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「源氏物語のあらすじ」…第三帖「空蝉」(その2)

「源氏物語」のかなり詳しいあらすじ「空蝉」の巻の後半です。

空蝉に逃げられて口惜しい思いをしている源氏と、空蝉の切ない
女心が書かれています。
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今日の一首(5)

2015年5月29日(金) 溝の口「百人一首」(第21回)

ここ数日の真夏のような暑さも収まり、久しぶりに雨も降りました。
恵の雨ですね。

今日の「百人一首」は、77番の崇徳院の歌から、80番の待賢門院堀河
の歌までを取り上げました。

テキストには載っているのですが、紹介するのを忘れた落語「崇徳院」の
話を書こうかな、とも思いましたが、これは有名な落語でご存知の方も
多いでしょうから、やはり、資料の紙面に書ききれなかったエピソードの
ほうをお伝えしたいと思います。

「今日の一首」はこの歌になります。

ながからむ心もしらず黒髪の乱れてけさはものをこそ思へ
                    (八十番 待賢門院堀河)
     待賢門院堀河
(あなたの愛が長続きするかどうかわからなくて、私の黒髪は乱れ、
心も乱れ、あなたがお帰りになってしまった今朝は、もの思いに
沈んでいるのです)

堀河は待賢門院璋子に仕えた女流歌人ですが、妹も上西門院統子に仕えて、
上西門院兵衛と呼ばれた著名な歌人です。上西門院統子は鳥羽天皇と
待賢門院璋子との間に生まれた皇女ですので、母と娘に、それぞれ姉と妹が
仕えたことになります。

この歌人姉妹が連歌を詠み、それが「菟玖波集」に採られています。

油綿をさし油にしたりけるがいと香しく匂ひければ

ともし火はたき物にこそ似たりけれ (上西門院兵衛)
(灯火は、神仏に祈りを捧げる時の火に似ておりますわね)

丁子(ちょうじ)かしらの香や匂ふらん(待賢門院堀河)
(灯心に財が増えるという丁子頭ができて、香りがしているのかしら?
祈り甲斐があるわね)

兵衛の上句「たき物」は、神に祈るための篝火や、護摩の火を意味しています。
堀河の下句「丁子かしら(頭)」は、灯心の燃えさしの頭にできる、チョウジの実
のような丸い塊で、これができると金持ちになると言われていました。

妹の上の句に、何と機知に富んだ下の句を付けた堀河でしょう。

堀河が活躍したのは、言わば貴族中心社会の崩壊前夜で、この人が150年位
遡った貴族社会の最盛期(清少納言、紫式部、和泉式部らの時代)に生きていたら、
後宮サロンでどのような個性を花開かせたかしら、と思い巡らしてみたくなるのは、
私だけでしょうか。


「源氏物語」のあらすじ…第三帖「空蝉」(その1)

「空蝉」の巻は、「帚木」の巻をそのまま受けて、話は続いています。

三たび紀伊の守邸を訪れた源氏は、空蝉と軒端の荻を垣間見し、
夜になって空蝉のもとに忍び込みますが、いち早く察知した空蝉に
逃げられてしまうところまで。
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源氏の妙案

2015年5月25日(月) 溝の口「湖月会」(第83回)

4年前の東日本大震災が発生した時も溝の口で「源氏物語」を読んでいたので、
今日もグラグラっときた時は、「すわっ、またなのか!」と思いましたが、幸い
たいしたことなくて済み、ホッとしました。帰宅時の電車のダイヤはまだ乱れて
いましたが…。

5月8日の会と同様、今日からこちらも「行幸」の巻に入りました。

玉鬘が源氏の六条院に引き取られて1年が経ちました。源氏の思惑通り、
玉鬘には貴公子たちが熱心に言い寄り、それを楽しみながらも一方では
自分もまた玉鬘へのプロポーズ合戦に参戦してしまっている源氏でした。

源氏は養父と言う立場で玉鬘を妻の一人に加えるとなると、世間体も悪く、
事実を知った内大臣(玉鬘の実父)から大袈裟に婿扱いされるのも困ると
思い、かと言って、全く手の届かなくなる他人の妻にしてしまうのも口惜しく、
様々に思い乱れた挙句、浮上してきたのが玉鬘の尚侍就任案でした。

