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夕霧の女三宮評

2016年11月11日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第101回)

10月に夏日があったかと思えば、11月もまだ前半なのに
今日は真冬並みの寒さ。どうなっているのでしょう。

「若菜上」の巻は、巻末にクライマックスが待っており、
それが「若菜下」へと引き継がれて行くのですが、今回は
その手前までを読みました。

ここで、夕霧と柏木が、それぞれ女三宮に対してどのような
感じ方をしているかが、明らかにされています。

もちろんこの時点では、二人共、女三宮と会ったこともなければ、
ちらりとその姿を見かけたわけでもありません。見かけるのは
クライマックスに入ってからです。

夕霧は、真面目で融通の利かないタイプですが、物事を冷静に
分析して客観的な判断の出来る人です。だからこそ、政治的
手腕を発揮することもできたのでしょう。

夕霧の目は、女三宮の女房たちに向けられています。

若くて綺麗で、派手好みの女房たちが数え切れないほどお仕え
しており、中に、個人的な悩みを抱えている者が混じっていたと
しても、華やかな雰囲気に流されてしまい、全体的に奥ゆかしさに
欠けるサロンとなっている、と夕霧は感じています。

源氏は女三宮自身のお振舞いには口を出されることはあっても、
サロンの在り方にまでは注意をなさらなかったので、皇女という
ご身分にしては周囲の軽さが目に付くのでした。

夕霧には、非の打ち所のない紫の上のサロンと比べてみても、
女主人の人柄が思い遣られ、父・源氏が女三宮を、うわべは
大事に扱っているように見せかけているけれど、実際にはさほど
深い愛情がおありだと思えないのも、納得出来るのでありました。

やや軽蔑の念すら感じさせる夕霧の女三宮評ですが、一方の
柏木は違っていました。こちらは、28日の「湖月会」のほうで、
お伝えいたしましょう。


今日の一首(27)

2016年11月9日(水) 湘南台「百人一首」(第26回)

2014年10月に開始した湘南台での「百人一首」も、本日無事に
百首まで到達しました。来月の「百人一首かるた会」をもちまして、
この会も終了となります。

今日は最後の四首(97番~100番)を取り上げました。

ブログを始めた2015年3月から、溝の口と湘南台で「百人一首」の
四方山話をする度に、「今日の一首」と題して、その日の四首の中
から一首ずつ紹介してまいりましたが、それも今回で最終回です。
ご紹介できなかった歌は、毎月、カルトナージュの「かるたスタンド」
の光琳かるた入れ替えの時、歌が重複しないように選んで、ゆっくり
ですが、光琳かるたと共に、歌のご紹介も続けて行きたい、と思って
おります。

実は昨日まで、やはり最終回となる今回は、「百人一首」の撰者で
ある97番・「藤原定家」の歌を予定していたのですが、実際にやって
おりましたら、99番の後鳥羽院のところで、残り時間が5分になって
しまいました。100番の順徳院を残して終わるわけにはまいりません。
中途半端になった後鳥羽院の話は「あとはブログに書きます」と
いうことにしましたので、「今日の一首」は後鳥羽院のこの歌です。

「人も愛し人も恨めしあぢきなく世を思ふゆゑにもの思ふ身は」
                       九十九番・後鳥羽院
   後鳥羽院
(人がいとおしくも、また嘆かわしくもある。この世のことをおもしろくなく
思い悩んでいるわが身にとっては)

後鳥羽院がこの歌を詠んだのは建暦2年(1212年)、まだ後鳥羽院の
従妹にあたる坊門信子を正室として迎えた源実朝も健在で、鎌倉幕府
との関係は比較的安定していましたが、治天の君としての自負に溢れる
後鳥羽院にとっては、武士に頭を押さえつけられているような現状に
満足してはいなかったのでしょう。

健保7年(1219年)に実朝が暗殺されたことにより、その両者の均衡も
一気に崩れ、後鳥羽院は承久3年(1221年)承久の乱を起こし、幕府軍に
あっけなく敗れ、隠岐へと流されたのでした。

この辺りは時間内でお話したことで、その先です。

後鳥羽院は結局18年もの配流生活の後、帰京の叶わぬまま、隠岐で
60歳の生涯を終えられましたが、その間にも、「新古今和歌集」から
400首余りを削除した「隠岐本新古今和歌集」を作ったり、「遠島百首」
を詠んだり、和歌に対する情熱が失われることはありませんでした。
逆に言うと、和歌だけが生きる支えだったのかもしれません。

