数え日となって
2015年12月29日(火)
今年もあと二日とちょっと。いよいよ残り少なくなりました。
皆さまはもう新年を迎えるご準備はお済みでしょうか。
年賀状、大掃除、おせち料理。毎年のことながら、あたふたと
しているうちに、時間はどんどん経っていく、というのが年末です。
それでも今年は、まだ良いほうです。今頃ブログを書こうか、と
いう気になっているのですから。
40代くらいまでは、台所の大掃除は2日で片付けていました。
それを60代となった今は、5日に分けてやっています。
2日の場合は1日に10時間以上動きっぱなしでした。
今そんなことをしたら、お正月に寝込むことは必定、
いやそれならまだしも、下手をすると年末に救急車騒ぎに
なりかねない、と自重しています。1日の仕事量は5時間まで、
陽が落ちる前に終える、など、スケジュールを立てて、それに
従ってやっています。
年賀状は全部で247枚書きました。これも分散して、今日、最後の
投函をしました。早めの方には元日に、遅い方でも三が日の間には
届くと思っています。
数の子の塩抜きをしたり、黒豆を水に漬けたり、干し椎茸を戻したり、
と、おせち料理の下準備も始まっています。
除夜の鐘を聴きつつ、まだおせち料理と格闘しているのが私の
大晦日のスタイルですが、カウントダウンが近づくとテレビをつけ、
「テレビ東京」にチャンネルを合わせます。今年のカウントダウン曲は
「ボレロ」で、ギエムが踊ると、電車の中吊り広告で見ました。
これは必見です。そうして新しい年を迎えることになるのでしょう。
このブログも3月にスタートしてから、これまでに105の記事を書き、
1493の拍手を頂戴しました。有難うございます。姉が、108記事書いて
除夜の鐘と同じ数にしたら、と助言してくれましたが、二つくらい煩悩が
残るのも私らしいかな、というところで、今年の筆を擱きたい(パソコンで
この表現はおかしい?)と思います。
どうぞ皆さま、良い御年をお迎えくださいませ。
今年もあと二日とちょっと。いよいよ残り少なくなりました。
皆さまはもう新年を迎えるご準備はお済みでしょうか。
年賀状、大掃除、おせち料理。毎年のことながら、あたふたと
しているうちに、時間はどんどん経っていく、というのが年末です。
それでも今年は、まだ良いほうです。今頃ブログを書こうか、と
いう気になっているのですから。
40代くらいまでは、台所の大掃除は2日で片付けていました。
それを60代となった今は、5日に分けてやっています。
2日の場合は1日に10時間以上動きっぱなしでした。
今そんなことをしたら、お正月に寝込むことは必定、
いやそれならまだしも、下手をすると年末に救急車騒ぎに
なりかねない、と自重しています。1日の仕事量は5時間まで、
陽が落ちる前に終える、など、スケジュールを立てて、それに
従ってやっています。
年賀状は全部で247枚書きました。これも分散して、今日、最後の
投函をしました。早めの方には元日に、遅い方でも三が日の間には
届くと思っています。
数の子の塩抜きをしたり、黒豆を水に漬けたり、干し椎茸を戻したり、
と、おせち料理の下準備も始まっています。
除夜の鐘を聴きつつ、まだおせち料理と格闘しているのが私の
大晦日のスタイルですが、カウントダウンが近づくとテレビをつけ、
「テレビ東京」にチャンネルを合わせます。今年のカウントダウン曲は
「ボレロ」で、ギエムが踊ると、電車の中吊り広告で見ました。
これは必見です。そうして新しい年を迎えることになるのでしょう。
このブログも3月にスタートしてから、これまでに105の記事を書き、
1493の拍手を頂戴しました。有難うございます。姉が、108記事書いて
除夜の鐘と同じ数にしたら、と助言してくれましたが、二つくらい煩悩が
残るのも私らしいかな、というところで、今年の筆を擱きたい(パソコンで
この表現はおかしい?)と思います。
どうぞ皆さま、良い御年をお迎えくださいませ。
スポンサーサイト
貴族らしからぬ卑しい行為
2015年12月18日(金) 溝の口「伊勢物語」(第6回)
今日の「伊勢物語」をもちまして、2015年の全講座を無事に(秋には
声が出なくなる風邪で、ご迷惑をおかけし、無事とは言い難いかも
しれませんが)終了いたしました。
ご参加くださった皆様、今年も有難うございました。
今回、「伊勢物語」は、38段から46段までを読みました。この半年で、
1/3強を読んでおりますので、来年中には読了となる予定です。
第39段は次のようなお話です。
淳和天皇の皇女・崇子内親王が亡くなられて、その野辺送りの夜、
隣りに住んでいた男が、女の牛車に同乗して、柩車の列の出て来るのを
待っていた時に、同様に見送りに来ていた源至(源融の甥・源順の祖父)が、
蛍を捕まえて女車に入れたので、女は慌てて消そうとし、男は至の行為を
非難する歌を詠みました。至も返歌をしましたが、このような遣り取りは、
葬送という厳粛であるべき場には似つかわしくないものでした。
平安時代の貴族が女車(女性の乗った牛車)に歌を詠みかけたりして
ナンパするのは珍しいことではありませんでしたが、御葬儀の見送りの
場で、女車に蛍を放ち、その姿を覗こうとする男の行為は、江戸時代の
絵師・俵屋宗達から見ても、凡そ貴族らしからぬ卑しい行為に思えたの
