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光琳かるたの入れ替え

2016年4月30日(土)

昨日、今日、GWの前半はで、お出かけの方も多いことでしょう。
ただ、風が強くて、ベランダの洗濯物がよじれてしまっています。

カルトナージュで作った「かるたスタンド」も、もう桜の歌ではないなぁ、
と思い、初夏の歌に入れ替えました。

「ほととぎす鳴きつるかたをながむればただ有明の月ぞ残れる」
                              (後徳大寺左大臣)
   DSCF2575.jpg
(あっ、ほととぎすが鳴いた、と思ってそちらを見たら、もうほととぎす
の姿はなく、そこには有明の月だけが残っていた)

私の好きな一首です。光琳かるたの下の句の絵も、雰囲気をよく
伝えています。「かるた大会」の時、この札をお持ちになったのは
どなたかしら?飾って頂けたら嬉しいです。

今年は「かるたスタンド」に、月毎に合うかるたを飾って行きたいと
思っています。

さあ、今日はこれから衣更えでもしようかな。


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第一帖「桐壺」の巻・全文訳(2)

2016年4月28日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第1回)

今日読んだところの後半、「桐壺」(12頁・4行目~13頁・1行目)
の全文訳です。全文訳だけを、通してお読みになる時は、
「カテゴリ」の中の「源氏物語の全文訳」から入って、御覧ください。


父の大納言は既にお亡くなりになっており、母の北の方が、
古いお家柄の出身で、教養も身に着けておられたので、
両親が揃っていて、今現在の世間の評判が華々しいお妃たちにも、
さほど引けを取らないよう、どんな儀式のお支度もご用意なさって
いましたが、これといった、しっかりとした後ろ盾のない身なので、
更衣は、こと改まった時にはやはり頼れるものがなく、心細そうで
ございました。

前世からのご因縁が深かったのでしょうか、世にもたぐい稀な、
輝くほどの美貌を持った皇子(のちの光源氏)までもがお生まれに
なりました。帝はこの御子とのご対面を、まだかまだかと待ち遠しく
お思いになって、急いで参内させてご覧になると、それはもう
滅多とない、若宮のご容貌でありました。

この帝(桐壺帝)の第一皇子は、右大臣の娘でいらっしゃる
弘徽殿の女御がお生みになった方で、後見もしっかりとして
おいでですから、間違いなく皇太子になる方だと、世間でも
大切にお扱い申し上げておりましたが、今度お生まれになった
若宮の照り映えるような美しさには到底適いそうにもありません
でしたので、帝は一の御子は、それなりに大切にはお思いでしたが、
この二の御子を、秘蔵っ子としてお可愛がりになるのは、
この上もないことでございました。


第4木曜日のクラスもスタート!

2016年4月28日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第1回)

明日からの連休を控えた今日、気温もこの時期にしては低めの
15度止まり。一日中、細かい雨が降っていました。

おまけに、朝7時頃「たまプラーザ」駅でドアー点検をした影響が
解消しておらず、お昼過ぎになっても電車のダイヤは大幅に
乱れていて、各駅停車しかなく、どうなることかとヒヤヒヤ。
第1回目ですし、少し早めに出ていたおかげで、辛うじて間に
合いました。近頃、田園都市線はトラブルが多いです。

そんなことで、何やらバタバタとした始まりとなりましたが、
無事に第2月曜日のクラスと同じところまで読み進めました。

最初にチョー簡単な自己紹介をして頂き、前半1時間は、
「源氏物語」の概説(「百人一首」で鍛えた(?)資料はA4
一枚で)をしました。でも、ここで、ついつい余談が入り過ぎ、
後半は残り30分となって、終わってみれば、あーあ、また
15分の超過、となっていました・・・

4月11日のほうで、「桐壺」(11頁・1行目~12頁・3行目)
の「全文訳」を書きましたので、今日はその続きの
(12頁・4行目~13頁・1行目)を、このあとUPいたします。
(頁・行は「新潮日本古典集成本」による)


栄華の蔭に内在するもの

2016年4月25日(月) 溝の口「湖月会」(第94回)

