紫の上の苦悩の始まり
2016年6月27日(月) 溝の口「湖月会」(第96回)
昨日、今日、梅雨の晴れ間となりましたが、明日からはまた梅雨空に
戻るようです。特に明日だけは気温も下がり、梅雨寒になるとか。
この変化に体調を崩さないよう、気をつけたいですね。
6月10日の金曜日のクラスで、動詞の活用の話などをしていて大幅に
時間延長になってしまったことを反省し、今日は、文法はカットしたの
ですが、何故か終わってみれば、同じ20分余りの時間オーバーとなって
おりました。ごめんなさい、「湖月会」の皆さまにも、本当にごめんなさ~い、
でございます・・・🙇
間もなく年も暮れようという頃、源氏は出家された朱雀院を見舞い、
その場で、女三宮との結婚を承諾なさいました。お引き受けはした
ものの、紫の上にどう伝えたものか、と源氏は悩みます。さすがに、
その夜は打ち明けられず、次の朝を迎えました。
紫の上の短所でもあり、またそれが魅力でもある「嫉妬癖」を思うと、
源氏も気が重く、かと言って話さずに済ませられる問題ではありません
ので、「朱雀院がお気の毒でお断り出来かったのだ」と、恐る恐る切り出し
ます。
紫の上の反応は予想外のものでした。
紫の上は内心、「空より出で来にたるやうなること」(空から降って来た
ようなこと)と、強い衝撃を受けているにもかかわらず、「いとつれなくて」
(全く気にしていないという様子で)、「あはれなる御ゆづりにこそはあなれ。
ここには、いかなる心をおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど
咎めらるまじくは、心やすくてもはべなむ」(お気の毒なご依頼ですわね。
私などが、どうして女三宮に不快な気持ちを抱いたりしましょうか。女三宮
のほうが、私に対して、ここに居るなんて目障りな、とお咎めになることが
なければ、私は安心して居られましょう)と、卑下して答えます。
源氏は、紫の上の言葉に、喜び安心します。これが本心ではないことに、
源氏程の人が気付かないわけはなかったでしょう。でも、この時の源氏は、
紫の上の本心から目をそらし、素直に彼女の言葉を受け取る安易な道を
選んでしまったのです。そうした人間の心理を実に上手く捉えていると思い
ます。
紫の上は、女三宮の降嫁を、何とか自分が納得できる理由を考え出して、
我が身に言い聞かせようとします。「これは源氏の君も辞退できることでは
なかったのだ。当人同士が恋に落ちたという話でもないのだし、世間の人に
決して自分が、ショックを受けて思い沈んでいることを悟られたりすまい」と、
「いとおいらかにのみもてなしたまへり」(表面上はたいそうおっとりとして
いらっしゃる)のでした。
ここから始まる、紫の上の苦悩と、それをひた隠しにしながら六条院の
平和と秩序を守ろうとする姿勢。冴えわたった紫式部の筆が、読者を
ぐいぐいと引き込んでまいります。
第一部における紫の上は、ずっと源氏に寄り添っている相思相愛の妻で
ありながら、今一つ印象に残らない人物像なのですが、第二部になると、
途端に存在感を増し、三十二歳から四十三歳で亡くなるまでの紫の上は、
やはりこの人が間違いなく「源氏物語」のヒロインであることに気付かせて
くれるのです。
昨日、今日、梅雨の晴れ間となりましたが、明日からはまた梅雨空に
戻るようです。特に明日だけは気温も下がり、梅雨寒になるとか。
この変化に体調を崩さないよう、気をつけたいですね。
6月10日の金曜日のクラスで、動詞の活用の話などをしていて大幅に
時間延長になってしまったことを反省し、今日は、文法はカットしたの
ですが、何故か終わってみれば、同じ20分余りの時間オーバーとなって
おりました。ごめんなさい、「湖月会」の皆さまにも、本当にごめんなさ~い、
でございます・・・🙇
間もなく年も暮れようという頃、源氏は出家された朱雀院を見舞い、
その場で、女三宮との結婚を承諾なさいました。お引き受けはした
ものの、紫の上にどう伝えたものか、と源氏は悩みます。さすがに、
その夜は打ち明けられず、次の朝を迎えました。
紫の上の短所でもあり、またそれが魅力でもある「嫉妬癖」を思うと、
源氏も気が重く、かと言って話さずに済ませられる問題ではありません
ので、「朱雀院がお気の毒でお断り出来かったのだ」と、恐る恐る切り出し
ます。
紫の上の反応は予想外のものでした。
紫の上は内心、「空より出で来にたるやうなること」(空から降って来た
ようなこと)と、強い衝撃を受けているにもかかわらず、「いとつれなくて」
(全く気にしていないという様子で)、「あはれなる御ゆづりにこそはあなれ。
ここには、いかなる心をおきたてまつるべきにか。めざましく、かくてなど
咎めらるまじくは、心やすくてもはべなむ」(お気の毒なご依頼ですわね。
私などが、どうして女三宮に不快な気持ちを抱いたりしましょうか。女三宮
のほうが、私に対して、ここに居るなんて目障りな、とお咎めになることが
なければ、私は安心して居られましょう)と、卑下して答えます。
源氏は、紫の上の言葉に、喜び安心します。これが本心ではないことに、
源氏程の人が気付かないわけはなかったでしょう。でも、この時の源氏は、
紫の上の本心から目をそらし、素直に彼女の言葉を受け取る安易な道を
選んでしまったのです。そうした人間の心理を実に上手く捉えていると思い
ます。
紫の上は、女三宮の降嫁を、何とか自分が納得できる理由を考え出して、
我が身に言い聞かせようとします。「これは源氏の君も辞退できることでは
なかったのだ。当人同士が恋に落ちたという話でもないのだし、世間の人に
決して自分が、ショックを受けて思い沈んでいることを悟られたりすまい」と、
「いとおいらかにのみもてなしたまへり」(表面上はたいそうおっとりとして
いらっしゃる)のでした。
ここから始まる、紫の上の苦悩と、それをひた隠しにしながら六条院の
平和と秩序を守ろうとする姿勢。冴えわたった紫式部の筆が、読者を
ぐいぐいと引き込んでまいります。
第一部における紫の上は、ずっと源氏に寄り添っている相思相愛の妻で
ありながら、今一つ印象に残らない人物像なのですが、第二部になると、
途端に存在感を増し、三十二歳から四十三歳で亡くなるまでの紫の上は、
やはりこの人が間違いなく「源氏物語」のヒロインであることに気付かせて
くれるのです。
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第一帖「桐壺の巻」・全文訳(6)
2016年6月23日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第3回)
本日読みました「桐壺」の巻(19頁・11行目~25頁・11行目まで)の
後半に当たる部分(22頁・12行目~25頁・11行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
6月13日(月)の全文訳と併せてお読み頂くと、(19頁・11行目~
25頁・11行目まで)の「靫負の命婦の弔問」の場面が通して
ご覧になれます。
若宮は既におやすみになっておりました。「若宮を拝見して、
詳しくご様子を奏上したいのですが、帝がお待ちかねでおいで
でしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って、命婦は帰参を
急ぎます。
「子を思って乱れる親心の胸に収めておけないその一部分
だけでも、晴らすほどにお話しとうございますので、お役目を