しょう。

この段が描かれた絵は多くないのですが、至が牛車の中から
蛍を放つ絵は、宗達のものだけです。後ろにぴったりと牛車を
着けて、前の牛車を覗きこむ至の顔は、実に下品な風貌に
描かれています。驚いて顔を隠そうとする女、慌てて蛍の光を
消そうとする男。貴族たちのドタバタ劇に我関せずで、前方を
向いて歩みを進めている従者の二人。宗達の皮肉な眼差しが
感じられる一枚です。
下の絵は、その源至の下品な風貌を拡大したものです。

今日の「伊勢物語」をもちまして、2015年の全講座を無事に(秋には
声が出なくなる風邪で、ご迷惑をおかけし、無事とは言い難いかも
しれませんが)終了いたしました。
ご参加くださった皆様、今年も有難うございました。
今回、「伊勢物語」は、38段から46段までを読みました。この半年で、
1/3強を読んでおりますので、来年中には読了となる予定です。
第39段は次のようなお話です。
淳和天皇の皇女・崇子内親王が亡くなられて、その野辺送りの夜、
隣りに住んでいた男が、女の牛車に同乗して、柩車の列の出て来るのを
待っていた時に、同様に見送りに来ていた源至(源融の甥・源順の祖父)が、
蛍を捕まえて女車に入れたので、女は慌てて消そうとし、男は至の行為を
非難する歌を詠みました。至も返歌をしましたが、このような遣り取りは、
葬送という厳粛であるべき場には似つかわしくないものでした。
平安時代の貴族が女車(女性の乗った牛車)に歌を詠みかけたりして
ナンパするのは珍しいことではありませんでしたが、御葬儀の見送りの
場で、女車に蛍を放ち、その姿を覗こうとする男の行為は、江戸時代の
絵師・俵屋宗達から見ても、凡そ貴族らしからぬ卑しい行為に思えたの
しょう。

この段が描かれた絵は多くないのですが、至が牛車の中から
蛍を放つ絵は、宗達のものだけです。後ろにぴったりと牛車を
着けて、前の牛車を覗きこむ至の顔は、実に下品な風貌に
描かれています。驚いて顔を隠そうとする女、慌てて蛍の光を
消そうとする男。貴族たちのドタバタ劇に我関せずで、前方を
向いて歩みを進めている従者の二人。宗達の皮肉な眼差しが
感じられる一枚です。
下の絵は、その源至の下品な風貌を拡大したものです。

噛み合わない思いー夕霧と落葉の宮ー
2015年12月16日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第172回)
明日からは、この季節らしい寒さがやってくるとのことですが、
今日までは暖かで、コートも薄めの物で十分でした。
湘南台クラスは今回から第39帖「夕霧」の巻に入りました。
「夕霧」の巻は、「柏木」の巻の終盤から「横笛」の巻にかけて
緩やかに進んでいた夕霧の落葉の宮に対する思いが、一気に加速し、
やがて、外堀から埋めるような形で、結ばれるまでの顛末が語られる
のですが、今日は、夕霧が落葉の宮の部屋に入り込みながらも、心が
噛み合わないまま、何もない一夜を過ごして帰って行ったところまでを
読みました。
柏木の死後、その遺言を守って誠実な訪れを欠かさず続けて来た夕霧は、
落葉の宮と、母・御息所の信頼を勝ち得ていました。これだけ誠意を示して
来たのだから、この恋も受け入れて貰えていいはずだ、というのが、夕霧の
言い分です。
一方の落葉の宮はそうではありません。皇女の身でありながら、柏木に降嫁
しましたが、柏木は女三宮しか眼中になかったので、愛されることのないまま、
早々と夫に先立たれてしまいました。結婚生活で残ったのは世間体の悪さだけ
だったのです。
父の朱雀院は既に出家の身、夫は亡くなってしまい、頼れるのは母の御息所
ただ一人という状況の中、その母が病に倒れて、そればかりが心配でならない
落葉の宮にとっては、夕霧の恋慕は迷惑以外の何物でもありませんでした。
これまで典型的な「まめ人」(堅物、真面目人間)として語られて来た夕霧には
そうした落葉の宮の心の機微が読めません。
夕霧は12歳で雲居雁と幼い恋をし、雲居雁の父・内大臣に引き裂かれて6年間
じっと耐え続けて、18歳でこの初恋を実らせました。「少女」の巻で見初めた
惟光の娘(藤典侍)とはその後も続いていますが、父の源氏と比べると、
女性遍歴は無いに等しい「まめ人」です。人間、不慣れなことにはちぐはぐが
生じがちなもの。しばらくは、そのちぐはぐと付き合ってまいりましょう。
明日からは、この季節らしい寒さがやってくるとのことですが、
今日までは暖かで、コートも薄めの物で十分でした。
湘南台クラスは今回から第39帖「夕霧」の巻に入りました。
「夕霧」の巻は、「柏木」の巻の終盤から「横笛」の巻にかけて
緩やかに進んでいた夕霧の落葉の宮に対する思いが、一気に加速し、
やがて、外堀から埋めるような形で、結ばれるまでの顛末が語られる
のですが、今日は、夕霧が落葉の宮の部屋に入り込みながらも、心が
噛み合わないまま、何もない一夜を過ごして帰って行ったところまでを
読みました。
柏木の死後、その遺言を守って誠実な訪れを欠かさず続けて来た夕霧は、
落葉の宮と、母・御息所の信頼を勝ち得ていました。これだけ誠意を示して
来たのだから、この恋も受け入れて貰えていいはずだ、というのが、夕霧の
言い分です。
一方の落葉の宮はそうではありません。皇女の身でありながら、柏木に降嫁