2008年からスタートした溝の口のクラスは、第2金曜日のクラスに続き、
第4月曜日のクラスも、本日、第一部を読み終えました。

4月8日のブログに書きましたように、第一部の最後「藤裏葉」の巻は
どこを読んでもメデタシ、メデタシで、そのフィナーレを飾るのが、
冷泉帝と朱雀院が揃って、准太上天皇となった源氏の六条院への
行幸という、栄華のクライマックスシーンです。

この大団円を書きながら、作者・紫式部の中には、物語をこれでは
終わらせない構想がすでに生まれていた、と思われます。

若き日に父である桐壺帝の愛妃・藤壺と不義密通を犯し、その結果
生まれた子が帝位に就く、というあってはならないことを書いた以上、
源氏が報いを受けることなく、物語を閉じてしまうことなど、紫式部が
良しとするはずはありません。

宴席で、太政大臣(これまでの内大臣)は、その昔、朱雀院への行幸の
折、源氏と共に「青海波」を舞ったことを思い出し、「われも人にはすぐれ
たまへる身ながら、なほこの際はこよなかりけるほどおぼし知らる」
(自分も太政大臣という他の人よりも優れた地位を得た身であるけれど、
やはり、准太上天皇という源氏の身分はこの上ないもので、とても敵わない
と思い知らされなさる)のでした。

また、源氏の兄・朱雀院は、何かにつけ、源氏には勝てないと身に沁みて
おられるだけに、この行幸の盛儀を羨み、「私の御代にはなかったことだ」
と「うらめしげにぞおぼしたるや」(恨めしそうに思っておいでだったことよ)
とあります。

さて、今日のタイトルの「栄華の蔭に内在するもの」ですが、もうおわかりの
方もいらっしゃることでしょう。

来月から読む第二部「若菜上」以降、源氏に人生の問い返しを迫るのが、
「藤裏葉」で源氏に敗北感を抱かざるを得なかった朱雀院と太政大臣の
子供たち(女三宮と柏木)だからなのです。

第二部は実に密度の濃い、緊迫感に満ちた物語が展開します。「若菜を
読まずして源氏物語を読んだと言うなかれ」というのは、本当だと思います。


自らの手で髪を切る

2016年4月20日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第176回)

湘南台の「源氏物語を読む会」は、私が講師を務めております「源氏物語」の
講読会の中で最も長く続いており、今回から17年目に入りました。

「夕霧」の巻も終盤近く、夕霧が落葉の宮を小野の里から一条宮に帰還させ、
ようやく結婚の運びとなるのですが、今日のところでは、まだ落葉の宮の抵抗に
あい、事は成就しませんでした。

落葉の宮は小野の山荘に留まり、出家して母の菩提を弔いながら過ごしたい
と願っておりましたが、それは父・朱雀院に諌められ、叶いませんでした。

夕霧との不本意な結婚をするくらいなら、いっそ母と同じように死んでしまいたい、
と思っている落葉の宮ですが、周囲の者たちは、宮が自分で髪を切ってしまう
のではないかと危惧し、鋏などを全部隠して、見張りをしています。原文では
「そのころは、御鋏やうのものは、皆とり隠して、人々のまもりきこえければ」と
書かれています。

当時の女性が髪を切る、というのは出家を意味していました。

この場面を読んで思い出されるのは、一条天皇の中宮だった定子が
自らの手で髪を切り、出家してしまった事件です。

長徳元年(995年)4月に、関白であった父・道隆が死去すると、政権は
道隆の弟・道長の手に渡りました。翌、長徳2年(996年)には定子の
兄・伊周と弟・隆家が花山院奉射事件を起こして左遷され、当時懐妊中の
定子も内裏を退出して、お里の二条宮に移りましたが、邸に逃げ込んだ
兄弟が検非違使に捕らえられるところを目の当たりにして、自ら鋏を取り
落飾したのでした。

