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第一帖「桐壺」の巻・全文訳(10)

2016年9月29日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第6回)

本日読みました「桐壺」の巻(33頁・2行目~41頁・5行目まで)の
後半に当たる部分(36頁・4行目~41頁の5行目)の全文訳です。
「桐壺」の巻の最後の部分になります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)

この君の子供姿があまりにも可愛いので、帝は成人の姿に
変えたくない、とお思いでしたが、十二歳で元服なさいました。
帝ご自身が率先してお世話をなさり、一世源氏の元服の
しきたりを超えての儀式をさせなさいました。

先年の東宮の元服は、紫宸殿にて行われましたが、盛大との
評判だったその儀式に引けを取らないように、あちらこちらでの
宴会のご馳走などは、内蔵寮や穀倉院などから規定通り調進
されましたが、それで不備があってはいけないと、特別に帝からの
御口添えがあり、それはそれはご立派な物が調進されたの
でございました。

帝のお住まいである清涼殿の東面の廂の間に椅子を設けて、
元服する源氏の君と、加冠役の左大臣のお席がその前に
設えられておりました。申の刻に源氏の君が参上なさいました。

髪をみづらに結ったお顔の表情や色つやが、形を変えてしまわれる
には勿体なく思われました。大蔵卿が理髪役をお務めになりました。
たいそう綺麗な髪を切り落とすのが痛々し気なのを、帝は「ああ、
この場に亡き更衣がいたならば…」と、更衣のことが思い出される
につけ、涙がこぼれそうになるのを、気丈に我慢なさっておいででした。

加冠の儀を終えて、休憩所に退出なさり、そこでお召し物もお改めに
なって、東庭に降りて拝舞なさる源氏の君のご様子に、皆、涙を流され
たのでした。帝は帝でとりわけ涙をお堪えになることが出来ず、気が
紛れて忘れていることもあった昔のことを、改めて悲しく思い出されて
いるのでございました。このような幼い年齢では、大人の格好になると、
以前よりも見劣りがするのではないかと、案じておられましたが、
びっくりするほどの愛らしさがお増しになったのでした。

加冠役をなさった左大臣の北の方は、桐壺帝の妹に当たる皇女で、
お二人に間にお生まれになった姫君はお一人で、東宮妃にと打診も
あったのを、左大臣が渋っておられたのは、源氏の君に差し上げたい
とお考えだったからなのです。帝も左大臣の御意向に、「それならば、
この際、後見してくれる人もない身だし、そなたの娘を副臥にするが
よかろう」と、積極的に賛成なさったので、左大臣はそうすることと
なさいました。

源氏の君が控えの間に退出なさり、儀式に参加した人達が御酒
などを召し上がる時、親王たちのお席の末席に源氏の君はお着きに
なりました。左大臣はその夜のことをそれとなく匂わされるのですが、
もの恥ずかしいお年頃のこととて、何ともお返事もなさらないのでした。

帝から掌侍がお言葉を承って、左大臣に参上すべき旨が伝えられた
ので、左大臣は御前にお出でになりました。引き入れ役に対する
ご祝儀を、帝付きの命婦が取り次いでお与えになりました。白い大袿に
お着物一式、これは決まり通りの物でございます。帝は左大臣に盃を
お与えになる時に、
「いときなきはつもとゆひに長き世を契る心は結びこめつや」
(幼い者の初めての元結にあなたの姫君との末長い仲を約束する
気持ちを結びこめましたか)
と、お気持ちを示されて、左大臣をはっとさせなさいました。

「結びつる心も深きもとゆひに濃きむらさきの色しあせずは」
(心を込めて結びました元結の濃い紫の色が褪せさえしなければ)
と、返歌を奏上して、長橋からお庭に下りて拝舞をなさいます。

左馬寮所管の馬、蔵人所所管の鷹も頂戴なさいました。

階段のところに親王たちや上達部が並んで、それぞれの身分に
応じたご祝儀をお受け取りになりました。その日の源氏の君から
帝に献上される折櫃や籠に入ったご馳走などは、右大弁が帝の
仰せに従って調製したものでございました。握り飯や反物が入った
唐櫃など、下々の物に配られるご祝儀も、お庭に置き切れない程多く、
それは東宮の御元服の時よりも数が勝っておりました。東宮のように
公的な儀式ではないだけに、却ってこの上もなく盛大なものとなって
おりました。