離れて個人的にごゆるりとお出かけくださいませ。この数年来、
嬉しく晴れがましい折に、お立ち寄りいただいておりましたのに、
このような弔問のお使者としてお目にかかりますのが、何度も
申しますが、ままならぬ我が命でございます。娘は生まれた時
から、望みを託していた子でして、亡き夫が臨終の際まで、『ただ、
この人の宮仕えの志を、きっと遂げてくれ。私が亡くなったから
と言って、情けなくくじけたりしてはならぬ』と、繰り返し戒めて
おかれましたので、これといった後ろ盾となってくれる人のいない
宮仕えは、却ってしないほうがよいのでは、と思いながらも、
夫の遺言に背くまいという一存で宮仕えさせましたところ、
身に余るまでの帝のご寵愛が、何かにつけて勿体ないので、
人並みにも扱われない恥をかばいながら、お仕えしていらした
ようですが、人様からの妬みが深く積もって、気苦労が段々と
多くなりましたところへ、尋常ではない様子で、とうとうこんな
ことになってしまいましたので、帝のご寵愛がむしろ恨めしく
感じられるのでございます。これも理性を失った親の心の乱れ
というものでして」と、言葉が続かず涙にむせ返っておられるうちに、
夜も更けてしまいました。
命婦は「帝とて同じ事でございます。『自分のことながら、無理にも
傍の者が目を見張るほど寵愛せざるを得なかったのも、長く続くはず
のない仲だったのだと、今となっては、却って辛く思われる更衣との
縁だった。ほんのわずかでも、人の心を傷つけたりはしていないと
思うが、ただこの更衣一人が原因で、決して怨まれてはならぬ
妃たちの恨みを買った挙句、こうして更衣に先立たれてしまい、
気持ちの静めようもないので、いっそう体裁の悪い愚か者に
なり果ててしまったのも、どんな前世の因縁だったのか知りたい』と、
何度もおっしゃっては、涙にくれてばかりおいででございます。」と、
語って話は尽きません。
泣きながら「夜もたいそう更けましたので、今夜のうちにお返事を
奏上いたしましょう」と、急ぎ帰参いたします。月が山の端に入ろう
とする頃で、空は清く澄み切っているものの、風がとても涼しくなって、
草むらの様々な虫の声も、まるで一緒に泣けと言っているかのようで、
なかなか立ち去りがたい草の宿でありました。
「鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな」
(鈴虫が声の限り鳴き尽すように泣いても、この秋の夜長を
私の涙は尽きることがありません)
命婦は牛車に乗り込むことが出来ずにおりました。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おき添ふる雲の上人」
(虫が一層激しく泣いているこの雑草の生い茂った宿に、
さらに涙をお加えになる大宮人でありますよ)
「あなた様のせいだとお恨み言を申し上げてしまいそうで」
と、母君は取次の女房に言わせなさいました。
風情あるお土産などあるはずもない時なので、ただ亡き更衣の
形見ということで、このようなこともあろうかと残しておかれた
女装束の一揃えに、髪上げに使うお道具のような物を添えて
差し上げなさいました。
若い女房たちは、主人を失った悲しみは言うまでもありませんが、
宮中の華やかな暮らしに慣れていたので、今の生活は物足りなくて、
帝のご様子などを思い出し申し上げ、若宮が早く参内なさるように
お勧めしますが、母君はこのような逆縁の不吉な身の自分が
ご一緒に宮中に上がるのも、たいそう外聞が悪かろう、かと言って、
一時でも若宮と会えずにいたなら、とても気になって仕方あるまい、
とお思いになって、若宮の参内には二の足を踏んでおられるのでした。
本日読みました「桐壺」の巻(19頁・11行目~25頁・11行目まで)の
後半に当たる部分(22頁・12行目~25頁・11行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
6月13日(月)の全文訳と併せてお読み頂くと、(19頁・11行目~
25頁・11行目まで)の「靫負の命婦の弔問」の場面が通して
ご覧になれます。
若宮は既におやすみになっておりました。「若宮を拝見して、
詳しくご様子を奏上したいのですが、帝がお待ちかねでおいで
でしょうし、夜も更けてしまいましょう」と言って、命婦は帰参を
急ぎます。
「子を思って乱れる親心の胸に収めておけないその一部分
だけでも、晴らすほどにお話しとうございますので、お役目を
離れて個人的にごゆるりとお出かけくださいませ。この数年来、
嬉しく晴れがましい折に、お立ち寄りいただいておりましたのに、
このような弔問のお使者としてお目にかかりますのが、何度も
申しますが、ままならぬ我が命でございます。娘は生まれた時
から、望みを託していた子でして、亡き夫が臨終の際まで、『ただ、
この人の宮仕えの志を、きっと遂げてくれ。私が亡くなったから
と言って、情けなくくじけたりしてはならぬ』と、繰り返し戒めて
おかれましたので、これといった後ろ盾となってくれる人のいない
宮仕えは、却ってしないほうがよいのでは、と思いながらも、
夫の遺言に背くまいという一存で宮仕えさせましたところ、
身に余るまでの帝のご寵愛が、何かにつけて勿体ないので、
人並みにも扱われない恥をかばいながら、お仕えしていらした
ようですが、人様からの妬みが深く積もって、気苦労が段々と
多くなりましたところへ、尋常ではない様子で、とうとうこんな
ことになってしまいましたので、帝のご寵愛がむしろ恨めしく
感じられるのでございます。これも理性を失った親の心の乱れ
というものでして」と、言葉が続かず涙にむせ返っておられるうちに、
夜も更けてしまいました。
命婦は「帝とて同じ事でございます。『自分のことながら、無理にも
傍の者が目を見張るほど寵愛せざるを得なかったのも、長く続くはず
のない仲だったのだと、今となっては、却って辛く思われる更衣との
縁だった。ほんのわずかでも、人の心を傷つけたりはしていないと
思うが、ただこの更衣一人が原因で、決して怨まれてはならぬ
妃たちの恨みを買った挙句、こうして更衣に先立たれてしまい、
気持ちの静めようもないので、いっそう体裁の悪い愚か者に
なり果ててしまったのも、どんな前世の因縁だったのか知りたい』と、
何度もおっしゃっては、涙にくれてばかりおいででございます。」と、
語って話は尽きません。
泣きながら「夜もたいそう更けましたので、今夜のうちにお返事を
奏上いたしましょう」と、急ぎ帰参いたします。月が山の端に入ろう
とする頃で、空は清く澄み切っているものの、風がとても涼しくなって、
草むらの様々な虫の声も、まるで一緒に泣けと言っているかのようで、
なかなか立ち去りがたい草の宿でありました。
「鈴虫の声の限りを尽くしても長き夜あかずふる涙かな」
(鈴虫が声の限り鳴き尽すように泣いても、この秋の夜長を
私の涙は尽きることがありません)
命婦は牛車に乗り込むことが出来ずにおりました。
「いとどしく虫の音しげき浅茅生に露おき添ふる雲の上人」
(虫が一層激しく泣いているこの雑草の生い茂った宿に、
さらに涙をお加えになる大宮人でありますよ)
「あなた様のせいだとお恨み言を申し上げてしまいそうで」
と、母君は取次の女房に言わせなさいました。
風情あるお土産などあるはずもない時なので、ただ亡き更衣の
形見ということで、このようなこともあろうかと残しておかれた
女装束の一揃えに、髪上げに使うお道具のような物を添えて
差し上げなさいました。
若い女房たちは、主人を失った悲しみは言うまでもありませんが、
