柏木の思い
2016年11月28日(月) 溝の口「湖月会」(101回)
先週の雪が降った頃に比べると、少し寒さも和らぎましたが、
それでも、風が冷たい一日でした。もう今月最後の例会と
なりました。
11月11日のブログでは、夕霧の女三宮評をご紹介しましたが、
今日は、柏木の女三宮への思いを書きましょう。
夕霧が、女三宮に仕えている女房たちの様子から、その女主人
である女三宮の人柄を、冷静に分析しているのに対し、柏木は、
ただ女三宮への思いが先行していて、最初から「恋は盲目」の
様相を呈しています。
柏木は出来るだけ身分の高い女性を妻にしたいという願望を
抱いていたので、女三宮への恋心もそこからスタートしたもの
でした。
女三宮が、父・朱雀院に特別に可愛がられている女御腹の皇女、
というだけで、柏木にとって女三宮は理想の女性に値したのでした。
実際に柏木の妻となった女二宮が、ワンランク下の更衣腹という
だけで、柏木は「どうして自分は落葉のほうを拾ってしまったの
だろう」と嘆いています。そのため、気の毒にもこの方の呼称は
「落葉の宮」です。
朱雀院は、婿選びの時点では、柏木は将来有望な青年ではある
けれど、まだ女三宮の婿には不足として、退けられたのでした。
しかしながら、柏木は、源氏に降嫁の後も女三宮を諦めきれず、
女三宮の乳母子である小侍従という女房を手なづけ、女三宮に
関する情報を収集していました。「源氏の寵愛では、女三宮は
紫の上に負けている」という噂を耳にすると、「自分なら女三宮に
そんな思いはさせないのに」と、柏木は考えているのでした。
でも、まだ今回読んだところでは、柏木は「密通」などといった
大それたことをしようと思っているわけではなく、源氏が出家
なさって、女三宮がお一人になられることでもあったら、その時
にこそ、と思っている程度でした。
柏木がいよいよ恋の炎を燃えたぎらせて行くのは、一匹の唐猫が
きっかけとなり、女三宮の姿を見てしまってからです。次回がその
場面となります。
先週の雪が降った頃に比べると、少し寒さも和らぎましたが、
それでも、風が冷たい一日でした。もう今月最後の例会と
なりました。
11月11日のブログでは、夕霧の女三宮評をご紹介しましたが、
今日は、柏木の女三宮への思いを書きましょう。
夕霧が、女三宮に仕えている女房たちの様子から、その女主人
である女三宮の人柄を、冷静に分析しているのに対し、柏木は、
ただ女三宮への思いが先行していて、最初から「恋は盲目」の
様相を呈しています。
柏木は出来るだけ身分の高い女性を妻にしたいという願望を
抱いていたので、女三宮への恋心もそこからスタートしたもの
でした。
女三宮が、父・朱雀院に特別に可愛がられている女御腹の皇女、
というだけで、柏木にとって女三宮は理想の女性に値したのでした。
実際に柏木の妻となった女二宮が、ワンランク下の更衣腹という
だけで、柏木は「どうして自分は落葉のほうを拾ってしまったの
だろう」と嘆いています。そのため、気の毒にもこの方の呼称は
「落葉の宮」です。
朱雀院は、婿選びの時点では、柏木は将来有望な青年ではある
けれど、まだ女三宮の婿には不足として、退けられたのでした。
しかしながら、柏木は、源氏に降嫁の後も女三宮を諦めきれず、
女三宮の乳母子である小侍従という女房を手なづけ、女三宮に
関する情報を収集していました。「源氏の寵愛では、女三宮は
紫の上に負けている」という噂を耳にすると、「自分なら女三宮に
そんな思いはさせないのに」と、柏木は考えているのでした。
でも、まだ今回読んだところでは、柏木は「密通」などといった
大それたことをしようと思っているわけではなく、源氏が出家
なさって、女三宮がお一人になられることでもあったら、その時
にこそ、と思っている程度でした。
柏木がいよいよ恋の炎を燃えたぎらせて行くのは、一匹の唐猫が
きっかけとなり、女三宮の姿を見てしまってからです。次回がその
場面となります。
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初冬の百人一首かるた会
2016年11月26日(土)
今夜は息子一家と、いつもながらのたこ焼きパーティー。
「23日はどう?」と言われたのですが、私がまだ食事制限を
受けていたので、今日にしてもらいました。
夏の時は上の孫が「今日やりたい」と言ったのですが、今回は
下の孫が「いつやる?」と訊いてきたので、「じゃあ、今日やろう」
ということになって、前回同様、息子、嫁、孫二人が大人と子供の
組み合わせで源平に分かれ、2回戦を行いました。下の孫が
「これやこの~」だけではなくなったので、結構いい勝負になりました。
