第二帖「帚木」の巻・全文訳(2)
2016年10月27日 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第7回・№2)
本日読みました「帚木」の巻(45頁・1行目~53頁・2行目まで)の
後半に当たる部分(48頁・2行目~53頁・2行目)の全文訳です。
前半(45頁・1行目~48頁・1行目)は、10月10日の全文訳をご覧
ください。(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
「あなたこそ沢山の手紙をお持ちでしょう。少し見たいですね。
そうすれば、この厨子も気持ちよく開けましょう」と、源氏の君が
おっしゃると、頭中将は、「ご覧になるほどのものは、ほとんど
ありませんよ」などと、申し上げたついでに、「女で、これなら大丈夫、
と、非の打ち所の無いような人はめったにいないものだと、段々と
分かって来ました。ただうわべだけの風情で、字をさらさらと書き、
その時々に相応しい返歌をわきまえてする、という程度なら、
分相応に人並みな女も多いと思いますが、それも、本当に一つの
技能を取り上げて選び出すとなると、必ず選に漏れない人、というのは、
なかなかいないものでしょうね。自分が得意なことばかりを、銘々が
得意になって、出来ない人を馬鹿にしたりなど、見てはいられないことが
多いものです。
親などが付きっきりで大事にして、将来が約束された深窓の姫君で
あるうちは、ただその一端を聞き伝えて、男が心を動かすことも
あるでしょう。可愛らしくおっとりとしていて、まだ若くて結婚前の暇を
持て余している頃は、ちょっとした芸事も、人がやるから、ということで、
熱心に稽古をすることもあるので、自然と一芸を立派に仕上げることも
あります。その娘の欠点は言い隠し、そうした通用する方面のことを
取り繕って伝えられると、実態を知らないこちらが、どうして当て推量で
けなすことが出来ましょうか。それでは本当かと見続けて行くと、がっかり
しないことはまずない、と思います」と、溜息まじりで言いますが、
その様子も、こちらが気が引けるほど立派な様子なので、源氏の君は、
ご自身でも思い当たられることがあるのでしょうか、にやりとして、
「そのほんの僅かな取り柄も無い人っているのでしょうか」とおっしゃると、
頭中将は、「いくら何でも、そんなひどい女の所に私だって騙されて
近づくことはありませんよ。全く取り柄のない女と、素晴らしいなあ、と
感心するほどのいい女とは、どちらも同じ位、滅多にいるものでは
ないでしょう。
女は身分が高く生まれれば、周囲の人に大切にかしずかれて、欠点も
隠れてしまうことが多く、自然とその様子がこの上なく素晴らしく感じられる
のでしょう。
中流の女性にこそ、それぞれの気質や、各自が抱いている趣向なども
はっきりと見えて、他とは区別できる個性も多々あろうかと存じます。
下流となると、これはもう論外ですね。」と、とても詳しそうな様子であるのも
興味がそそられて、源氏の君は「その階級というのはどう区別するの?
どういう人たちを三階級に当てて分ければよいのかな。もとは高い身分に
生まれながら、落ちぶれて、今は位も低く、人並みでもないのと、また逆に
普通の身分の生まれだったのが上達部などまで出世して、得意顔で
家の中を飾り立て、人に負けまいと思っているのと、その両者の区別を
どうつけたものだろう。」と、お尋ねになっているうちに、左馬頭と藤式部丞が、
宮中の物忌に籠るということで、やって参りました。彼らは評判の遊び人で、
弁舌もよく立つ者たちなので、頭中将は歓迎して、階級の判別について
議論を戦わせるのでした。
何とも耳を塞ぎたくなるようなお話が多うございました。
左馬の頭が「成り上がっても、もともと相応しい家柄ではない者は、
世間の人の思惑も、上流というのとはやはり違っています。また、
もとは高貴な家柄でも、世渡りの手づるが少なく、時世に流され、
声望も衰えてしまいますと、気位だけは高くても、万事不如意で、
何かと体裁の悪いことも出て来ましょうから、それぞれ判定を下して、
どちらも中流とするべきでしょう。
受領と言って、地方の政治にかかわってあれこれと手を出し、
そうした中流と初めから決まった者の中にも、また更に階層があって、
中流階級でもかなりな者を選び出せるご時勢です。
生半可な上達部よりも、非参議の四位どもで、世間の評判もまずまずで、
もともとの家柄も低くはない者が、ゆったりと暮らしているのは、いかにも
こざっぱりとして感じがよいものです。家の中に不足していることなどが
ないのにまかせて、けちけちせずに、まぶしいほど大切に育てた娘などで、
文句のつけようもないほどに成長しているのも大勢いることでしょう。
宮仕えに出て、思いがけない幸運を引き当てる例も多いのですよね」などと
語りますと、源氏の君が「それじゃあすべて、経済力がものを言うような話の
ようだね」と言ってお笑いになるのを、「まぜっ返されるなんてあなたらしくもなく、
心外なおっしゃりようだ」と、頭中将は憎らしがっておいででした。
もともとの家柄、と今の声望が一致している、高貴な家の姫君で、
実際の振る舞いや雰囲気の劣っているのは、改めて言うまでもなく、
どうしてこんな風に育ってしまったのだろう、とがっかりさせられましょう。
家柄相応に姫君が優れていて当たり前で、これでこそ当然と思われて、
珍しいと驚くまでもないことでしょう。私ごとき者の手の届く相手では
ございませんから、上流中の上流の女性のことは申さぬことにいたします。
そのように生きているとも人に知られず、荒れ果てて雑草の生い茂る宿に、
意外にも可愛らし気な人が住んでいるなんていうのは、この上なく珍しく
思われましょう。どうしてまあ、こんなところにこんな美女が住むことに
なったのだろう、と、その意外性に不思議に心惹かれるものなんです。
父親は年老いてむさくるし気に太り過ぎ、男兄弟の顔も憎々し気で、
どう考えてもたいしたことはあるまいと思われる部屋の奥深くに、
娘がたいそうひどく気位が高く、何かちょっとしたことをしても、
たしなみ深そうに見えるのは、それが中途半端な才芸でも、
どうして予想外で興味を引かないことがありましょうか。全く欠点の
ない女性を選ぶとなると及第しないでしょうが、これはこれで
捨てたものではありませんよ」と言って、式部の丞のほうを見ると、
自分の姉妹たちが相当評判がいいのを思って左馬の頭がおっしゃって
いるのだ、と受け取ったのか、返事もしません。
「さあどうだろう、上流と思われる女性にだって優れた女性はめったに
いそうもないのに」と、源氏の君はお思いのようでした。白いお召し物の
柔らかなのに、直衣だけを無造作におはおりになって紐なども結ばないで、
物に寄りかかっておられる灯りに照らされたお姿が、たいそう素晴らしく、
女にして拝見したいくらいでございました。この方には、上流の更に上流の
女性を選び出したところで、まだ不十分だとお見受けされるのでした。
本日読みました「帚木」の巻(45頁・1行目~53頁・2行目まで)の
後半に当たる部分(48頁・2行目~53頁・2行目)の全文訳です。
前半(45頁・1行目~48頁・1行目)は、10月10日の全文訳をご覧
ください。(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
「あなたこそ沢山の手紙をお持ちでしょう。少し見たいですね。
そうすれば、この厨子も気持ちよく開けましょう」と、源氏の君が