「時代不同歌合」という、人麻呂から宮内卿まで、時代の異なる100人の
歌人の歌三首ずつを、紙上歌合形式にしたものも、隠岐で編まれました。

この「宮内卿」という歌人は、早くから後鳥羽院に歌才を認められ、
歴史に残る「千五百番歌合」の三十人の歌人の中に加えられました。
俊成、定家といった錚々たる面々に交じって、若輩の宮内卿は、
後鳥羽院の期待に十二分に応え、式子内親王、俊成卿女、と並ぶ
時代を代表する女流歌人と称されましたが、歌道に熱心なあまり、
二十歳にもならぬうちに夭折した、と伝えられています。

「増鏡」の作者も、この人が長生きしていたなら、鬼神の心をも動かす
名歌を詠んだであろうに、若くして亡くなったのが、気の毒で惜しくて
ならない、と言っています。

と、まあ随分話が回りくどくなりましたが、「時代不同歌合」に戻って
おしまいにします。

後鳥羽院は「時代不同歌合」で、宮内卿を、なんと王朝第一の女流歌人
「和泉式部」と番えているのです。後鳥羽院が如何に宮内卿を認めて
いたか、おわかり頂けると思います。

こんなふうに、ついつい関係のない横道に逸れながらの「百人一首」
でしたが、ご参加くださった皆さま、有難うございました。


今月の「光琳かるた」

2016年11月5日(土)

今日も秋晴れの空が広がり、ようやく手を付けた衣更えも
気持ちよく終えることが出来ました。

先月は「白露に風の吹きしく秋の野は貫きとめぬ玉ぞ散りける」
を10月のかるたにしようと思いつつ、とうとう入れ替えが出来ない
うちに、月が替わってしまいました。

11月となると「紅葉」ですよね。さて、どの紅葉の歌にしようかしら、
と思いましたが、やはり一番ポピュラーなこれを飾ることにしました。

「ちはやぶる神代も聞かず竜田川からくれなゐに水くくるとは」
                        十七番・在原業平
   DSCF2771.jpg
(神代にあってもこんな話は聞いたことがない。竜田川の水を
真紅の括り染めにしてしまうなんて)

「ちはやふる」は、最近では映画のタイトルにもなりましたが、
古いところでは落語でしょう。

娘に「ちはやふる」の歌の意味を尋ねられた親父が、近所の
ご隠居のところに教えを乞いにやってきます。

吉原の花魁「千早」に振られ、妹分の「神代」にも言うことを
聞いて貰えず、大関の「竜田川」は、失意のうちに相撲取りを
やめて、故郷に帰り家業の豆腐屋を継ぎました。月日は流れ、
ある日、女乞食が現れ「おからをめぐんでください」と言います。
よく見ればそれは自分を振った千早の零落した姿。「お前には
おからなどくれてやるものか」と、竜田川は千早を突き飛ばし
ました。千早は傍の井戸に身を投げて水をくぐることになった
のです。

というのが、ご隠居の「ちはやふる」の歌の解説。感心した親父が、
「でも、最後の『とは』ってのは何ですか?」と訊きますと、弱った
ご隠居は苦し紛れに「『とは』ってのは、『千早』の本名だ」と答えた
のがオチ。

今は「水くくる」は、「紅葉が水を括り染めにする」と解釈するのが
主流ですが、昔は濁点をつけて「くぐる」と読み、「紅葉が水の中を
潜っている」とも解釈されていましたので、落語は後者に因って
います。

「光琳かるた」の取り札は、手前に向かって流れる川とそこに配された
大きな紅葉の、人目を惹くダイナミックな構図です。


ちょっとだけ古典文法(5)

2016年11月3日(木) 八王子「源氏物語を読む会」(第129回)

今日は文化の日。「晴れ」になる特異日だと、昨夜天気予報で
言っていましたが、本当に絶好の行楽日和となりました。昨日が
あんなにどんよりとした寒々しい一日だっただけに、今朝の青空は
一層心地良く感じられました。

でも、箱根の紅葉も見頃なのでしょうか、小田急線が7、8分遅れて、
その理由が、箱根登山線内の混雑の影響と車内アナウンスされた
のにはびっくり。おかげで、横浜線の電車に1本乗り遅れて、例会にも
10分の遅刻をしてしまいました。八王子クラスの皆さま、ごめんなさい!