ここまでで覚えたかるたは25枚。偶数にするため「むらさめの~」
を加えて、26枚でのミニかるた会でしたが、スピードは夏よりも
上がった気がします。
夏が22枚で、今が25枚、私が願っていたお正月までに30枚には、
黄信号が灯っていますが、孫たちのラストスパートに期待をかける
ことにしましょう。
それよりも危なかったのは、「田子の浦にうち出でてみれば白妙の~」
の後を、「衣ほすちょう天の香具山~」と続けてしまった私です。
12月14日の湘南台でのかるた大会の時に、こんなヘマをしないよう、
かるたはしっかりと見て読まなければいけませんね。
今夜は息子一家と、いつもながらのたこ焼きパーティー。
「23日はどう?」と言われたのですが、私がまだ食事制限を
受けていたので、今日にしてもらいました。
夏の時は上の孫が「今日やりたい」と言ったのですが、今回は
下の孫が「いつやる?」と訊いてきたので、「じゃあ、今日やろう」
ということになって、前回同様、息子、嫁、孫二人が大人と子供の
組み合わせで源平に分かれ、2回戦を行いました。下の孫が
「これやこの~」だけではなくなったので、結構いい勝負になりました。
ここまでで覚えたかるたは25枚。偶数にするため「むらさめの~」
を加えて、26枚でのミニかるた会でしたが、スピードは夏よりも
上がった気がします。
夏が22枚で、今が25枚、私が願っていたお正月までに30枚には、
黄信号が灯っていますが、孫たちのラストスパートに期待をかける
ことにしましょう。
それよりも危なかったのは、「田子の浦にうち出でてみれば白妙の~」
の後を、「衣ほすちょう天の香具山~」と続けてしまった私です。
12月14日の湘南台でのかるた大会の時に、こんなヘマをしないよう、
かるたはしっかりと見て読まなければいけませんね。
食事制限解除!
2016年11月25日(金)
まだ平年よりも低い気温とは言え、今日は青空が広がり、落ち葉を
掃く音が心地良く耳に響く一日でした。
3月に大腸検査でポリープが見つかり、1年以内に切除するように
と言われていたので、この月曜日に日帰りで手術を受けました。
腸内洗浄液2リットルを飲むのは本当に苦手です(まあ、好きだと
言う人はいないと思いますが)。途中で悪寒や吐き気に見舞われ
ながらも、何とかクリア。
手術自体は、軽い麻酔がかかっていて、少しの痛みもないうちに
終了。
翌日からは食事は何でも摂れる、と思っていましたが、どっこい
4日間、手術前日と同じ食事をするように、との指示。
野菜、果物、キノコ、海藻、こんにゃく、香辛料やコーヒーなどの
刺激物、アルコール類、タバコが摂取禁止。
アルコールやタバコは普段から無縁ですが、ダメと言われて無性に
食べたいのが、野菜と海藻でした。
焼き魚に大根おろしがつけられないのも、おにぎりに海苔が巻けない
のも、なんともわびしい。
今夕から解禁となって真っ先に作ったのが「蛸と胡瓜と若布の酢の物」。

酢の物なんて普段は毎日のように食べていて、特別なものでも何でも
ないのですが、今夜は特別なご馳走に思えました。
まだ病理検査の結果も出ていないし、新たなポリープも見つかっている
ので、手放しで喜ぶわけには行かないのですが、食べたい時に食べたい
物を食べられるって、幸せなんだなぁ、としみじみ・・・。
今日はインフルエンザの予防注射もして来ました。今年から腕の外側で
なくて、内側にするようになっていました(プヨプヨで恥ずかし~でした)。
まだ平年よりも低い気温とは言え、今日は青空が広がり、落ち葉を
掃く音が心地良く耳に響く一日でした。
3月に大腸検査でポリープが見つかり、1年以内に切除するように
と言われていたので、この月曜日に日帰りで手術を受けました。
腸内洗浄液2リットルを飲むのは本当に苦手です(まあ、好きだと
言う人はいないと思いますが)。途中で悪寒や吐き気に見舞われ
ながらも、何とかクリア。
手術自体は、軽い麻酔がかかっていて、少しの痛みもないうちに
終了。
翌日からは食事は何でも摂れる、と思っていましたが、どっこい
4日間、手術前日と同じ食事をするように、との指示。
野菜、果物、キノコ、海藻、こんにゃく、香辛料やコーヒーなどの
刺激物、アルコール類、タバコが摂取禁止。
アルコールやタバコは普段から無縁ですが、ダメと言われて無性に
食べたいのが、野菜と海藻でした。
焼き魚に大根おろしがつけられないのも、おにぎりに海苔が巻けない
のも、なんともわびしい。
今夕から解禁となって真っ先に作ったのが「蛸と胡瓜と若布の酢の物」。

酢の物なんて普段は毎日のように食べていて、特別なものでも何でも
ないのですが、今夜は特別なご馳走に思えました。
まだ病理検査の結果も出ていないし、新たなポリープも見つかっている