尚侍というのは、内侍所の長官で、言わば公務員ですが、「朧月夜」のように、
帝の寵愛を受けることも多く、当然、美貌の玉鬘のこととて、その可能性は
十分にあります。でも、源氏は彼女をキャリアウーマンとして出仕させながら、
密かに自分のものにしよう、という不埒な計画を巡らし始めていたのです。

12月に入って、冷泉帝は大原野に鷹狩の行幸をなさいました。その行列を
みようと、世間の人が大騒ぎをする中、源氏は玉鬘も見物に行かせました。
いくら源氏が計画したところで、肝心の玉鬘がその気にならなければ、事は
運びません。

源氏の目論見通り、玉鬘は、この上なく立派で、誰よりも美しい帝に、目が
釘付けになります。玉鬘も尚侍としての出仕の方向へと「思ひ寄りたまうける」
(お気持ちが傾かれた)のでした。

やがて、玉鬘は尚侍に任命されますが、その先には意外や意外な結末が
待ち受けていて、玉鬘の求婚譚はあっけなく終焉を迎えることになります。

それが読者の前に明らかになるのは、さらに二帖先の「真木柱」まで待たねば
なりません(おしゃべりな私は待ちきれず、皆さまにはとっくにお話してしまって
いますが…反省)。


「藤原斉信」という人

2015年5月22日(金) 向河原「紫式部日記」の会(第11回)

先週(15日)の溝の口クラスと同じところを読みました。「消息文」の終わりと
「断簡」の前半です。

今日は「断簡」のほうに登場した「藤原斉信」という人について書いてみたいと
思います。

「斉信」を〈ただのぶ〉と即座に読める方は、かなりの平安文学(歴史)通(?)
ではないでしょうか。

藤原斉信は、藤原公任、藤原行成、源俊賢と共に一条朝の「四納言」と称された
有能な官吏の一人です。
寛弘5年(1008年)に中宮彰子が敦成親王(のちの後一条天皇)を出産した頃、
ちょうど彼は中宮職の長官「中宮大夫」を務めておりましたので、「紫式部日記」
でもしばしば登場してきます。

敦成親王の誕生を祝し、関係者には特別の加階(位階が上がること)があり、
「中宮大夫」の斉信も正二位となりました。中宮さまに御礼の啓上をするには
中宮付きの女房を介するのが作法でしたので、同じく加階した藤原実成と、
宮の内侍の局を訪ねて来ます。紫式部も同じ部屋にいて、素っ気ない応対を
しますが、この場面が「国宝紫式部日記絵巻」に残っています。

     紫式部日記絵巻
左側が斉信、右が実成。昔は奥にいる女性が紫式部、応対に出ているのが
宮の内侍、と言われていましたが、今は逆で、応対に出ているほうを紫式部
としています。2千円札の裏にも、「紫式部」と書かれています。

「断簡」に書かれている斉信は、ウイットに富んだダンディーぶりが発揮されており、
「枕草子」に度々描かれた姿を彷彿させるものがあります。

若い殿上人たちの舟遊びの舟に一人乗り込んだお爺さんの大蔵卿の姿を見て、
紫式部が「童男丱女舟中に老ゆ」(年若い男女が不老不死の蓬莱山を目指したが
たどり着けずに舟の中で年老いてしまった)という、「白氏文集」の一節を引いて
「舟のうちにや老いをばかこつらむ」(舟の中で、老いを嘆いているのでしょうか)
と言ったところ、斉信がそれを受けて「徐福文成誑誕多し」(徐福文成〈徐福も文成も
道士の名〉、彼らの話にはでたらめが多い)と、「白氏文集」の続きを口ずさんだ、と
いうものです。その斉信の声も姿も「こよなう今めかしく見ゆ」(この上なくモダンに
感じられました)と、書かれています。

「枕草子」では、斉信から、やはり白氏文集の「蘭省の花の時錦帳の下」(みんなは
華やかな中央官庁の錦のとばりのもとで楽しく過ごしていることだろう)という句が
届いて、「末は、いかにいかに」(このあとはどうだどうだ)と、要求された清少納言が、
ストレートに「廬山の雨の夜草庵の中」(私は一人廬山のふもとでこの雨の夜を草庵
の中で寂しく過ごしている)とは答えず、「草の庵を誰かたづねむ」(こんな草の庵を
いったい誰が訪ねてくれるでしょう)と、和歌の下の句の形で答えて斉信を唸らせた
話を始め、斉信との交流を示す数々のエピソードが紹介されています。