今回は、「橋姫」の後半、薫が大君との歌の贈答の中で、次第に大君に
心を惹かれて行くところから、再び宇治を訪れて、弁(柏木の乳母子)から
過去の女三宮と柏木の一件を、打ち明けられた、というところまでを読み
ましたが、話の要となる部分は次回の講読個所となりますので、今日は、
先日の高座渋谷のクラスで、私のプリントミスからお渡し出来なかった
「古典文法おぼえま専科⑤」を、今日はちゃんとお配りできたので、
ここでご紹介しておきたいと思います。

動詞を「ず」に付けた時、「ず」の直前の母音が「i(イ)」になる活用は二つで、
一つは10月4日にご紹介した「上二段活用」、もう一つが今日の「上一段活用」
です。

基準となるのは「U(ウ)」の段で、その上の一段を使うということですから、
「上一段活用」は「イ段」のみで活用します。

未然形…i(イ) 連用形… i (イ) 終止形…iru(イる) 連体形… iru(イる)
已然形… ire(イれ) 命令形… iyo(イよ)
と活用します。

ラ変動詞やナ変動詞ほど簡単ではありませんが、これも十数語ですので、
覚えてしまいましょう。覚え方は人それぞれでしょうが、折角受信料を払って
いるのですから「N・H・K・Mi・Yo(NHK見よう)」というのは如何ですか?
 N(にる)…「似る」、「煮る」
 H(ひる)…「干る」、「嚔る」
 K(きる)…「着る」
 M(みる)…「見る」と、その複合動詞(「顧みる」、「試みる」、など)
 i(いる・ゐる)…「射る」、「鋳る」、「居る」、「率る」(複合語の「率ゐる」も)
 Yo(用)   …「用ゐる」

例として、「似る」を活用させてみましょう。上一段活用の動詞は、複合動詞以外は
語幹、語尾の区別がありませんので、注意してください。

 未然形  連用形  終止形  連体形  已然形  命令形   何行何活用
   に    に     にる    にる    にれ   によ   ナ行上一段動詞
   n    n     niru    niru    nire   niyo
     
上一段活用は、イ イ イる イる イれ イよ です。

これで、「ず」に付けて直前の母音が「イ」になる動詞の活用はおしまい。
次回からは、「ず」に付けて直前の母音が「エ」になる動詞になりますが、
ここからはまた、高座渋谷のクラスでお話した時にブログにUPするように
いたします。


真木柱の思い

2016年11月1日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(統合58回 通算108回)

今日から11月。カレンダーもいよいよ薄くなり、ここからは一気に年末に
向かって走り出しそうです。寒さも加わって来ましたね。

ここ数回、高座渋谷のクラスは、講座の初めに「古典文法おぼえま専科」の
プリントを配布して、ブログにもそれをUPしてまいりましたが、今日は私の
ミスで、前回配布したのと同じものをプリントして持って行ってしまいました。
ですから、今月このクラスは一回お休みで、「文法」は八王子クラスのほうで、
ご紹介いたします(こちらをご覧ください→「ちょっとだけ古典文法(5)」)。

「源氏物語」の講読のほうは、第31帖「真木柱」の巻の終盤に入りました。

尚侍となっている玉鬘を一日だけ宮中に出仕させて、髭黒はそのまま
玉鬘を自邸に引き取り、念願の北の方に据えたのでした。

こうなると、父・髭黒とは別れ別れになってしまい、母(髭黒のもとの北の方)
と共に祖父・式部卿の宮家で暮らす真木柱は、孤独です。正気でない母は
ますます尋常ではなくなり、弟たちとは違って父に会うことも叶わず、
弟たちが玉鬘のことを「まろらをも、らうたくなつかしうなむしたまふ。
明け暮れをかしきことを好みてものしたまふ」(僕たちのことも可愛がって
やさしくしてくださいますよ。いつも風流なことを好んでなさっています)など
と話すのを聞くと、真木柱は弟たちが羨ましく、自分も男に生まれたかった、
と思っているのでした。この時、真木柱は13、4歳でした。

時は流れて、第43帖「紅梅」の巻で、何と46、7歳になった真木柱が再び
登場してまいります。故致仕の大臣(「真木柱」の巻では内大臣ですが)
の次男で、按察使の大納言と呼ばれている方の北の方となっています。

その先の第44帖「竹河」の巻では、玉鬘の娘の大君が冷泉院のもとへ院参
しますが、その際、真木柱と玉鬘は隣同士の邸に住んでいるにも拘わらず、
真木柱はさほど心遣いも見せず、親しくお付き合いもしていないと書かれて
います。ここまで読むと、ふと思い出されるのが、今回の真木柱です。

少女の頃には気の振れた実母よりも、若く美しい継母の玉鬘に憧れも抱いた
真木柱が、大人になり、その後の式部卿の宮家の様子や、我が身の来し方を
考えた時、次第に玉鬘に対して許し難いものを感じるようになっていたとしても、
不思議ではありません。

「竹河」の巻を読む時、今回の真木柱を思い出し、物語を繋いでみると、
一人の人間の成長と、心の変化が浮き彫りになって、一段と「源氏物語」
の奥深さが味わえるのでないかと思います。


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