ↑
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殊に、頭中将の体験談は、「夕顔」・「玉鬘」 の物語の伏線となっていますので、
憶えておいて頂きたいところです。
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「あなたの娘に限って」 ー大宮の思いー
2015年4月27日(月) 溝の口「湖月会」(第82回)
4月10日(金)のクラスと同じところ(「野分」の巻の後半)を読みました。
今日はこの巻の最後の場面で交わされる内大臣(もとの頭中将・
玉鬘の実父)とその母・大宮の会話に触れておきたいと思います。
大宮は源氏の父・桐壺帝の妹ですので、源氏からすれば叔母であり、
また妻(葵の上)の母ですから、義母にもあたる人です。
お歳を召されても若々しくて美しく、息子の内大臣とお逢いになる時でも
きちんと綺麗にお化粧をなさる貴婦人です。
大宮は、二人の孫(葵の上の忘れ形見「夕霧」と、内大臣の外腹の娘
「雲居雁」)を、手塩にかけて養育なさっていましたが、この幼い二人が
恋に落ちたことで、雲居雁を東宮妃にと目論んでいた内大臣は激怒、
大宮の監督不行き届きを責め、二人を引き離すために雲居雁を自邸に
連れて行ってしまいました。
それ以後、大宮と内大臣の間にはわだかまりが生じているのですが、
さすがに野分の後とて、内大臣も母上のお見舞いに見えました。
本妻腹の弘徽殿女御は立后争いで源氏の推す斎宮の女御に敗れ、
雲居雁の東宮入内の夢も夕霧との一件でパーとなり、探し出して
引き取った近江の君は凡そ貴族の姫君とはかけ離れた言語道断な娘。
今や、内大臣にとって娘は悩みの種以外の何物でもありませんでした。
いくらぎくしゃくしているとは言え、そこが親子というもの。息子は母に
愚痴の一つも言いたくなったのでしょう。
「いと不調なる女まうけはべりて、もてわづらひはべりぬ」(とんでもない
出来の悪い娘を引き取って、手を焼いてしまいましたよ)と、近江の君の
ことをぼやく内大臣に大宮は次のように言ったのです。
「いであやし。女といふ名はして、さがなかるやうやある」(まあ、それは
おかしいわ。あなたの娘ともあろう者が、出来が悪いなんてわけないじゃ
ありませんか!」
めげている息子を励まそうというつもりもありましょうが、これは大宮に
とっての本音かとも思えます。おそらく父の跡を継いで藤原氏の長者と
なっている内大臣は、大宮の自慢の息子であって何ら不思議はないの
です。読者の目は主人公の源氏に注がれがちですが、内大臣も藤原氏の
長者に相応しい人物であることを知っておく必要があろうかと思われます。
母親の出自からすれば、源氏も遥か及ばない内大臣なのですから。
朱雀院の皇女たちの女三宮や女二宮(落葉の宮)と同じ臣下に降嫁という
道を辿りながらも、大宮にはお高くとまっている感じが少しもなく、内大臣との
親子の遣り取りなどを見ていると、普遍的な「お母さん」の匂いがして、私は
この方が好きなのです。
4月10日(金)のクラスと同じところ(「野分」の巻の後半)を読みました。
今日はこの巻の最後の場面で交わされる内大臣(もとの頭中将・
玉鬘の実父)とその母・大宮の会話に触れておきたいと思います。
大宮は源氏の父・桐壺帝の妹ですので、源氏からすれば叔母であり、
また妻(葵の上)の母ですから、義母にもあたる人です。
お歳を召されても若々しくて美しく、息子の内大臣とお逢いになる時でも
きちんと綺麗にお化粧をなさる貴婦人です。
大宮は、二人の孫(葵の上の忘れ形見「夕霧」と、内大臣の外腹の娘
「雲居雁」)を、手塩にかけて養育なさっていましたが、この幼い二人が
恋に落ちたことで、雲居雁を東宮妃にと目論んでいた内大臣は激怒、
大宮の監督不行き届きを責め、二人を引き離すために雲居雁を自邸に
連れて行ってしまいました。
それ以後、大宮と内大臣の間にはわだかまりが生じているのですが、
さすがに野分の後とて、内大臣も母上のお見舞いに見えました。
本妻腹の弘徽殿女御は立后争いで源氏の推す斎宮の女御に敗れ、
雲居雁の東宮入内の夢も夕霧との一件でパーとなり、探し出して
引き取った近江の君は凡そ貴族の姫君とはかけ離れた言語道断な娘。
今や、内大臣にとって娘は悩みの種以外の何物でもありませんでした。
いくらぎくしゃくしているとは言え、そこが親子というもの。息子は母に
愚痴の一つも言いたくなったのでしょう。
「いと不調なる女まうけはべりて、もてわづらひはべりぬ」(とんでもない
出来の悪い娘を引き取って、手を焼いてしまいましたよ)と、近江の君の
ことをぼやく内大臣に大宮は次のように言ったのです。
「いであやし。女といふ名はして、さがなかるやうやある」(まあ、それは
おかしいわ。あなたの娘ともあろう者が、出来が悪いなんてわけないじゃ
ありませんか!」
めげている息子を励まそうというつもりもありましょうが、これは大宮に
とっての本音かとも思えます。おそらく父の跡を継いで藤原氏の長者と
なっている内大臣は、大宮の自慢の息子であって何ら不思議はないの
です。読者の目は主人公の源氏に注がれがちですが、内大臣も藤原氏の
長者に相応しい人物であることを知っておく必要があろうかと思われます。
母親の出自からすれば、源氏も遥か及ばない内大臣なのですから。
朱雀院の皇女たちの女三宮や女二宮(落葉の宮)と同じ臣下に降嫁という
道を辿りながらも、大宮にはお高くとまっている感じが少しもなく、内大臣との
親子の遣り取りなどを見ていると、普遍的な「お母さん」の匂いがして、私は