その夜、源氏の君は左大臣邸に退出なさいました。左大臣は、
婿を迎える作法はこの上なくご立派になさって、大切にお世話を
なさるのでありました。源氏の君がたいそう子供っぽくていらっしゃる
のを、左大臣は恐ろしいまでに可愛らしいと思っておられました。
左大臣の姫君は、ご自分のほうが少し年長であり、源氏の君が
とても若くていらっしゃるので、似つかわしくなく気が引ける、と
お思いなのでした。

この左大臣は帝の信任が厚く、姫君の母上は、帝と同じ母后から
お生まれになった皇女でいらっしゃいましたので、どこから見ても
たいそう華やかでありましたが、そこに源氏の君までが婿として
加わられたので、東宮のおじいさまで、行く行くは権勢を欲しいままに
なさるであろう右大臣の御勢力は、いとも簡単に左大臣に圧されて
おしまいになりました。

左大臣は何人ものご夫人方との間に大勢のお子様方を設けて
おられました。この姫君と同じ北の方腹の方は、蔵人の少将で、
とても若く美男でいらっしゃるので、右大臣は、左大臣との仲は
よろしくないのですが、そのまま見過ごすことも出来ず、大切に
お育てになった四の君の婿にお迎えになりました。左大臣も
右大臣も、婿の扱いには理想的な間柄を保とうとしておられる
のが窺えるのでした。
 
源氏の君は帝がお側からお放しにならないので、ゆっくりと
左大臣邸でお過ごしになることも叶いません。心の中では、ただ
藤壺のご様子を、他にはない方、と思い申し上げて、このような方
とこそ結婚したい、藤壺に似ている人はいらっしゃらないものだ、
左大臣の姫君はとても美しく大切に育てられて来たとは思われる
ものの、どうもしっくりと来ない気がして、ただ一人、藤壺のことだけが
幼心に思いつめられて、胸が苦しくなるほどでおいででした。

元服後は、帝も以前のように源氏の君を御簾の中にお入れには
なりません。管弦の遊びの折々に、藤壺の琴の音に合わせるように
笛を吹き、かすかに漏れ聞こえてくる藤壺のお声を慰めにして、
宮中での生活ばかりを好んでおられました。五、六日宮中におられて、
左大臣邸に二、三日という具合で、途絶えがちにお出でになるの
ですが、左大臣は、今はまだ幼いお年頃だから仕方のないことと
お考えになって、あれこれとお世話をして差し上げておられました。
源氏の君付きの女房も、姫君付きの女房も、並々ではない者たちを
選りすぐってお仕えさせなさいます。源氏の君が興味を持たれる
ような管弦の遊びを催し、それはもう大事に大事にお世話なさって
おられました。

宮中では母更衣のおられた「淑景舎」をお部屋として、亡き更衣に
お仕えしていた女房たちが散々にならぬよう、源氏の君にお仕え
させなさっていました。

更衣のお里のほうは、帝が修理職や内匠寮にお命じになって、
この上なく立派に改築をおさせになりました。もともと、木立や
築山の風情が素晴らしいところではありましたが、更に池を
広くするなど、賑やかに造営が進んでおりました。源氏の君は
「このようなところに理想の女性を妻に迎えて住みたいものだ」と
ばかり、嘆かわしく思い続けておられるのでした。

この方を「光る君」と申し上げるのは、高麗の人相見が褒め称えて
お付け申したのだと、言い伝えられているとのことでして…。
 
                       第一帖「桐壺」 了


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意に染まぬ結婚

2016年9月29日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第6回)