宮中の華やかな暮らしに慣れていたので、今の生活は物足りなくて、
帝のご様子などを思い出し申し上げ、若宮が早く参内なさるように
お勧めしますが、母君はこのような逆縁の不吉な身の自分が
ご一緒に宮中に上がるのも、たいそう外聞が悪かろう、かと言って、
一時でも若宮と会えずにいたなら、とても気になって仕方あるまい、
とお思いになって、若宮の参内には二の足を踏んでおられるのでした。
月齢と呼称
2016年6月23日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第3回)
6月13日(月)のクラスと同じ箇所を読みました。
一昨日も「ストロベリームーン」で、「月」のことを書いたばかりなのですが、
今日もまた「月」の話です。
「夕月夜のをかしきほどにいだし立てさせたまひて」(夕月の美しい時刻に
出立させなさって)と、帝が、靫負の命婦を宮中から亡き更衣のお里へと
出発させた時刻が、月によって表わされています。
今は、辺り一帯が一斉に停電にでもならない限り、夜中でも真っ暗、という
ことはありませんが、平安時代の夜の灯りは貴重な油を燃やしたもの。
一晩中灯りをつけっ放し、なんて貴族の邸でもあり得ないことでした。
屋内でさえそうなのですから、ましてや外はもっと真っ暗。ものが見えるのは
月の美しい夜に限られた現象だったのです。ですから、当時の人々は、月の
存在にとても敏感で、「月齢」に従って、呼び名を付けていました。
「夕月夜」の「夜」は、語調を整えるための接尾語のようなもので、特に意味を
持っているわけではなく、「夕方に見える月」という意味です。所謂「上弦の月」
がこれに当たります。
十五夜になると、月は一晩中出ており、雲に覆われることがなければ、最高の
明かりでもありました。一番望まれる月なので「望月」。藤原道長が栄華の頂点を
極めた時、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と
歌を詠んだのは有名な話です。
16日の月は、十六夜〈いざよひ〉の月。「いざよふ」というのは「たゆたう」ことを言い、
月が少しためらって出てくるように思えたのでしょう。
月の出は、一日で約50分ずつ遅くなりますので、以下、段々と月の出を待つ時間が
長くなり、17日の月は「立待〈たちまち〉の月」、18日の月は「居待〈いまち〉の月」、
19日の月は「寝待〈ねまち〉の月」と呼ばれていました。
20日を過ぎると、月の出は深夜以降となり、明け方にも月が残っていることから、
「有明の月」と称され、これも多くの歌に詠まれています。
一昨日が「十六夜の月」でしたので、今日は「居待の月」です。やっと先程(22:30頃)、
東の窓から見えました。出来れば写真を撮って、先日の「ストロベリームーン」と比較
したくて待っていました。まさに「居待の月」。もう「ストロベリー」ではありませんでした。

このあと続いて、6月の「紫の会」両クラスで講読した「桐壺の巻」の
「靫負の命婦の弔問」場面の後半部分の全文訳を書きます。
6月13日(月)のクラスと同じ箇所を読みました。
一昨日も「ストロベリームーン」で、「月」のことを書いたばかりなのですが、
今日もまた「月」の話です。
「夕月夜のをかしきほどにいだし立てさせたまひて」(夕月の美しい時刻に
出立させなさって)と、帝が、靫負の命婦を宮中から亡き更衣のお里へと
出発させた時刻が、月によって表わされています。
今は、辺り一帯が一斉に停電にでもならない限り、夜中でも真っ暗、という
ことはありませんが、平安時代の夜の灯りは貴重な油を燃やしたもの。
一晩中灯りをつけっ放し、なんて貴族の邸でもあり得ないことでした。
屋内でさえそうなのですから、ましてや外はもっと真っ暗。ものが見えるのは
月の美しい夜に限られた現象だったのです。ですから、当時の人々は、月の
存在にとても敏感で、「月齢」に従って、呼び名を付けていました。
「夕月夜」の「夜」は、語調を整えるための接尾語のようなもので、特に意味を
持っているわけではなく、「夕方に見える月」という意味です。所謂「上弦の月」
がこれに当たります。
十五夜になると、月は一晩中出ており、雲に覆われることがなければ、最高の
明かりでもありました。一番望まれる月なので「望月」。藤原道長が栄華の頂点を
極めた時、「この世をばわが世とぞ思ふ望月の欠けたることもなしと思へば」と
歌を詠んだのは有名な話です。
16日の月は、十六夜〈いざよひ〉の月。「いざよふ」というのは「たゆたう」ことを言い、
月が少しためらって出てくるように思えたのでしょう。
月の出は、一日で約50分ずつ遅くなりますので、以下、段々と月の出を待つ時間が
長くなり、17日の月は「立待〈たちまち〉の月」、18日の月は「居待〈いまち〉の月」、
19日の月は「寝待〈ねまち〉の月」と呼ばれていました。
20日を過ぎると、月の出は深夜以降となり、明け方にも月が残っていることから、
「有明の月」と称され、これも多くの歌に詠まれています。
一昨日が「十六夜の月」でしたので、今日は「居待の月」です。やっと先程(22:30頃)、
東の窓から見えました。出来れば写真を撮って、先日の「ストロベリームーン」と比較
したくて待っていました。まさに「居待の月」。もう「ストロベリー」ではありませんでした。

このあと続いて、6月の「紫の会」両クラスで講読した「桐壺の巻」の
「靫負の命婦の弔問」場面の後半部分の全文訳を書きます。
「ストロベリーとストロベリームーン」
2016年6月21日(火)
先日のブログに「変形性膝関節症」のことを書きましたら、多くの
皆さまにご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。
お見舞いのメールやお電話を戴き、有難うございます。
まあ、昨日の今日、といった具合に、すぐに回復するというものでも
ありませんが、1ヶ月位先にはよいご報告ができるようになっていたい、
と思っています。
で、今回のタイトルの「ストロベリーとストロベリームーン」ですが、
たまたま両方が揃ったので、前回の暗い話題から一転、今日は
明るい話をお届けします。
昨日、近所のスーパーで、青果担当のおじさんが、「今季最後の
イチゴだよ!もうしばらくは食べられないよ!ハイ持ってって!」と、
店頭で盛んに売り込みをしているのにつられ、つい1パック買って
しまいました。久しぶりのイチゴで、ちょっとワクワクしながら洗って、
一粒お味見・・・「すっ、すっぱぁーい!」。冬から春にかけてさんざん
食べたけれど、こんなにすっぱいイチゴは初めて。
夏の間は、ヨーグルト作りを休んでいるので、市販のヨーグルトを
買って来ました。これでも掛けて食べないと、とてもそのままでは
食べられたものではありません。見た目は結構美味しそうなんです
けどね。

今日は夏至。夜空には赤みを帯びた綺麗な月が・・・。満月は昨日
だったようですが、今夜の十六夜の月も見事な「ストロベリームーン」。
なんでこんなに月が赤くなるんだろう、と思って調べたら、「夏至の頃の
満月は高度が低いため、太陽の光が月に届くまでに、地球の大気を
通過する距離が長くなります。そのため、波長の短い青い光が地球の
大気により散乱され、散乱しにくい波長の長い赤い光が残るわけです」
とのこと。私の頭では、わかったようなわからないような、ですが…

ちょっとボケてますが、我が家の東の窓から見えた「ストロベリームーン」。
「ストロベリームーン」を見ると「幸運を呼ぶ」とか。何かいいことあるかな?