この方が好きなのです。
紫式部は清少納言がお嫌い
2015年4月24日(金) 向河原「紫式部日記の会」(第10回)
先週(17日)の溝の口クラスと同じところを読みました。今日は後半の
「和泉式部」、「赤染衛門」、「清少納言」に対する批評をご紹介します。
トップバッターは「和泉式部」。
派手な男関係で浮名を流した和泉式部ですので、紫式部のようなお堅い人
からすれば、どうしても眉を顰めたくなるのですが、それでも天性の歌詠み
としての資質は認めざるを得ません。「口にまかせたることどもに、かならず
をかしきひとふしの、目にとまるよみそへはべり。」(口から出まかせに詠んだ
歌の中に必ず「うまっ!」と目に留まるものが詠み添えられております。)と、
記されています。しかしながら、和泉はよく歌の勉強をしているわけでもなく、
「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」(こちらが気が引けるほどの
歌人だなあ、なんて思いません。」と、紫式部、なかなかの強気です。でも、
残念ながら歌人としては、和泉式部のほうが一枚も二枚も上なんですよね。
「天才に勝る努力はなし」、これは私の持論です。
二番手は「赤染衛門」。
彼女は大江匡衡夫人として、また挙周〈たかちか〉等の母として、その良妻賢母
ぶりを示す話も数多く伝わっており、素行のいただけない和泉式部とは異なり、
紫式部も一目置く存在だったようです。歌もそつなく詠み、「それこそはづかしき
口つきにはべれ。」(この方こそ、こちらが気が引けるほどの立派な歌をお詠みに
なります。」と、和泉を「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」と言ったのに
対照させて称賛しています。
最後が「清少納言」です。
彼女に対しては「そこまで言うの?」と、紫式部を責めたくなるほどこき下ろして
います。「偉そうに漢字なんか得意げに書き散らしているけど、よく見ればぜ~ん
ぜ~んダメなのよね。」と言い放ち、目立ちたがり屋さんで、なんでもない時でも
風流がって見せるのが癖になっちゃうと「そのあだになりぬる人の果て、いかで
かはよくはべらむ」(そんな軽薄さが身についた人の最後は、どうしてよいことが
ありましょうか。)と、まるで呪うかのような言葉で締め括られています。
ここまで書くと、読んだ人が自分を蔑むのではないか、と、あの賢い紫式部が
考えないわけはないでしょうに、それでも書かずにいられなかったのはなぜ?
この頃の清少納言は既に零落しており、ライバル意識を燃やす対象では
なかったはず。それでも、華やかだった定子サロンの残照は未だ人々の
中から消えておらず、その噂を耳にするにつけ、控え目で活気に乏しい
彰子サロンに仕える身として、口惜しくてたまらない気持ちになったのかも
しれません。また、宮仕えを常に「憂きこと」と捉えている紫式部には、
宮仕えの場で、水を得た魚のように活き活きと振る舞う清少納言のような
タイプが、生理的に受け入れられなかったのかもしれません。
「枕草子」の中に、自分にはない才能を見出して嫉妬したのではないか、と
おっしゃっている方もありました。
いずれにせよ、これはまさに「千年の謎」なのです。
先週(17日)の溝の口クラスと同じところを読みました。今日は後半の
「和泉式部」、「赤染衛門」、「清少納言」に対する批評をご紹介します。
トップバッターは「和泉式部」。
派手な男関係で浮名を流した和泉式部ですので、紫式部のようなお堅い人
からすれば、どうしても眉を顰めたくなるのですが、それでも天性の歌詠み
としての資質は認めざるを得ません。「口にまかせたることどもに、かならず
をかしきひとふしの、目にとまるよみそへはべり。」(口から出まかせに詠んだ
歌の中に必ず「うまっ!」と目に留まるものが詠み添えられております。)と、
記されています。しかしながら、和泉はよく歌の勉強をしているわけでもなく、
「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」(こちらが気が引けるほどの
歌人だなあ、なんて思いません。」と、紫式部、なかなかの強気です。でも、
残念ながら歌人としては、和泉式部のほうが一枚も二枚も上なんですよね。
「天才に勝る努力はなし」、これは私の持論です。
二番手は「赤染衛門」。
彼女は大江匡衡夫人として、また挙周〈たかちか〉等の母として、その良妻賢母
ぶりを示す話も数多く伝わっており、素行のいただけない和泉式部とは異なり、
紫式部も一目置く存在だったようです。歌もそつなく詠み、「それこそはづかしき
口つきにはべれ。」(この方こそ、こちらが気が引けるほどの立派な歌をお詠みに
なります。」と、和泉を「はづかしげの歌よみやとはおぼえはべらず。」と言ったのに
対照させて称賛しています。
最後が「清少納言」です。
彼女に対しては「そこまで言うの?」と、紫式部を責めたくなるほどこき下ろして
います。「偉そうに漢字なんか得意げに書き散らしているけど、よく見ればぜ~ん
ぜ~んダメなのよね。」と言い放ち、目立ちたがり屋さんで、なんでもない時でも
風流がって見せるのが癖になっちゃうと「そのあだになりぬる人の果て、いかで
かはよくはべらむ」(そんな軽薄さが身についた人の最後は、どうしてよいことが
ありましょうか。)と、まるで呪うかのような言葉で締め括られています。
ここまで書くと、読んだ人が自分を蔑むのではないか、と、あの賢い紫式部が
考えないわけはないでしょうに、それでも書かずにいられなかったのはなぜ?
