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講演内容に共感!

2016年7月30日(土)

梅雨が明けて最初の週末。夏空が広がり、気温も30度を超えて
真夏日に。ちょっと堪える暑さとなりました。

そんな中、「横浜歌人会」主催の、「源氏物語のことばと表現
ー源氏物語の訳を終えて」と題した、中野幸一先生の講演会に、
源氏物語のお仲間10人と共に参加して来ました。

会場の「横浜市開港記念会館」は、国の重要文化財に指定されている
大正期の代表的建築物で、外観も、館内も、レトロな雰囲気が素敵で、
写真に収めて参りました。
 
      DSCF2646.jpg
                  建物外観

      DSCF2650.jpg
2階広間のステンドグラス(左:呉越同舟、中央:鳳凰、右:箱根越え)


さて、ここからが今日の本題となるわけですが、僭越ながら、4月から、
「源氏物語」の全文訳に取り組んでいる私としましては(まだ「桐壺」
だけなのでどこまでやれるかわからないのに、広言を吐いて大丈夫?
と自分でも思うのですが)、実にタイムリーなお話を伺うことができました。

「源氏物語」は「語りの文学」なので、「です・ます調」の語りの文体で
訳された、ということに先ず共感!

主語の補い方、「いと」のように多用される語を出来るだけ同じ訳に
ならないようにする、文法的に乖離しないよう気をつける、「引き歌」や
「縁語」、「掛詞」などの部分で、文中には書かれていないけれど、
作者が読者に真に伝えたいことを、どこまでどう訳せばよいか、等々、
先生のおっしゃることの一つ一つに、「そうです、そうです」と頷いて
耳を傾けておりました。

中でも、一番苦労するのが、紫式部の一文の長さ。作者自身は興に
乗って書き連ねたのかもしれませんが、そのまま直訳して行くと、
出来上がった文章は何とも通りの悪い日本語になってしまい、どうしても、
途中で切らざるを得ない場合があります。中野先生は出来るだけ
長い一文の特色を生かすように訳した、とおっしゃっていたので、
この辺りは、ぜひ参考にさせて頂きたいところです。

全10冊になるこの「正訳源氏物語」、揃えて手許に置きたい気も
するのですが、そうなると、また本箱のスペースをどうやって確保
すればよいのか、悩むところであります。

今回、このような貴重な講演会に参加することができたのは、
大学の同期生のお一人が、「横浜歌人会」に所属なさっていて
お声を掛けてくださったおかげで、本当に有難いご縁に感謝です。


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長恨歌(2)

2016年7月28日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第4回)

ようやく関東甲信地方の梅雨が明けました。去年よりも、18日も
遅い梅雨明けだそうです。久しぶりに暑さを感じましたが、まだ
この程度なら楽ですね。

今日は「紫の会・木曜クラス」のほうで、11日の月曜クラスと同様、
「長恨歌」を読みました。11日のブログでは前半よりピックアップ
しましたので、今回は後半からです。

楊貴妃を失った玄宗皇帝の悲しみは深く、とうとう不眠症に陥って
しまいました。玄宗の使者となった方士が、仙界に楊貴妃の魂を
尋ね出し、面会します。方士は楊貴妃から、玄宗への形見の品を
託されるのでした。

先月の「紫の会」では、桐壺の更衣のお里を弔問した靫負の命婦が、
更衣の母上から、形見の品を戴いて帰参する、というところまでを、
読みました。来月の講読箇所になりますが、それに続く場面で、
宮中に戻った靫負の命婦は、帝に、頂戴した物をお見せします。
それをご覧になって帝は次の歌を詠まれました。

「尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」
(亡き更衣の魂を捜し出してくれる幻術士がほしい。人づてでも
よいから、魂の在処をそこだど知ることができるように)

「桐壺」の巻の前半は、「長恨歌」の一つのバリエーションの
ような形で語られていますが、「光源氏」を主人公とする最後の
巻「幻」で、今度は源氏が紫の上を追慕して、同じような歌を
詠んでいます。

「大空をかよふ幻夢にだに見えこぬ魂の行方たづねよ」
(大空を飛び交う幻術士よ、夢にさえ現れてくれない紫の上の
魂の行方を尋ね出しておくれ)