雨ばっかり、という印象の9月でしたが、今日が最後の講読会。
明日はの予報ですので、9月も「有終の美」を飾るつもりなの
でしょうか。

第2月曜日のクラス同様、こちらも今回で「桐壺」の巻を読み終え
ました。

源氏は12歳で元服し、左大臣家の姫君・葵の上と結婚します。
この結婚、当人の意思などまったく関係のない、父親同士が
決めた政略結婚でした。

左大臣の北の方(葵の上の母)は、源氏の父・桐壺帝の妹に当たる
方ですので、源氏と葵の上は従姉弟結婚ということになります。
葵の上は源氏よりも4歳年上の16歳でした。

葵の上は、東宮(右大臣の長女・弘徽殿の女御所生)妃に、との話も
ありましたが、左大臣がこれを断り、源氏を婿に迎えました。葵の上が
東宮妃になったところで、東宮が即位の暁に政権を握るのは祖父の
右大臣で、左大臣は右大臣の後塵を拝することになってしまいます。
ならば、今現在、親政天皇のもとで、天皇の妹を妻にしている上に、
天皇の寵愛が最も深い源氏を身内に加えることで、より強力な繋がり
を持つほうが得策と考えたのでありましょう。実際に、この結婚で
「右の大臣の御勢は、ものにもあらず圧されたまへり」(右大臣の
御勢力は、いとも簡単に左大臣に圧されておしまいになりました)と、
書かれています。

ここで結婚した二人の仲が睦まじければ文句なし、だったのですが、
そう上手くはまいりません。源氏の心の中を占めているのは継母・
藤壺であり、葵の上のことは「心にもつかずおぼえたまひて」(どうも
意に染まぬ気がなさって)、左大臣家への訪れは途絶えがちなの
でした。

葵の上もまた、自分が源氏より4歳も年上であることに引け目を
感じており、夫に媚びる、甘える、などと言うことは、彼女の辞書の
中にはない言葉だったでしょうし、いつも取り澄ました感じで、
最初からボタンの掛け違えが生じているような夫婦でした。

これから先の波乱を予感させる結婚生活。二人の運命は果たして
如何に?(まあ、ほとんどの方はご存知なんですけどね。)

引き続き、いつものように、本日の講読個所の後半部分(前半は
9月12日のブログをご参照ください)の全文訳を書きます。


同年輩の登場人物

2016年9月26日(月) 溝の口「湖月会」(第99回)

先程のニュースで、今年関東の9月中旬の日照時間は、1961年以来
最も少なく、10時間にも満たないと報じられていました。
昨日からのわずかな日差しが見られるのも明日までで、明後日からは
また崩れやすいお天気とのこと。これでは気も晴れませんね。

今回の「湖月会」は、9月9日の第2金曜日クラスと同じところを読みました。

9日のブログには、六条院の平和が、紫の上の努力と女三宮の無邪気さに
よって、かろうじて保たれていたことを書きました。今日は後半の場面から
一つ取り上げましょう。

宮中より六条院へ退出している出産を控えた明石の女御(父・源氏、実母・
明石の上、養母・紫の上)が、二月頃から体調を崩し、陰陽師などから
転地療養を勧められましたが、もう臨月も近く、遠くへの移動は無理なので、
生母の明石の上の住まいである同じ六条院内の西北(冬)の町へと、移って
きました。

三歳の冬に六条院へ引き取られて以来の孫娘との再会に、嬉しくて仕方ない
のが明石の上の母尼君です。

「今はこよなきほけ人にてぞありけむかし」(今はすっかり老い呆けた人に
なってしまっていたでしょうよ)と、まず紹介されます。

ですから、ただもう孫娘の女御の傍に居られるのが夢のようで、
明石の上が、これまで女御が卑下するようなことがあってはならないと、
隠して来た出自や出生地のことも、見境なく喋ってしまいます。

事実を知った女御が、今まで宮中でも自分の右に出る人はいない、と、
他の女御・更衣を見下していたことの誤りに気づき、しんみりと物思いに
沈んでいるところに、明石の上が入って来て、余計なことを言ってしまった
尼君のことを、困った者だ、と思っていました。明石の上としては、娘が
中宮に上り詰めた時に打ち明けようと考えていたのでした。