先日のブログに「変形性膝関節症」のことを書きましたら、多くの
皆さまにご心配をおかけしてしまい、申し訳ございませんでした。
お見舞いのメールやお電話を戴き、有難うございます。
まあ、昨日の今日、といった具合に、すぐに回復するというものでも
ありませんが、1ヶ月位先にはよいご報告ができるようになっていたい、
と思っています。
で、今回のタイトルの「ストロベリーとストロベリームーン」ですが、
たまたま両方が揃ったので、前回の暗い話題から一転、今日は
明るい話をお届けします。
昨日、近所のスーパーで、青果担当のおじさんが、「今季最後の
イチゴだよ!もうしばらくは食べられないよ!ハイ持ってって!」と、
店頭で盛んに売り込みをしているのにつられ、つい1パック買って
しまいました。久しぶりのイチゴで、ちょっとワクワクしながら洗って、
一粒お味見・・・「すっ、すっぱぁーい!」。冬から春にかけてさんざん
食べたけれど、こんなにすっぱいイチゴは初めて。
夏の間は、ヨーグルト作りを休んでいるので、市販のヨーグルトを
買って来ました。これでも掛けて食べないと、とてもそのままでは
食べられたものではありません。見た目は結構美味しそうなんです
けどね。

今日は夏至。夜空には赤みを帯びた綺麗な月が・・・。満月は昨日
だったようですが、今夜の十六夜の月も見事な「ストロベリームーン」。
なんでこんなに月が赤くなるんだろう、と思って調べたら、「夏至の頃の
満月は高度が低いため、太陽の光が月に届くまでに、地球の大気を
通過する距離が長くなります。そのため、波長の短い青い光が地球の
大気により散乱され、散乱しにくい波長の長い赤い光が残るわけです」
とのこと。私の頭では、わかったようなわからないような、ですが…


ちょっとボケてますが、我が家の東の窓から見えた「ストロベリームーン」。
「ストロベリームーン」を見ると「幸運を呼ぶ」とか。何かいいことあるかな?
変形性膝関節症
2016年6月17日(金)
三週間位前、ずっと座っていて立ち上がった時に、膝の裏側にビリッと
痛みが走り、それ以後、立ち上がる度に痛みが増してきて、湿布を貼ったり
しながら様子を見ていましたが、今週に入ってからは、ただ歩いたり、立って
いるだけでも痛くて、もう限界かなぁ、と思い、今日は仕事帰りに、整形外科に
寄りました。
レントゲンを見せてもらうと、確かに右足膝の内側の軟骨が、外側に比べて
かなり薄くなっていることがわかりました。
「今回の膝の痛みはおそらくこれでしょうね」ということで、「ヒアルロン酸」の
注射と、塗り薬を処方してもらって帰って来ました。注射は、これから週1回、
計5回するそうです。
これまで運動不足を少しでも解消しようと、出来るだけ駅のエスカレーターや
エレベーターを使わず、階段を利用するようにしていましたが、これが膝には
×なのだそうで、これからは、階段は極力使わないように、とのことでした。
原因は?というと、悲しいかな、「加齢」・・・
「加齢」による支障が、あちこちに出るようになって、「あーあ」ですが、まあ、
上手く付き合って行くしかありませんね。
取り敢えず、5回の注射が終わる頃には、痛みが取れて、普通に歩けるように
なりたい、と願っているところです。
三週間位前、ずっと座っていて立ち上がった時に、膝の裏側にビリッと
痛みが走り、それ以後、立ち上がる度に痛みが増してきて、湿布を貼ったり
しながら様子を見ていましたが、今週に入ってからは、ただ歩いたり、立って
いるだけでも痛くて、もう限界かなぁ、と思い、今日は仕事帰りに、整形外科に
寄りました。
レントゲンを見せてもらうと、確かに右足膝の内側の軟骨が、外側に比べて
かなり薄くなっていることがわかりました。
「今回の膝の痛みはおそらくこれでしょうね」ということで、「ヒアルロン酸」の
注射と、塗り薬を処方してもらって帰って来ました。注射は、これから週1回、
計5回するそうです。
これまで運動不足を少しでも解消しようと、出来るだけ駅のエスカレーターや
エレベーターを使わず、階段を利用するようにしていましたが、これが膝には
×なのだそうで、これからは、階段は極力使わないように、とのことでした。
原因は?というと、悲しいかな、「加齢」・・・

「加齢」による支障が、あちこちに出るようになって、「あーあ」ですが、まあ、
上手く付き合って行くしかありませんね。
取り敢えず、5回の注射が終わる頃には、痛みが取れて、普通に歩けるように
なりたい、と願っているところです。
女の心に届いた歌
2016年6月17日(金) 溝の口「伊勢物語」(第12回)
まるで梅雨が明けてしまったかのような日差しと気温の一日でした。
もちろん、ここは沖縄ではありません。梅雨はまだ続くはずなのですが、
「梅雨が明けるとこれよりももっと暑いのだから覚悟しておきなさい」と、
梅雨明けリハーサルをされているような気分でした。
おまけに、半数以上の方がご利用になっている南武線が止まってしまい、
開始時間には間に合わなかったかたも大勢いらっしゃいました(南武線の
皆さま、お疲れさまでした!)。
「伊勢物語」も12回目、ということは一年間読んだことになります。今回で
終わりに出来れば一番良かったのですが、やはりそうそう上手くは行かず、
「来月は時間を30分延長して、最後まで読み終えます。」と宣言してまいり
ました(大丈夫かな?)
今日は第88段~第100段までを読みました。
第95段は、二条の后(高子)のもとに仕えている男女がいて、男のほうが
女に熱心に求愛し続けており、「いかでものごしに対面して、おぼつかなく
思ひつめたること、すこしはるかさむ」(なんとか物越しにでもお目にかかって、
心もとなくあなたのことを思い詰めている状態を少し晴れ晴れとさせたい)と
言ったところ、女が物越しに対面してくれました。そこで男が「彦星に恋は
まさりぬ天の河へだつる関をいまはやめてよ」(彦星が織姫を思うよりも
私の恋のほうが勝ってしまった。今はこの天の川のような隔ての関と
なっている物越しを止めてください)と詠むと、女はこの歌に感動して、
物越しではなく逢ってくれました、という話です。
ちなみに、「あべのハルカス」の「ハルカス」は、この「はるかさむ」(動詞の
「晴かす」の未然形に意思の助動詞の「む」がついた形)の動詞「はるかす」
に由来しているそうです。
この段は、「伊勢絵」にも多く描かれていますが、すべて、男と女が物越し
(絵はみな御簾越しとしている)に対面しているところを描いています。

「伊勢物語色紙貼交屏風」(16世紀) 「伊勢物語図屏風」(17世紀)
上の二枚の絵は、共に男が御簾に手をかけ、かなり強引に女を口説いている
印象を受けます。

「宗達伊勢物語図色紙」
この絵になると、男が強引に女に迫ろうとしておらず、距離を持って座っている
ことで、男が静かに歌を詠みかけている奥ゆかしさが感じられます。表情も上品
です。そうした態度の男が詠んだ歌だからこそ、女の心に届いたのだと、物語に
対する解釈の深さが窺える絵となっています。

住吉如慶「伊勢物語絵巻」(17世紀)
最後にもう一枚。「物越し」にて対面した、という状況を、一番忠実に描いている絵
です。惜しむらくは、宗達の絵のように、もう少し男女の間に距離があったなら、と
いうところでしょうか。
まるで梅雨が明けてしまったかのような日差しと気温の一日でした。
もちろん、ここは沖縄ではありません。梅雨はまだ続くはずなのですが、
「梅雨が明けるとこれよりももっと暑いのだから覚悟しておきなさい」と、
梅雨明けリハーサルをされているような気分でした。
おまけに、半数以上の方がご利用になっている南武線が止まってしまい、
開始時間には間に合わなかったかたも大勢いらっしゃいました(南武線の
皆さま、お疲れさまでした!)。
「伊勢物語」も12回目、ということは一年間読んだことになります。今回で
終わりに出来れば一番良かったのですが、やはりそうそう上手くは行かず、
「来月は時間を30分延長して、最後まで読み終えます。」と宣言してまいり
ました(大丈夫かな?)