おっしゃると、頭中将は、「ご覧になるほどのものは、ほとんど
ありませんよ」などと、申し上げたついでに、「女で、これなら大丈夫、
と、非の打ち所の無いような人はめったにいないものだと、段々と
分かって来ました。ただうわべだけの風情で、字をさらさらと書き、
その時々に相応しい返歌をわきまえてする、という程度なら、
分相応に人並みな女も多いと思いますが、それも、本当に一つの
技能を取り上げて選び出すとなると、必ず選に漏れない人、というのは、
なかなかいないものでしょうね。自分が得意なことばかりを、銘々が
得意になって、出来ない人を馬鹿にしたりなど、見てはいられないことが
多いものです。
親などが付きっきりで大事にして、将来が約束された深窓の姫君で
あるうちは、ただその一端を聞き伝えて、男が心を動かすことも
あるでしょう。可愛らしくおっとりとしていて、まだ若くて結婚前の暇を
持て余している頃は、ちょっとした芸事も、人がやるから、ということで、
熱心に稽古をすることもあるので、自然と一芸を立派に仕上げることも
あります。その娘の欠点は言い隠し、そうした通用する方面のことを
取り繕って伝えられると、実態を知らないこちらが、どうして当て推量で
けなすことが出来ましょうか。それでは本当かと見続けて行くと、がっかり
しないことはまずない、と思います」と、溜息まじりで言いますが、
その様子も、こちらが気が引けるほど立派な様子なので、源氏の君は、
ご自身でも思い当たられることがあるのでしょうか、にやりとして、
「そのほんの僅かな取り柄も無い人っているのでしょうか」とおっしゃると、
頭中将は、「いくら何でも、そんなひどい女の所に私だって騙されて
近づくことはありませんよ。全く取り柄のない女と、素晴らしいなあ、と
感心するほどのいい女とは、どちらも同じ位、滅多にいるものでは
ないでしょう。
女は身分が高く生まれれば、周囲の人に大切にかしずかれて、欠点も
隠れてしまうことが多く、自然とその様子がこの上なく素晴らしく感じられる
のでしょう。
中流の女性にこそ、それぞれの気質や、各自が抱いている趣向なども
はっきりと見えて、他とは区別できる個性も多々あろうかと存じます。
下流となると、これはもう論外ですね。」と、とても詳しそうな様子であるのも
興味がそそられて、源氏の君は「その階級というのはどう区別するの?
どういう人たちを三階級に当てて分ければよいのかな。もとは高い身分に
生まれながら、落ちぶれて、今は位も低く、人並みでもないのと、また逆に
普通の身分の生まれだったのが上達部などまで出世して、得意顔で
家の中を飾り立て、人に負けまいと思っているのと、その両者の区別を
どうつけたものだろう。」と、お尋ねになっているうちに、左馬頭と藤式部丞が、
宮中の物忌に籠るということで、やって参りました。彼らは評判の遊び人で、
弁舌もよく立つ者たちなので、頭中将は歓迎して、階級の判別について
議論を戦わせるのでした。
何とも耳を塞ぎたくなるようなお話が多うございました。
左馬の頭が「成り上がっても、もともと相応しい家柄ではない者は、
世間の人の思惑も、上流というのとはやはり違っています。また、
もとは高貴な家柄でも、世渡りの手づるが少なく、時世に流され、
声望も衰えてしまいますと、気位だけは高くても、万事不如意で、
何かと体裁の悪いことも出て来ましょうから、それぞれ判定を下して、
どちらも中流とするべきでしょう。
受領と言って、地方の政治にかかわってあれこれと手を出し、
そうした中流と初めから決まった者の中にも、また更に階層があって、
中流階級でもかなりな者を選び出せるご時勢です。
生半可な上達部よりも、非参議の四位どもで、世間の評判もまずまずで、
もともとの家柄も低くはない者が、ゆったりと暮らしているのは、いかにも
こざっぱりとして感じがよいものです。家の中に不足していることなどが
ないのにまかせて、けちけちせずに、まぶしいほど大切に育てた娘などで、
文句のつけようもないほどに成長しているのも大勢いることでしょう。
宮仕えに出て、思いがけない幸運を引き当てる例も多いのですよね」などと
語りますと、源氏の君が「それじゃあすべて、経済力がものを言うような話の
ようだね」と言ってお笑いになるのを、「まぜっ返されるなんてあなたらしくもなく、
心外なおっしゃりようだ」と、頭中将は憎らしがっておいででした。
もともとの家柄、と今の声望が一致している、高貴な家の姫君で、
実際の振る舞いや雰囲気の劣っているのは、改めて言うまでもなく、
どうしてこんな風に育ってしまったのだろう、とがっかりさせられましょう。
家柄相応に姫君が優れていて当たり前で、これでこそ当然と思われて、
珍しいと驚くまでもないことでしょう。私ごとき者の手の届く相手では
ございませんから、上流中の上流の女性のことは申さぬことにいたします。
そのように生きているとも人に知られず、荒れ果てて雑草の生い茂る宿に、
意外にも可愛らし気な人が住んでいるなんていうのは、この上なく珍しく
思われましょう。どうしてまあ、こんなところにこんな美女が住むことに
なったのだろう、と、その意外性に不思議に心惹かれるものなんです。
父親は年老いてむさくるし気に太り過ぎ、男兄弟の顔も憎々し気で、
どう考えてもたいしたことはあるまいと思われる部屋の奥深くに、
娘がたいそうひどく気位が高く、何かちょっとしたことをしても、
たしなみ深そうに見えるのは、それが中途半端な才芸でも、
どうして予想外で興味を引かないことがありましょうか。全く欠点の
ない女性を選ぶとなると及第しないでしょうが、これはこれで
捨てたものではありませんよ」と言って、式部の丞のほうを見ると、
自分の姉妹たちが相当評判がいいのを思って左馬の頭がおっしゃって
いるのだ、と受け取ったのか、返事もしません。
「さあどうだろう、上流と思われる女性にだって優れた女性はめったに
いそうもないのに」と、源氏の君はお思いのようでした。白いお召し物の
柔らかなのに、直衣だけを無造作におはおりになって紐なども結ばないで、
物に寄りかかっておられる灯りに照らされたお姿が、たいそう素晴らしく、
女にして拝見したいくらいでございました。この方には、上流の更に上流の
女性を選び出したところで、まだ不十分だとお見受けされるのでした。
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頭中将という人
2016年10月27日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第7回・№1)
10月10日の「月曜クラス」と同じく、今回から第2帖「帚木」の巻に
入り、「帚木」の巻前半部分の中心となる「雨夜の品定め」の発端
あたりまでを読みました。
「雨夜の品定め」は、源氏と頭中将と左馬頭と藤式部丞の男性四人
で繰り広げられる女性談義ですが、ここでは源氏はもっぱら聞き役
です。
この頃「頭中将」と呼ばれている人は、「桐壺」の巻では「蔵人少将」
と書かれており、左大臣の嫡男で、母は源氏の父・桐壺帝の妹(よって
葵上とは同腹の兄妹)。右大臣家の四の君を正妻としている、と紹介
されていました。源氏とは従兄弟同士で、義理の兄弟で、親友で、かつ
ライバルという間柄です。
この人は「源氏物語」において、源氏と共に第一部、第二部を通して
ずっと登場し続けているにも拘らず、通称がありません。
ある巻で主役を演じると、その巻の巻名が通称になっている場合は
多く、「玉鬘」、「柏木」、「夕霧」、「浮舟」などは、皆そうです。