因みに、この「枕草子」の記事の時の斉信は29歳、「紫式部日記」の断簡を寛弘5年
とすると、こちらではすでに42歳となっています。

藤原斉信は、当時としては天寿を全うしたと言える69歳で亡くなりました。


柏木の死ー「泡の消え入るやうに」-

2015年5月20日(金) 湘南台「源氏物語を読む会」(第165回)

前回、このクラスは「国宝源氏物語絵巻」柏木第一段に描かれている
「女三宮」の出家の場面を読みましたが、今日は同じく絵巻の柏木第二段
に描かれている、柏木が夕霧に遺言をする場面を中心に読みました。

帝のお取り計らいで権大納言に昇進した柏木。そのお祝いに参上した夕霧に
柏木は最後の対面をし、後事を託します。

夕霧と柏木は従兄弟同士で、かつ義理の兄弟(夕霧の妻の雲居雁は柏木の妹)
という、父親たち(源氏と致仕大臣)と全く同じ関係で、幼い頃よりの無二の親友
でもありました。

柏木は、自分がここまで重篤になったのは、源氏との間に生じたちょっとした齟齬を
源氏がお許しくださらないと知り、それ以来、生きる気持ちも萎えてしまったのだ、と
語ります。「機会があれば、源氏にとりなして頂きたい。このお咎めが許されたなら、
あなたのおかげと感謝いたします」と苦しい息の下から言うので、夕霧はおそらく
女三宮のことであろうと推測はするものの、それを問い質すことは出来ませんでした。

さらに柏木は残される妻の女二宮(落葉の宮)のことを「ことに触れてとぶらひきこえ
たまへ」(折に触れて見舞ってやってください」と頼みます。真面目人間の夕霧です。
当然のこととして親友の頼みを引き受けますが、その先に待ち受けているもの、
おわかりですよね。「夕霧」巻講読中のクラスのブログに記している通りです。

「国宝源氏物語絵巻」柏木第二段です。
源氏絵(柏木・2)
危篤状態にあっても、貴族としてのたしなみを忘れず烏帽子をつけて臥せって
いる柏木。優しく包むような形で寄り添う夕霧。少しでも身体を起こそうとして
柏木が枕をそばだてているところなども、きちんと描かれています。

やがて柏木は「泡の消え入るやうにて亡せたまひぬ」(泡が消えて行くようにして
お亡くなりになった。)

「源氏物語」には四つの象徴的な「死」が語られています。

一つ目は「藤壺の死」。
「燈〈ともしび〉などの消え入るやうにて果てたまひぬれば…」(ともしびなどが消えて
行くように息をお引き取りになったので…」
母の記憶のない源氏にとって、母によく似ているといわれる藤壺は、永遠の憧れの
女性でした。いわば「ともしび」のような存在だったわけで、それが、すうーっと静かに
消えて行く様は、藤壺の死の象徴として実に相応しいと思われます。

二番目がこの「柏木の死」です。
泡の消え方というのは、ともしびなどよりも瞬時にしていっそう儚さを感じさせます。
また、テキストにも引き歌として紀友則の古今集の恋の歌二首が挙げられている
ように、泡は「浮く」ものなので、「憂く」と掛詞になり易く、恋の歌に多用されており、
恋に身を滅ぼして死んでいった柏木にはぴったりの象徴表現という気がいたします。

今日のブログは長くなってしまいましたので、残りの二つの死(紫の上と宇治の大君)
については、またの機会にいたします。


「鹿と扇と夕霧と」-源氏絵に描かれているものー

2015年5月16日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第113回)

前回は、落葉の宮の母・御息所からの手紙を雲居雁に取り上げられて
丸一日、何も出来ずに終わった後、ようやく手紙を見つけた夕霧が、
坎日を気にして出かけることなく、手紙だけを使者に持たせた、という
ところまでを読みました。今日はその続きです。

自分が恥も外聞も投げ捨てて夕霧に贈った手紙を無視されたと思い込んだ
御息所は、落葉の宮の身の不幸を嘆きつつ、息絶えてしまわれました(まだ
完全に亡くなられたのではなく、懸命に蘇生術なども行われています)。

そんな意識も消え失せようとしている時に、夕霧からの手紙が届きました。
御息所は、昨夜は何の音沙汰もなかったけれども、今夜は来て下さるかも
しれない、というかすかな期待が裏切られて、そのショックで本当に死んで
しまわれたのでした。