今日は第88段~第100段までを読みました。
第95段は、二条の后(高子)のもとに仕えている男女がいて、男のほうが
女に熱心に求愛し続けており、「いかでものごしに対面して、おぼつかなく
思ひつめたること、すこしはるかさむ」(なんとか物越しにでもお目にかかって、
心もとなくあなたのことを思い詰めている状態を少し晴れ晴れとさせたい)と
言ったところ、女が物越しに対面してくれました。そこで男が「彦星に恋は
まさりぬ天の河へだつる関をいまはやめてよ」(彦星が織姫を思うよりも
私の恋のほうが勝ってしまった。今はこの天の川のような隔ての関と
なっている物越しを止めてください)と詠むと、女はこの歌に感動して、
物越しではなく逢ってくれました、という話です。
ちなみに、「あべのハルカス」の「ハルカス」は、この「はるかさむ」(動詞の
「晴かす」の未然形に意思の助動詞の「む」がついた形)の動詞「はるかす」
に由来しているそうです。
この段は、「伊勢絵」にも多く描かれていますが、すべて、男と女が物越し
(絵はみな御簾越しとしている)に対面しているところを描いています。


「伊勢物語色紙貼交屏風」(16世紀) 「伊勢物語図屏風」(17世紀)
上の二枚の絵は、共に男が御簾に手をかけ、かなり強引に女を口説いている
印象を受けます。

「宗達伊勢物語図色紙」
この絵になると、男が強引に女に迫ろうとしておらず、距離を持って座っている
ことで、男が静かに歌を詠みかけている奥ゆかしさが感じられます。表情も上品
です。そうした態度の男が詠んだ歌だからこそ、女の心に届いたのだと、物語に
対する解釈の深さが窺える絵となっています。

住吉如慶「伊勢物語絵巻」(17世紀)
最後にもう一枚。「物越し」にて対面した、という状況を、一番忠実に描いている絵
です。惜しむらくは、宗達の絵のように、もう少し男女の間に距離があったなら、と
いうところでしょうか。
憎めない人ー雲居の雁ー
2016年6月15日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第178回)
雨は上がっていたものの、どんよりとした空に「ああ、梅雨だなぁ」と
思いながら、折りたたみの軽量傘をバッグに入れて出かけました。
湘南台での例会を終え、外へ出たらうっすらと日が差しているでは
ありませんか。今年の梅雨は傘を差す機会が少ない気がします。
単にタイミングよく外出しているだけかもしれませんが・・・。
湘南台のクラスも、今回で「夕霧」の巻を読み終えました。
ようやく落葉の宮と結ばれてやれやれ、と思う間もなく、本妻の雲居の雁
が怒って実家へ帰ってしまいました。舅(致仕の大臣)への手前もあり、
夕霧は雲居の雁を迎えに致仕の大臣邸に出向きました。
夕霧が到着すると、雲居の雁は子供たちを乳母に預けて、ちょうど実家に
里帰り中の弘徽殿の女御(雲居の雁の異母姉)のところでおしゃべりに
興じているとのこと。夕霧はいい気なものだ、と思いつつ、特になだめも
せずに、その日は致仕の大臣邸で、一人でおやすみになりました。
雲居の雁は今31歳。14歳の時に夕霧と引き裂かれて、当時内大臣だった
父邸に連れて行かれました。内大臣は「立后争いに敗れた弘徽殿の女御を
里下がりさせて、雲居の雁に話し相手をさせよう」と言っていましたから、
異腹ではあっても、二人はその頃から慣れ親しんだ仲なのでしょう。
内大臣の本妻は、右大臣家の四の君で、夕顔に嫌がらせをするような
気の強い人だったようですが、継娘の雲居の雁は、いじめられた様子も
なく、6年間を内大臣邸で過ごし、晴れて夕霧と結婚しました。
これまでの夕霧との遣り取りを見ても、今時の夫婦のように、言いたいことを
夕霧にぶつけています。もちろんこれは、幼い頃から一緒に大宮のもとで
育てられた、ということが大きいでしょうが、生来の雲居の雁の性格にも起因
していると思われます。
一夜明け、開き直った夕霧が「あなたが残して行った子供たちは、私が何とか
育てますよ」と、離縁をちらつかせると、子供たちまで全部夕霧に取られて
しまうのではないかと、不安になっています。そんな雲居の雁のことを、作者も
「すがすがしき御心にて」(真っ直ぐなご性格なので)と、言っています。
夕霧が落葉の宮という新しい妻を得て、雲居の雁が実家に帰ったという話は、
藤典侍(惟光の娘・夕霧の愛人)の耳にも入り、雲居の雁に歌を贈って来ます。
「数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな」
(私が妻としての人数に入れて頂ける身ならば、我が身のこととして
思い知らされもする夫婦の仲のことでしょうが、そうではないお陰で、
今はあなた様のために涙で袖を濡らしておりますわ)
雲居の雁とは身分差があるので、これまで妻として同列に扱われることも
なかった藤典侍が、落葉の宮という身分の高い人が現れたことで、雲居の雁
も思い知ったのでは、という屈折した心理が窺える歌ですが、これに対して
雲居の雁が、
「人の世の憂きをあはれと見しかども身にかへむとは思はざりしを」
(他所のご夫婦の仲を、お気の毒に、と思うことはあったけれど、まさか
我が身に降りかかってくるなんて思いもしませんでした)
と、余りにも率直な返歌をしたので、藤典侍も、「おぼしけるままと、
あはれに見る」(お気持ちのままに書いておられること、とご同情して
見る)よりほかないのでした。
このように他意のない、素直で可愛い性格だからこそ、内大臣の北の方を
はじめ、誰もが雲居の雁を憎むことはできなかったのでしょう。
雲居の雁の性格は十分承知している夕霧とのこと。ですから、この家庭騒動
もそのうち収まったらしく、第三部でも雲居の雁はれっきとした夕霧の北の方
として登場してきます。
雨は上がっていたものの、どんよりとした空に「ああ、梅雨だなぁ」と
思いながら、折りたたみの軽量傘をバッグに入れて出かけました。
湘南台での例会を終え、外へ出たらうっすらと日が差しているでは
ありませんか。今年の梅雨は傘を差す機会が少ない気がします。
単にタイミングよく外出しているだけかもしれませんが・・・。
湘南台のクラスも、今回で「夕霧」の巻を読み終えました。
ようやく落葉の宮と結ばれてやれやれ、と思う間もなく、本妻の雲居の雁
が怒って実家へ帰ってしまいました。舅(致仕の大臣)への手前もあり、
夕霧は雲居の雁を迎えに致仕の大臣邸に出向きました。
夕霧が到着すると、雲居の雁は子供たちを乳母に預けて、ちょうど実家に
里帰り中の弘徽殿の女御(雲居の雁の異母姉)のところでおしゃべりに
興じているとのこと。夕霧はいい気なものだ、と思いつつ、特になだめも
せずに、その日は致仕の大臣邸で、一人でおやすみになりました。
雲居の雁は今31歳。14歳の時に夕霧と引き裂かれて、当時内大臣だった
父邸に連れて行かれました。内大臣は「立后争いに敗れた弘徽殿の女御を
里下がりさせて、雲居の雁に話し相手をさせよう」と言っていましたから、
異腹ではあっても、二人はその頃から慣れ親しんだ仲なのでしょう。
内大臣の本妻は、右大臣家の四の君で、夕顔に嫌がらせをするような
気の強い人だったようですが、継娘の雲居の雁は、いじめられた様子も
なく、6年間を内大臣邸で過ごし、晴れて夕霧と結婚しました。
これまでの夕霧との遣り取りを見ても、今時の夫婦のように、言いたいことを
夕霧にぶつけています。もちろんこれは、幼い頃から一緒に大宮のもとで
育てられた、ということが大きいでしょうが、生来の雲居の雁の性格にも起因
していると思われます。
一夜明け、開き直った夕霧が「あなたが残して行った子供たちは、私が何とか
育てますよ」と、離縁をちらつかせると、子供たちまで全部夕霧に取られて