ところが、頭中将の場合は、最も重要な脇役であっても、主役を演じた
巻がなかったからでしょう、呼び名が付けられていないのです。
やがて彼は三位の中将から宰相中将になり、冷泉帝の御代になると
権中納言になり、「絵合」の巻で源氏と覇権を争います。「薄雲」の巻で
父・太政大臣(今は左大臣)が亡くなり、大納言兼右大将となります。
「少女」の巻で源氏が太政大臣になり、大納言(頭中将)は内大臣に
昇進します。この後、夕霧と雲居雁の結婚問題や、玉鬘の登場で
(内大臣は雲居雁や玉鬘の父)、内大臣時代は出番も多く、呼称と
しても印象に残っている方がいらっしゃると思います。
「藤裏葉」で源氏は准太政天皇に、内大臣は太政大臣まで上り詰めます
が、「若菜下」での冷泉帝の譲位によって、太政大臣の座を退き、以後は
致仕大臣と呼ばれます。
第三部では、もう源氏も致仕大臣もこの世の人ではなく、故致仕大臣と
なっています。
このように、位はどんどん替わって行きますので、ずっと「頭中将」と呼ぶ
のは抵抗があるのですが、一般的には「頭中将」と言われています。
「男々しきけはひ」(男らしい雰囲気)の源氏の嫡男が、遊郭の大夫の
ような「夕霧」と呼び慣らされているのも、似合っているとは思えませんが、
それでも呼称があるので、読む上ではどんなに楽か知れません。
この後引き続き、(№2)として、本日講読した箇所の後半部分を
全文訳にてご紹介いたします。
10月10日の「月曜クラス」と同じく、今回から第2帖「帚木」の巻に
入り、「帚木」の巻前半部分の中心となる「雨夜の品定め」の発端
あたりまでを読みました。
「雨夜の品定め」は、源氏と頭中将と左馬頭と藤式部丞の男性四人
で繰り広げられる女性談義ですが、ここでは源氏はもっぱら聞き役
です。
この頃「頭中将」と呼ばれている人は、「桐壺」の巻では「蔵人少将」
と書かれており、左大臣の嫡男で、母は源氏の父・桐壺帝の妹(よって
葵上とは同腹の兄妹)。右大臣家の四の君を正妻としている、と紹介
されていました。源氏とは従兄弟同士で、義理の兄弟で、親友で、かつ
ライバルという間柄です。
この人は「源氏物語」において、源氏と共に第一部、第二部を通して
ずっと登場し続けているにも拘らず、通称がありません。
ある巻で主役を演じると、その巻の巻名が通称になっている場合は
多く、「玉鬘」、「柏木」、「夕霧」、「浮舟」などは、皆そうです。
ところが、頭中将の場合は、最も重要な脇役であっても、主役を演じた
巻がなかったからでしょう、呼び名が付けられていないのです。
やがて彼は三位の中将から宰相中将になり、冷泉帝の御代になると
権中納言になり、「絵合」の巻で源氏と覇権を争います。「薄雲」の巻で
父・太政大臣(今は左大臣)が亡くなり、大納言兼右大将となります。
「少女」の巻で源氏が太政大臣になり、大納言(頭中将)は内大臣に
昇進します。この後、夕霧と雲居雁の結婚問題や、玉鬘の登場で
(内大臣は雲居雁や玉鬘の父)、内大臣時代は出番も多く、呼称と
しても印象に残っている方がいらっしゃると思います。
「藤裏葉」で源氏は准太政天皇に、内大臣は太政大臣まで上り詰めます
が、「若菜下」での冷泉帝の譲位によって、太政大臣の座を退き、以後は
致仕大臣と呼ばれます。
第三部では、もう源氏も致仕大臣もこの世の人ではなく、故致仕大臣と
なっています。
このように、位はどんどん替わって行きますので、ずっと「頭中将」と呼ぶ
のは抵抗があるのですが、一般的には「頭中将」と言われています。
「男々しきけはひ」(男らしい雰囲気)の源氏の嫡男が、遊郭の大夫の
ような「夕霧」と呼び慣らされているのも、似合っているとは思えませんが、
それでも呼称があるので、読む上ではどんなに楽か知れません。
この後引き続き、(№2)として、本日講読した箇所の後半部分を
全文訳にてご紹介いたします。
明石の入道の遺書
2016年10月24日(月) 溝の口「湖月会」(第100回)
秋晴れのもと、第2金曜日のクラス同様、こちら「湖月会」も本日
100回目を迎えました。「えーっ!100回にもなったんですか?」と
最初から参加なさっている方は驚きの声を上げておられましたが、
私も同感です。でも、「源氏物語」が本当に面白くなるのはこれから。
じっくりと味わってまいりましょう!
今回は、10月14日のブログで予告しました、明石の入道の遺書の
ご紹介です。
今講読中の「若菜上」は第34帖ですが、最初に明石の入道とその娘
(明石の上)のことが話題に上るのは第5帖目の「若紫」の巻で、漸く
ここで謎が解き明かされます。
「若紫」の巻では、良清(源氏の腹心の部下の一人)が「この入道は、
もとは大臣家の子息でありながら、自ら受領階級に身を落とし、財力が
あるに任せて大事に育てている一人娘を、『思うところがあってなまじな
相手とは結婚させたりはしない』と言い、『もし自分の亡き後、そのような
ことになるくらいなら、海に身を投げよ』と遺言までしている。」と、語り、
源氏の君も「何心ありて海の底まで深う思ひ入るらむ。」(その入道は
どんなつもりで、そんな海の底まで、と思いつめているのだろう。)と
関心は示したものの、まさか将来、自分とそんな地方在住の受領の
娘が結ばれることになろうとは、この時は夢にも思わない話でした。
ところが、「明石」の巻でこの娘は、須磨から明石へと移り住んだ
源氏と結ばれ、「澪標」の巻で女の子を産みました。その女の子が
東宮妃となり、「若菜上」の巻で東宮の第一子となる男御子を出産
したのです。
産養で賑わう六条院の明石の上のもとに、明石より父・入道の手紙を
携えた使者がやってきます。それは自分の望みがほぼ叶ったことで
人が訪れることもない深山に籠り、静かに死を待つ決意をした入道の、
事実上の遺書でした。
手紙には先ず、30年余り前、入道が、自分が右手に「須弥山」(仏教の
考えで、世界の中心にあって、日、月がその周囲を巡って昼夜を照らして
いるとされる山)を掲げており、山の左右から月日の光が出て、世を明るく
照らしているという瑞夢を見たことが記されていました。
右手というのは、女の子を意味し、山から光を放っている月は中宮を、
日は天皇を意味しています。
しかし当時、子供がいない入道に、娘が将来、天皇や中宮となる子孫を
残す可能性など皆無でしたが、まもなく妻が身ごもったことで、この瑞夢を
信じ、財力を蓄えるため、田舎での受領暮らしに身を落とし、住吉の神様に
大願を立てて、娘を都の高貴な人に縁付かせる機会を待ち続けたのでした。
今を時めく権勢家源氏の一人娘である孫娘が、東宮妃となり、第一子となる
男児を産んだことで、入道は嘗て自分の見た瑞夢が、ほぼ完成されたため、
もう思い残すことなく、この世を捨て切れたのです。10月8日の記事の宇治の
八の宮が最後まで心が揺れて、矛盾した遺言を残す結果となったのとは
対照的で、実に鮮やかです。
明石一族には住吉の神様のご加護が前提となっているので、昔物語的な
要素を引きずっているのですが、作者としては、この先六条院を襲う悲劇を
書く前に、「若紫」の巻から語られてきた明石の物語の決着をつけておきたく、
ここで、明石の入道がなぜ娘をあのように育ててきたのか、という種明かしを
したのでありましょう。
秋晴れのもと、第2金曜日のクラス同様、こちら「湖月会」も本日
100回目を迎えました。「えーっ!100回にもなったんですか?」と
最初から参加なさっている方は驚きの声を上げておられましたが、
私も同感です。でも、「源氏物語」が本当に面白くなるのはこれから。
じっくりと味わってまいりましょう!