「光源氏」の物語は、「長恨歌」に始まり、終幕に至って、再び
「長恨歌」に回帰して行くのです。

やはり「長恨歌」を抜きにして、「源氏物語」を読むことは出来ない、
それが、今月の「紫の会」で、「長恨歌」を取り上げた所以です。

もう一つ、今度は狩野山雪の「長恨歌絵巻」と「源氏物語」との
繋がりです。

       絵巻の最後に描かれている部分です。
   長恨歌絵巻・夢の浮橋
 天に架かる虹のような浮橋の絵です。おそらく山雪が描こうと
したのは「夢の浮橋」だと思われます。直接的には、定家の名歌、

「春の夜の夢の浮橋途絶えして峰に別るる横雲の空」
(春の夜の浮橋のようなはかない夢から覚めて、ふと見上げると
峰から離れて行く横雲が目に映った空であることよ)

を下地にして描いたかと考えられますが、定家の歌そのものが、
「源氏物語」の物語情趣をふまえたものであり、この絵も、男女が
再び結ばれることのない、「源氏物語」の最終章・「夢の浮橋」の巻を
連想させる着眼のもとに描かれたことは間違いないでしょう。


女房たちの嫌がらせ

2016年7月25日(月) 溝の口「湖月会」(第97回)

今日もまだ涼しい日が続いています。でも、今週の後半には
真夏日となって、梅雨明けしそう、との予報が出ています。

溝の口の「湖月会」は、第2金曜日のクラス(7月8日)と同じ、
女三宮の降嫁によって、紫の上が苦悶する姿を中心に、
「若菜上」を読み進めました。

ここでちょっと注目したいのは、物語の主人公になることは
ありませんが、蔭の立役者とも言うべき「女房」という存在です。

お嬢様育ちの上流貴族の姫君たちは、自分の判断で動くことは
ほとんどなく、「女房」と呼ばれる侍女たちに運命が委ねられて
いた、と言っても過言ではありません。

「若菜下」で生じる、女三宮と柏木も密通事件も、小侍従という
女房の手引きがあったがゆえのことです。

第一部で、源氏が藤壺との密会を果たすのも、王命婦という
女房の手引きがあったからです。

このように、密会の手引きをするのは、殆ど女房の仕業ですし、
勤務先の情報を流し、また他家の情報をキャッチするのも、
女房たちです。個人情報も何も、女房の前では、ひとたまりも
ありません。女君たちも、女房を上手く捌く術を身に着けていない
と、思わぬことが起こりかねないのでした。

紫の上は、女三宮の降嫁に不満を漏らす女房たちを宥め、
大様に構えている素振りを見せています。ですから、7月8日の
ブログにも書いたような、眠れない自分を女房たちに悟られまい
とする気遣いまでしなくてはならないのです。

しかし、女房たちは違います。結婚後三日間は新妻のところへ
通わなくてはならないことは知っていても、源氏が女三宮のもとで
夜を過ごすのが面白くありません。早朝に女三宮のもとから
戻って来た源氏が、格子戸を叩いても、「人々も空寝をしつつ、
やや待たせたてまつりて、引きあげたり。」(女房たちも狸寝入りを
しながら、少し源氏を外でお待たせしてから、格子戸を引き上げた
のでした。」とあるのは、雪の寒さの中で、少し源氏を待たせて
懲らしめてやろう、という女房たちの魂胆なのでした。

女房の動きを追って物語を読むのも、なかなか面白いものです。


カルトナージュ講習(その2)

2016年7月22日(金)

昨日、今日と、とても7月下旬とは思えない涼しい日が続いています。
最高気温が20度台前半で、駅でも、町でも、ほとんどの人が羽織物を
身につけていました。

3月にカルトナージュで「光琳かるた用のスタンド」の講習をして頂き、
毎月「光琳かるた」の入れ替えを楽しんで、ブログにもUPしていますが、
その時に見せていただいた「フリーボックス」(ごめんなさい、ずっとゴミ箱
なんて呼んでいました)の講習が、今月実現しました。