しましたが、柏木は女三宮しか眼中になかったので、愛されることのないまま、
早々と夫に先立たれてしまいました。結婚生活で残ったのは世間体の悪さだけ
だったのです。
父の朱雀院は既に出家の身、夫は亡くなってしまい、頼れるのは母の御息所
ただ一人という状況の中、その母が病に倒れて、そればかりが心配でならない
落葉の宮にとっては、夕霧の恋慕は迷惑以外の何物でもありませんでした。
これまで典型的な「まめ人」(堅物、真面目人間)として語られて来た夕霧には
そうした落葉の宮の心の機微が読めません。
夕霧は12歳で雲居雁と幼い恋をし、雲居雁の父・内大臣に引き裂かれて6年間
じっと耐え続けて、18歳でこの初恋を実らせました。「少女」の巻で見初めた
惟光の娘(藤典侍)とはその後も続いていますが、父の源氏と比べると、
女性遍歴は無いに等しい「まめ人」です。人間、不慣れなことにはちぐはぐが
生じがちなもの。しばらくは、そのちぐはぐと付き合ってまいりましょう。
「玉鬘十帖」の締め括り
2015年12月14日(月) 溝の口「湖月会」(第90回)
毎月第4月曜日が例会の「湖月会」ですが、師走ですので、2週間繰り上げて
第2月曜日の今日、例会を行いました。
11日の金曜日クラスと同じところを読み、こちらも「玉鬘十帖」の最終章である
第31帖「真木柱」を読み終えました。これで、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」・「末摘花」・
「蓬生」・「関屋」・「玉鬘」・「初音」・「胡蝶」・「蛍」・「常夏」・「篝火」・「野分」・「行幸」・
「藤袴」・「真木柱」の「玉鬘系(帚木系)」に属する全16帖を読了したことになります。
特に「玉鬘」の巻以下の十帖は、六条院を舞台に玉鬘をヒロインとする物語が
繰り広げられましたが、最後に作者が登場させたのは、貴族の姫君としては
規格外の内大臣家のもう一人の姫君・近江の君でした。
どこまでも周囲とは調和できず、笑い者にされる近江の君ですが、よりによって
全く融通の利かない堅物の夕霧にモーションを掛けて、素っ気なく振られたところで
「玉鬘十帖」は幕を閉じます。
秋の夕暮、評判の高い殿上人ばかりが内大臣の娘・弘徽殿女御のところで管弦の
遊びをしています。夕霧の一際美しい姿に目を付けた近江の君は、他の女房たちが
制止するのもお構いなしに、「おきつ舟よるべ波路にただよはば棹さし寄らむ泊まり
教へよ」(沖の船が波間を漂うように、雲居雁との仲がきちんと定まっていないのなら、
私が代わって棹をさして、お相手をしてさしあげますことよ)と、夕霧に歌を詠みかけ
ました。
こんなはしたない真似をしてくる女房が弘徽殿女御のもとにいただろうか?と不審に
思った夕霧でしたが、「そうだ、いたいた。あの近江の君だ」と気づくとおかしくて、
「よるべなみ風の騒がす舟人も思はぬかたに磯づたひせず」(よるべもないので、
風が弄ぶ舟人のような私でも、好きでもない人のところに近づいたりはしませんよ)
と、歌を返したので、近江の君はバツの悪い思いをしたでしょう、ということです。
と語り伝える形で、終わっています。
あくまで玉鬘の引き立て役を担った近江の君でした。
溝の口の2クラスは、新年より「紫の上系」に戻って、第32帖「梅枝」の巻に
入ります。
毎月第4月曜日が例会の「湖月会」ですが、師走ですので、2週間繰り上げて
第2月曜日の今日、例会を行いました。
11日の金曜日クラスと同じところを読み、こちらも「玉鬘十帖」の最終章である
第31帖「真木柱」を読み終えました。これで、「帚木」・「空蝉」・「夕顔」・「末摘花」・
「蓬生」・「関屋」・「玉鬘」・「初音」・「胡蝶」・「蛍」・「常夏」・「篝火」・「野分」・「行幸」・
「藤袴」・「真木柱」の「玉鬘系(帚木系)」に属する全16帖を読了したことになります。
特に「玉鬘」の巻以下の十帖は、六条院を舞台に玉鬘をヒロインとする物語が
繰り広げられましたが、最後に作者が登場させたのは、貴族の姫君としては
規格外の内大臣家のもう一人の姫君・近江の君でした。
どこまでも周囲とは調和できず、笑い者にされる近江の君ですが、よりによって
全く融通の利かない堅物の夕霧にモーションを掛けて、素っ気なく振られたところで
「玉鬘十帖」は幕を閉じます。
秋の夕暮、評判の高い殿上人ばかりが内大臣の娘・弘徽殿女御のところで管弦の
遊びをしています。夕霧の一際美しい姿に目を付けた近江の君は、他の女房たちが
制止するのもお構いなしに、「おきつ舟よるべ波路にただよはば棹さし寄らむ泊まり
教へよ」(沖の船が波間を漂うように、雲居雁との仲がきちんと定まっていないのなら、
私が代わって棹をさして、お相手をしてさしあげますことよ)と、夕霧に歌を詠みかけ
ました。
こんなはしたない真似をしてくる女房が弘徽殿女御のもとにいただろうか?と不審に
思った夕霧でしたが、「そうだ、いたいた。あの近江の君だ」と気づくとおかしくて、
「よるべなみ風の騒がす舟人も思はぬかたに磯づたひせず」(よるべもないので、
風が弄ぶ舟人のような私でも、好きでもない人のところに近づいたりはしませんよ)
と、歌を返したので、近江の君はバツの悪い思いをしたでしょう、ということです。
と語り伝える形で、終わっています。