今回は、10月14日のブログで予告しました、明石の入道の遺書の
ご紹介です。
今講読中の「若菜上」は第34帖ですが、最初に明石の入道とその娘
(明石の上)のことが話題に上るのは第5帖目の「若紫」の巻で、漸く
ここで謎が解き明かされます。
「若紫」の巻では、良清(源氏の腹心の部下の一人)が「この入道は、
もとは大臣家の子息でありながら、自ら受領階級に身を落とし、財力が
あるに任せて大事に育てている一人娘を、『思うところがあってなまじな
相手とは結婚させたりはしない』と言い、『もし自分の亡き後、そのような
ことになるくらいなら、海に身を投げよ』と遺言までしている。」と、語り、
源氏の君も「何心ありて海の底まで深う思ひ入るらむ。」(その入道は
どんなつもりで、そんな海の底まで、と思いつめているのだろう。)と
関心は示したものの、まさか将来、自分とそんな地方在住の受領の
娘が結ばれることになろうとは、この時は夢にも思わない話でした。
ところが、「明石」の巻でこの娘は、須磨から明石へと移り住んだ
源氏と結ばれ、「澪標」の巻で女の子を産みました。その女の子が
東宮妃となり、「若菜上」の巻で東宮の第一子となる男御子を出産
したのです。
産養で賑わう六条院の明石の上のもとに、明石より父・入道の手紙を
携えた使者がやってきます。それは自分の望みがほぼ叶ったことで
人が訪れることもない深山に籠り、静かに死を待つ決意をした入道の、
事実上の遺書でした。
手紙には先ず、30年余り前、入道が、自分が右手に「須弥山」(仏教の
考えで、世界の中心にあって、日、月がその周囲を巡って昼夜を照らして
いるとされる山)を掲げており、山の左右から月日の光が出て、世を明るく
照らしているという瑞夢を見たことが記されていました。
右手というのは、女の子を意味し、山から光を放っている月は中宮を、
日は天皇を意味しています。
しかし当時、子供がいない入道に、娘が将来、天皇や中宮となる子孫を
残す可能性など皆無でしたが、まもなく妻が身ごもったことで、この瑞夢を
信じ、財力を蓄えるため、田舎での受領暮らしに身を落とし、住吉の神様に
大願を立てて、娘を都の高貴な人に縁付かせる機会を待ち続けたのでした。
今を時めく権勢家源氏の一人娘である孫娘が、東宮妃となり、第一子となる
男児を産んだことで、入道は嘗て自分の見た瑞夢が、ほぼ完成されたため、
もう思い残すことなく、この世を捨て切れたのです。10月8日の記事の宇治の
八の宮が最後まで心が揺れて、矛盾した遺言を残す結果となったのとは
対照的で、実に鮮やかです。
明石一族には住吉の神様のご加護が前提となっているので、昔物語的な
要素を引きずっているのですが、作者としては、この先六条院を襲う悲劇を
書く前に、「若紫」の巻から語られてきた明石の物語の決着をつけておきたく、
ここで、明石の入道がなぜ娘をあのように育ててきたのか、という種明かしを
したのでありましょう。
訳すのが勿体ない名文
2016年10月21日(金) 溝の口「枕草子」(第1回)
「紫式部日記」を講読している頃から、「次は枕草子を」という
ご要望は多かったのですが、当時は溝の口で「百人一首」を
読んでいましたので、「源氏物語」と「百人一首」と「枕草子」が
重なっては通うのが大変、というお声もあり、「紫式部日記」の
後には「伊勢物語」を入れました。その間に「百人一首」も終了し、
今月から「枕草子」開講の運びとなりました。
「枕草子」は言わずと知れた、「源氏物語」と並び称される、
王朝女流文学の代表作品ですが、両者は、ジャンルの違い
だけではなく、作者である「紫式部」と「清少納言」の個性の
違いなども如実に窺うことが出来るので、併せて読むと、
面白さも倍増すること請け合いです。
今日は初回ですので、まず、「枕草子の概説」から始めましたが、
例によって、話があちこちに飛んでいるうちに、後半の本文講読
の時間を圧迫してしまい、本文は第一段の「春はあけぼの」を
読んだだけで終わってしまいました。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる」
この感性、端的な表現力。文句なしですね。「やうやう」が
「次第に」とか「だんだんと」という意味だとわかりさえすれば、
あとは、なまじ現代語訳などつけたくない名文です。
目を閉じ、その情景を思い浮かべて、一人一人が感覚的に
味わうのが一番かと思います。そしてもう一度、声に出して
第一段を読んでみてください。出来れば暗唱可能レベルまで。
そうすれば、清少納言ワールドが、より身近に感じられるに
違いありません。
「紫式部日記」を講読している頃から、「次は枕草子を」という
ご要望は多かったのですが、当時は溝の口で「百人一首」を
読んでいましたので、「源氏物語」と「百人一首」と「枕草子」が
重なっては通うのが大変、というお声もあり、「紫式部日記」の
後には「伊勢物語」を入れました。その間に「百人一首」も終了し、
今月から「枕草子」開講の運びとなりました。
「枕草子」は言わずと知れた、「源氏物語」と並び称される、
王朝女流文学の代表作品ですが、両者は、ジャンルの違い
だけではなく、作者である「紫式部」と「清少納言」の個性の
違いなども如実に窺うことが出来るので、併せて読むと、
面白さも倍増すること請け合いです。
今日は初回ですので、まず、「枕草子の概説」から始めましたが、
例によって、話があちこちに飛んでいるうちに、後半の本文講読
の時間を圧迫してしまい、本文は第一段の「春はあけぼの」を
読んだだけで終わってしまいました。
「春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山ぎは、すこしあかりて、
紫だちたる雲の、細くたなびきたる」
この感性、端的な表現力。文句なしですね。「やうやう」が
「次第に」とか「だんだんと」という意味だとわかりさえすれば、
あとは、なまじ現代語訳などつけたくない名文です。
目を閉じ、その情景を思い浮かべて、一人一人が感覚的に
味わうのが一番かと思います。そしてもう一度、声に出して
第一段を読んでみてください。出来れば暗唱可能レベルまで。
そうすれば、清少納言ワールドが、より身近に感じられるに
違いありません。
紫の上の代わりにはなれない六条院の女君たち
2016年10月19日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第182回)
今、「湘南台」クラスで購読中の、光源氏の物語の最終章・「幻」の巻は、
紫の上が亡くなった翌年、源氏がひたすら紫の上を追慕して過ごす一年