1回目は7月12日で、今日が2回目でした。

今回の参加者は4名。教えてくださるのは、3月の時と同じ、溝の口の
源氏物語「湖月会」の代表を務めてくださっている、カルトナージュの
認定講師の先生。

他の皆さまはフリーボックスを作られましたが、私は、A4のファイルが
すっぽり収まる箱が欲しかったので、それをお願いしました。

お料理でも何でもそうですが、一番大変なのは下ごしらえの段階です。
でも、それはすべて先生がしてくださっていて、私たちがするのは、主に
糊付け作業。パン粉までつけてあるのを揚げるだけのようなものです。

それでも、作品が完成すると、錯覚でも何でも、とにかく自分で手作りした!
という満足感で思わずニンマリ…ふふっ。

   
    DSCF2640.jpg
   それぞれ好みの生地を選んで、いざ挑戦。配色の美しさも
   カルトナージュの魅力の一つです。

     
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     本日の私の成果。A4ファイル用の箱と、余った時間で
     おまけに作らせてくださったパスネットケース。

先生のブログの「何になるのかな?」のこぎれの意味がわかりました。

とっても楽しい第2回目カルトナージュ講習の一日でした。
また機会があったらぜひ参加したいと思います(先生からは「調子に
乗らないでください」と言われそうですが・・・)。


六条院の女君たちのランク付け

2016年7月20日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第179回)

関東はまだ梅雨が明けません。明日は雨で、最高気温も25度との
予報が出ています。猛暑も困りますが、7月下旬になって、これも
首を傾げたくなりますね。

湘南台クラスは、今回から第40帖「御法」の巻に入り、光源氏を
主人公とする物語も、残り少なくなって来ました。

「御法」の巻は、源氏51歳、紫の上43歳の晩春から始まります。

ここ数年、体調のすぐれない紫の上は、もう余命幾ばくも無いことを
悟り、出家を願いますが、相変わらず源氏の許しを得ることが出来ず
にいます。

三月十日、紫の上は二条院で、法華経千部の供養をなさいました。
盛大な法要となり、六条院から花散里や明石の上も参会しましたが、
ここで六条院の女君たちの序列が明確になります。

「花散里と聞こえし御方、明石などもわたりたまへり」(花散里と
申し上げた御方や、明石なども、二条院へとお出でになった)

この巻の冒頭で紫の上は「紫の上」と書かれています。「御方」は
「上」よりも格下です。明石の上が、「明石」と呼び捨てになっている
ことから、六条院では正妻の女三宮をトップに、以下「紫の上」→
「花散里」→「明石の上」という順でランク付けされていたことが
わかります。女三宮は皇女、紫の上は親王の娘、花散里は姉が女御
だったので、おそらく大臣家の娘、そして明石の上は受領の娘、という
わけで、如何に出自がものを言う社会だったか、おわかり頂けるかと
思います。

この法華経千部供養を境に、紫の上は病床に臥すこととなり、夏が過ぎ、
やがて秋風が身に沁むようになったころ、消えゆく露のように亡くなって
行きます。

「風すごく吹き出でたる夕暮に」という景情一致の名文で始まる紫の上の
臨終場面、次回は哀切極まる「御法」の巻のクライマックスシーンを読む
ことになります。


日比谷「松本楼」と日本橋「木屋」

2016年7月16日(土)

3月19日の「my日記」にも書きましたが、年に3回(3月・7月・12月)、
昔の職場の講師仲間の集いがあります。

今回の幹事さんがセッティングしてくださったのは、日比谷公園の中に
ある「松本楼」3Fの「ボア・ド・ブローニュ」。

「松本楼」は、創業から100年以上経つ老舗レストラン。建物の中に
入ると、孫文夫人の宋慶齢が弾いていたというピアノが展示されていて、
さすがその歴史が感じられます。

エレベーターで3Fに上がって、レストランに入ると窓越しに青々と茂った
木々が見え、癒しの空間が広がっていました。

次々と運ばれてくるお料理に舌鼓を打ちながら、おしゃべりに興じる
楽しい時間・・・。

「今日の一品」として、どのお料理をUPしようかと迷いましたが、口に
運んだ途端、思わず「美味しい!」と声が出た「グリーンアスパラに
コンソメのジュレの冷製スープ」にしました。絶妙なお味でした。