ので、手放しで喜ぶわけには行かないのですが、食べたい時に食べたい
物を食べられるって、幸せなんだなぁ、としみじみ・・・。
今日はインフルエンザの予防注射もして来ました。今年から腕の外側で
なくて、内側にするようになっていました(プヨプヨで恥ずかし~でした)。
第二帖「帚木」の巻・全文訳(4)
2016年11月24日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第8回・№2)
本日読みました「帚木」の巻(53頁・3行目~61頁・14行目まで)の
後半に当たる部分(56頁・14行目~61頁・14行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
思わせぶりにはにかんで、夫に対して言うべき恨み言も気づかぬふりを
して我慢し、表面は何気なく装って振る舞い、そのくせ、胸一つに納め
きれなくなった時は、言いようもなく悲し気な置手紙をしたり、哀れな歌を
詠み置いたり、思い出してもらえるような形見の品を残したりして、
深い山里や、物寂しい海辺などに身を隠したりするんですよね。
まだ子供でした頃は、女房などが物語を読むのを聞いて、すっかり心を
打たれて、悩み抜いた挙句のことだと、涙までも落としたことでございますよ。
今思うと、それはたいそう軽々しく、わざとらしい行動です。愛情深い夫を
残して、たとえ目先に辛いことがあったとしても、夫の気持ちもわからぬように、
逃げ隠れて夫を心配させ、その気持ちを見定めようとしているうちに、夫婦の
縁が切れ、一生の物思いになってしまうのは、たいそうつまらないことです。
「よく決心なさいました」などと、周囲の人におだてられて、気持ちが昂ぶると、
そのまま尼になってしまうのですよね。決心する時は、たいそう悟りすました
ようで、この世に何の未練も無いように思えます。「まあ、何て悲しいこと。
こんなご決心をよくまあなさったことですよ。」などというように、知り合いの
人が訪ねてきたり、まだ女に未練のある夫が、出家のことを聞いて涙を流すと、
召使や、古女房たちも、「旦那様の情愛は深くていらっしゃったのに。惜しい
御身を」などと言います。本人も、額髪を触ってみても、手ごたえがなく心細い
ので、泣きべそをかいてしまうんですね。我慢しても一旦涙がこぼれ始めると、
折あるごとに堪え切れず、いろいろと後悔することになるでしょうから、仏さまも
これでは却って未練がましいとご覧になるに違いありません。この世の濁りに
染まっているよりも、なま悟りでは、むしろ悪道にさまようことになろうかと
思われます。前世からの夫婦としての縁が深く、尼にもならずに夫が捜し出して
連れ帰ったとしても、そのまま連れ添って、二人の間に生じる様々な危機を、
何とかやり過ごして来た夫婦仲であってこそ、宿縁も深く情けも湧くものでしょうに、
こんな騒動を起こしてしまうと、自分も夫も互いに今後が不安で、気が気じゃあ、
ありませんよ。
また、ちょっと他の女に心を移した男を恨んで、あからさまに仲違いをするのも
また、馬鹿げたことに違いありません。気持ちが他の女に移ったとしても、夫が
結ばれた当初の愛情を忘れず、妻をいとしく思うならば、そうした縁のある仲と
して続いて行くものを、そんなつまずきがもとで、縁が切れてしまうものなのです。
すべて何事も穏やかに、恨み言を言うべきことは、知っていますよ、という程度に
ちらっとほのめかし、恨み言を口にする場合でも、事を荒立てずそれとなく言えば、
それにつけて、夫の愛情も深まりましょう。多くは男の浮気も、妻の出方次第で
収まるものなのです。かと言って、あまりむやみに夫に勝手をさせ、放任するのも、
気楽で可愛気があるようですが、つい軽く見てしまいますね。岸に繋いでない舟が
どこを漂っているのかわからない、といったふうなのも、実際面白くありません。
そうじゃありませんか」と言うので、頭中将は頷いて、「さし当たって、綺麗だとか
可愛いとか思って気に入っている女が、夫を裏切っている疑いが出てきたら、
それこそ大変でしょう。夫のほうに落ち度がなくて女の浮気を大目に見るならば、
女の心を改めさせてでも何とかして結婚生活を続けることも出来ようかと思われ
ますが、必ずしもそうも行きますまい。何はともあれ、仲違いしそうなことがあっても、
気長に我慢するより外に、良策はないでしょう」と言って、ご自分の妹君は、この
結論にぴったりだと思われるので、源氏の君が居眠りをして言葉を挟まれないのを、
物足りなく面白くない、と思っています。左馬頭は、論議の博士となって、しゃべり
立てておりました。頭中将は、この論理を最後まで聞こうと、熱心に受け答えをして