を描いた巻だということは、以前にも述べましたが、六条院の他の女君
に対して、この間源氏はどのように接し、どのような感情を抱いていた
のでしょうか。今回はちょうどそのようなところを読みました。
三月、源氏は東南の町の寝殿に住む女三宮のもとを訪れます。
「紫の上がお住まいだった東の対屋の山吹が見事に咲いています。
植えた人(紫の上)が亡くなってしまった春だとも知らずに例年よりも
一段と美しく咲いているのです」と話す源氏に対して、女三宮は、
「谷には春も」(春も私には無縁ですので)と、出家の身を卑下して
応じました。これは「古今集」・清原深養父の「光なき谷には春も
よそなれば咲きてとく散るもの思ひもなし」(光の差さない谷では、
春の訪れも他所事なので、花が咲いてはすぐに散る、といった
物思いとも無縁であるよ)を引いているため、紫の上を思い、
悲しみに暮れている源氏には、女三宮の何気ないひと言が、
「もの思ひもなし」という結句に結びつき、女三宮を無神経だと
感じています。こんな時、紫の上だったら、相手の気持ちに寄り添い、
こちらの気に障るようなことは決して言わなかったのに、と、結局は
紫の上の美点を思い出すことに繋がるのでした。
そのまま、西北の町に明石の上を訪ねますと、久しく顔をお出しに
なることもなく、しかも突然だったので、明石の上は驚きますが、
それでも、落ち着いて、優雅なおもてなしをし、源氏も、さすがに
明石の上は立派だとお思いになります。それでも、紫の上には、
この人にはない別の魅力があったと、やはり紫の上の美点を改めて
思い出しておられるのでした。以前なら、このまま明石の上のところに
お泊りになったでしょうが、今は紫の上のことしか考えられない源氏は、
夜が更けているにも拘らず、お帰りになりました。
四月の衣更えの季節を迎え、花散里は、源氏に夏の装束を差し上げました。
「夏衣裁ちかへてける今日ばかりふるき思ひもすすみやはせぬ」(夏の衣に
替える今日こそ、これまで仕立てておられた亡き人をお偲びになるお気持ちも、
一層募られることでしょう)と、添えられた花散里のお手紙に、源氏の返歌は
「羽衣のうすきにかはる今日よりは空蝉の世ぞいとど悲しき」(夏の衣に替わる
今日からは、紫の上のいない空しいこの世がいっそう悲しく思われます)と、
すべてが紫の上の追慕以外にないことを示したものでした。
「掛け替えのない」という言葉がありますが、紫の上を失った今、六条院の
女君たちの誰もが、紫の上の代わりにはなり得ないことを、源氏を通して、
読者も知ることになるのです。
今、「湘南台」クラスで購読中の、光源氏の物語の最終章・「幻」の巻は、
紫の上が亡くなった翌年、源氏がひたすら紫の上を追慕して過ごす一年
を描いた巻だということは、以前にも述べましたが、六条院の他の女君
に対して、この間源氏はどのように接し、どのような感情を抱いていた
のでしょうか。今回はちょうどそのようなところを読みました。
三月、源氏は東南の町の寝殿に住む女三宮のもとを訪れます。
「紫の上がお住まいだった東の対屋の山吹が見事に咲いています。
植えた人(紫の上)が亡くなってしまった春だとも知らずに例年よりも
一段と美しく咲いているのです」と話す源氏に対して、女三宮は、
「谷には春も」(春も私には無縁ですので)と、出家の身を卑下して
応じました。これは「古今集」・清原深養父の「光なき谷には春も
よそなれば咲きてとく散るもの思ひもなし」(光の差さない谷では、
春の訪れも他所事なので、花が咲いてはすぐに散る、といった
物思いとも無縁であるよ)を引いているため、紫の上を思い、
悲しみに暮れている源氏には、女三宮の何気ないひと言が、
「もの思ひもなし」という結句に結びつき、女三宮を無神経だと
感じています。こんな時、紫の上だったら、相手の気持ちに寄り添い、
こちらの気に障るようなことは決して言わなかったのに、と、結局は
紫の上の美点を思い出すことに繋がるのでした。
そのまま、西北の町に明石の上を訪ねますと、久しく顔をお出しに
なることもなく、しかも突然だったので、明石の上は驚きますが、
それでも、落ち着いて、優雅なおもてなしをし、源氏も、さすがに
明石の上は立派だとお思いになります。それでも、紫の上には、
この人にはない別の魅力があったと、やはり紫の上の美点を改めて
思い出しておられるのでした。以前なら、このまま明石の上のところに
お泊りになったでしょうが、今は紫の上のことしか考えられない源氏は、
夜が更けているにも拘らず、お帰りになりました。
四月の衣更えの季節を迎え、花散里は、源氏に夏の装束を差し上げました。
「夏衣裁ちかへてける今日ばかりふるき思ひもすすみやはせぬ」(夏の衣に
替える今日こそ、これまで仕立てておられた亡き人をお偲びになるお気持ちも、
一層募られることでしょう)と、添えられた花散里のお手紙に、源氏の返歌は
「羽衣のうすきにかはる今日よりは空蝉の世ぞいとど悲しき」(夏の衣に替わる
今日からは、紫の上のいない空しいこの世がいっそう悲しく思われます)と、
すべてが紫の上の追慕以外にないことを示したものでした。
「掛け替えのない」という言葉がありますが、紫の上を失った今、六条院の
女君たちの誰もが、紫の上の代わりにはなり得ないことを、源氏を通して、
読者も知ることになるのです。
高校部活の同期会
2016年10月16日(日)
私たちが高校生だったのはちょうど50年前。もう半世紀の歳月が
流れています。
今から、25年位前、初めての高校部活の同期会がありました。
その時は顧問の先生もいらして、新宿駅ビルでのお食事会でした。
以来、続いている集まりなのですが、いつの頃からかお食事会だけでは
なく、幹事役がそれぞれに工夫を凝らして、プラスαのお楽しみがセット
されるようになりました。今年は「雑司ヶ谷墓地(夏目漱石や竹久夢二など、
有名人のお墓が多数)→鬼子母神→『トラッド目白・南国酒家』での昼食
→学習院大学構内の見学」というコースが組まれていました。
私は膝を痛めているので、残念ながら長い時間の散策は無理。午前の
予定はパスをして、昼食から参加しました。
美味しい中華料理をいただきながら、話も弾みましたが、「終活」の話題で
盛り上がったりするのも、そんな歳になったからでしょうか。
今日は比較的調子が良くて、痛くて歩けないという風にもならず、午後の
学習院大学の見学もご一緒出来ました(最後の、堀部安兵衛が血刀を
洗ったという「血洗いの池」までは、ちょっときつそうで行けませんでしたが)。
「樹齢何年かしら?」と思われる大木も多く、緑豊かな広々としたキャンパス。