しまうのではないかと、不安になっています。そんな雲居の雁のことを、作者も
「すがすがしき御心にて」(真っ直ぐなご性格なので)と、言っています。
夕霧が落葉の宮という新しい妻を得て、雲居の雁が実家に帰ったという話は、
藤典侍(惟光の娘・夕霧の愛人)の耳にも入り、雲居の雁に歌を贈って来ます。
「数ならば身に知られまし世の憂さを人のためにも濡らす袖かな」
(私が妻としての人数に入れて頂ける身ならば、我が身のこととして
思い知らされもする夫婦の仲のことでしょうが、そうではないお陰で、
今はあなた様のために涙で袖を濡らしておりますわ)
雲居の雁とは身分差があるので、これまで妻として同列に扱われることも
なかった藤典侍が、落葉の宮という身分の高い人が現れたことで、雲居の雁
も思い知ったのでは、という屈折した心理が窺える歌ですが、これに対して
雲居の雁が、
「人の世の憂きをあはれと見しかども身にかへむとは思はざりしを」
(他所のご夫婦の仲を、お気の毒に、と思うことはあったけれど、まさか
我が身に降りかかってくるなんて思いもしませんでした)
と、余りにも率直な返歌をしたので、藤典侍も、「おぼしけるままと、
あはれに見る」(お気持ちのままに書いておられること、とご同情して
見る)よりほかないのでした。
このように他意のない、素直で可愛い性格だからこそ、内大臣の北の方を
はじめ、誰もが雲居の雁を憎むことはできなかったのでしょう。
雲居の雁の性格は十分承知している夕霧とのこと。ですから、この家庭騒動
もそのうち収まったらしく、第三部でも雲居の雁はれっきとした夕霧の北の方
として登場してきます。
第一帖「桐壺」の巻・全文訳(5)
2016年6月13日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第3回)
本日読みました「桐壺」の巻(19頁・11行目~25頁・11行目まで)の
前半に当たる部分(119頁・11行目~22頁・11行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
野分めいた風が吹いて、急に肌寒くなった夕暮時、帝はいつもより
思い出されることが多くて、靫負の命婦という女房を、更衣にお里に
お遣わしになりました。夕月の美しい時刻に出立させなさって、帝は
そのまま物思いに耽っていらっしゃいます。このような月の美しい夜は、
管弦の遊びなどをおさせになったものでしたが、更衣は格別な琴の
音色で演奏をし、ふと帝のお耳に入れるお言葉や人よりも優れていた
風情や容貌が、面影となってひたと身に添っているように思われるに
つけても、それはやはり夢のようで、闇の中の現実にも及ばないもの
でございました。
命婦は更衣のお里に着いて、門の中へ牛車を引き入れるやいなや、
雰囲気に哀れなものが感じられました。夫はすでに亡くなっていても、
娘一人の後ろ盾として、とかく手入れをして、見苦しくないように気を
遣ってお暮らしになっていましたが、子に先立たれた悲しみに目の前
が真っ暗になり、悲嘆にくれていらっしゃるうちに、草も丈高くなり、
それが野分で一層荒れた感じがして、月光だけが生い茂る雑草にも
遮られずに差し込んでおります。
寝殿の南面に命婦を牛車から降ろして座らせ、母君もすぐには
何もおっしゃることができません。「今まで生きておりますのが
大層情けのうございますのに、このような帝からのご使者が
草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、まことに
身の置きどころもございません」と言って、本当にこらえ切れない
ご様子でお泣きになります。命婦は、「こちらに弔問にお伺いした
典侍が『お訪ねしますと、いっそうお気の毒で、胸も張り裂けそうで
ございました』と帝におっしゃっておられましたが、私のような物の
情趣のわからない者にも、いかにも堪え難く存じられます」と言って、
少し気持ちを落ち着けてから、帝のお言葉をお伝え申し上げました。
「『更衣が亡くなってからしばらくの間は夢ではないか、とばかり
思われたが、次第に心が静まるにつれて、覚めるはずもないこととて
耐えられぬ思いがするのは、どうすればよいのかと、相談できる相手
さえいないので、母君がこっそりと参内しては下さいませんか。
若宮のことがとても気掛かりで、涙がちなところにお過ごしになって
いるのも、おいたわしく思われるので、急ぎ参内して頂きたい』などと、
はっきりと最後までおっしゃることも出来ず、涙にむせ返らせなさり
ながらも、一方ではお側の人も何とお気の弱いこととお見受けしよう
と、人目を憚っておられぬわけでもないご様子がおいたわしくて、
お言葉を最後まで承らないような有様で、退出して参りました」と言って
帝からのお手紙を母君に差し上げました。「涙にくれて目も見えませんが、
只今の恐れ多いお言葉を光として拝見いたします」と言ってご覧になります。
時が経てば少しは紛れることもあろうかと、心待ちに過ごす月日が
経つにつれて、とても我慢が出来ない状態なのが困ったことです。
幼い若宮がどうしているかと案じながら、一緒に養育できないのが
気掛かりでなりませんので、今は若宮を更衣の形見と思って一緒に
宮中に参られよ
などと、お心を込めてお書きになっておられました。
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」
(宮中を吹き渡る風の音を聞くにつけても、涙を催し、若君のことが
思い遣られてなりません)
と、書いてありますが、母君はとても最後まではご覧になれません。
「長生きが、たいそう辛いものだと思知らされるにつけ、高砂の松が
どう思うかということさえ、恥ずかしいことでございますので、宮中に
お出入りするのは、ましてや憚られることが多うございます。
畏れ多いお言葉を度々頂戴しながら、私自身はとても決心できそう
にはございません。若宮はどこまでお分りなのか、しきりに早く宮中へ
お出でになりたがっておられるようですので、それもごもっともと、
悲しく拝見していることなど、私が内心思っておりますことを、
ご奏上くださいませ。私は娘に先立たれた不吉な身でございますから、
若宮がこうしてここにいらっしゃるのも、憚られ、畏れ多いことで」と
おっしゃいます。
本日読みました「桐壺」の巻(19頁・11行目~25頁・11行目まで)の
前半に当たる部分(119頁・11行目~22頁・11行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
野分めいた風が吹いて、急に肌寒くなった夕暮時、帝はいつもより
思い出されることが多くて、靫負の命婦という女房を、更衣にお里に
お遣わしになりました。夕月の美しい時刻に出立させなさって、帝は
そのまま物思いに耽っていらっしゃいます。このような月の美しい夜は、
管弦の遊びなどをおさせになったものでしたが、更衣は格別な琴の
音色で演奏をし、ふと帝のお耳に入れるお言葉や人よりも優れていた
風情や容貌が、面影となってひたと身に添っているように思われるに
つけても、それはやはり夢のようで、闇の中の現実にも及ばないもの
でございました。
命婦は更衣のお里に着いて、門の中へ牛車を引き入れるやいなや、
雰囲気に哀れなものが感じられました。夫はすでに亡くなっていても、
娘一人の後ろ盾として、とかく手入れをして、見苦しくないように気を
遣ってお暮らしになっていましたが、子に先立たれた悲しみに目の前
が真っ暗になり、悲嘆にくれていらっしゃるうちに、草も丈高くなり、
それが野分で一層荒れた感じがして、月光だけが生い茂る雑草にも