おられるのでした。
左馬頭の話は続きます。「すべてのことに引き比べてお考え下さい。指物師が、
様々なものを思いのままに作り出すのにも、その場限りの趣味的な道具で、
きちんと作り方も決まっていない物は、見た目のしゃれているのも、なるほど
こうも作れるのだなぁ、と思われて、臨機応変に趣向を変えて、目新しく作って
あるのに惹かれて、面白く感じる物もあります。本当に格式のある、家の調度
の中でも特に際立つようにすべき定まった様式の物を、立派に作り上げること
にかけては、やはり本当の名人は違う、と、一目でわかるものでございます。
また絵所には名人が大勢いますが、墨がきに選ばれた絵師でも、上位と下位
とのはっきりと差のつく優劣の違いは、ちょっと見ただけではわかりません。
ですが、人が見たことも無い蓬莱の山、荒海の恐ろしい魚の姿、唐の国の
猛々しい獣の形、目に見えない鬼の顔などの、大げさに筆を振るった絵は、
空想に任せて一段と人目を驚かせて、真実には程遠いものでありましょうが、
それはそれでいいでしょう。
ありふれた山のたたずまい、水の流れ、見馴れた人の住まいの様子などは、
なるほどと思われ、親しみやすく穏やかな点景などを、しっとりと画面に配して、
険しくはない山の様子を、木々が茂り、幾重にも重なって浮世離れしたように
描き、近景において人家の垣根の中を描いた時、その心配りや描法などの点で、
名人のは格別の精彩を放っており、いい加減な絵師の及ばないところが多々
あるようです。
字を書くにしましても、深い素養がなくて、あちこち点長に筆を走らせ、どことなく
気取って書いてあるのは、ちょっと見ると才気があって上手そうな感じがします
けれど、やはり本格的な書法で丁寧に書き上げた書は、表面の筆の上手さは
目立ちませんが、もう一度両者を取並べて見ますと、やはり実直な書き方の
ほうが優れています。ちょっとした才芸でもこうしたものです。ましてや女の心の、
何かの折に気取って見せたような、目先だけの風情は、頼りにならないものだと
考えるようになりました。
当初の私の失敗談を、好色めいたお話ですがいたしましょう」と言って膝を
進めると、源氏の君も目を覚まされました。頭中将は大層熱心な顔つきで、
頬杖をついて、向かい合って座っていらっしゃいます。法師が世の道理を
説いて聞かせるところのような心地がするのも、一方ではおかしいのですが、
このような機会には、各自が秘め事を隠し切れずにしゃべってしまうので
ございました。
本日読みました「帚木」の巻(53頁・3行目~61頁・14行目まで)の
後半に当たる部分(56頁・14行目~61頁・14行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
思わせぶりにはにかんで、夫に対して言うべき恨み言も気づかぬふりを
して我慢し、表面は何気なく装って振る舞い、そのくせ、胸一つに納め
きれなくなった時は、言いようもなく悲し気な置手紙をしたり、哀れな歌を
詠み置いたり、思い出してもらえるような形見の品を残したりして、
深い山里や、物寂しい海辺などに身を隠したりするんですよね。
まだ子供でした頃は、女房などが物語を読むのを聞いて、すっかり心を
打たれて、悩み抜いた挙句のことだと、涙までも落としたことでございますよ。
今思うと、それはたいそう軽々しく、わざとらしい行動です。愛情深い夫を
残して、たとえ目先に辛いことがあったとしても、夫の気持ちもわからぬように、
逃げ隠れて夫を心配させ、その気持ちを見定めようとしているうちに、夫婦の
縁が切れ、一生の物思いになってしまうのは、たいそうつまらないことです。
「よく決心なさいました」などと、周囲の人におだてられて、気持ちが昂ぶると、
そのまま尼になってしまうのですよね。決心する時は、たいそう悟りすました
ようで、この世に何の未練も無いように思えます。「まあ、何て悲しいこと。
こんなご決心をよくまあなさったことですよ。」などというように、知り合いの
人が訪ねてきたり、まだ女に未練のある夫が、出家のことを聞いて涙を流すと、
召使や、古女房たちも、「旦那様の情愛は深くていらっしゃったのに。惜しい
御身を」などと言います。本人も、額髪を触ってみても、手ごたえがなく心細い
ので、泣きべそをかいてしまうんですね。我慢しても一旦涙がこぼれ始めると、
折あるごとに堪え切れず、いろいろと後悔することになるでしょうから、仏さまも
これでは却って未練がましいとご覧になるに違いありません。この世の濁りに
染まっているよりも、なま悟りでは、むしろ悪道にさまようことになろうかと
思われます。前世からの夫婦としての縁が深く、尼にもならずに夫が捜し出して