あくまで玉鬘の引き立て役を担った近江の君でした。
溝の口の2クラスは、新年より「紫の上系」に戻って、第32帖「梅枝」の巻に
入ります。
玉鬘、ヒロインの座を降りる
2015年12月11日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第90回)
まるで季節外れの「春一番」が吹き荒れたような一日となりました。
気温は20度を超え、とても12月とは思えない陽気でしたが、強風のため
電車が止まってしまい、参加できない方もありました。
溝の口のクラスも、年度末で区切りの良いところまで読み終えることが
出来ました。「真木柱」の巻は、いわゆる「玉鬘十帖」の最後の帖で、
これで玉鬘もヒロインの役割を終え、物語の中心から遠ざかることに
なります。
髭黒邸に引き取られて北の方に納まった玉鬘を、手が届かなくなった分、
源氏は余計恋しさが募って、密かにお手紙を贈ったりもなさるのでした。
源氏だけではありません。帝からも、玉鬘が宮中で対面した折、社交辞令で、
「ほのかなお便りだけは風にでも託けてください」と言ったのをいいことに、
時折人目を忍んでのお便りがあるのでした。
意に染まぬ結婚で髭黒の妻となり、帝からも未練たっぷりな様子を
見せられるにつけ、玉鬘は六条院に居た頃の源氏の心遣いが懐かしく
思い出され、いつしか源氏は慕わしい人となって行ったのです。
その年の11月、玉鬘は髭黒との間の第一子となる男児を出産しました。
これは玉鬘が安定した生活に入ったことを示すもので、同時に物語の
ヒロインとしての資格を失ったことも意味していました。
玉鬘が再び物語の表舞台に戻って来るのは、ここから十三帖先の
「竹河」の巻で、今、そこでの玉鬘のことを書き始めて止めました。
先々のネタばれは、慎まなければいけませんものね。講座の中では
少し(もっとかな?)話してしまいましたけど…。
まるで季節外れの「春一番」が吹き荒れたような一日となりました。
気温は20度を超え、とても12月とは思えない陽気でしたが、強風のため
電車が止まってしまい、参加できない方もありました。
溝の口のクラスも、年度末で区切りの良いところまで読み終えることが
出来ました。「真木柱」の巻は、いわゆる「玉鬘十帖」の最後の帖で、
これで玉鬘もヒロインの役割を終え、物語の中心から遠ざかることに
なります。
髭黒邸に引き取られて北の方に納まった玉鬘を、手が届かなくなった分、
源氏は余計恋しさが募って、密かにお手紙を贈ったりもなさるのでした。
源氏だけではありません。帝からも、玉鬘が宮中で対面した折、社交辞令で、
「ほのかなお便りだけは風にでも託けてください」と言ったのをいいことに、
時折人目を忍んでのお便りがあるのでした。
意に染まぬ結婚で髭黒の妻となり、帝からも未練たっぷりな様子を
見せられるにつけ、玉鬘は六条院に居た頃の源氏の心遣いが懐かしく
思い出され、いつしか源氏は慕わしい人となって行ったのです。
その年の11月、玉鬘は髭黒との間の第一子となる男児を出産しました。
これは玉鬘が安定した生活に入ったことを示すもので、同時に物語の
ヒロインとしての資格を失ったことも意味していました。
玉鬘が再び物語の表舞台に戻って来るのは、ここから十三帖先の
「竹河」の巻で、今、そこでの玉鬘のことを書き始めて止めました。
先々のネタばれは、慎まなければいけませんものね。講座の中では
少し(もっとかな?)話してしまいましたけど…。
今日の一首(16)
2015年12月9日(水) 湘南台「百人一首」(第15回)
「百人一首」の53番~62番までは、55番の「大納言公任」以外、ずらりと
女流歌人の歌が並んでいます。光琳カルタも、姫、姫、姫、で綺麗です。
この女流歌人群の時代が、道長を頂点とする藤原氏摂関政治の全盛期
に当たります。
70番台以降の女流歌人たちの歌が、すべて「歌合」、「百首歌」といった
「題詠」(予め題が与えられて詠む)であるのとは対照的に、この時代の
女流歌人たちの歌には、「題詠」は一首も含まれていません。
観念的で、技巧を駆使した題詠に対し、個人の生活に根差したところで
詠まれた歌には、歌の完成度とは別のところで、歌人の性格や個性が
前面に打ち出され、その歌の背景となっているエピソードを知るだけでも
面白いものです。
53番「右大将道綱母」、54番「儀同三司母」、56番「和泉式部」、いずれも
捨て難いのですが、歌の詠まれたのが「初冬」という季節感を重んじて、
「今日の一首」には53番の歌を選びました。
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
(五十三番・右大将道綱母)

(貴方が来て下さらないのを嘆きながら一人で寝る夜は明ける迄が
どんなに長いものか、貴方にはおわかりにならないでしょうね)
この歌の成立事情は「蜻蛉日記」に詳しく書かれています。作者が摂関家の
御曹司・藤原兼家と結婚した翌年、一子道綱も誕生し、幸せの絶頂にある
はずなのに、兼家は早くも他の女に心を移し、作者のもとへ夜離れを始めたの
でした。「宮中に行かなくちゃならないのでね」と言って出て行った兼家を尾行
させると、案の定、新しい女の所へと行ったのでした。それから二、三日後に
兼家が訪ねて来て、門を叩いたけれども、道綱母はこれまでのことが悔しくて