駆けつけた夕霧に、母を死に追いやった原因を作った人だと思う落葉の宮は
冷たく、それは月日が経っても変わることはありませんでした。

いくらお見舞いの手紙を差し上げても返事の一つも寄越してくれない落葉の宮に
ついにしびれを切らした夕霧は、こうなったら実力行使に及ぶしかない、と考え、
小野の里へと出向いたのでした。

いつぞやと同じ妻戸の傍に立ち、夕日の眩しさを遮るために扇をかざしている
夕霧の手の美しさ。「女こそかうはあらまほしけれ、それだにえあらぬをと、
見たてまつる。」(女こそこんなふうでありたいものね。でも、とってもこんなには
なれないわ、と女房たちは見申し上げている。)

「女にしたいようだ」というのは、男性の美しさに対する最大の褒め言葉だった
時代なのです。

この場面は「源氏絵」に多く描かれています。夕日に扇をかざす夕霧と、
山里の風物詩とも言える鹿を配する構図は、絵になり易かったのかも
しれません。
    源氏絵(夕霧②)    源氏絵(夕霧①) 
 左・土佐光吉・長次郎(桃山時代)  右・土佐光信(室町時代後期)

結局、この日も落葉の宮との対面は叶わず、夕霧はむなしく小野を後に
したのでした。


「日本紀の御局」だなんて、冗談じゃないわ!

2015年5月15日(金) 溝の口「古典文学に親しむ会」(第11回)

昨年の7月から読み始めた「紫式部日記」も終わりが近づいて来ました。
次回が最終回となります。

今日は「消息文」の最後のところと、「断簡」と呼ばれている、たった二つの
記事からなる部分の、一つ目を読みました。

「消息文」の中で、紫式部が、左衛門の内侍という人に中傷された、と
憤っています。

紫式部は、当然のことながら、子どもの頃からすっごくお利口で、父親が
弟に漢籍を教えているのを傍で聴いていて、弟がもたもたして答えられない
ところなども、すらすら言ってしまうので、「口惜しう、男子にてもたらぬこそ
幸なかりけれ」(ああ残念だ。この子が男の子でなかったのが、私の不幸と
いうものだよ」と、父は「つねになげかれはべりし」(いつも嘆いておられました)
という状態でした。「つねに」ですから、たまたまとか偶然というのではありません。

でも、当時は漢籍を学ぶのは男子のみで、女子には不用なものでした。
なまじ女が漢字など読めるとろくなことはない、と思われていた時代です。
ですから、紫式部は、宮仕えの場でも「出る杭は打たれる」のは嫌だとばかり、
無知を装っていました。

ところがです。「源氏物語」を人に読ませてお聴きになっていた一条天皇が
「この人は、日本紀をこそ読みたるべけれ。まことに才あるべし」(この人=
紫式部は、国史をちゃんと読んでるに違いない。本当に学識のある人のようだ)
とおっしゃったものですから、それを耳にした左衛門の内侍が「いみじうなむ才がる」
(すごく自分の学識を鼻にかけているのよ)と、紫式部のことを殿上人などに
言いふらしたあげく、「日本紀の御局」とあだ名をつけてくれたのですから、
紫式部、怒り心頭に発するのも無理からぬことだったかもしれません。

「このふるさとの女の前にてだにつつみはべるものを、さる所にて、才さかし出で
はべらむよ」(自分の召使いにだって、私は自分の学識をひけらかしたりしないのに、
どうして宮中でそんなことする?ありえないでしょう?)

紫式部も清少納言のように、「私って、帝からお褒めの言葉戴いちゃったぁ」と、
逆にみんなに吹聴できるような性格だったら、もっと楽しく宮仕えが出来たのでは
ないかと思われますが、そんな軽い性格では、おそらく「源氏物語」を生み出す
ことは無理だったでしょうね。


今日の一首(4)

2015年5月13日(水) 湘南台「百人一首」(第8回)

季節外れの台風が通り抜けた後、気温がグングン上昇して、
今日は真夏並みの暑さとなりました。先月の例会時との気温差は
15度以上でしょうね。1ヶ月でこんなにも違うのに驚きです。

今日の一首は紫式部の曾祖父にあたる中納言兼輔の歌です。

「みかの原わきて流るるいづみ川いつ見きとてか恋しかるらむ」
                       (二十七番・中納言兼輔)
     「27番のかるた
(みかの原を分けて流れているいづみ川、その「いづみ」ではないが、
あの人を「いつ見」た、というので、こんなにも恋しいのであろうか、
まだ一度もあったこともないのに…)