連れ帰ったとしても、そのまま連れ添って、二人の間に生じる様々な危機を、
何とかやり過ごして来た夫婦仲であってこそ、宿縁も深く情けも湧くものでしょうに、
こんな騒動を起こしてしまうと、自分も夫も互いに今後が不安で、気が気じゃあ、
ありませんよ。
また、ちょっと他の女に心を移した男を恨んで、あからさまに仲違いをするのも
また、馬鹿げたことに違いありません。気持ちが他の女に移ったとしても、夫が
結ばれた当初の愛情を忘れず、妻をいとしく思うならば、そうした縁のある仲と
して続いて行くものを、そんなつまずきがもとで、縁が切れてしまうものなのです。
すべて何事も穏やかに、恨み言を言うべきことは、知っていますよ、という程度に
ちらっとほのめかし、恨み言を口にする場合でも、事を荒立てずそれとなく言えば、
それにつけて、夫の愛情も深まりましょう。多くは男の浮気も、妻の出方次第で
収まるものなのです。かと言って、あまりむやみに夫に勝手をさせ、放任するのも、
気楽で可愛気があるようですが、つい軽く見てしまいますね。岸に繋いでない舟が
どこを漂っているのかわからない、といったふうなのも、実際面白くありません。
そうじゃありませんか」と言うので、頭中将は頷いて、「さし当たって、綺麗だとか
可愛いとか思って気に入っている女が、夫を裏切っている疑いが出てきたら、
それこそ大変でしょう。夫のほうに落ち度がなくて女の浮気を大目に見るならば、
女の心を改めさせてでも何とかして結婚生活を続けることも出来ようかと思われ
ますが、必ずしもそうも行きますまい。何はともあれ、仲違いしそうなことがあっても、
気長に我慢するより外に、良策はないでしょう」と言って、ご自分の妹君は、この
結論にぴったりだと思われるので、源氏の君が居眠りをして言葉を挟まれないのを、
物足りなく面白くない、と思っています。左馬頭は、論議の博士となって、しゃべり
立てておりました。頭中将は、この論理を最後まで聞こうと、熱心に受け答えをして
おられるのでした。
左馬頭の話は続きます。「すべてのことに引き比べてお考え下さい。指物師が、
様々なものを思いのままに作り出すのにも、その場限りの趣味的な道具で、
きちんと作り方も決まっていない物は、見た目のしゃれているのも、なるほど
こうも作れるのだなぁ、と思われて、臨機応変に趣向を変えて、目新しく作って
あるのに惹かれて、面白く感じる物もあります。本当に格式のある、家の調度
の中でも特に際立つようにすべき定まった様式の物を、立派に作り上げること
にかけては、やはり本当の名人は違う、と、一目でわかるものでございます。
また絵所には名人が大勢いますが、墨がきに選ばれた絵師でも、上位と下位
とのはっきりと差のつく優劣の違いは、ちょっと見ただけではわかりません。
ですが、人が見たことも無い蓬莱の山、荒海の恐ろしい魚の姿、唐の国の
猛々しい獣の形、目に見えない鬼の顔などの、大げさに筆を振るった絵は、
空想に任せて一段と人目を驚かせて、真実には程遠いものでありましょうが、
それはそれでいいでしょう。
ありふれた山のたたずまい、水の流れ、見馴れた人の住まいの様子などは、
なるほどと思われ、親しみやすく穏やかな点景などを、しっとりと画面に配して、
険しくはない山の様子を、木々が茂り、幾重にも重なって浮世離れしたように
描き、近景において人家の垣根の中を描いた時、その心配りや描法などの点で、
名人のは格別の精彩を放っており、いい加減な絵師の及ばないところが多々
あるようです。
字を書くにしましても、深い素養がなくて、あちこち点長に筆を走らせ、どことなく
気取って書いてあるのは、ちょっと見ると才気があって上手そうな感じがします
けれど、やはり本格的な書法で丁寧に書き上げた書は、表面の筆の上手さは
目立ちませんが、もう一度両者を取並べて見ますと、やはり実直な書き方の
ほうが優れています。ちょっとした才芸でもこうしたものです。ましてや女の心の、
何かの折に気取って見せたような、目先だけの風情は、頼りにならないものだと
考えるようになりました。
当初の私の失敗談を、好色めいたお話ですがいたしましょう」と言って膝を
進めると、源氏の君も目を覚まされました。頭中将は大層熱心な顔つきで、
頬杖をついて、向かい合って座っていらっしゃいます。法師が世の道理を
説いて聞かせるところのような心地がするのも、一方ではおかしいのですが、
このような機会には、各自が秘め事を隠し切れずにしゃべってしまうので
ございました。
夫の操縦法
2016年11月24日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第8回・№1)
都心で11月に雪が降ったのは54年ぶりとのこと。その記念すべき(?)