開けませんでした。そうしたら、兼家は例の女と思われるところへ行ってしまい
ました。翌朝、「このままでは気が済まないわ」と思って兼家に贈った歌が
「今日の一首」です。
兼家は、「あなたが門を開けてくれるまで叩き続けようと思ったんだけど、急用を
知らせる使いが来ちゃったんでねぇ。あなたのおっしゃることもごもっともですが」
と前置きをして、
「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり」(はいはい、
あなたのおっしゃる通りです。でも冬の夜だけではなくて、真木の戸も、なかなか
開けてもらえないのは辛いことでしたよ)
と、返歌をして来たのでした。
兼家には絶対的な自信があり、こんな嫌味な歌の一つや二つ、何も堪えてなど
いません。返歌も半ば茶化したようなおざなりなものです。まあ兼家にとっては
「嫉妬は愛情の裏返し」程度の気楽なものだったのでしょう。
「百人一首」の53番~62番までは、55番の「大納言公任」以外、ずらりと
女流歌人の歌が並んでいます。光琳カルタも、姫、姫、姫、で綺麗です。
この女流歌人群の時代が、道長を頂点とする藤原氏摂関政治の全盛期
に当たります。
70番台以降の女流歌人たちの歌が、すべて「歌合」、「百首歌」といった
「題詠」(予め題が与えられて詠む)であるのとは対照的に、この時代の
女流歌人たちの歌には、「題詠」は一首も含まれていません。
観念的で、技巧を駆使した題詠に対し、個人の生活に根差したところで
詠まれた歌には、歌の完成度とは別のところで、歌人の性格や個性が
前面に打ち出され、その歌の背景となっているエピソードを知るだけでも
面白いものです。
53番「右大将道綱母」、54番「儀同三司母」、56番「和泉式部」、いずれも
捨て難いのですが、歌の詠まれたのが「初冬」という季節感を重んじて、
「今日の一首」には53番の歌を選びました。
嘆きつつひとり寝る夜の明くる間はいかに久しきものとかは知る
(五十三番・右大将道綱母)

(貴方が来て下さらないのを嘆きながら一人で寝る夜は明ける迄が
どんなに長いものか、貴方にはおわかりにならないでしょうね)
この歌の成立事情は「蜻蛉日記」に詳しく書かれています。作者が摂関家の
御曹司・藤原兼家と結婚した翌年、一子道綱も誕生し、幸せの絶頂にある
はずなのに、兼家は早くも他の女に心を移し、作者のもとへ夜離れを始めたの
でした。「宮中に行かなくちゃならないのでね」と言って出て行った兼家を尾行
させると、案の定、新しい女の所へと行ったのでした。それから二、三日後に
兼家が訪ねて来て、門を叩いたけれども、道綱母はこれまでのことが悔しくて
開けませんでした。そうしたら、兼家は例の女と思われるところへ行ってしまい
ました。翌朝、「このままでは気が済まないわ」と思って兼家に贈った歌が
「今日の一首」です。
兼家は、「あなたが門を開けてくれるまで叩き続けようと思ったんだけど、急用を
知らせる使いが来ちゃったんでねぇ。あなたのおっしゃることもごもっともですが」
と前置きをして、
「げにやげに冬の夜ならぬ真木の戸もおそくあくるはわびしかりけり」(はいはい、
あなたのおっしゃる通りです。でも冬の夜だけではなくて、真木の戸も、なかなか
開けてもらえないのは辛いことでしたよ)
と、返歌をして来たのでした。
兼家には絶対的な自信があり、こんな嫌味な歌の一つや二つ、何も堪えてなど
いません。返歌も半ば茶化したようなおざなりなものです。まあ兼家にとっては
「嫉妬は愛情の裏返し」程度の気楽なものだったのでしょう。
静嘉堂文庫美術館
2015年12月8日(火)
久々の「my日記」です。
先週の「徳川美術館」に続いて、今日は溝の口の「源氏物語を読む会」と
「湖月会」の有志の方々と、「静嘉堂文庫美術館」で開催中の琳派の展覧会を
見てまいりました。

静嘉堂文庫入り口の案内板
今回の眼目作品は俵屋宗達の国宝「源氏物語関屋・澪標図屏風」。
寛永8年(1631年)より「醍醐寺」に伝えられて来たものが、明治29年(1896年)頃、
醍醐寺への寄進の返礼として、静嘉堂の創設者である岩崎彌之助(三菱第2代社長)
に贈られたそうで、以来、「静嘉堂文庫」の所蔵品となっています。
それまでの土佐派の「源氏絵」などとは一線を画す斬新な構図に目を見張らされます。
「関屋」は源氏と空蝉が、「澪標」は源氏と明石の上が、偶然に来合わす場面を描いて
いますが、共に、顔を合わすことなく終わってしまいます。金雲や、松の多くを排して、
牛車や船に乗っている主人公たち(姿は見えない)を際立たせることで、物語性を
深めているのが感じられます。
お庭はとても広く、林の中を散策しているようなイメージです。初冬の午後の木漏れ日
が、色づいた木々を輝かせ、えも言わぬ美しさに、皆で何度も歓声を上げました。

実際の透明感と立体感がデジカメ写真では無理ですが…
師走の慌ただしさも忘れさせてくれる、満ち足りた一日でした。
久々の「my日記」です。
先週の「徳川美術館」に続いて、今日は溝の口の「源氏物語を読む会」と
「湖月会」の有志の方々と、「静嘉堂文庫美術館」で開催中の琳派の展覧会を
見てまいりました。

静嘉堂文庫入り口の案内板
今回の眼目作品は俵屋宗達の国宝「源氏物語関屋・澪標図屏風」。