学習院院長を務めた乃木希典ゆかりの「乃木館」など、歴史を感じさせる
建物も点在しており、秋の午後の日差しを浴びながら、そぞろ歩きを楽しみ
ました。
〆は、通りかかった好青年(たぶん学習院大学の学生さん)にお願いしての
集合写真。顔がわからない距離で、という希望通りの今日の記念の一枚です。

私たちが高校生だったのはちょうど50年前。もう半世紀の歳月が
流れています。
今から、25年位前、初めての高校部活の同期会がありました。
その時は顧問の先生もいらして、新宿駅ビルでのお食事会でした。
以来、続いている集まりなのですが、いつの頃からかお食事会だけでは
なく、幹事役がそれぞれに工夫を凝らして、プラスαのお楽しみがセット
されるようになりました。今年は「雑司ヶ谷墓地(夏目漱石や竹久夢二など、
有名人のお墓が多数)→鬼子母神→『トラッド目白・南国酒家』での昼食
→学習院大学構内の見学」というコースが組まれていました。
私は膝を痛めているので、残念ながら長い時間の散策は無理。午前の
予定はパスをして、昼食から参加しました。
美味しい中華料理をいただきながら、話も弾みましたが、「終活」の話題で
盛り上がったりするのも、そんな歳になったからでしょうか。
今日は比較的調子が良くて、痛くて歩けないという風にもならず、午後の
学習院大学の見学もご一緒出来ました(最後の、堀部安兵衛が血刀を
洗ったという「血洗いの池」までは、ちょっときつそうで行けませんでしたが)。
「樹齢何年かしら?」と思われる大木も多く、緑豊かな広々としたキャンパス。
学習院院長を務めた乃木希典ゆかりの「乃木館」など、歴史を感じさせる
建物も点在しており、秋の午後の日差しを浴びながら、そぞろ歩きを楽しみ
ました。
〆は、通りかかった好青年(たぶん学習院大学の学生さん)にお願いしての
集合写真。顔がわからない距離で、という希望通りの今日の記念の一枚です。

13歳の母、32歳の祖母
2016年10月14日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第100回)
溝の口のクラスも今月で100回を迎えました。1年に12回ですから、
8年と4ヶ月が経ったことになります。どこのクラスに対してもそうですが、
「えっ、そんなに経ってるんですか?」というのが正直な気持ちです。
それでも只今34帖目の「若菜上」を講読中。まだ道半ばでございます。
東宮に入内した明石の姫君が、めでたく男御子を出産、六条院は
喜びに包まれています。そしてここにはいない明石の入道(この度
誕生した御子の曽祖父)も、昔見た瑞夢がほぼ叶ったところで、娘の
明石の上に遺書をしたため、明石の地を離れ、深い山へと姿を消した
のでした。
この遺書のことは、「湖月会」のほうで書きましょう。
今日は、明石の女御が初めて母となったところについてです。
明石の女御は、出産をするには「まだいとあえかなる御ほど」(まだ
とてもか弱いお歳)だったので、周囲の心配も「おどろおどろしくおぼし
騒ぎしかど」(大仰なほど大騒ぎなさいましたが)、さほど苦しむことも
なくご安産でした。しかも男の子ということで、源氏もすべてが望み通り
となり、満足なさっていました。この辺りは、彰子が敦成親王を出産した
時の道長を彷彿させるものがあります。
原文にも「いとあえかなる御ほど」と、度々書かれていますが、それに
しても、今の我々の感覚では考えられない、数え年の13歳、満年齢で
言うと12歳です。明石の女御は3月16日生まれ、この御子も3月10日過ぎ
の生まれですから、ちょうど満12歳ということになります。「ヤンママ」を
通り越していますよね。
母がそうですから、祖母も当然若いわけで、「まことの祖母君」(本当の
おばあ様)と書かれている明石の上は、この時数え年で32歳、満年齢なら
30歳か31歳です。今なら、これから結婚しようか、という年齢で、すでに
孫がいる「祖母君」とは!
明石の女御はのちに中宮となり、ここで誕生した若君は、東宮となります。
明石中宮は五人の子を産み、「宇治十帖」の中心人物の一人となる「匂宮」
は、この若君の弟にあたります。
明石中宮は、「源氏物語」第一部の「澪標」の巻で誕生してから、物語の
最後の巻「夢の浮橋」で47歳になるまで、ずっと登場する人物ですので、
その姿を追いながら読んで行くのも楽しいものです。
溝の口のクラスも今月で100回を迎えました。1年に12回ですから、
8年と4ヶ月が経ったことになります。どこのクラスに対してもそうですが、
「えっ、そんなに経ってるんですか?」というのが正直な気持ちです。
それでも只今34帖目の「若菜上」を講読中。まだ道半ばでございます。
東宮に入内した明石の姫君が、めでたく男御子を出産、六条院は
喜びに包まれています。そしてここにはいない明石の入道(この度
誕生した御子の曽祖父)も、昔見た瑞夢がほぼ叶ったところで、娘の
明石の上に遺書をしたため、明石の地を離れ、深い山へと姿を消した
のでした。
この遺書のことは、「湖月会」のほうで書きましょう。
今日は、明石の女御が初めて母となったところについてです。
明石の女御は、出産をするには「まだいとあえかなる御ほど」(まだ
とてもか弱いお歳)だったので、周囲の心配も「おどろおどろしくおぼし
騒ぎしかど」(大仰なほど大騒ぎなさいましたが)、さほど苦しむことも
なくご安産でした。しかも男の子ということで、源氏もすべてが望み通り
となり、満足なさっていました。この辺りは、彰子が敦成親王を出産した
時の道長を彷彿させるものがあります。
原文にも「いとあえかなる御ほど」と、度々書かれていますが、それに
しても、今の我々の感覚では考えられない、数え年の13歳、満年齢で
言うと12歳です。明石の女御は3月16日生まれ、この御子も3月10日過ぎ
の生まれですから、ちょうど満12歳ということになります。「ヤンママ」を
通り越していますよね。
母がそうですから、祖母も当然若いわけで、「まことの祖母君」(本当の
おばあ様)と書かれている明石の上は、この時数え年で32歳、満年齢なら
30歳か31歳です。今なら、これから結婚しようか、という年齢で、すでに
孫がいる「祖母君」とは!
明石の女御はのちに中宮となり、ここで誕生した若君は、東宮となります。
明石中宮は五人の子を産み、「宇治十帖」の中心人物の一人となる「匂宮」
は、この若君の弟にあたります。
明石中宮は、「源氏物語」第一部の「澪標」の巻で誕生してから、物語の
最後の巻「夢の浮橋」で47歳になるまで、ずっと登場する人物ですので、
その姿を追いながら読んで行くのも楽しいものです。
栗の渋皮煮に挑戦!