    DSCF2630.jpg
 

皆さまとお別れしてから、私は銀座経由で「三越前」に行き、「木屋」に
寄りました。ちょうどセールが始まったばかりで、店内は大勢の買い物客
で賑わっていました。

今日は息子の嫁の誕生日で、結婚当初はアクセサリーなどをプレゼント
していましたが、ここ数年はすっかり実用品に。去年はティファールの
電気ケトル、今年は木屋のフルーツナイフです。

このフルーツナイフは、30年くらい前に「木屋」で勧められて買って以来、
我が家でほぼ毎日使っているものですが、息子が欲しがっていたので、
「じゃあ、今年はこれで」ということになりました(ちなみに、息子への
誕生日プレゼントはありません)。これから30年、孫が息子の歳になる
くらいまで、このフルーツナイフが活躍してくれると嬉しいですね。

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          「プレゼントにします」と言ったら、
          綺麗に包装してくれました


「伊勢物語」完読!!

2016年7月15日(金) 溝の口「伊勢物語」(第13回)

家を出る時には傘も要らない空の様子で、「まあ、念のため
軽量の折畳みくらいは持っていようか」と、気楽に出掛けましたが、
溝の口の少し手前辺りで、俄かに雲行きが怪しくなったと思った途端、
土砂降りの雨。

「伊勢物語」は今日が最終回、ということで、向河原でお寿司ランチ
(900円の「海鮮丼」が、めっちゃ美味しい!コスパも最高!)を予約して
貰っていたので、瞬く間に水溜りが出来るような雨の中、「大雨のお陰で
今日のランチは忘れられないわね」などと言いながら、その海鮮丼は、
ちゃんと美味しく戴いて、また豪雨の中、溝の口へと引き返したのでした。

2回に分けるほどではないけど、1回分としては多すぎる、という残りを鑑み、
先月、7月の最終回は30分延長させてください、と予めお願いしておきました。

前半は結構順調に進んだので、後半ちょっと油断をしてしまいましたが、
何とか無事に本日、「伊勢物語」を読了しました。

この「伊勢物語」の講読会は、本文の講読はもちろんなのですが、それに
付随する形で、数多く描き残されている「伊勢絵」の鑑賞を目的としてスタート
させました。鑑賞する「伊勢絵」の中心に据えたのは「宗達伊勢物語図色紙」
で、他の絵とは一線を画すオリジナリティーも、随所に見られました。

最終回ということで、「宗達伊勢物語図色紙」の最初(初段)と最後(121段)の
絵を挙げておきましょう。

       宗達・初段
       初段・元服したばかりの男が春日の里に狩りに
       出かけるところ。     

       0121宗達(第121段・梅壺)
       121段・梅壺から雨に濡れて出て行く人に、男が
       「鶯の梅の花笠を着せてあげたい」と、歌を詠み
       かけているところ。この「人」は、現代では女性と
       解釈されていますが、古くは男性と解釈している
       注釈書も多く、宗達の絵も男性が描かれています。
       色紙の詞書も、左から右へと書かれており、初段で
       右から左へと向かって書き始めたものを、最後に
       逆から書いて閉じようとしたのでしょうか。

「伊勢物語」最後の段・125段は、男が病で、もう自分の死を覚悟して
「つひにゆく道とはかねて聞きしかどきのふ今日とは思はざりしを」
(死出の道というものは、人が最後に行く道だと、前々から聞いては
いたが、それが、昨日、今日にさし迫ったことだとは思わなかったこと
だったよ)と、歌を詠んで終わっています。

初冠で若々しく物語上にデビューした男が、繊細で、多彩な雅を体現
しつつ、次第に年老いて、ついにこの世から消えて行く。それは何も
「伊勢物語」の男に限られたことではなく、過ぎ去ってしまえば、誰しも
人生、あっけないものなのかもしれません。

溝の口の「古典文学に親しむ会」は、10月より、同じ第3金曜日の
13:30~15:30の時間帯で、「枕草子」の講読を開始予定です。


今日の一首(23)

2016年7月13日(水) 湘南台「百人一首」(第22回)

突然ですが、皆さまは「青葉の笛」という歌をご存知ですか?