悪いことは重なり、同年の夏に二条宮が全焼し、10月には定子の母・貴子も
亡くなってしまいました。定子はその年の12月に第一子・脩子内親王を出産
しました。

長徳3年(997年)4月になって伊周らの罪は赦され、また一条天皇は脩子内親王
との対面を望み、周囲の反対をも押し切って、同年6月、再び定子を宮中に迎え
入れました。しかし、一度出家した身の中宮を内裏に住まわせることは出来ず、
中宮御所は内裏の東隣にある中宮職の御曹司と決められました。

「枕草子」によく出て来る「職の御曹司」というのは、ここのことです。

この再入内で定子は実質的に還俗したことになりますが、出家後の后の
入内は前代未聞のことで、世間の風当たりも強かったはずです。中宮の
地位にある女性が自分の手で髪を下ろすというのもまた、前代未聞の
出来事でありました。


河原院

2016年4月15日(金) 溝の口「伊勢物語」(第10回)

「伊勢物語」はこれまで、在原業平とおぼしき一人の男の色好みに
関する話が中心でしたが、今日読んだ第75段~第81段では、第77段
以降、男の別な面の窺える話が続いています。

中でも第81段・源融の「河原院」の話は有名です。
源融は、光源氏のモデルの一人とされ、「河原院」は、源氏の「六条院」の
モデルとされています。

「河原院」のことは、昨年の10月14日の「今日の一首(12)」で、
源融の築いた風流のメッカが、250年の歳月の中でホラーの舞台と
なってしまうまでの変遷をご紹介しましたが、「伊勢物語」の第81段は
その風流のメッカだった時のお話です。

左大臣・源融は、賀茂川の六条辺りに大層贅を凝らした邸宅を造営して
住んでいました。菊の花の一番美しい時に、親王たちを招待して、徹夜で
酒宴を楽しみ、夜が明ける頃、招待客はこの「河原院」を褒める歌を詠んだ
のでした。最後に業平が次の歌を詠みました。

「塩釜にいつか来にけむ朝なぎに釣する舟はここによらなむ」(塩釜に
いつの間に来てしまったのだろう。朝凪に釣りをしている舟はここに
立ち寄って欲しいものだ)

陸奥の「塩釜」は、当時最も風光明媚な場所として知られ、「河原院」の
庭園は、その塩釜を模したものだと言われていました。「塩釜にいつか
来にけむ」(あれっ、いつの間に塩釜に来てしまったの?)というのは、
「河原院」に対する最大の賛辞だったのです。

この段は「伊勢絵」にも多く描かれていますが、殆どが「菊の花うつろひ
ざかりなるに」(菊の花が色褪せはじめて一番美しい時に)宴会が催され、
庭の菊を男たちが愛でている場面を描いています。
0081伊勢物語貼交屏風(第81段・塩竃) 0081宗達(第81段・塩竃)
    「伊勢物語色紙貼交屏風」          「宗達伊勢物語図色紙」          
        
         0081出光A「伊勢物語図屏風」(81段・塩竃)
                   「伊勢物語図屏風」

「宗達伊勢物語図色紙」には、この段の冒頭「むかし、左のおほいまうちぎみ
いまそかりけり。賀茂川のほとりに、六条のわたりに、家をいとおもしろく造りて
住み給ひけり。」(昔、左大臣がいらっしゃった。賀茂川のほとりの六条辺りに
邸をたいそう風流に造ってお住まいになっていた。)を、絵画化したものも
あります。鼻を膨らませ、自信に満ちた、源融と思われる堂々たる姿の男性が
正面を向いて描かれています。
               0081宗達(第81段・河原の院)

 

今日の一首(20)

2016年4月13日(水) 湘南台「百人一首」(第19回)

先週の今頃は満開だった桜も、葉桜が目立つようになって来ました。
もう少し経つと、青葉に覆われるようになるのでしょうね。

湘南台の「百人一首」、今回は69番「能因法師」~72番「祐子内親王家紀伊」
までの四首を取り上げました。69番、70番、71番の三首は秋の歌で、季節外れ
の感がありますので、「今日の一首」は、72番の「祐子内親王家紀伊」の歌です。

「音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖のぬれもこそすれ」
                  七十二番「祐子内親王家紀伊」
     72番の歌
(評判の高師の浜のいたずらに立ち騒ぐ波にはかかりたくないわ。
 袖が濡れると困りますもの)