日に、「紫の会・木曜クラス」の例会が重なりました。昨夜は「どうか
大雪になりませんように」と祈りながら床に着きました。
その願いが届いたのか、思ったほど雪はひどくなく、電車も多少の
遅延はあったものの、普通に動いていたので、雪の為欠席、という
方もなく、ホッといたしました。
それにしても、この気温の変化の激しさは一体どうしたことでしょう。
日曜日の淵野辺クラスの時は20度を超えていた最高気温が、4日後
の今日はたった4度だなんて!もうダウンコートにマフラー、完全に
真冬スタイル以外の選択肢はありませんでした。
こちらのクラスも「帚木」の巻の2回目、月曜クラスと同じ、左馬頭が
「理想の妻像」について熱弁を振るう場面を読みました。
夫の浮気に耐え切れなくなって、家出騒動を起こし、挙句には出家まで
してしまう妻の愚かさを語り、夫を上手に操縦するには、何事も穏やかに
対処するのが一番で、「私、知っておりますわよ」と、ちらっと仄めかす
程度が、夫の浮気を収めさせる良策だと説いています。
その後が面白いのです。嫉妬深くて大騒ぎされるのも困りものだけれど、
かと言って、「どうぞご自由に」と、嫉妬のかけらもないような妻も、男は
気楽で良さそうな気がしますが、岸に繋いでない舟がどこを漂っているのか
わからない、といった風で、実際面白くないものです、と語るのです。
「嫉妬」という一種のスパイス、効き過ぎはいただけませんが、ゼロも
物足りない、といったところでしょうか。
引き続き、いつものように、今回講読箇所の後半の全文訳を書きます。
前半の全文訳は11月14日の記事でご覧ください。
都心で11月に雪が降ったのは54年ぶりとのこと。その記念すべき(?)
日に、「紫の会・木曜クラス」の例会が重なりました。昨夜は「どうか
大雪になりませんように」と祈りながら床に着きました。
その願いが届いたのか、思ったほど雪はひどくなく、電車も多少の
遅延はあったものの、普通に動いていたので、雪の為欠席、という
方もなく、ホッといたしました。
それにしても、この気温の変化の激しさは一体どうしたことでしょう。
日曜日の淵野辺クラスの時は20度を超えていた最高気温が、4日後
の今日はたった4度だなんて!もうダウンコートにマフラー、完全に
真冬スタイル以外の選択肢はありませんでした。
こちらのクラスも「帚木」の巻の2回目、月曜クラスと同じ、左馬頭が
「理想の妻像」について熱弁を振るう場面を読みました。
夫の浮気に耐え切れなくなって、家出騒動を起こし、挙句には出家まで
してしまう妻の愚かさを語り、夫を上手に操縦するには、何事も穏やかに
対処するのが一番で、「私、知っておりますわよ」と、ちらっと仄めかす
程度が、夫の浮気を収めさせる良策だと説いています。
その後が面白いのです。嫉妬深くて大騒ぎされるのも困りものだけれど、
かと言って、「どうぞご自由に」と、嫉妬のかけらもないような妻も、男は
気楽で良さそうな気がしますが、岸に繋いでない舟がどこを漂っているのか
わからない、といった風で、実際面白くないものです、と語るのです。
「嫉妬」という一種のスパイス、効き過ぎはいただけませんが、ゼロも
物足りない、といったところでしょうか。
引き続き、いつものように、今回講読箇所の後半の全文訳を書きます。
前半の全文訳は11月14日の記事でご覧ください。
もうひとつの動機
2016年11月20日(日) 淵野辺「五十四帖の会」(第131回)
「宇治十帖」に入って2帖目、「源氏物語」全体では46帖目にあたる
「椎本」の巻も、このクラスは終わりに近づいて来ました。次回は
残り少しを読み終えて、第47帖「総角」の巻に進む予定です。
薫は幼い頃から、自分の出生の秘密に何となく気づいていて、
それが彼の厭世観にもつながっているのですが、薫にはっきりと
事実を告げたのは、八の宮家に仕えている「弁」という女房でした。
弁は、亡き柏木(薫の実父)の乳母の娘で、柏木も、弁には女三宮
への思いも打ち明けていました。柏木の最期には、女三宮と遣り取り
をした手紙も託されていたので、ずっと薫にこの形見を渡したいと
思い続けていたのでした。
弁は夫となった男と共に薩摩の国に下り、10年余りを過ごしたのち、