今日、湘南台のクラスでお尋ねしましたら、60代以上は「知っている」、
50代以下は「知らない」、と綺麗に分れました。「青葉の笛」は、年代を
知る一つのバロメーターになるのかもしれませんね。

なぜこんな話になったのかと言いますと、今回取り上げた四首のうちの
三番目、八十三番の歌の作者・藤原俊成が、「青葉の笛」と関わりが
あるからなのです。

「青葉の笛」は明治39年(1906年)に作られた文部省唱歌です。

一番の歌詞は「平敦盛」を、二番の歌詞は「平忠度」を、共に「平家物語」
を題材に作られています。

二番の歌詞です。

「更くる夜半に 門(かど)を敲(たた)き  わが師に託せし 言の葉あわれ
今わの際まで 持ちし箙(えびら)に 残れるは『花や 今宵』の歌」

都落ちしたはずの忠度が、京へ引き返して来て、俊成卿の邸の門を
敲きます。俊成卿は忠度の和歌の師でした。忠度は俊成卿に、「もう
平家一門の命運は尽きました。戦が終わり、勅撰集の撰集をなさる
暁に、この中からたとえ一首でも相応しい歌がございましたら、載せて
頂けないでしょうか」と、歌を書きつけた巻物を俊成卿に託したのでした。
やがて「千載集」が撰進されました。巻物の中に秀歌は沢山あったの
ですが、忠度は勅勘の人だったので、「忠度」の名を出すことも出来ず、
俊成卿は、「さざ浪や志賀の都は荒れにしを 昔ながらの山桜かな」
(旧都の近江京はすっかり荒れ果ててしまったが、昔のままに長等山の
桜だけは美しく咲いていることだなあ)の一首を、「読み人しらず」として
入集させたのでした。

忠度は一の谷の合戦で岡部六野太忠純に討たれて亡くなりましたが、
「行き暮れて木の下蔭を宿とせば花や今宵のあるじならまし」
(落ち延びる道中で日も暮れてしまった。桜の木の下蔭を宿としたならば、
この花が今夜の宿の主人となるであろう)という歌が箙に結びつけられて
いました。それによってこの武将が忠度であったことが分り、敵も味方も
その死を惜しんだのでした。

とまあ、湘南台のクラスでも、長くなってしまった余談なのですが、
「今日の一首」は、この忠度の和歌の師である俊成の歌です。

「世の中よ道こそなけれ思ひ入る山の奥にも鹿ぞ鳴くなる」
                  八十三番・皇太后宮大夫俊成
   83番・俊成
(この世に所詮私が逃れることの出来る道などなかったのだなあ。
もう俗世を捨てようと踏み入った山の奥にも、鹿が悲し気に鳴いて
いることよ)

すでに現世を捨ててしまった老人の歌のようですが、これを詠んだ
時の俊成は27歳。91歳で亡くなるまで、彼にはこの先まだ長い人生が
ありました。


長恨歌(1)

2016年7月11日(月)  溝の口「紫の会・月曜クラス」(第4回)

今月の「紫の会」は、「源氏物語」の講読を中断して、「長恨歌」を
読むことにしました。

「桐壺」の巻の前半、更衣を失った帝の悲しみは、楊貴妃を失った
玄宗皇帝のパロディのように描かれており、作者・紫式部が、
「桐壺」の巻を書くにあたって、最も影響を受けた先行作品は、
「長恨歌」に他ならないと思います。

主人公・光源氏の誕生を記した「桐壺」の巻が「長恨歌」に始まり、
光源氏の物語の最終章「幻」の巻で、再び「長恨歌」へと回帰して行く
「源氏物語」。それが単なる偶然であろうはずはありません。

作者がそこまで意識して物語中に取り込んだ漢詩「長恨歌」を、
一度も読むことなく済ませることはできないと思っておりますので、
今回、「長恨歌」を全部(120句から成る)通して読みました。

7月の「紫の会」は、月曜クラスも木曜クラスも、液晶プロジェクター
が付帯している「視聴覚室」が確保できましたので、狩野山雪画の
「長恨歌絵巻」を映しながら、読み進めました。

今回は、絵巻の上巻の中から、一部ご覧ください(28日の木曜クラス
のほうで、下巻の一部をUPします)。

    長恨歌(1)