寛永8年(1631年)より「醍醐寺」に伝えられて来たものが、明治29年(1896年)頃、
醍醐寺への寄進の返礼として、静嘉堂の創設者である岩崎彌之助(三菱第2代社長)
に贈られたそうで、以来、「静嘉堂文庫」の所蔵品となっています。
それまでの土佐派の「源氏絵」などとは一線を画す斬新な構図に目を見張らされます。
「関屋」は源氏と空蝉が、「澪標」は源氏と明石の上が、偶然に来合わす場面を描いて
いますが、共に、顔を合わすことなく終わってしまいます。金雲や、松の多くを排して、
牛車や船に乗っている主人公たち(姿は見えない)を際立たせることで、物語性を
深めているのが感じられます。
お庭はとても広く、林の中を散策しているようなイメージです。初冬の午後の木漏れ日
が、色づいた木々を輝かせ、えも言わぬ美しさに、皆で何度も歓声を上げました。

実際の透明感と立体感がデジカメ写真では無理ですが…
師走の慌ただしさも忘れさせてくれる、満ち足りた一日でした。
10周年ー第二部まで読了ー
2015年12月6日(日) 淵野辺「五十四帖の会」(第120回)
昨夜、記念すべき120回目(10周年)を迎えた「五十四帖の会」の記事を
書くつもりでしたが、インターネット画面からウィルスに感染し易くなっている
との情報が入り、断念しました。今日はもう大丈夫なようです。
「本当に10年も経ったのかしら?」というのが、実感です。感覚的には
半分の5年位なのですが…。
今日の前半は教室が確保できなかったとのことで、オープンスペースで、
皆さまにここに至るまでの感想をお話いただきました。
後半は教室に入って、第二部最後の巻「幻」の残りを読みました。
前回(11/7)の記事で、源氏が紫の上を追慕して詠んだ1月から7月までの
歌をご紹介しましたので、今回はその続きの8月から12月までの歌を一首づつ、
ご紹介しておきます。
〈8月〉
人恋ふるわか身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり
(亡き紫の上を慕う我が身ももう残り少ない命となって行くが、涙はまだまだ
残りが多いのだった)
〈9月〉
もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな
(かつて紫の上と共に愛でた菊に置いた朝露も今年は私一人の袂にかかることよ)
〈10月〉
大空をかよふ幻夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ
(大空を自在に飛び交う幻術士よ、夢にさえ現れてくれぬ紫の上の魂の行方を
捜し求めておくれ)
〈11月〉
宮人は豊明にいそぐ今日日かげもしらで暮らしつるかな
(大宮人が豊明節会にいそいそと参内する今日一日を私は日の移ろいも知らず
過ごしたことであるよ)
〈12月〉 これが源氏の最後の歌となります。
もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
(物思いをして月日が過ぎるのも知らないうちに、この一年も、わが一生も
今日で終わってしまうのだろうか)
いよいよ、源氏の出家の準備が整ったことを示唆する歌で締め括られ、おそらく
年が明けてまもなく、源氏は出家したものと思われます。
「幻」の巻のあとには「雲隠」という源氏の死を暗示する巻名だけが置かれており、
光源氏を主人公とした物語はこれで閉じられるのです。
淵野辺「五十四帖の会」は、年明けより11年目に入り、現在私が講師を務めている
六つの「源氏の会」の先頭を切って、第三部を読み始めます。
昨夜、記念すべき120回目(10周年)を迎えた「五十四帖の会」の記事を
書くつもりでしたが、インターネット画面からウィルスに感染し易くなっている
との情報が入り、断念しました。今日はもう大丈夫なようです。
「本当に10年も経ったのかしら?」というのが、実感です。感覚的には
半分の5年位なのですが…。
今日の前半は教室が確保できなかったとのことで、オープンスペースで、
皆さまにここに至るまでの感想をお話いただきました。
後半は教室に入って、第二部最後の巻「幻」の残りを読みました。
前回(11/7)の記事で、源氏が紫の上を追慕して詠んだ1月から7月までの
歌をご紹介しましたので、今回はその続きの8月から12月までの歌を一首づつ、
ご紹介しておきます。
〈8月〉
人恋ふるわか身も末になりゆけど残り多かる涙なりけり
(亡き紫の上を慕う我が身ももう残り少ない命となって行くが、涙はまだまだ
残りが多いのだった)
〈9月〉
もろともにおきゐし菊の朝露もひとり袂にかかる秋かな
(かつて紫の上と共に愛でた菊に置いた朝露も今年は私一人の袂にかかることよ)
〈10月〉
大空をかよふ幻夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ
(大空を自在に飛び交う幻術士よ、夢にさえ現れてくれぬ紫の上の魂の行方を
捜し求めておくれ)
〈11月〉
宮人は豊明にいそぐ今日日かげもしらで暮らしつるかな
(大宮人が豊明節会にいそいそと参内する今日一日を私は日の移ろいも知らず
過ごしたことであるよ)
〈12月〉 これが源氏の最後の歌となります。