この頃の清少納言は既に零落しており、ライバル意識を燃やす対象では
なかったはず。それでも、華やかだった定子サロンの残照は未だ人々の
中から消えておらず、その噂を耳にするにつけ、控え目で活気に乏しい
彰子サロンに仕える身として、口惜しくてたまらない気持ちになったのかも
しれません。また、宮仕えを常に「憂きこと」と捉えている紫式部には、
宮仕えの場で、水を得た魚のように活き活きと振る舞う清少納言のような
タイプが、生理的に受け入れられなかったのかもしれません。
「枕草子」の中に、自分にはない才能を見出して嫉妬したのではないか、と
おっしゃっている方もありました。
いずれにせよ、これはまさに「千年の謎」なのです。
源氏を狼狽させる女三宮の出家
2015年4月22日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第164回)
望んでもいない密通の結果、女三宮は柏木の子を出産しました。
源氏はさりげなく振る舞ってはいますが、若君が疎まれているということは
女三宮にはわかり、この先もこのようなよそよそしい仕打ちが多くなるで
あろうことを考えると、女三宮はいっそ出家してしまいたい、という思いに
とらわれるようになりました。
源氏に出家の希望を申し出ても叶えられるはずもなく、産後弱り切っている
娘のことが案じられてならない朱雀院が、こっそりと女三宮を訪ねた来られた
機会に、女三宮は父院に頼んで、出家を遂げてしまいます。
朱雀院からすれば、自分の出家後、源氏にさえ任せておけば安心だと思い、
女三宮を降嫁させたにもかかわらず、源氏の愛情が紫の上第一に注がれている
ことを知り、その不満を直接源氏にぶつけることも出来ずにいらしたので、
今なら、病ゆえの出家と世間も納得してくれよう、と、娘の希望を受け入れて
しまわれたのでした。
以前の弱々し気な朱雀院からすると、ここは「男は弱し、されど父は強し」の感が
あります。
一番うろたえているのは源氏です。「憂しとおぼすかたも忘れて」(いやなことだと
思っておられる柏木との密通を咎める気持ちも忘れて)しまう程取り乱して、
女三宮に翻意を促されますが、女三宮は「頭ふりて、いとつらうのたまふとおぼしたり」
(首を横に振って、ずいぶん思いやりのないことをおっしゃるものだとお思いでした)。
この無言の静かな抵抗に、女三宮の「この人は私のことなど何もわかってはいない」
という思いが見えるようです。
そこでやっと源氏も、自分が女三宮をここまで追い詰めていたのか、と気づくのですが、
時すでに遅し、でした。
「国宝源氏物語絵巻・柏木第一段」は、この場面を描いています。

左端の女三宮、中央の朱雀院、その下の源氏、皆涙しながらも、
その視線は別の方向を見ており、それぞれの思いを象徴しているかの
ようです。また、几帳や畳の縁などの線も、斜線が交錯する不安定な
形で描かれており、三者の心の乱れを暗示していると言われています。
次回は柏木が夕霧に遺言をする「国宝源氏物語絵巻・柏木第二段」の
ところを読みますので、また絵巻の絵と共にUPしたいと思います。
望んでもいない密通の結果、女三宮は柏木の子を出産しました。
源氏はさりげなく振る舞ってはいますが、若君が疎まれているということは
女三宮にはわかり、この先もこのようなよそよそしい仕打ちが多くなるで
あろうことを考えると、女三宮はいっそ出家してしまいたい、という思いに
とらわれるようになりました。
源氏に出家の希望を申し出ても叶えられるはずもなく、産後弱り切っている
娘のことが案じられてならない朱雀院が、こっそりと女三宮を訪ねた来られた
機会に、女三宮は父院に頼んで、出家を遂げてしまいます。
朱雀院からすれば、自分の出家後、源氏にさえ任せておけば安心だと思い、
女三宮を降嫁させたにもかかわらず、源氏の愛情が紫の上第一に注がれている
ことを知り、その不満を直接源氏にぶつけることも出来ずにいらしたので、
今なら、病ゆえの出家と世間も納得してくれよう、と、娘の希望を受け入れて
しまわれたのでした。
以前の弱々し気な朱雀院からすると、ここは「男は弱し、されど父は強し」の感が
あります。
一番うろたえているのは源氏です。「憂しとおぼすかたも忘れて」(いやなことだと
思っておられる柏木との密通を咎める気持ちも忘れて)しまう程取り乱して、
女三宮に翻意を促されますが、女三宮は「頭ふりて、いとつらうのたまふとおぼしたり」
(首を横に振って、ずいぶん思いやりのないことをおっしゃるものだとお思いでした)。
この無言の静かな抵抗に、女三宮の「この人は私のことなど何もわかってはいない」
という思いが見えるようです。
そこでやっと源氏も、自分が女三宮をここまで追い詰めていたのか、と気づくのですが、
時すでに遅し、でした。
「国宝源氏物語絵巻・柏木第一段」は、この場面を描いています。

左端の女三宮、中央の朱雀院、その下の源氏、皆涙しながらも、
その視線は別の方向を見ており、それぞれの思いを象徴しているかの
ようです。また、几帳や畳の縁などの線も、斜線が交錯する不安定な
形で描かれており、三者の心の乱れを暗示していると言われています。