歌の真意は、「プレイボーイで有名なあなたと関わりは持ちたくないわ。
あとで涙に袖を濡らすことになっては困りますもの」というものです。

これは、「堀河院艶書合」で詠まれた歌です。「艶書合」(えんしょあわせ/
けそうぶみあわせ)とは、歌合の一首ですが、普通の歌合のように判者を
置いて、歌の優劣を競うというものではなく、言わば「ラブレターの遣り取りの
模範講習会」といった類と考えられています。ですから、歌人たちは疑似恋愛
の歌の遣り取りをするわけです。

この時、紀伊に歌を詠みかけたのは、藤原俊忠(前回〈3/9〉ご紹介した
67番の歌で、周防内侍に「これを枕にどうぞ」と言って腕を御簾の下から
差し入れた忠家の息子)で、定家の祖父にあたる人です。

俊忠が紀伊に詠みかけた歌は「人知れぬ思ひありその浦風に波のよるこそ
いはまほしけれ」(私は人知れずあなたに恋をしています。荒磯の浦風に波が
寄せるように夜にあなたとお逢いしたいのです)というもので、紀伊は、男の
誘いを拒否する、模範解答とも言うべき返歌をしたのでした。

「堀河院艶書合」が開催された康和4年(1102年)、紀伊は70歳位の老女で、
俊忠は29歳でした。祖母と孫ほどの年齢差がある二人が、成りきって詠んだ
この恋の贈答歌、見事に「ラブレターの遣り取りのお手本」となっています。

当時の70歳は今なら90歳位に相当すると思われます。気持ちは若々しく、
頭もクリアー、紀伊は高齢化社会を生きる現代人のお手本としたいような
人ですね。


第一帖「桐壺」の巻・全文訳(1)

2016年4月11日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第1回)

先程のブログに書きました「桐壺」の巻の冒頭部分の全文訳です。
(新潮日本古典集成本の最初から12頁の3行目まで。12頁の4行目
から13頁の1行目までは、4/28(木)のほうで書きます)


どの帝の御代でしたか、女御、更衣と呼ばれるお妃方が大勢お仕えして
いらっしゃる中で、さほど高い身分ではない一人の更衣が、格別のご寵愛を
受けていらっしゃいました。入内当初より、私こそが寵愛を受けてしかるべき、
と自負しておられる女御方は、この更衣のことを、目障りな人、と蔑み、また、
妬んでもおられるのでした。女御方でもそうなのですから、更衣と同じ程度の
出自の方、それよりも低い出自の更衣たちは、ましてや心穏やかではありません。

日々の宮仕えの場で、他の妃たちの気持ちを掻き乱し、恨みを受ける
ことが積もり積もったからでありましょうか、大層お具合が悪くなり、
何となく心細そうに実家に帰っておられることが多くなるのを、帝はいよいよ
愛しくてたまらない者だとお思いになって、他人の批判に遠慮なさることも
お出来にならず、世間の語り草にもなってしまいそうなご寵愛ぶりでございました。
上達部や殿上人たちも、困ったものだと、始終目を背けているような、帝の
更衣へのお気持ちのお入れようだったのです。

唐の国でも、帝のこうした一人の女性へのご寵愛がもとで、国が乱れ、
良くないことが起こったのだと、だんだん世間でも厄介なことと思われ、
人々の苦痛の種となり、挙句には楊貴妃の例まで引き合いに出されそうに
なって行くので、更衣はとてもいたたまれないことが多いのですが、畏れ多い
帝の類まれなるご寵愛を頼りにして、宮中での生活をしておられたのです。


新しい試み

2016年4月11日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第1回)

今ある「源氏物語」の講読会は、どのクラスも5年以上続いていますので、
途中からご参加の方も多く、「百人一首」講座の終了が近づいた頃から、
もう一度「源氏物語」の第1帖「桐壺」から読み直しのご希望の声が上がる
ようになり、今月から開始の運びとなりました。