「あなかたはらいた、と目くはすれど、聞き入れず。」(もう見ていられないわ、
早く席を立ってくださいな、と、明石の上は尼君に目くばせをするけれど、
尼君は動じません。)

如何にも事の善し悪しの区別もつかなくなってしまった、そのくせ、一度
喋りだすと止まらない、老女にありがちな一面を描写しているのですが、
途中にこの方の年齢が書かれています。「六十五六のほどなり。」
(65、6歳位です。)

ガーン😨 同年輩ではありませんか!「今はこよなきほけ人」ですよ。
まあ、今とは年齢の感覚も違ってはいるでしょうが、それにしてもねぇ。

自分では気づかないでいるけれど、若い人から見ると「おばあちゃん、
いい加減にしてよね!」って言動に走っていることが往々にしてあり、
ってことなんですね。 我が人生のバイブル「源氏物語」に今日も
教えられました。


秋分の日

2016年9月22日(木)

今日は「秋分の日」。普通は9月23日だけど、2012年からしばらく、
閏年の秋分の日は、22日になると、だいぶ前に新聞で読みました。
地球が太陽の周りを一周するのが、365日ぴったりではないから、
だそうです(こういう分野の詳しい説明は苦手でゴメンナサイ)。

ところで、8月28日のブログで、6月来辛かった膝の痛みが8月に
入ってから良くなってきて、ほとんど痛みが無くなったご報告を
しましたが、敵もさるもの、そんなに簡単に退散してしまうものでは
ありませんでした。

三島に行った9月16日、確かに駅の階段や、公園の階段の昇り降りは
しましたが、以前なら、何でもない程度のものです。しかも、その時には
痛みはありませんでした。

帰宅してから、立ち上がろうとしたり、歩き始めたりした時に、痛みを
伴うようになり、それが日々悪化。完全に7月頃の状態に戻ってしまい
ました。

もちろん、体操は欠かさず続けていますし、こんなに簡単に再発する
とは思ってもいませんでした。もしかしたら、お天気も影響しているかも
しれません。7月、一番痛かったのが、大雨の日でしたから・・・。

普段使っているパソコンがまた動かなくなって、ここしばらくは、ブログも
携帯用のパソコンで書いていますし、ちょっとツイテない感じです。

でも、座って仕事をする分には何ら影響もありませんので、全身に支障が
出る病気を思えば、どうってことありません。ご心配なく!そのうちまた
良いご報告をいたします。

悲しみの巻「御法」の締めくくり

2016年9月21日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第181回)

台風一過の秋晴れを期待しましたが、今日もどんよりとした厚い雲に
覆われた一日となりました。今はまた、雨になっています。明日も雨の
予報ですし、清々しい青空が広がるのはいつのことになるのでしょう。

湘南台クラスの「源氏物語」は四十帖の「御法」の最後と、四十一帖の
「幻」の最初の部分を読みました。このクラスも年内に第二部まで読了
予定です。

紫の上の死を描いた、「源氏物語」の中で一番悲しい巻である「御法」
ですが、その締めくくりに書かれているのは、悲嘆に暮れながら、静かに
勤行している源氏の姿です。

紫の上が亡くなってからというもの、放心状態になっている源氏ですが、
そんな姿を他人に見られるのも辛いので、女房たちの居る奥の部屋で、
お傍に控える女房たちも少なくして、「のどやかに行ひたまふ」(心静かに
仏さまへのお勤めをしていらっしゃる)のでした。

紫の上とは、いつまでも一緒に、と願っていたにも拘らず、こうして一人
残されて、もうあとは自分も出家するだけだ、とお思いなのですが、
情けないことに「紫の上に先立たれて、それを悲しむあまり、追うように
出家なさるとは、随分と意気地のない話だ」などと取り沙汰されるのを
憚って、すぐには出家出来ずにいらっしゃるのでした。

それでも「はかなくて積りにけるも、夢のここちのみす。」(いつの間にか
月日が積み重なってしまったのも、まるで夢のように思われる。)のが
現実で、いつもながら、この辺りの「人の世の常」の描写の巧みさには
舌を巻きますね。