もの思ふと過ぐる月日も知らぬまに年もわが世もけふや尽きぬる
(物思いをして月日が過ぎるのも知らないうちに、この一年も、わが一生も
今日で終わってしまうのだろうか)
いよいよ、源氏の出家の準備が整ったことを示唆する歌で締め括られ、おそらく
年が明けてまもなく、源氏は出家したものと思われます。
「幻」の巻のあとには「雲隠」という源氏の死を暗示する巻名だけが置かれており、
光源氏を主人公とした物語はこれで閉じられるのです。
淵野辺「五十四帖の会」は、年明けより11年目に入り、現在私が講師を務めている
六つの「源氏の会」の先頭を切って、第三部を読み始めます。
徳川美術館ー「国宝源氏物語絵巻」鑑賞ー
2015年12月3日(木) 八王子「源氏物語を読む会」(第118回)
毎月第1木曜日は八王子の「源氏物語を読む会」の例会日ですが、
初めての全員参加の旅行が企画され、今、「徳川美術館」で開催中の
「全点一挙公開・国宝源氏物語絵巻」見学の運びとなりました。
ところがです。今朝、殆どの人が利用する横浜線が町田~小机間で
始発から運休となっており、復旧は11時頃とのこと。八王子の方々は、
中央線で東京駅からの乗車に変更なさったり、町田から新横浜まで
タクシーで向かわれたり、それでも皆さま、指定席を取った新幹線に
間に合うよう、努力をなさったのですが、何と今度は中央線がトラブル
続発で、ここでも1時間の遅れが出るやらで、結局、予定より40分後の
新幹線に乗っていらっしゃいました。私は、30分早めに家を出て、
あざみ野から横浜市営地下鉄を利用して新横浜へ参りましたので、
一番被害は少なくて済みました。
それぞれ大変な思いをなさりながらも、皆さま無事、徳川美術館に到着。
15分程度の遅れで、揃って昼食をスタートさせることができました。
その後、美術館のほうへ移動しましたら、既に長蛇の列で、1時間待ち、と
言われましたが、実際には30分も待ったでしょうか。その間に、場面解説の
資料を読んだりしていましたので、あまり待たされた感じはしませんでした。
中は、入場制限のおかげか、混雑感もなく、「国宝源氏物語絵巻」をはじめ、
復元模写や現状模写をじっくりと鑑賞することが出来、また「蓬左文庫」では、
写本や注釈書も数々展示されており、有意義な2時間半を過ごしました。
さらに、徳川園のお庭を散策。家を出る時は雨も少し残っていましたが、
名古屋に着く頃にはすっかり回復し、風もなく穏やかで、紅葉が綺麗でした。
お日柄も良かったのか、写真撮影中の、三人の花嫁さんを見かけました。
陽も傾く頃、名古屋一泊組の皆さまと別れ、「芳光」でわらび餅のお土産を
買って、バスで名古屋駅へと向かい、帰宅の途に着きました。
ハラハラドキドキのスタートとなった今回の旅行でしたが、そのおかげで、
「あの、皆で徳川美術館に行った朝、電車が止まってて大変だったわね。」
と、いつまでも話の種として残ることでしょう。
八王子クラスの皆さま、本当にお疲れさまでした。でも、楽しい名古屋の
一日でした!

「徳川美術館」玄関脇の案内板

紅葉の美しい「徳川園」
毎月第1木曜日は八王子の「源氏物語を読む会」の例会日ですが、
初めての全員参加の旅行が企画され、今、「徳川美術館」で開催中の
「全点一挙公開・国宝源氏物語絵巻」見学の運びとなりました。
ところがです。今朝、殆どの人が利用する横浜線が町田~小机間で
始発から運休となっており、復旧は11時頃とのこと。八王子の方々は、
中央線で東京駅からの乗車に変更なさったり、町田から新横浜まで
タクシーで向かわれたり、それでも皆さま、指定席を取った新幹線に
間に合うよう、努力をなさったのですが、何と今度は中央線がトラブル
続発で、ここでも1時間の遅れが出るやらで、結局、予定より40分後の
新幹線に乗っていらっしゃいました。私は、30分早めに家を出て、
あざみ野から横浜市営地下鉄を利用して新横浜へ参りましたので、
一番被害は少なくて済みました。
それぞれ大変な思いをなさりながらも、皆さま無事、徳川美術館に到着。
15分程度の遅れで、揃って昼食をスタートさせることができました。
その後、美術館のほうへ移動しましたら、既に長蛇の列で、1時間待ち、と
言われましたが、実際には30分も待ったでしょうか。その間に、場面解説の
資料を読んだりしていましたので、あまり待たされた感じはしませんでした。
中は、入場制限のおかげか、混雑感もなく、「国宝源氏物語絵巻」をはじめ、
復元模写や現状模写をじっくりと鑑賞することが出来、また「蓬左文庫」では、
写本や注釈書も数々展示されており、有意義な2時間半を過ごしました。
さらに、徳川園のお庭を散策。家を出る時は雨も少し残っていましたが、
名古屋に着く頃にはすっかり回復し、風もなく穏やかで、紅葉が綺麗でした。
お日柄も良かったのか、写真撮影中の、三人の花嫁さんを見かけました。
陽も傾く頃、名古屋一泊組の皆さまと別れ、「芳光」でわらび餅のお土産を
買って、バスで名古屋駅へと向かい、帰宅の途に着きました。
ハラハラドキドキのスタートとなった今回の旅行でしたが、そのおかげで、
「あの、皆で徳川美術館に行った朝、電車が止まってて大変だったわね。」
と、いつまでも話の種として残ることでしょう。
八王子クラスの皆さま、本当にお疲れさまでした。でも、楽しい名古屋の
一日でした!