2016年10月13日(木)
今日は十三夜。残念ながら月は雲に隠れて見えませんでしたが、
「栗名月」とも言いますので、栗の話題を・・・。
焼き栗よりも、マロングラッセよりも、私が一番好きなのが渋皮煮。
その渋皮煮を、「源氏物語の会」の中で、毎年とても上手に作って
例会時に振る舞ってくださる方があり、私もいつか挑戦したいと
思いつつ、今まで果たせずにおりました。
先日、ご近所の方から戴いた栗があまりにも大きくて、立派なのに
一念発起。渋皮煮に挑戦してみました。
ネットで検索すると、作り方が沢山出ていて、その中から一番簡単
そうなものを参考にしながら、作りました。 が、何しろ初めてなので、
すべての作業が我ながらぎこちなく、「もう茹でこぼしちゃっていいの
かな?」とか、「栗の表面はどこまで綺麗にすればいいの?」とか、
いちいちやっていることに自信が持てません。
でも、出来上がってみれば、なかなかのものです。甘さもちょっと
控え目ですが、こんなものでしょう!最後に加えたブランデーの
香りはしないけど(もっと思い切って入れても良かったのかも)、
初挑戦にしては上出来、と、一人ごちている秋の夜です。

今日は十三夜。残念ながら月は雲に隠れて見えませんでしたが、
「栗名月」とも言いますので、栗の話題を・・・。
焼き栗よりも、マロングラッセよりも、私が一番好きなのが渋皮煮。
その渋皮煮を、「源氏物語の会」の中で、毎年とても上手に作って
例会時に振る舞ってくださる方があり、私もいつか挑戦したいと
思いつつ、今まで果たせずにおりました。
先日、ご近所の方から戴いた栗があまりにも大きくて、立派なのに
一念発起。渋皮煮に挑戦してみました。
ネットで検索すると、作り方が沢山出ていて、その中から一番簡単
そうなものを参考にしながら、作りました。 が、何しろ初めてなので、
すべての作業が我ながらぎこちなく、「もう茹でこぼしちゃっていいの
かな?」とか、「栗の表面はどこまで綺麗にすればいいの?」とか、
いちいちやっていることに自信が持てません。
でも、出来上がってみれば、なかなかのものです。甘さもちょっと
控え目ですが、こんなものでしょう!最後に加えたブランデーの
香りはしないけど(もっと思い切って入れても良かったのかも)、
初挑戦にしては上出来、と、一人ごちている秋の夜です。

今日の一首(26)
2016年10月12日(水) 湘南台「百人一首」(第25回)
如何にも秋らしい爽やかな青空が広がり、暑くもなく寒くもなく、
こんな日がしばらく続くといいなぁ、と思われる一日でした。
でも、もう明日は曇りで、気温も20度を下回るとの予報、
良いお天気が続かない今年の秋です。
湘南台の「百人一首」も、今日が93番~96番でしたので、
来月で100番に達成の予定です。
「今日の一首」も、もうすぐ終わりですが、今回は93番の
「鎌倉右大臣」の歌をご紹介しておきましょう。
「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」
九十三番・鎌倉右大臣

(世の中は常に変わらないで、このようにあって欲しいなあ。
渚を漕ぐ漁師の小舟が綱手に引かれている光景の愛しい
ことよ)
平穏な光景が不変であることを祈りながら、政争の渦巻く
現実に身を置かざるを得なかった作者の悲しみが伝わって
来る歌です。
「鎌倉右大臣」とは、鎌倉幕府三代将軍・源実朝のことです。
日本史でも必ず学びますので、おそらく「百人一首」の歌人の
中でも、知名度は一、二を争うのではないでしょうか。
わずか12歳で、征夷大将軍の座に就き、27歳の若さで武士と
しては初めての右大臣に任ぜられましたが、翌年、鶴岡八幡宮
で甥の公暁に暗殺された悲劇の将軍として知られています。
「百人一首」の歌人たちの中で、8番までの奈良時代の人たちを
除くと、京の地を踏んだことがないというのは、おそらく実朝ただ
一人でありましょう。それ故に、一層京文化への憧れが強かった
のかもしれません。
とりわけ、和歌に惹かれた実朝は、定家に、今で言う「通信教育」
を受けて、上達を志し、結婚も京の公家の娘との縁組を望んで、
藤原隆家(定子の弟)から数えて七代目の坊門信清の娘・信子を
正室として迎えました。
定家に通信教育を受けていたとは言え、実朝は関東に身を置いて
いましたので、京の「新古今風」とは異なる「万葉風」の名歌を多く
残しました。実朝の代表歌です。
「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ」
(箱根路を私が越えてくると、目の前に伊豆の海が広がり、沖の
小島に浪の打ち寄せているのが見えることよ)
鎌倉の将軍家などではなく、京の公家に生まれていたら、実朝は
歌人としての才能を存分に伸ばし、穏やかな人生を送ることが
できたのではないか、と思わずにはいられません。
如何にも秋らしい爽やかな青空が広がり、暑くもなく寒くもなく、
こんな日がしばらく続くといいなぁ、と思われる一日でした。
でも、もう明日は曇りで、気温も20度を下回るとの予報、
良いお天気が続かない今年の秋です。
湘南台の「百人一首」も、今日が93番~96番でしたので、
来月で100番に達成の予定です。
「今日の一首」も、もうすぐ終わりですが、今回は93番の
「鎌倉右大臣」の歌をご紹介しておきましょう。
「世の中は常にもがもな渚漕ぐ海人の小舟の綱手かなしも」
九十三番・鎌倉右大臣

(世の中は常に変わらないで、このようにあって欲しいなあ。
渚を漕ぐ漁師の小舟が綱手に引かれている光景の愛しい
ことよ)
平穏な光景が不変であることを祈りながら、政争の渦巻く
現実に身を置かざるを得なかった作者の悲しみが伝わって
来る歌です。
「鎌倉右大臣」とは、鎌倉幕府三代将軍・源実朝のことです。
日本史でも必ず学びますので、おそらく「百人一首」の歌人の
中でも、知名度は一、二を争うのではないでしょうか。
わずか12歳で、征夷大将軍の座に就き、27歳の若さで武士と
しては初めての右大臣に任ぜられましたが、翌年、鶴岡八幡宮
で甥の公暁に暗殺された悲劇の将軍として知られています。
「百人一首」の歌人たちの中で、8番までの奈良時代の人たちを
除くと、京の地を踏んだことがないというのは、おそらく実朝ただ
一人でありましょう。それ故に、一層京文化への憧れが強かった
のかもしれません。
とりわけ、和歌に惹かれた実朝は、定家に、今で言う「通信教育」
を受けて、上達を志し、結婚も京の公家の娘との縁組を望んで、
藤原隆家(定子の弟)から数えて七代目の坊門信清の娘・信子を
正室として迎えました。
定家に通信教育を受けていたとは言え、実朝は関東に身を置いて
いましたので、京の「新古今風」とは異なる「万葉風」の名歌を多く
残しました。実朝の代表歌です。
「箱根路をわが越え来れば伊豆の海や沖の小島に浪の寄る見ゆ」
(箱根路を私が越えてくると、目の前に伊豆の海が広がり、沖の
小島に浪の打ち寄せているのが見えることよ)
鎌倉の将軍家などではなく、京の公家に生まれていたら、実朝は
歌人としての才能を存分に伸ばし、穏やかな人生を送ることが
できたのではないか、と思わずにはいられません。
第二帖「帚木」の巻・全文訳(1)
2016年10月10日 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第7回・№2)
本日読みました「帚木」の巻(45頁・1行目~53頁・2行目まで)の
前半に当たる部分(45頁・1行目~48頁・1行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
光源氏、だなんて、名前だけは御大層ですけれども、「光」なんて
とんでもない、と言われそうな欠点も沢山おありのようですが、