最後の一文は、源氏と共に紫の上の最期を看取った明石中宮の、
「おぼし忘るる時の間なく、恋ひきこえたまふ。」(片時も紫の上を
お忘れになることがなく、恋い慕っていらっしゃる。)です。

「御法」の巻は、光源氏の物語の終焉が近づいていることを予感させ
ながら、誰もが深い悲しみに包まれたまま、静かに幕を降ろします。


三島の「鰻」と「湧水」

2016年9月16日(金)

姉が三島に住んでおり、義兄が歯科医師なので、私は時折三島へ
出かけますが(主たる目的は歯のメンテナンス)、今日は、8月29日の
ブログにも書いた、昔の私たちの英語の先生とご一緒して、鰻で有名な
「桜家」に、姉と三人で行きました。

三島駅から、地元の人が「いずっぱこ」と呼んでいる「伊豆箱根鉄道」に
乗って一駅、「三島広小路駅」で降りると、既に辺りに鰻の蒲焼の香ばしい
匂いが充満しています。もうこれだけで食欲が湧くと言うものでしょう。

創業安政三年という、老舗中の老舗「桜家」は、行列の絶え間がない
人気店で、中も結構広いのですが、美味しい鰻を求めて来店する人で
ずっと満席状態。外に行列が出来ているのですから、当然ですよね。

   うな重
      先生も「美味しい!」と絶賛されていたうな重

私も感想を書きたいところなのですが、残念ながら鰻が苦手。
で、一人「天丼」ということになりまして・・・。
   天丼
この天丼が、また最高!特大の海老に、軽~いサクサクの衣が
嬉しい。ちょっと甘めのタレで、これがあれば、いつだって鰻に
お付き合いOKです。

この後、私も初めての「名水百選・柿田川湧水群」のある
「柿田川公園」までバスで行き、水の湧き出ている泉などを
見て来ました。

       湧き水看板

   湧き水
   神秘的なエメラルドブルーの色をした第2展望台から
   見える湧き水。


今日の一首(25)

2016年9月14日(水) 湘南台「百人一首」(第24回)

秋雨前線の影響で、まるで梅雨のような日が続いています。
また台風16号が日本上陸を狙っているようですし、この秋は
本当に天候が不順です。

湘南台の「百人一首」も終盤に入り、今回は89番~92番までの
歌を取り上げました。91番を除く三首はお姫様札で、綺麗なかるた
が並びましたが、「今日の一首」は、描かれ方も個性的な後姿で、
几帳の模様なども丁寧に描かれている、89番「式子内親王」の歌を
ご紹介したいと思います。

玉の緒よ絶えなば絶えねながらへば忍ぶることの弱りもぞする
                      八十九番・式子内親王
   式子内親王
(私の命よ、絶えるならいっそ絶えてしまうがいい。このまま生きていて
このじっと耐えている恋心がこらえきれなくなってしまうと困るから)

命令形の二句切れによって迫力のある、情念がほとばしり出た歌と
なっています。

賀茂の斎院という神聖な立場を経験した内親王が、このような歌を
詠んでいることで、いっそう「忍ぶ恋」が誰に対しての恋だったのか、
興味を駆り立てられるところです。

お相手は「百人一首」の撰者、藤原定家が筆頭に挙げられていますが、
彼女を得度させた法然上人という説もあります。

ただ、この歌は実生活の中から生まれたものではなく、「百首歌」の中の
「忍ぶる恋」という題に沿って詠まれた歌なので、観念の世界だけで
構築された可能性も高いのです。

いずれにせよ、名歌であることには変わりなく、「新古今集」の撰者五人
が満場一致で選んだ歌であり、現代でも、「百人一首の中で式子内親王
の歌が一番好き」という声も多く、高い人気を誇っています。


第一帖「桐壺」の巻・全文訳(9)

2016年9月12日 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第6回)

本日読みました「桐壺」の巻(33頁・2行目~41頁・5行目まで)の
前半に当たる部分(33頁・2行目~36頁・3行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)