遮られずに差し込んでおります。
寝殿の南面に命婦を牛車から降ろして座らせ、母君もすぐには
何もおっしゃることができません。「今まで生きておりますのが
大層情けのうございますのに、このような帝からのご使者が
草深い宿の露を分けてお訪ね下さるにつけても、まことに
身の置きどころもございません」と言って、本当にこらえ切れない
ご様子でお泣きになります。命婦は、「こちらに弔問にお伺いした
典侍が『お訪ねしますと、いっそうお気の毒で、胸も張り裂けそうで
ございました』と帝におっしゃっておられましたが、私のような物の
情趣のわからない者にも、いかにも堪え難く存じられます」と言って、
少し気持ちを落ち着けてから、帝のお言葉をお伝え申し上げました。
「『更衣が亡くなってからしばらくの間は夢ではないか、とばかり
思われたが、次第に心が静まるにつれて、覚めるはずもないこととて
耐えられぬ思いがするのは、どうすればよいのかと、相談できる相手
さえいないので、母君がこっそりと参内しては下さいませんか。
若宮のことがとても気掛かりで、涙がちなところにお過ごしになって
いるのも、おいたわしく思われるので、急ぎ参内して頂きたい』などと、
はっきりと最後までおっしゃることも出来ず、涙にむせ返らせなさり
ながらも、一方ではお側の人も何とお気の弱いこととお見受けしよう
と、人目を憚っておられぬわけでもないご様子がおいたわしくて、
お言葉を最後まで承らないような有様で、退出して参りました」と言って
帝からのお手紙を母君に差し上げました。「涙にくれて目も見えませんが、
只今の恐れ多いお言葉を光として拝見いたします」と言ってご覧になります。
時が経てば少しは紛れることもあろうかと、心待ちに過ごす月日が
経つにつれて、とても我慢が出来ない状態なのが困ったことです。
幼い若宮がどうしているかと案じながら、一緒に養育できないのが
気掛かりでなりませんので、今は若宮を更衣の形見と思って一緒に
宮中に参られよ
などと、お心を込めてお書きになっておられました。
「宮城野の露吹きむすぶ風の音に小萩がもとを思ひこそやれ」
(宮中を吹き渡る風の音を聞くにつけても、涙を催し、若君のことが
思い遣られてなりません)
と、書いてありますが、母君はとても最後まではご覧になれません。
「長生きが、たいそう辛いものだと思知らされるにつけ、高砂の松が
どう思うかということさえ、恥ずかしいことでございますので、宮中に
お出入りするのは、ましてや憚られることが多うございます。
畏れ多いお言葉を度々頂戴しながら、私自身はとても決心できそう
にはございません。若宮はどこまでお分りなのか、しきりに早く宮中へ
お出でになりたがっておられるようですので、それもごもっともと、
悲しく拝見していることなど、私が内心思っておりますことを、
ご奏上くださいませ。私は娘に先立たれた不吉な身でございますから、
若宮がこうしてここにいらっしゃるのも、憚られ、畏れ多いことで」と
おっしゃいます。
景情一致の名場面
2016年6月13日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第3回)
「梅雨寒」というのでしょうか、今日は気温も低く、細かい雨が降り続く
一日となりました。
「桐壺」の巻の3回目、靫負の命婦が、帝の使者として、亡き桐壺の更衣の
里邸を弔問する場面を読みました。
この場面は、古来「景情一致」の名場面として知られています。
「景情一致」とは、景色とその場にいる人物の心情とが共鳴して、深い感動を
呼び起こすことを言いますが、先ず導入部の、
「野分だちて、にはかに膚寒き夕暮のほど、常よりもおぼしいづること多くて、
靫負の命婦といふをつかはす。夕月夜のをかしきほどにいだし立てさせたまひて、
やがてながめおはします。」(野分めいた風が吹いて、急に肌寒くなった夕暮時、
帝はいつもより思い出されることが多くて、靫負の命婦という女房を、更衣のお里
にお遣わしになりました。夕月の美しい時刻に出立させなさって、帝はそのまま
物思いに耽っていらっしゃいます。)
これだけでも「景情一致」は、十分におわかり頂けるのではないかと思います。
娘に先立たれ、もう庭の手入れなどもする気力が失せ、雑草が伸び放題に
なっているところへ、追い打ちをかける台風のような風。荒れた宿が一層
物寂しく感じられるのですが、月の光だけが、その雑草にも遮られずに
差し込んでいます。この「景」の中で、生きる希望も失い、日々を涙がちに
送っている亡き更衣の母と、帝からの手紙を携えた使者(靫負の命婦)とが
対面するのですから、もうここはぜひ原文を音読して、「景情一致」を存分に
味わって頂きたいと思います。
この後、今回読んだところの全文訳の前半をUPしますので、原文で読まれる
時の内容理解の一助となれば幸いです。
後半の全文訳は、23日(木)のクラスで読んだ後、掲載します。
最後に、後半部分になるのですが、靫負の命婦が後ろ髪を引かれる思いで、
帰ろうとしてしている部分を挙げておきます。「景情一致」をしみじみとどうぞ。
「月は入りかたの空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の
声々もよほし顔なるも、いと立離れにくき草のもとなり」(月が山の端に沈む
頃で、空は清く澄み切っているものの、風がとても涼しくなって、草むらの
様々な虫の声も、まるで一緒に泣け、と言っているかのようで、命婦にとっては、
立ち去りがたいこの草の宿でありました)
「梅雨寒」というのでしょうか、今日は気温も低く、細かい雨が降り続く
一日となりました。
「桐壺」の巻の3回目、靫負の命婦が、帝の使者として、亡き桐壺の更衣の
里邸を弔問する場面を読みました。
この場面は、古来「景情一致」の名場面として知られています。
「景情一致」とは、景色とその場にいる人物の心情とが共鳴して、深い感動を
呼び起こすことを言いますが、先ず導入部の、
「野分だちて、にはかに膚寒き夕暮のほど、常よりもおぼしいづること多くて、
靫負の命婦といふをつかはす。夕月夜のをかしきほどにいだし立てさせたまひて、
やがてながめおはします。」(野分めいた風が吹いて、急に肌寒くなった夕暮時、
帝はいつもより思い出されることが多くて、靫負の命婦という女房を、更衣のお里
にお遣わしになりました。夕月の美しい時刻に出立させなさって、帝はそのまま
物思いに耽っていらっしゃいます。)
これだけでも「景情一致」は、十分におわかり頂けるのではないかと思います。
娘に先立たれ、もう庭の手入れなどもする気力が失せ、雑草が伸び放題に
なっているところへ、追い打ちをかける台風のような風。荒れた宿が一層
物寂しく感じられるのですが、月の光だけが、その雑草にも遮られずに
差し込んでいます。この「景」の中で、生きる希望も失い、日々を涙がちに
送っている亡き更衣の母と、帝からの手紙を携えた使者(靫負の命婦)とが
対面するのですから、もうここはぜひ原文を音読して、「景情一致」を存分に
味わって頂きたいと思います。
この後、今回読んだところの全文訳の前半をUPしますので、原文で読まれる
時の内容理解の一助となれば幸いです。
後半の全文訳は、23日(木)のクラスで読んだ後、掲載します。
最後に、後半部分になるのですが、靫負の命婦が後ろ髪を引かれる思いで、
帰ろうとしてしている部分を挙げておきます。「景情一致」をしみじみとどうぞ。
「月は入りかたの空清う澄みわたれるに、風いと涼しくなりて、草むらの虫の
声々もよほし顔なるも、いと立離れにくき草のもとなり」(月が山の端に沈む
頃で、空は清く澄み切っているものの、風がとても涼しくなって、草むらの