それに輪をかけて、こんな浮気沙汰のあれこれを、後世の人たちも
聞き伝えて「軽率な方」という評判を流すことになろうかと秘密にして
おられた内緒事までも、語り伝えてしまった人のたちの悪いおしゃべり
ですこと。実のところ、源氏の君はたいそう世間に気兼ねして、まじめに、
と心掛けておられたので、色めいた風流なお話などなくて、交野の少将
には、笑われなさったことでしょうよ。
まだ近衛の中将でいらした時は、宮中だけを居心地の良いところと
なさって、左大臣邸にはたまにしかお出でになりませんでした。
左大臣は、人目を忍ぶ恋でもなさっているのでは、とお疑いなさる
こともありましたが、そんないい加減なありふれた行き当たりばったりの
恋愛などは、好まれないご性分で、稀に、無理にうって変わっての
物思いに苦しみ抜く恋を、お心に思い詰めなさる癖がおありなのが
生憎で、かんばしくないお振舞いがないわけでもありませんでした。
梅雨で晴れ間の無い頃、宮中での物忌が続き、何時にも増して
宮中に長逗留なさっているので、左大臣は気掛かりで恨めしく
お思いでしたが、源氏の君のすべてのお召し物を、あれこれと
目新しく新調なさっては、ご子息の君達が、宮中の宿直所に
おられる源氏の君のお相手をお務めになっていました。
母君が皇女でいらっしゃる頭中将は、中でも源氏の君の親友と
なっておられ、ちょっとした管弦の遊びでも、他の人よりも気安く、
なれなれしくお振舞いになっていました。この中将も、右大臣が
婿として大切にお世話さなっているお住まいへのお通いは、
とても億劫に思っているという、色好みな風流人でございました。
頭中将は実家の左大臣家でも、ご自分のお部屋の調度には
凝って、源氏の君が出入りなさるのに、いつもお供して、日夜、
学問も、管弦の遊びも、源氏の君と一緒になさって、さほど
引けも取らず、どこでもご一緒なさっているうちに、自然と
遠慮もなくなって、思っていることも隠し切れず打ち明けてしまう、
といった親しいお付き合いをなさっていました。
所在なく降り続いた一日も暮れて、しっとりとした宵の雨となりました。
清涼殿の殿上の間にも、すっかり人影は少なくなり、源氏の君の
お部屋も、いつもよりはのんびりとした感じがして、灯りを近くに
寄せて、漢籍などをご覧になっています。
お傍近くの御厨子に収めた、色とりどりの紙に書かれた手紙類を
引き出して、頭中将がひどく見たがるので、源氏の君は「差支えの
ないものを少しお見せしましょう。見られては困るものもございますから」
と、全部をご覧になるのはお許しにならないので、頭中将が、「そういう
内緒の、人に見られては不都合だ、とお思いな手紙こそ見たいものです。
普通のありふれた手紙なら、私のようなつまらない者でも、それ相応に
女と手紙の遣り取りをして見ております。女たちがそれぞれに、男を
恨めしく思っている時とか、男の訪れを心待ちにしている夕暮に
書いたものの中にこそ、見るに値するものがありましょう」と、恨み言を
言うので、お見せになりますが、大切な、絶対人に見せられないような
手紙は、このようになおざりな御厨子などに、人目につくように放って
置かれるはずもなく、しっかりと別に置いていらっしゃるでしょうから、
これらは、二流の気の置けないものなのでしょう。
手紙の端々を見て、「よくまあ、こんなに様々な手紙がありますね」
と言って、当て推量に、「これはあの人の?これはあの人の?」と
お訊きになる中で、当たっているものもあれば、全く見当違いな相手を
想像しているものもあって、源氏の君は、おかしいとお思いになりますが、
多くは語らずに、何かとごまかしながら、とり隠してしまわれました。
本日読みました「帚木」の巻(45頁・1行目~53頁・2行目まで)の
前半に当たる部分(45頁・1行目~48頁・1行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
光源氏、だなんて、名前だけは御大層ですけれども、「光」なんて
とんでもない、と言われそうな欠点も沢山おありのようですが、
それに輪をかけて、こんな浮気沙汰のあれこれを、後世の人たちも
聞き伝えて「軽率な方」という評判を流すことになろうかと秘密にして
おられた内緒事までも、語り伝えてしまった人のたちの悪いおしゃべり
ですこと。実のところ、源氏の君はたいそう世間に気兼ねして、まじめに、
と心掛けておられたので、色めいた風流なお話などなくて、交野の少将
には、笑われなさったことでしょうよ。
まだ近衛の中将でいらした時は、宮中だけを居心地の良いところと
なさって、左大臣邸にはたまにしかお出でになりませんでした。
左大臣は、人目を忍ぶ恋でもなさっているのでは、とお疑いなさる
こともありましたが、そんないい加減なありふれた行き当たりばったりの
恋愛などは、好まれないご性分で、稀に、無理にうって変わっての
物思いに苦しみ抜く恋を、お心に思い詰めなさる癖がおありなのが
生憎で、かんばしくないお振舞いがないわけでもありませんでした。
梅雨で晴れ間の無い頃、宮中での物忌が続き、何時にも増して
宮中に長逗留なさっているので、左大臣は気掛かりで恨めしく
お思いでしたが、源氏の君のすべてのお召し物を、あれこれと
目新しく新調なさっては、ご子息の君達が、宮中の宿直所に
おられる源氏の君のお相手をお務めになっていました。
母君が皇女でいらっしゃる頭中将は、中でも源氏の君の親友と
なっておられ、ちょっとした管弦の遊びでも、他の人よりも気安く、
なれなれしくお振舞いになっていました。この中将も、右大臣が
婿として大切にお世話さなっているお住まいへのお通いは、
とても億劫に思っているという、色好みな風流人でございました。
頭中将は実家の左大臣家でも、ご自分のお部屋の調度には
凝って、源氏の君が出入りなさるのに、いつもお供して、日夜、
学問も、管弦の遊びも、源氏の君と一緒になさって、さほど
引けも取らず、どこでもご一緒なさっているうちに、自然と
遠慮もなくなって、思っていることも隠し切れず打ち明けてしまう、
といった親しいお付き合いをなさっていました。
所在なく降り続いた一日も暮れて、しっとりとした宵の雨となりました。
清涼殿の殿上の間にも、すっかり人影は少なくなり、源氏の君の
お部屋も、いつもよりはのんびりとした感じがして、灯りを近くに
寄せて、漢籍などをご覧になっています。
お傍近くの御厨子に収めた、色とりどりの紙に書かれた手紙類を
引き出して、頭中将がひどく見たがるので、源氏の君は「差支えの
ないものを少しお見せしましょう。見られては困るものもございますから」
と、全部をご覧になるのはお許しにならないので、頭中将が、「そういう
内緒の、人に見られては不都合だ、とお思いな手紙こそ見たいものです。
普通のありふれた手紙なら、私のようなつまらない者でも、それ相応に
女と手紙の遣り取りをして見ております。女たちがそれぞれに、男を
恨めしく思っている時とか、男の訪れを心待ちにしている夕暮に
書いたものの中にこそ、見るに値するものがありましょう」と、恨み言を
言うので、お見せになりますが、大切な、絶対人に見せられないような
手紙は、このようになおざりな御厨子などに、人目につくように放って
置かれるはずもなく、しっかりと別に置いていらっしゃるでしょうから、
これらは、二流の気の置けないものなのでしょう。
手紙の端々を見て、「よくまあ、こんなに様々な手紙がありますね」
と言って、当て推量に、「これはあの人の?これはあの人の?」と
お訊きになる中で、当たっているものもあれば、全く見当違いな相手を
想像しているものもあって、源氏の君は、おかしいとお思いになりますが、
多くは語らずに、何かとごまかしながら、とり隠してしまわれました。
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