月日が経てば経つほど、帝は桐壺の更衣のことをお忘れになる
折なくお過ごしでいらっしゃいました。気が紛れることもあろうかと、
しかるべき姫君たちをお召しにもなりましたが、亡き更衣と肩を
並べることの出来る人はいないものだなあ、と全てに嫌気がさして
おられたところ、先帝の四の宮で、とても美しいとの評判が高く、
母后がこの上なく大切にお世話をなさっている方がいらっしゃる
のを、先帝の御代よりお仕えしている典侍が、母后の御殿にも
親しくお出入りしていて、四の宮を幼い頃から拝見し、今もちらりと
お見受けするので、「亡くなられた更衣によく似た方を、私は三代
の帝にお仕えして参りましたが、お見かけすることはございません
でした。でも、后の宮の姫宮はとてもよく更衣に似た方にご成人
あそばされました。類まれな器量よしでいらっしゃいます」と奏上
いたしました。帝は「それは本当であろうか」とお心に留まって、
丁重に四の宮の入内をお申し入れになりました。

ところが、母后は「まあ、恐ろしいこと。東宮の母君の女御が
とても意地が悪く、桐壺の更衣が、露骨にないがしろにされた例も、
縁起でもない」と用心なさって、すっきりとご決心もつかないうちに、
母后はお亡くなりになってしまわれました。

四の宮が心細くていらっしゃるところに、「ただ、私の女宮たちと
同じように扱おう」と、帝から熱心に入内のお勧めがございます。
四の宮にお仕えする女房たち、ご実家の方々、四の宮のお兄様
である兵部卿の親王なども、四の宮がこのように心細くてお暮らしに
なるよりは、宮中で生活なさったほうがお気も紛れよう、とお考えに
なって、入内させなさいました。藤壺とお呼び申し上げます。

ほんにお顔立ちやお姿が、不思議なほど亡き更衣に似ておいでに
なりました。こちらはご身分が一段と高く、そう思って見るせいか
全てにおいてご立派で、どなたも悪しざまに申すこともお出来に
ならないので、誰に憚ることもなく、何一つ不足はございません
でした。亡き更衣は、周囲が認めていないのに、生憎と帝の
ご寵愛が深かったのですよねぇ。

帝はお悲しみが紛れるというわけではありませんでしたが、
自然とお心が藤壺に移って、この上なくお気持ちが慰められる
ようでありますのも、これが人情というもの、と思われるので
ございました。
 
源氏の君は、帝のお側をお離れにならないので、誰よりも足繁く
お渡りになる藤壺は、恥じらい隠れてばかりはいらっしゃることが
できません。どのお妃方もご自分が人よりも劣っているとお思い
ではなく、それぞれに皆美しくていらっしゃいますが、少しお年
召されていらっしゃるので、藤壺は、とても若く可愛気がおあり
でした。

懸命にお隠れになっても、源氏の君は自然とお姿をお見かけ
申し上げるのでありました。亡き母のことは、面影さえ記憶にはない
ものの、「たいそうよく似ておいでですよ」と、典侍が申し上げるのを、
源氏の君は幼心にもたいそう懐かしくお感じになり、藤壺のお側に
いつも居て、親しくお姿を拝見していたい、とお思いになっておりました。

帝も、このお二人には限りない愛情を注いでおられるので、「よそよそしく
しないでやってください。なぜかあなたを若宮の母君にお見立てしても
よさそうな気がするのです。無礼だと思わず、可愛がってくださいな。
顔立ちや目元などが、若宮と更衣はよく似ているので、あなたがこの子の
生母のようにお見えになるのも、不似合いなことではありません」と、
お頼みになるので、源氏の君は幼心にも、ちょっとした春の花や
秋の紅葉につけて、お慕いしているお気持ちを藤壺にお見せ申し上げ
なさるのでした。

このように源氏の君が藤壺にこの上なく好意をお寄せになるので、
弘徽殿の女御は、藤壺とも仲がよろしくないため、これに加えて、
生前の桐壺の更衣に対する憎しみも蘇って来て、源氏の君を
不快な存在とお思いでした。

帝がまたとない美人だとご覧になり、世間でも評判の藤壺の美貌を
持ってしても、やはり源氏の君の匂い立つほどの美しさはたとえようも
なく、可愛らしくていらっしゃるので、世の人は「光る君」と申し上げて
おりました。藤壺もまた、同じように帝のご寵愛も深くていらっしゃるので、
こちらは「輝く日の宮」と申し上げていたのでございます。


源氏の永遠の女性(藤壺)の登場!