この場面は

「春宵苦短日高起   従此君王不早朝
承歓侍宴無閑暇    春従春遊夜専夜 」
(春の宵が短いのを嘆き、日が高くなってからお目覚めになった
この時から、玄宗皇帝は朝の政務を怠るようになられた
玄宗の寵愛を受け、いつも宴席に侍り、楊貴妃は暇がなかった
春は春の遊びのお供をし、夜は夜で玄宗の寵愛を独占した)

という部分を描いたものです。

「桐壺」の巻には、

「さるべき遊びのをりをり、何事にもゆゑある事のふしぶしには、
まづまうのぼらせたまふ。ある時には大殿籠りすぐして、やがて
さぶらはせたまひなど、あながちに御前去らずもてなさせたまひし
ほどに・・・」
(しかるべき管弦の遊びの折々や、何事につけても重々しい催し事が
あると、真っ先に更衣をお召しになっておりました。またある時は
寝過ごされて、そのままお側に置いておかれるなど、無理にも
お側に引き寄せておいででしたので…)

と、類型的な表現が使われており、これは完全に「長恨歌」を意識して
書かれている、と言って間違いないでしょう。

プロジェクターで絵巻の絵を映しながら「長恨歌」を読む試みは、
私も初めての試みでしたので、不行き届きな点も多かった、と
反省しております。28日は、もう少し改善できる点は改善して、
再度試みるつもりです。

今日も「紫の会」の会員以外の方が、5名ご参加になりました。
「長恨歌」にだけ参加ご希望の方も、7月28日(木)にどうぞ。


「橋姫」の話

2016年7月9日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第127回)

昨日よりも更に気温も下がり、今日は梅雨に入って初めてジャンプ傘を
差して出かけました。帰る時にはすっかり上がっていたので、「折畳みに
しておけばよかったなぁ」と思いながらも、電車内に傘を忘れることもなく、
帰宅いたしました。明日からはまた真夏日となるそうです。

「橋姫」の巻の3回目、前回は国宝源氏物語絵巻にも描かれている、
薫が宇治の大君と中の君の姿を垣間見たところまで、でしたので、
今日はその続きの、薫が大君と御簾越しの対面をして、ますます
大君に心惹かれて行く、というところから読み始めました。

京へ帰るに当たり、薫は姫君たちのもとへ歌を贈ります。

「橋姫の心をくみて高瀬さす棹のしづくに袖ぞ濡れぬる」
(姫君たちの寂しいお気持ちをお察しして、浅瀬を漕ぐ
棹の雫のような涙に袖を濡らしております)

この歌は、

「さむしろに衣かたしきこよひもやわれを待つらむ宇治の橋姫」
                             (古今集・恋四)
(筵の上に、衣の片袖を敷いて一人寂しく寝ながら、今夜も
宇治の橋姫は私を待っているのだろうか)

に由るもので、「宇治の橋姫」を、八の宮の大君、中の君によそえて、
「橋姫」と呼び、「寂しいお気持ちでしょう」と、詠んだのです。

巻名の「橋姫」も、この薫の歌から採られたものです。

「橋姫」は、もともと宇治橋の守り神でしたが、嵯峨天皇の御代に、
次のような伝説が生まれました。

嫉妬深い公家の娘が、 契りを結んだ男の心変わりに激怒し、
貴船神社に詣でて、七日間籠もり、祈り続けました。 「貴船大明神、
我を生きながら鬼神に成し給へ。妬ましいと思う女を取り殺さん。」

すると貴船大明神から「真に鬼に成りたくば、姿を改め宇治の河瀬に
行き三十七日浸れ」という 示現がありました。 そのお告げを聞いた娘は
鬼の姿に身をやつし、三十七日のあいだ宇治の河瀬に行って浸り、
ついに生きながらにして 鬼となったのです。

そして妬ましい女とその縁者、妬ましい男とその縁者のことごとくを
殺して しまった、という話で、これは「平家物語」に書かれています。

「宇治の橋姫」というのは、こうした嫉妬深い怨霊として語られる一方で、
「古今集」の歌のように、「愛する人を待つ女性」としても歌に詠まれて
います。

このクラスは来月で第45帖「橋姫」の巻を読了予定です。


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