「徳川美術館」玄関脇の案内板

紅葉の美しい「徳川園」
六条院での明石の上の立場
2015年12月1日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(統合47回 通算97回)
カレンダーが最後の一枚になりました。
12月の例会は高座渋谷のクラスからスタートしました。
一年の締めくくりとして、区切りの良いところまで、と思っておりましたが、
いい具合に第28帖「野分」を読み終えることができました。
「野分」の巻での、夕霧が紫の上や玉鬘を垣間見る場面や、最後に
書かれている大宮の思いなどは、これまでに書きましたので、今日は、
目立たないところなのですが、六条院での明石の上の置かれている
立場を再認識させられる箇所を取り上げてみたいと思います。
源氏は野分のあとの女君たちのお見舞いを、夕霧を伴って、秋好中宮の
もとを皮切りに、六条院を時計回りに回りました。秋好中宮は西南の町に
いらっしゃるので、そのあとは北に抜けて、西北の町の明石の上のところを
訪れます。
「はかばかしき家司だつ人なども見えず、馴れたる下仕へどもぞ、草の中に
まじりてあるく。」(しっかりとした家司(=貴族の家の家政を司る人)などの姿も
見えず、もの馴れた下女たちが、台風で痛めつけられた庭の草の中に立ち入って、
うろうろとしている。)
台風の後始末をしてくれるしっかりとした男手もない状態、これが六条院における
明石の上の立場を象徴していると言えましょう。
通り一遍のお見舞いの言葉を掛けただけで、つれなくお帰りになった源氏に対して、
明石の上は、「この六条院では自分だけが数ならぬ身なので、一通りのお見舞いに、
もう私は飽きられているのではないかと身にしみて思わざるをえません」と、独白の
歌を詠むのでした。
これは、少し明石の上の被害妄想も手伝っています。明石の上の身分が低いので、
源氏はお見舞いをおざなりにしたのではありません。この時の源氏の心は、既に
次の訪問先の玉鬘のところにすっ飛んでしまっていただけのことなのです。
ただ、その後の夕霧が源氏のお供を終えて、明石の姫君のお部屋で、気になる
女性たち(雲居雁と藤典侍)にも台風見舞いの手紙を書こうと、女房に頼んで
紙と硯を借りる場面で、明石の上が軽んじられていることがわかります。
初め、夕霧は女房の部屋にある紙と硯を拝借できないか、と求めます。それに
対して女房が明石の姫君のお部屋にあるものをそのままお出しします。夕霧も
「恐れ多いことで」と言いながらも「北の御殿のおぼえを思ふにすこしなのめなる
ここちして、文書きたまふ」(北の御殿(=明石の上)の世評を思うと、さほど
気遣いもいらない気がして、手紙をお書きになる)のでした。
姫君は源氏の大事な一人娘ではありますが、まだ八歳なので六条院での存在感
はさほど重くはありません。世間でも生母の明石の上は所詮受領の娘、と、軽く
見られていることを考えれば、夕霧も遠慮することはあるまい、と思うわけです。
このような些細なことにも、出自の低さが顔を出してくる身分社会のありようを、
私たちは「源氏物語」を通して知るのです。
カレンダーが最後の一枚になりました。
12月の例会は高座渋谷のクラスからスタートしました。
一年の締めくくりとして、区切りの良いところまで、と思っておりましたが、
いい具合に第28帖「野分」を読み終えることができました。
「野分」の巻での、夕霧が紫の上や玉鬘を垣間見る場面や、最後に
書かれている大宮の思いなどは、これまでに書きましたので、今日は、
目立たないところなのですが、六条院での明石の上の置かれている
立場を再認識させられる箇所を取り上げてみたいと思います。
源氏は野分のあとの女君たちのお見舞いを、夕霧を伴って、秋好中宮の
もとを皮切りに、六条院を時計回りに回りました。秋好中宮は西南の町に
いらっしゃるので、そのあとは北に抜けて、西北の町の明石の上のところを
訪れます。
「はかばかしき家司だつ人なども見えず、馴れたる下仕へどもぞ、草の中に
まじりてあるく。」(しっかりとした家司(=貴族の家の家政を司る人)などの姿も
見えず、もの馴れた下女たちが、台風で痛めつけられた庭の草の中に立ち入って、
うろうろとしている。)
台風の後始末をしてくれるしっかりとした男手もない状態、これが六条院における
明石の上の立場を象徴していると言えましょう。
通り一遍のお見舞いの言葉を掛けただけで、つれなくお帰りになった源氏に対して、
明石の上は、「この六条院では自分だけが数ならぬ身なので、一通りのお見舞いに、
もう私は飽きられているのではないかと身にしみて思わざるをえません」と、独白の
歌を詠むのでした。
これは、少し明石の上の被害妄想も手伝っています。明石の上の身分が低いので、
源氏はお見舞いをおざなりにしたのではありません。この時の源氏の心は、既に
次の訪問先の玉鬘のところにすっ飛んでしまっていただけのことなのです。
ただ、その後の夕霧が源氏のお供を終えて、明石の姫君のお部屋で、気になる
女性たち(雲居雁と藤典侍)にも台風見舞いの手紙を書こうと、女房に頼んで
紙と硯を借りる場面で、明石の上が軽んじられていることがわかります。
初め、夕霧は女房の部屋にある紙と硯を拝借できないか、と求めます。それに
対して女房が明石の姫君のお部屋にあるものをそのままお出しします。夕霧も
「恐れ多いことで」と言いながらも「北の御殿のおぼえを思ふにすこしなのめなる
ここちして、文書きたまふ」(北の御殿(=明石の上)の世評を思うと、さほど
気遣いもいらない気がして、手紙をお書きになる)のでした。
姫君は源氏の大事な一人娘ではありますが、まだ八歳なので六条院での存在感
はさほど重くはありません。世間でも生母の明石の上は所詮受領の娘、と、軽く
見られていることを考えれば、夕霧も遠慮することはあるまい、と思うわけです。
このような些細なことにも、出自の低さが顔を出してくる身分社会のありようを、
私たちは「源氏物語」を通して知るのです。
| ホーム |
- 訪問者カウンター