京に戻って、八の宮の北の方の従姉妹という縁から、八の宮邸に
仕えておりました。
偶然にも、八の宮の生き方に心惹かれた薫が、宇治へと通って来る
ようになり、ようやく弁は薫に事の真相を伝え、柏木から預かった手紙も
渡すことが出来たのでした。
以後、薫は弁に対しても、優しい心遣いをして接しているのですが、
気掛かりなのは、弁が薫の出生にまつわる秘密を宇治の姫君たちに
漏らしてしまっているのではないかということでした。
弁もさすがに、母親が柏木の乳母を務めただけあって、他人に言って
よいことといけないこととは、きちんとわきまえており、大君にも中の君
一言も漏らすことはなく、自分一人の胸にしっかりと収めていましたが、
薫は、姫君たちのお世話係として、日夜お側近くにお仕えしている身
であれば、年寄りはすぐに問わず語りもしてしまうから、相手構わず
言いふらすことはなくても、姫君たちにはきっと話してしまっているに
違いないと、推測したのです。
自分の弱味を姫君たちに握られている、と思うと、「またもて離れては
やまじと、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき」(これがまた姫君たちを
我がものにせずには置くまい、と考えるきっかけとなりそうでした)
と、作者が草子地で記しています。
薫は姫君との結婚を願う動機の一つとして、「自分の出生の秘密を守る
ためだ」と、自らの言動を合理化、正当しているわけですが、浮舟の死
(実際には死んではいないのですが)を知った時も、「仏がぐずぐずと
出家しないでいる自分に道心を起こさせようとして、こんな辛い目に
合わせなさるのだ」と、やはり、浮舟の死を合理化、正当化しようとして
います。
一種のエゴイズムの現れとも言えるこの薫の独特の考え方ですが、
薫の中に潜む鬱屈した心理の源をたどってみると、同情の余地も
見えて来るような気がします。
「宇治十帖」に入って2帖目、「源氏物語」全体では46帖目にあたる
「椎本」の巻も、このクラスは終わりに近づいて来ました。次回は
残り少しを読み終えて、第47帖「総角」の巻に進む予定です。
薫は幼い頃から、自分の出生の秘密に何となく気づいていて、
それが彼の厭世観にもつながっているのですが、薫にはっきりと
事実を告げたのは、八の宮家に仕えている「弁」という女房でした。
弁は、亡き柏木(薫の実父)の乳母の娘で、柏木も、弁には女三宮
への思いも打ち明けていました。柏木の最期には、女三宮と遣り取り
をした手紙も託されていたので、ずっと薫にこの形見を渡したいと
思い続けていたのでした。
弁は夫となった男と共に薩摩の国に下り、10年余りを過ごしたのち、
京に戻って、八の宮の北の方の従姉妹という縁から、八の宮邸に
仕えておりました。
偶然にも、八の宮の生き方に心惹かれた薫が、宇治へと通って来る
ようになり、ようやく弁は薫に事の真相を伝え、柏木から預かった手紙も
渡すことが出来たのでした。
以後、薫は弁に対しても、優しい心遣いをして接しているのですが、
気掛かりなのは、弁が薫の出生にまつわる秘密を宇治の姫君たちに
漏らしてしまっているのではないかということでした。
弁もさすがに、母親が柏木の乳母を務めただけあって、他人に言って
よいことといけないこととは、きちんとわきまえており、大君にも中の君
一言も漏らすことはなく、自分一人の胸にしっかりと収めていましたが、
薫は、姫君たちのお世話係として、日夜お側近くにお仕えしている身
であれば、年寄りはすぐに問わず語りもしてしまうから、相手構わず
言いふらすことはなくても、姫君たちにはきっと話してしまっているに
違いないと、推測したのです。
自分の弱味を姫君たちに握られている、と思うと、「またもて離れては
やまじと、思ひ寄らるるつまにもなりぬべき」(これがまた姫君たちを
我がものにせずには置くまい、と考えるきっかけとなりそうでした)
と、作者が草子地で記しています。
薫は姫君との結婚を願う動機の一つとして、「自分の出生の秘密を守る
ためだ」と、自らの言動を合理化、正当しているわけですが、浮舟の死
(実際には死んではいないのですが)を知った時も、「仏がぐずぐずと
出家しないでいる自分に道心を起こさせようとして、こんな辛い目に