当時の貴族の恋は、まだ顔を見たこともない人に憧れるところから
始まります。人の噂、歌やその筆跡の良し悪し、漏れ聞いた琴の音、
などで、恋しい気持ちをエスカレートさせて行ったのです(稀には、
「垣間見」といって、運よく覗き見出来てしまうこともあったでしょうが)。

ですから、仲人口に乗せられて実際に逢ったら、とんでもない「末摘花」
のような相手だった、ということも、あそこまで極端ではないにしても、
珍しい話ではなかったと思われます。こういうのを「近劣り」と称して
います(逆に、政略結婚などで、期待もしていなかった相手が、思いの外
良かった場合は「近優り」)。

「みかの原」というのは、741年に聖武天皇が遷都して「山背恭仁京」と
名づけられたところです。その3年後には難波京への遷都が計画された
ものの、結局は745年にもとの平城京に戻ってしまいました。その後、
「恭仁京」跡は「山城国分寺」として利用され、今は七重塔が建っていた、
とされる大きな礎が残っているだけです。

この歌を詠んだ藤原兼輔は、鴨川堤に邸宅があったので、「堤中納言」と
呼ばれていました。今は紫式部の居宅跡として知られる「蘆山寺」(京都御苑
のすぐ東)がある辺り一帯と考えられています。

兼輔はここに一大サロンを形成して、紀貫之、凡河内躬恒ら、歌才はある
けれど身分の低い歌人たちのパトロンとなり、「古今集」時代の歌壇の発展に
寄与しました。

兼輔の歌として最も知られているのは「人の親の心は闇にあらねども
子を思ふ道にまどひぬるかな」(子を持つ親の心に分別がないわけでは
ありませんが、それでも子どものことを思うと、闇夜の道に迷ったかのように
うろたえてしまうものでございます)で、当時は「心の闇」と言えば「子を思う
親心」として、誰もが理解しておりました。

紫式部は自分の曾祖父だったからというわけではないと思いますが、
「源氏物語」の中に最多の26回、この歌を引き歌として使っています。

現在では残虐な少年犯罪などが起こると、ニュースキャスターが
「このような事件を起こしてしまった少年の心の闇とは、いったい
何だったのでしょうか。」と言ったりしているのを耳にします。

「心の闇」という言葉の意味も、時代と共に大きく変わったものです。


虚実まぜこぜの源氏の弁舌

2015年5月8日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第83回)

溝の口のクラスは、今月から第29帖の「行幸」に入りました。
「初音」から続いて来た、源氏36歳の六条院の一年の最終章です。

ここへ来ても玉鬘の処遇をどうしたものか、未だ源氏は決めかねています。
いずれにしても、先ずは玉鬘に「裳着」(女子の成人式)を挙げさせなければ、
事は次へと進みません。裳着を機会に、内大臣にも事実を告げようと思い、
内大臣に裳着の「腰結」(裳の紐を結ぶ役目で、これを務める人の身分が
高ければ高いほど、裳着を挙げる女子に箔がつく)の役を依頼しましたが、
大宮の病気を理由に、内大臣は断ってきました。夕霧と雲居雁の一件以来、
源氏と内大臣の間にはわだかまりが生じていたからでした。

仕方なく、源氏は大宮に仲介の労を取って頂くべく、大宮のお見舞いに
お出掛けになりました。

何もご存じない大宮に、ありのままを語るわけにも行かず、源氏は虚実まぜこぜの
巧みな弁舌を展開します。

「本来は内大臣がお世話をなさるべき娘を、思い違いをして私が引き取ったのですが、
本人がそうした間違い(源氏の娘ではない、ということ)を打ち明けてもくれなかった
ので、
私は子どもも少ないし、私の娘というのがたとえ口実であっても構わない、と
思ってたいして親身というわけでもなく
お世話をしておりますうちに、彼女のことが
帝のお耳に入り、帝が尚侍として出仕させて欲しい、とお望みになるので、それも
よかろうかと考え、本人に年齢の確認などをしましたところ、内大臣がお探しに
なるべき方だとわかったので、
内大臣にはっきりとお伝えしたいと思うのでございます。」
と、お話になりました。

で書いたところは、全部源氏の作り話です。

玉鬘が傍でこの話を聞いていたとしたら、何と思ったことでしょう。

でも結果的には、このおかげで、玉鬘が望み続けて来た親子の対面が実現すること
となるのです。


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