次回は柏木が夕霧に遺言をする「国宝源氏物語絵巻・柏木第二段」の
ところを読みますので、また絵巻の絵と共にUPしたいと思います。
「源氏物語」のあらすじ…第二帖「帚木」(その1)
「源氏物語のかなり詳しいあらすじ」は今回から第二帖「帚木」の巻です。
プロローグから「雨夜の品定め」の前半をご紹介しております。
↑
色文字をクリックしてください
左馬頭の語る「夫婦関係を円満に続けるコツ」などには、現代でも通用する
ノウハウ本的な面白さがあります。
プロローグから「雨夜の品定め」の前半をご紹介しております。
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左馬頭の語る「夫婦関係を円満に続けるコツ」などには、現代でも通用する
ノウハウ本的な面白さがあります。
斎院サロンに勝てない口惜しさ
2015年4月17日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第10回)
前回に引き続いて「紫式部日記」の「消息文」の箇所を読みました。
たまたま弟の惟規から、彼と恋人関係にあった斎院に仕える中将の君の
手紙をこっそりと見せて貰った紫式部は、そこに綴られている斎院サロンの
自慢に憤りを覚え、風流だけを楽しんでいられる斎院側と、人の出入りも激しく、
のんびりとしていられない中宮方との環境の違いも考慮せず、中将の君が
得意気になっていることに厳しく言及しています。
ただ、そうしたことを考慮したとしても、中宮(彰子)のサロンの、活気や風情に
乏しい現状も認めざるを得ず、嘗て、清少納言ら活き活きとした女房たちが、
定子中宮のサロンを華やかに彩る存在であったことを思うと、紫式部の歯ぎしりが
聞こえて来そうな気もします。
この時の斎院は村上天皇の皇女・選子内親王。本来は斎院も天皇一代毎に
交替することになっていたのですが、伊勢の斎宮ほど厳格ではなく、選子内親王
は、なんと円融・花山・一条・三条・後一条の天皇五代に渡って、57年間も斎院を
務めました。よって「大斎院」と言われるようになったのです。
斎院、斎宮というのは、もともとは賀茂と伊勢に奉仕する斎王の住まいを指して
いたのですが、どちらも「斎王」では区別し難いので、賀茂の斎王を「斎院」、
伊勢の斎王を「斎宮」と呼ぶようになりました。ですから、今でも「葵祭」の斎院役
や、野宮の「斎王行列」の斎宮役の女性のことは、どちらも「斎王代」と称して
います。
余談になりますが、斎院制度は、平城上皇が弟の嵯峨天皇と対立して、
平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は山城の国の鎮守の神・
賀茂大神に対し「我が方に利あらば皇女を阿礼少女〈あれおとめ〉(=賀茂神社の
神迎えの儀式に奉仕する女性の意)として捧げる」と祈願し、弘仁元年(810年)、
「薬子の変」で勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが
始まりであると言われています。
第35代斎院礼子内親王(後鳥羽天皇皇女)が病の為、建暦2年(1212年)に
退下した後、承久の乱の混乱と財政困難により、斎院制度は終焉を迎えました。

紫野の斎院があったとされる現在の「櫟谷七野神社」
前回に引き続いて「紫式部日記」の「消息文」の箇所を読みました。
たまたま弟の惟規から、彼と恋人関係にあった斎院に仕える中将の君の
手紙をこっそりと見せて貰った紫式部は、そこに綴られている斎院サロンの
自慢に憤りを覚え、風流だけを楽しんでいられる斎院側と、人の出入りも激しく、
のんびりとしていられない中宮方との環境の違いも考慮せず、中将の君が
得意気になっていることに厳しく言及しています。
ただ、そうしたことを考慮したとしても、中宮(彰子)のサロンの、活気や風情に
乏しい現状も認めざるを得ず、嘗て、清少納言ら活き活きとした女房たちが、
定子中宮のサロンを華やかに彩る存在であったことを思うと、紫式部の歯ぎしりが
聞こえて来そうな気もします。
この時の斎院は村上天皇の皇女・選子内親王。本来は斎院も天皇一代毎に
交替することになっていたのですが、伊勢の斎宮ほど厳格ではなく、選子内親王
は、なんと円融・花山・一条・三条・後一条の天皇五代に渡って、57年間も斎院を
務めました。よって「大斎院」と言われるようになったのです。
斎院、斎宮というのは、もともとは賀茂と伊勢に奉仕する斎王の住まいを指して
いたのですが、どちらも「斎王」では区別し難いので、賀茂の斎王を「斎院」、
伊勢の斎王を「斎宮」と呼ぶようになりました。ですから、今でも「葵祭」の斎院役
や、野宮の「斎王行列」の斎宮役の女性のことは、どちらも「斎王代」と称して
います。
余談になりますが、斎院制度は、平城上皇が弟の嵯峨天皇と対立して、
平安京から平城京へ都を戻そうとした際、嵯峨天皇は山城の国の鎮守の神・
賀茂大神に対し「我が方に利あらば皇女を阿礼少女〈あれおとめ〉(=賀茂神社の
神迎えの儀式に奉仕する女性の意)として捧げる」と祈願し、弘仁元年(810年)、