2016年9月12日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第6回)

早いもので、もう一度だけ「源氏物語」を最初から読む「紫の会」が
スタートして半年が経ちました。

だいぶ時間オーバーとなってしまいましたが(いつものことで、
すみません)、今回で「桐壺」の巻を読み終えました。

夜も眠れない、食事も喉を通らないほど、亡き更衣を思って悲しみに
くれていた帝のもとに、更衣によく似た先帝の四の宮(藤壺)が入内し、
帝の気持ちも次第に藤壺へと移って御心が慰められて行きました。

一方、三歳で母を亡くし、母の「影だにおぼえたまはぬ」(面影さえも
記憶にない)源氏も、古くから宮中にお仕えしている典侍から「いとよう
似たまへり」(亡きお母上によく似ていらっしゃいますよ)と告げられ、
藤壺に親しみを覚え、それは次第に理想の女性に対する思慕の情へと
変化して行ったのでした。

やがて十二歳になって元服した源氏は、左大臣家の姫君(葵の上)と
結婚をします。それが本日の講読部分の後半になりますので、ここは
また、木曜日のクラス(9/29)で、お伝えすることにいたしましょう。

来月は第二帖「帚木」の巻に入ります。源氏十七歳の夏の話から始まり
ます。

このあと、例によって、本日の講読箇所の前半の全文訳を書きますので、
「藤壺」の「物語へのデビュー」の場面を、読み取って頂ければ、と存じます。


六条院の安定

2016年9月9日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第99回)

今日は「重陽の節句」。陰陽道では、数字の奇数を陽、偶数を陰として、
奇数の最も大きな「九」の重なる九月九日を「重陽」と呼び、中国では
古くから祝われていました。それが我が国にも伝わってきた行事です。
日本人は「九」は「苦」に通じるとして忌み嫌う傾向がありますが、
本来はとても縁起のよい数字なのです。

「重陽の節句」は「菊の節句」でもあり、菊は不老長寿の象徴として
尊ばれ、「着せ綿」(前夜、菊に真綿をかぶせて夜露を含ませたもの)
で、顔や身体を拭くと不老長寿が叶えられると言われていました。
まさに「アンチエイジングローション」ですね。

余談が長くなりましたが、テキストの小見出しにも使われている
「六条院の安定」についてです。

東宮妃となった明石の女御が懐妊のため、六条院に里下がりをし、
東南の町の寝殿の東面をお部屋としていらっしゃいます。西面の
女三宮とは、中の戸を隔てているだけなので、紫の上は明石の女御に
会いに行くついでに、女三宮にもご挨拶をしようと思い立ち、源氏を
喜ばせます。源氏は二人が仲良くしてくれるのが何よりと考えている
からです。

紫の上は女三宮の乳母に、自分を「数ならぬ身」(人数にも数えられない
つまらない身)と卑下し、何とか女三宮のお力になりたいと思っている、と、
「やすらかにおとなびたるけはひ」(穏やかで落ち着いた様子)で語ります。

また、女三宮には、物語絵のことや、「私もいくつになってもお人形遊びが
止められないのでございますよ」などと、話しかけ、女三宮を安心させます。
女三宮は「幼き御ここちにはうちとけたまへり」(幼いお人柄のまま、うちとけ
なさった)のでした。

こうした紫の上の自分の気持ちを押し殺した上での努力と、女三宮の
無邪気さによって、六条院の平和は保たれ、女三宮の降嫁当初、
乱れ飛んでいた様々なゴシップも「こと直りて目やすくなむありける」
(妙な噂も消えて、すべてが丸く収まったのだった)と、落ち着いたの
です。

ただこの安定が、数年後、六条院を襲う嵐の前の静けさに過ぎなかった
のは、皆さまご存知の通りです。


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