様々な虫の声も、まるで一緒に泣け、と言っているかのようで、命婦にとっては、
立ち去りがたいこの草の宿でありました)
女三宮の裳着
2016年6月10日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第96回)
今日は梅雨の晴れ間の一日となりました。気温も真夏日に迫る
ところまで上昇して、街では半袖姿の人が目立ちました。
またちょっと、例の「ニューベン・ゼミ」の古典文法の話に時間を
使ってしまい、最後は区切りのよいところまで、と思って読んでいたら、
大幅に時間延長になってしまいました。27日の「湖月会」のほうでは
もう文法の話などせずに、ちゃんと時間内で終われるようにします。
(今日のクラスの方、ごめんなさい 🙇 )
もう一年程前になりますが、昨年6月22日の「源氏物語(第一部)に見る
『裳着』」というタイトルの記事の中で、「紫の上」、「玉鬘」、「明石の姫君」
の裳着をご紹介しました。その時「第二部以降の裳着については、またの
機会に触れたいと思います」と書いたのですが、本日読んだところに、
「女三宮」の裳着が出て来ましたので、ここで取り上げておきます。
朱雀院は体調がすぐれない状態が続いているので、早く出家したいと
お考えですが、そのために「ほだし」(出家の妨げとなっている存在)で
ある「女三宮」を、安心して任せられる男性と娶せたいとお思いでした。
女性が裳着を挙げるというのは、「我が家には結婚できる娘がいますよ」
という意思表示であり、普通は結婚の予定が立ったところで行われるもの
でした。
朱雀院も、女三宮を源氏に降嫁させる心積もりができたので、裳着を
お急ぎになったのです。
部屋のしつらいにはすべて舶来の品を使い、腰結(裳の紐を結ぶ役)も
時の最高権力者の太政大臣(もとの内大臣・玉鬘や雲居雁の父)に
依頼されて、他の大臣や上達部、八人の親王をはじめ、殿上人や、
天皇、東宮にお仕えしている人々が残らず参集するという、この上ない
盛大な儀式となりました。
帝、東宮、源氏からも、見事なお祝いの品々が贈られ、太政大臣への
引出物や、来客へのお土産、ご祝儀などは、源氏から献上されたものが
充てられたのでした。
秋好む中宮からもお祝いの品が届きましたが、その中に、嘗て中宮が
冷泉帝に入内された折、朱雀院か贈られた髪上げの道具が、裳着用に
手が加えられて入っていました。
朱雀院は「発遣の儀」(天皇が斎宮を伊勢に送り出す儀式)の際、
当時まだ14歳だった斎宮(のちの秋好む中宮)に、「玉の小櫛」と
呼ばれる黄楊の小櫛を挿し、その可憐な姿に好意を抱かれたのでした。
朱雀院の退位によって斎宮を退下した前斎宮を、朱雀院はご所望に
なりましたが、源氏と藤壺の宮に阻まれ、前斎宮は冷泉帝に入内した
のでした。
「別れ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき仲と神やいさめし」
(あなたが伊勢に下向される際に私が挿した別れの小櫛を口実にして
神はあなたとの仲は遠いものなのだ、とお諫めなのでしょうか)
と、冷泉帝入内の時に、朱雀院からの贈り物に添えられていた歌を、
中宮もずっと心に留めておられたのでしょう。
「さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける」
(櫛を挿していただいた昔のまま、玉の小櫛をずっと今日まで
持ち続けてまいりましたので、もうすっかり古びたものとなって
しまいました)
この中宮からの歌をご覧になって、朱雀院はしみじみと、往時を
偲ばれました。
女三宮の裳着の話が、朱雀院と秋好む中宮の話にまで及び、随分
長くなってしまいましたが、ここに二人の話が挿入された意味を考えると、
やがて生じる女三宮と柏木の事件は、源氏の藤壺との若き日の過ちに
対する報復のみならず、朧月夜と密通を犯し、前斎宮をも思い通りには
させなかった、源氏の朱雀院への仕打ちに対する報復でもあった、と
考えられるのではないでしょうか。
今日は梅雨の晴れ間の一日となりました。気温も真夏日に迫る
ところまで上昇して、街では半袖姿の人が目立ちました。
またちょっと、例の「ニューベン・ゼミ」の古典文法の話に時間を
使ってしまい、最後は区切りのよいところまで、と思って読んでいたら、
大幅に時間延長になってしまいました。27日の「湖月会」のほうでは
もう文法の話などせずに、ちゃんと時間内で終われるようにします。
(今日のクラスの方、ごめんなさい 🙇 )
もう一年程前になりますが、昨年6月22日の「源氏物語(第一部)に見る
『裳着』」というタイトルの記事の中で、「紫の上」、「玉鬘」、「明石の姫君」
の裳着をご紹介しました。その時「第二部以降の裳着については、またの
機会に触れたいと思います」と書いたのですが、本日読んだところに、
「女三宮」の裳着が出て来ましたので、ここで取り上げておきます。
朱雀院は体調がすぐれない状態が続いているので、早く出家したいと
お考えですが、そのために「ほだし」(出家の妨げとなっている存在)で
ある「女三宮」を、安心して任せられる男性と娶せたいとお思いでした。
女性が裳着を挙げるというのは、「我が家には結婚できる娘がいますよ」
という意思表示であり、普通は結婚の予定が立ったところで行われるもの
でした。
朱雀院も、女三宮を源氏に降嫁させる心積もりができたので、裳着を
お急ぎになったのです。
部屋のしつらいにはすべて舶来の品を使い、腰結(裳の紐を結ぶ役)も
時の最高権力者の太政大臣(もとの内大臣・玉鬘や雲居雁の父)に
依頼されて、他の大臣や上達部、八人の親王をはじめ、殿上人や、
天皇、東宮にお仕えしている人々が残らず参集するという、この上ない
盛大な儀式となりました。
帝、東宮、源氏からも、見事なお祝いの品々が贈られ、太政大臣への
引出物や、来客へのお土産、ご祝儀などは、源氏から献上されたものが
充てられたのでした。
秋好む中宮からもお祝いの品が届きましたが、その中に、嘗て中宮が
冷泉帝に入内された折、朱雀院か贈られた髪上げの道具が、裳着用に
手が加えられて入っていました。
朱雀院は「発遣の儀」(天皇が斎宮を伊勢に送り出す儀式)の際、
当時まだ14歳だった斎宮(のちの秋好む中宮)に、「玉の小櫛」と
呼ばれる黄楊の小櫛を挿し、その可憐な姿に好意を抱かれたのでした。
朱雀院の退位によって斎宮を退下した前斎宮を、朱雀院はご所望に
なりましたが、源氏と藤壺の宮に阻まれ、前斎宮は冷泉帝に入内した
のでした。
「別れ路に添へし小櫛をかごとにてはるけき仲と神やいさめし」
(あなたが伊勢に下向される際に私が挿した別れの小櫛を口実にして
神はあなたとの仲は遠いものなのだ、とお諫めなのでしょうか)
と、冷泉帝入内の時に、朱雀院からの贈り物に添えられていた歌を、
中宮もずっと心に留めておられたのでしょう。
「さしながら昔を今に伝ふれば玉の小櫛ぞ神さびにける」
(櫛を挿していただいた昔のまま、玉の小櫛をずっと今日まで
持ち続けてまいりましたので、もうすっかり古びたものとなって
しまいました)
この中宮からの歌をご覧になって、朱雀院はしみじみと、往時を
偲ばれました。
女三宮の裳着の話が、朱雀院と秋好む中宮の話にまで及び、随分
長くなってしまいましたが、ここに二人の話が挿入された意味を考えると、
やがて生じる女三宮と柏木の事件は、源氏の藤壺との若き日の過ちに
対する報復のみならず、朧月夜と密通を犯し、前斎宮をも思い通りには
させなかった、源氏の朱雀院への仕打ちに対する報復でもあった、と
考えられるのではないでしょうか。
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