「薬子の変」で勝利した後、誓いどおりに娘の有智子内親王を斎王としたのが
始まりであると言われています。
第35代斎院礼子内親王(後鳥羽天皇皇女)が病の為、建暦2年(1212年)に
退下した後、承久の乱の混乱と財政困難により、斎院制度は終焉を迎えました。

紫野の斎院があったとされる現在の「櫟谷七野神社」
雲居雁、夕霧の手紙を奪う
2015年4月11日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第112回)
昨日の「溝の口」クラスの「野分」の巻では、まだまだ初な15歳の夕霧でしたが、
「夕霧」の巻ではすでに29歳。当時としてはもう中年の域に達しています。
大納言兼左大将の立派な公卿です。
柏木が亡くなって足掛け3年、夕霧は物心両面から、未亡人の落葉宮と、その母
である一条御息所を支えて、信頼をかち得ていましたが、落葉宮への恋慕の情も
抑え難いものになって来ておりました。
折から、御息所が物の怪に苦しまれ、小野の山荘に移られたので、8月の中旬、
夕霧はお見舞いに出掛けました。
小野の山里の秋の風情も手伝って、ついに夕霧は落葉宮の部屋に入り込み、
切々と思いを訴えましたが、結局は何事もないまま一夜を過ごし、早朝に帰って
行ったのでした。
その姿を、御息所の病平癒の加持祈祷に携わっている僧に見られたことで、
夕霧の朝帰りは御息所の知るところとなってしまいました。
たとえ落葉宮が潔白であろうとも、世間に浮名が流れてしまうことは必至で、
それならば、いっそ夕霧を正式に婿に迎えるほうがよいのではないか、と、
御息所が内心折れる気持ちになっておられたところに、夕霧からの手紙が
届きます。
男が三日間、続けて通って来て初めて結婚が成立する時代にあって、二日目の
今夜、手紙だけで自身は来る様子もないのに、御息所はショックを受けながらも、
病のため、もうしっかりと筆も持てない身体に鞭打ち、夕霧に真意を質す手紙を
お書きになりました。
夜に入ってこの手紙を受け取った夕霧は、灯りを引き寄せ、ふらふらとした筆跡の
判読しずらい御息所の手紙を読もうとしたところ、落葉宮からの恋文と勘違いした
雲居雁が、背後から忍び寄って手紙を奪い取ってしまいます。
「国宝源氏物語絵巻・夕霧」に描かれている場面です。

雲居雁が隠してしまった手紙がようやく見つかったのは、翌日の日暮れ時でした。
散々思い余られた末にお書きになった手紙と見受けられるだけに、昨夜の音沙汰
なしを、御息所がどんなお気持ちで過ごされたかと思うと、夕霧は悔やんでも悔やみ
きれません。
御息所は、自分を婿として認めてもよいというご意向のようだし、このまま小野へ直行
すれば、落葉宮と結婚の運びになるかもしれない、と考えた夕霧でしたが、そうなるには
今日は日が良くないのでした。「坎日」〈かんにち〉と言って、陰陽道で総てが凶とされる
日だったのです。
そこで先ずは、「先夜は確かにそちらにお伺いはしましたが、決して落葉宮とかりそめの
契りなど結んではおりません。ですから、昨夜私が伺わなかったからと言って、一方的に
お咎めになるのもあんまりではございませんか。」と、理に適った釈明の手紙を認め、
腹心の部下を駿馬に乗せて、小野の里へと遣わされたのでした。
今でも一般的に仏滅には結婚式を避ける傾向がありますが、几帳面な夕霧のこととて、
「坎日」の禁を冒すまでの勇気は持ち合わせず(ここではその勇気がなくちゃいけない
ところだったんですけどねぇ)、結局はこれが更なる誤解を生み、取り返しのつかない
結果を招くことになるのです。
昨日の「溝の口」クラスの「野分」の巻では、まだまだ初な15歳の夕霧でしたが、
「夕霧」の巻ではすでに29歳。当時としてはもう中年の域に達しています。
大納言兼左大将の立派な公卿です。
柏木が亡くなって足掛け3年、夕霧は物心両面から、未亡人の落葉宮と、その母
である一条御息所を支えて、信頼をかち得ていましたが、落葉宮への恋慕の情も
抑え難いものになって来ておりました。
折から、御息所が物の怪に苦しまれ、小野の山荘に移られたので、8月の中旬、
夕霧はお見舞いに出掛けました。
小野の山里の秋の風情も手伝って、ついに夕霧は落葉宮の部屋に入り込み、
切々と思いを訴えましたが、結局は何事もないまま一夜を過ごし、早朝に帰って
行ったのでした。
その姿を、御息所の病平癒の加持祈祷に携わっている僧に見られたことで、
夕霧の朝帰りは御息所の知るところとなってしまいました。
たとえ落葉宮が潔白であろうとも、世間に浮名が流れてしまうことは必至で、
それならば、いっそ夕霧を正式に婿に迎えるほうがよいのではないか、と、
御息所が内心折れる気持ちになっておられたところに、夕霧からの手紙が
届きます。
男が三日間、続けて通って来て初めて結婚が成立する時代にあって、二日目の
今夜、手紙だけで自身は来る様子もないのに、御息所はショックを受けながらも、
病のため、もうしっかりと筆も持てない身体に鞭打ち、夕霧に真意を質す手紙を
お書きになりました。
夜に入ってこの手紙を受け取った夕霧は、灯りを引き寄せ、ふらふらとした筆跡の
判読しずらい御息所の手紙を読もうとしたところ、落葉宮からの恋文と勘違いした