当初は1クラスのつもりでしたが、参加希望者も段々と増えましたので、
現・溝の口クラス(第2金曜日の「源氏物語を読む会」と第4月曜日の
「湖月会」)同様、2クラスに分けて、同月内の振替受講可能の形を
取ることにいたしました。ただ、今度は、そもそも途中参加の方が
ご自身の参加なさったところまでを繋ぐためのクラスとして立ち上げた
ものですから、徐々に人数は減って行きます。ですから、会としては
一つの「紫の会」で、当面は第2月曜クラスと第4木曜クラスでやって
行くつもりです。先々では1クラスになります。

私もこれが自分にとって、第1帖からスタートする講読会の最後、と
位置づけておりますので、何かこれまでとは違う新しい試みを、と思い、
全文を現代語訳して、それを、本文の解説後に、皆さまには原文を
ご覧になって頂きながら、私が現代語訳を読み上げるということを、
今日初めてやってみました。これは林望氏が、講演会の際、最後に
なさるのを聴いて、「これ、いいなあ」と思ったのがきっかけです。

勿論、私は林氏のように情感豊かな朗読は出来ないのですが、
皆さまのご感想を伺ったところ好評でしたので(面と向かってダメと
言う人はいないでしょうが・・・)、当面「木登り豚」になって続けて
みようかと思っております。

今日は前半を「源氏物語」の概説に使いましたので、さほど進んでは
いませんが、テキストの「新潮日本古典集成・源氏物語」の「桐壺」の巻、
最初から13頁の1行目までを講読しました。

この全文訳をこれから、毎月「紫の会」の第2月曜クラスと第4木曜クラスの
ブログで、UPして行こうと思います。

今日は「桐壺」の巻のプロローグに当たる部分を、この後引き続いて書きます
ので、よろしければご覧ください。


玉鬘の選択とその結果

2016年4月9日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第124回)

先月(3月12日)、このクラスの講読会の記事で、玉鬘の娘の大君に
今上帝、冷泉院、蔵人少将(夕霧と雲居雁の息子)が熱心に求婚、
密かに薫も思いを寄せている、というところまでを、ご紹介しました。

今日はその続きにあたる第44帖「竹河」の巻の後半を読みました。

結局、玉鬘が大君の結婚相手として選んだのは冷泉院でした。

冷泉院には、秋好中宮(六条御息所の娘)、弘徽殿の女御(故致仕大臣の
娘で、玉鬘の異母妹)といった有力な妃方もおられましたが、秋好中宮は
53歳、弘徽殿の女御も45歳、皆すでにご高齢です。そこへ18、9歳の大君
が院参したのですから、冷泉院のご寵愛が大君に移るのも無理からぬこと
でした。

これまで冷泉院には、弘徽殿の女御との間に女宮が一人あるだけでしたが、
大君が院参した翌年に女宮を出産したことで、大君への風当たりは次第に
強くなって行ったのです。

さらに数年後、大君は、冷泉院にとって初めての男宮を出産します。女宮が
お一人しかなかったところに、大君が次々と可愛い御子をお生みになったので、
最初は、大君の後見を買って出ておられた弘徽殿の女御も、さすがに
心穏やかではいられなくなり、大君との仲も疎隔になって行きました。

院の御所の人々は、皆、新参者の大君に冷たく、大君は孤立して、
実家に帰っていることが多くなりました。今で言うなら、鬱状態になって
しまったのでしょうね。

こうなると、玉鬘は、父の遺志を継いで大君を帝に入内させるべきだと
主張していた息子たちからは批判され、蔵人少将を袖にしたことで
夕霧家との間にも溝が生じ、帝の不興をも買う結果を招いたのでした。

玉鬘は選択を誤った、と言わざるを得ません。

世間知らずのお坊ちゃまではあっても、あれほど熱心にプロポーズしていた
蔵人少将との結婚のほうが、少なくとも大君も気苦労の無い平穏な日々を
送ることができたでありましょう。

「竹河」の巻は、娘の結婚に打つ手を誤り、息子たちの昇進も捗々しくない
玉鬘の憂鬱を語って、虚しい巻末となっています。

このクラスは来月から、いよいよ「宇治十帖」に入ります。


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