雲居雁が、背後から忍び寄って手紙を奪い取ってしまいます。
「国宝源氏物語絵巻・夕霧」に描かれている場面です。

雲居雁が隠してしまった手紙がようやく見つかったのは、翌日の日暮れ時でした。
散々思い余られた末にお書きになった手紙と見受けられるだけに、昨夜の音沙汰
なしを、御息所がどんなお気持ちで過ごされたかと思うと、夕霧は悔やんでも悔やみ
きれません。
御息所は、自分を婿として認めてもよいというご意向のようだし、このまま小野へ直行
すれば、落葉宮と結婚の運びになるかもしれない、と考えた夕霧でしたが、そうなるには
今日は日が良くないのでした。「坎日」〈かんにち〉と言って、陰陽道で総てが凶とされる
日だったのです。
そこで先ずは、「先夜は確かにそちらにお伺いはしましたが、決して落葉宮とかりそめの
契りなど結んではおりません。ですから、昨夜私が伺わなかったからと言って、一方的に
お咎めになるのもあんまりではございませんか。」と、理に適った釈明の手紙を認め、
腹心の部下を駿馬に乗せて、小野の里へと遣わされたのでした。
今でも一般的に仏滅には結婚式を避ける傾向がありますが、几帳面な夕霧のこととて、
「坎日」の禁を冒すまでの勇気は持ち合わせず(ここではその勇気がなくちゃいけない
ところだったんですけどねぇ)、結局はこれが更なる誤解を生み、取り返しのつかない
結果を招くことになるのです。
「えっ!父娘でこれってあり?」
2015年4月10日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第82回)
前回に引き続き、第28帖「野分」の巻を講読しました。
「野分」の翌日、源氏は夕霧を供に、時計回りに六条院の女性たちを
見舞います。当時は、台風や雷雨などの後には、父親や息子、兄弟は、
娘や母親、姉妹たちを見舞うのが風習となっていました。源氏と朧月夜の
密会が露見したのも、雷雨の翌朝、右大臣が娘の朧月夜の見舞いにやって
来たからでした。
夕霧は玉鬘がまだ内大臣(もとの頭中将)の実の娘であることを知らず、
源氏の娘、即ち自分の姉だと思い込んでいます。姉弟といっても、滅多に
顔など見る機会のない時代です。美しいと評判の姉の姿を見てみたいと
思っていただけに、源氏が玉鬘に親しげに話しかけておられる部屋の中を、
そっと覗いてみます。
そこで夕霧の目に飛び込んできた光景は、想定外の二人の様子でした。
「あやしのわざや、親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかはと、
目とまりぬ。」(えっ、何これ!たとえ親子でも、こんなに懐に抱かれるほどに
近づいていいものであろうか、と目に留まった。)
さらに源氏が引き寄せると、玉鬘は迷惑そうな素振りは見せるものの、さして
嫌がるふうでもなく、源氏に身体を預けるので、「一体、これはどうなってるんだ!
娘と言っても、生まれた時から手許に置いて育てたわけでもなく、長年離れて
暮らしていたのだから、こんな色めいた気持ちにもなるのだろうか」と想像を巡らし、
そのような分析をしている自分までが恥ずかしく思える夕霧でした。
気になる玉鬘の容貌ですが、夕霧は「八重山吹の咲き乱れたる盛り」と譬えています。
おもしろいのは、源氏から見た玉鬘の唯一の欠点で、「まみのあまりわららかなる」
とあります。「そのほかは、つゆ難つくべうもあらず」(その他には、全く非の打ち所
がない)玉鬘なのですが…。
「わららか〈笑らか〉なる目」って、どんな目なのでしょうか?テキストに使っている
「日本古典集成本」では「目もとがほがらかすぎる」と訳してあります。
「ほがらかすぎる目」というのも分かり難いのですが、これがちょっと上品さを
妨げているというのですから、おそらく「ぱっちりとした大きな目」ということでは
ないかと思われます。
来月は次の「行幸」の巻に入ります。
前回に引き続き、第28帖「野分」の巻を講読しました。
「野分」の翌日、源氏は夕霧を供に、時計回りに六条院の女性たちを
見舞います。当時は、台風や雷雨などの後には、父親や息子、兄弟は、
娘や母親、姉妹たちを見舞うのが風習となっていました。源氏と朧月夜の
密会が露見したのも、雷雨の翌朝、右大臣が娘の朧月夜の見舞いにやって
来たからでした。
夕霧は玉鬘がまだ内大臣(もとの頭中将)の実の娘であることを知らず、
源氏の娘、即ち自分の姉だと思い込んでいます。姉弟といっても、滅多に
顔など見る機会のない時代です。美しいと評判の姉の姿を見てみたいと
思っていただけに、源氏が玉鬘に親しげに話しかけておられる部屋の中を、
そっと覗いてみます。
そこで夕霧の目に飛び込んできた光景は、想定外の二人の様子でした。
「あやしのわざや、親子と聞こえながら、かく懐離れず、もの近かべきほどかはと、
目とまりぬ。」(えっ、何これ!たとえ親子でも、こんなに懐に抱かれるほどに
近づいていいものであろうか、と目に留まった。)
さらに源氏が引き寄せると、玉鬘は迷惑そうな素振りは見せるものの、さして
嫌がるふうでもなく、源氏に身体を預けるので、「一体、これはどうなってるんだ!
娘と言っても、生まれた時から手許に置いて育てたわけでもなく、長年離れて
暮らしていたのだから、こんな色めいた気持ちにもなるのだろうか」と想像を巡らし、
そのような分析をしている自分までが恥ずかしく思える夕霧でした。
気になる玉鬘の容貌ですが、夕霧は「八重山吹の咲き乱れたる盛り」と譬えています。
おもしろいのは、源氏から見た玉鬘の唯一の欠点で、「まみのあまりわららかなる」
とあります。「そのほかは、つゆ難つくべうもあらず」(その他には、全く非の打ち所
がない)玉鬘なのですが…。
「わららか〈笑らか〉なる目」って、どんな目なのでしょうか?テキストに使っている
「日本古典集成本」では「目もとがほがらかすぎる」と訳してあります。
「ほがらかすぎる目」というのも分かり難いのですが、これがちょっと上品さを
妨げているというのですから、おそらく「ぱっちりとした大きな目」ということでは
ないかと思われます。
来月は次の「行幸」の巻に入ります。
今日の一首(3)
2015年4月8日(水) 湘南台「百人一首」(第7回)
「寒の戻り」というのでしょうか、昨日にも増して寒い一日となり、
雪までちらつきました。
7回目となった湘南台の「百人一首」、今回は21番の「素性法師」
~24番の「菅家」までの四首を読みました。
ところが、「今日の一首」を選ぶにあたり、先日の「溝の口」の時のような
季節にぴったりの歌が一首もありません。秋の季節を詠んだ歌ばかり
なので悩んでしまいましたが、先ずは23番の歌を取り上げて、そこから
春の歌の話に繋いで行きたい、と思います。
月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
(二十三番 大江千里)

(月を見ると心が千々に乱れて物悲しくなることよ。
私一人に訪れた秋というわけでもないのに)
大江千里と書くと、「おおえせんり」というミュージシャンを思い浮かべる
方が多いと思いますが、こちらは「おおえのちさと」と読み、両者の間には
何の関係もありません。千里は、「今日の一首(2)」でご紹介した大江匡房と
同じ氏族で、匡房は千里の弟・千古の子孫になります。
大江千里の和歌の特徴は、漢詩からの翻案和歌ということです。
この歌も、「白氏文集」の「燕子楼」という漢詩の中の、
「燕子楼中霜月の夜 秋来たりて只一人の為に長し」という句を
下地にして詠まれた歌だと言われています。
「句題和歌」という、千里が宇多天皇に献上した120首からなる家集
があるのですが、これはすべて漢詩を翻案した和歌集です。
「源氏物語」の引き歌として用いられ、右大臣家の六の君の呼称にも
なっている「朧月夜」の歌もその中の一首で、朧月夜の君がこの歌を
口ずさみながら登場してくる場面は「花宴」の巻で最も絵に描かれて
いる場面です。

「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜に如くものぞなき」(照るわけでも
なく、曇ってしまうでもない春の夜の朧月夜に勝るものはないことですよ)
これも白楽天の漢詩の一句「不明不暗朧朧月」(明ならず暗ならず朧朧の月)
を翻案化した歌なのです。「源氏物語」では「朧月夜に似るものぞなき」となって
いますが、これは、「如くものぞなき」では漢文口調で、女性が口ずさむには
相応しくないとして、紫式部が「似るものぞなき」と改めたのだ、とするのが
一般的な説です。
「寒の戻り」というのでしょうか、昨日にも増して寒い一日となり、
雪までちらつきました。
7回目となった湘南台の「百人一首」、今回は21番の「素性法師」
~24番の「菅家」までの四首を読みました。
ところが、「今日の一首」を選ぶにあたり、先日の「溝の口」の時のような
季節にぴったりの歌が一首もありません。秋の季節を詠んだ歌ばかり
なので悩んでしまいましたが、先ずは23番の歌を取り上げて、そこから
春の歌の話に繋いで行きたい、と思います。
月見ればちぢにものこそ悲しけれわが身ひとつの秋にはあらねど
(二十三番 大江千里)

(月を見ると心が千々に乱れて物悲しくなることよ。
私一人に訪れた秋というわけでもないのに)
大江千里と書くと、「おおえせんり」というミュージシャンを思い浮かべる
方が多いと思いますが、こちらは「おおえのちさと」と読み、両者の間には
何の関係もありません。千里は、「今日の一首(2)」でご紹介した大江匡房と
同じ氏族で、匡房は千里の弟・千古の子孫になります。
大江千里の和歌の特徴は、漢詩からの翻案和歌ということです。
この歌も、「白氏文集」の「燕子楼」という漢詩の中の、
「燕子楼中霜月の夜 秋来たりて只一人の為に長し」という句を
下地にして詠まれた歌だと言われています。
「句題和歌」という、千里が宇多天皇に献上した120首からなる家集
があるのですが、これはすべて漢詩を翻案した和歌集です。
「源氏物語」の引き歌として用いられ、右大臣家の六の君の呼称にも
なっている「朧月夜」の歌もその中の一首で、朧月夜の君がこの歌を
口ずさみながら登場してくる場面は「花宴」の巻で最も絵に描かれて
いる場面です。

「照りもせず曇りも果てぬ春の夜の朧月夜に如くものぞなき」(照るわけでも
なく、曇ってしまうでもない春の夜の朧月夜に勝るものはないことですよ)
これも白楽天の漢詩の一句「不明不暗朧朧月」(明ならず暗ならず朧朧の月)
を翻案化した歌なのです。「源氏物語」では「朧月夜に似るものぞなき」となって
いますが、これは、「如くものぞなき」では漢文口調で、女性が口ずさむには
相応しくないとして、紫式部が「似るものぞなき」と改めたのだ、とするのが
一般的な説です。
源氏もタジタジ ー恐るべし、妻の直感!ー
2015年4月7日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(統合第39回、通算第89回)
初夏のような昨日の陽気から一転、冷たい雨の降る一日となりました。
このブログも立ち上げて間もなく1ヶ月、今日のクラスで、講読会の記録も
一巡したことになります。
高座渋谷の「源氏物語に親しむ会」は、鶴間のクラスと湘南台の
火曜日クラスが2012年の1月に統合し、中間地点の高座渋谷駅前
の学習センターで例会を持つようになったクラスです。
このクラスの特色は、原文を全員で声を揃えて読むのではなく、予め
読む箇所を割り振っておいて、順番に一人づつ、読んでいることです。
皆様、とても上手にお読みになられます。
さて、今日の講読会ですが、第二十四帖「胡蝶」の巻の後半を読みました。
「胡蝶」の巻の前半は源氏36歳の晩春、池に「龍頭鷁首」〈りょうとうげきしゅ〉
の舟を浮かべて春の町(女主人・紫の上〉と秋の町(女主人・秋好中宮)の
交歓の様子が、まるで絵巻のように綴られていますが、後半は六条院に
引き取られて半年近く経ち、次第に洗練されて生来の美しさに磨きがかかり、
貴公子たちの注目の的になってきた玉鬘に、養父の立場にある源氏が、
ただならぬ思いを深めて行く過程を描いています。
玉鬘を愛しく思う余り、源氏はつい、紫の上に玉鬘のことを褒めて聞かせて
しまいます。紫の上は、源氏がこれぞ、と思う女性に恋を仕掛けずには
いられない性格を百も承知なので、ピーンと来て、「あなたの本心も見抜けなくて、
あなたを頼り切っていらっしゃるのがお気の毒なこと。」と嫌味を言い、さらには
「あなたの女癖には私も随分悩まされて来ましたもの。」と、冷笑を浮かべて
言うので、源氏は「あな心疾〈こころと〉」(わっ、なんて察しがいいんだ!)と思い、
これ以上玉鬘のことを話しているとボロが出そうなので、「のたまひさして」
(話を途中で切り上げて)しまわれたのでした。
オールマイティーに見える源氏ですが、所々に紫の上に対する恐妻家ぶりが
窺われ、そんな時は千年前も、今も、女性読者はくすっと笑うのだと思います。
初夏のような昨日の陽気から一転、冷たい雨の降る一日となりました。
このブログも立ち上げて間もなく1ヶ月、今日のクラスで、講読会の記録も
一巡したことになります。
高座渋谷の「源氏物語に親しむ会」は、鶴間のクラスと湘南台の
火曜日クラスが2012年の1月に統合し、中間地点の高座渋谷駅前
の学習センターで例会を持つようになったクラスです。
このクラスの特色は、原文を全員で声を揃えて読むのではなく、予め
読む箇所を割り振っておいて、順番に一人づつ、読んでいることです。
皆様、とても上手にお読みになられます。
さて、今日の講読会ですが、第二十四帖「胡蝶」の巻の後半を読みました。
「胡蝶」の巻の前半は源氏36歳の晩春、池に「龍頭鷁首」〈りょうとうげきしゅ〉
の舟を浮かべて春の町(女主人・紫の上〉と秋の町(女主人・秋好中宮)の
交歓の様子が、まるで絵巻のように綴られていますが、後半は六条院に
引き取られて半年近く経ち、次第に洗練されて生来の美しさに磨きがかかり、
貴公子たちの注目の的になってきた玉鬘に、養父の立場にある源氏が、
ただならぬ思いを深めて行く過程を描いています。
玉鬘を愛しく思う余り、源氏はつい、紫の上に玉鬘のことを褒めて聞かせて
しまいます。紫の上は、源氏がこれぞ、と思う女性に恋を仕掛けずには
いられない性格を百も承知なので、ピーンと来て、「あなたの本心も見抜けなくて、
あなたを頼り切っていらっしゃるのがお気の毒なこと。」と嫌味を言い、さらには
「あなたの女癖には私も随分悩まされて来ましたもの。」と、冷笑を浮かべて
言うので、源氏は「あな心疾〈こころと〉」(わっ、なんて察しがいいんだ!)と思い、
これ以上玉鬘のことを話しているとボロが出そうなので、「のたまひさして」
(話を途中で切り上げて)しまわれたのでした。
オールマイティーに見える源氏ですが、所々に紫の上に対する恐妻家ぶりが
窺われ、そんな時は千年前も、今も、女性読者はくすっと笑うのだと思います。
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