合わせなさるのだ」と、やはり、浮舟の死を合理化、正当化しようとして
います。
一種のエゴイズムの現れとも言えるこの薫の独特の考え方ですが、
薫の中に潜む鬱屈した心理の源をたどってみると、同情の余地も
見えて来るような気がします。
昔も今も・・・
2016年11月18日(金) 溝の口「枕草子」(第2回)
一度は「枕草子」の日記的章段を、年立てに従って読むことに
しましたが、上巻、下巻の二冊を行ったり来たりしながら、しかも、
段も飛び飛びになるとあって、却って煩雑になってわかり難い、
とのお声が上がり、この案は今回で止めて、次回からは、従来通り、
上巻のはじめから、順番に読み進めることになりました。
初回は第一段の「春はあけぼの」だけで終わりましたので、
今日は「日記的章段」の最も古い話、いわゆる「打聞(うちぎき)」
(伝え聞いた話)の第174段と第175段を読み、その後、下巻の
最初の第137段から第145段までの「類聚章段」・「随想章段」を
読みました。
どの話も、清少納言の鋭い感性に彩られ、「枕草子って面白い!」
と思われた方も多いのではないでしょうか。
一例です。第145段「人映えするもの」(人前で調子に乗るもの)から。
出仕先で、隣り合わせの部屋に住んでいる女房の子供が、こちらの
部屋に入って来て、手あたり次第、物に触って散らしたり、壊したり
するので、袖を引っ張って押さえていたら、その子の母親が来たので、
袖を放してやると、母親に「ねえねえ、あれ取ってよ」などとねだり、
母親が自分のおしゃべりに夢中で、相手にしてもらえないとなると、
勝手に出して来て、その辺に広げてしたい放題。それを、母親は「ダメ!」
と、きつく叱って取り上げることもせず、「そんなことしちゃダメよ」とか
「壊さないようにね」なんて笑って軽く注意するだけ。こうなると、母親のほう
にも腹が立つ。でも、母親の目の前で、この悪ガキを叱りつけるわけにも
行かず、黙って見てるのは、「ん、もぉーっ!」って気がするわ。
と、千年余り前に清少納言が書いているのです。
今日のタイトル「昔も今も・・・」、実感して頂けましたか?
一度は「枕草子」の日記的章段を、年立てに従って読むことに
しましたが、上巻、下巻の二冊を行ったり来たりしながら、しかも、
段も飛び飛びになるとあって、却って煩雑になってわかり難い、
とのお声が上がり、この案は今回で止めて、次回からは、従来通り、
上巻のはじめから、順番に読み進めることになりました。
初回は第一段の「春はあけぼの」だけで終わりましたので、
今日は「日記的章段」の最も古い話、いわゆる「打聞(うちぎき)」
(伝え聞いた話)の第174段と第175段を読み、その後、下巻の
最初の第137段から第145段までの「類聚章段」・「随想章段」を
読みました。
どの話も、清少納言の鋭い感性に彩られ、「枕草子って面白い!」
と思われた方も多いのではないでしょうか。
一例です。第145段「人映えするもの」(人前で調子に乗るもの)から。
出仕先で、隣り合わせの部屋に住んでいる女房の子供が、こちらの
部屋に入って来て、手あたり次第、物に触って散らしたり、壊したり
するので、袖を引っ張って押さえていたら、その子の母親が来たので、
袖を放してやると、母親に「ねえねえ、あれ取ってよ」などとねだり、
母親が自分のおしゃべりに夢中で、相手にしてもらえないとなると、
勝手に出して来て、その辺に広げてしたい放題。それを、母親は「ダメ!」
と、きつく叱って取り上げることもせず、「そんなことしちゃダメよ」とか
「壊さないようにね」なんて笑って軽く注意するだけ。こうなると、母親のほう
にも腹が立つ。でも、母親の目の前で、この悪ガキを叱りつけるわけにも
行かず、黙って見てるのは、「ん、もぉーっ!」って気がするわ。
と、千年余り前に清少納言が書いているのです。
今日のタイトル「昔も今も・・・」、実感して頂けましたか?
源氏の「終活」
2016年11月16日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第183回)
私も高齢者の仲間入りをしてから早二年半余りが経ち、段々と
「終活」が気になって来ています。自分の身の回りの物などは、
比較的あっさり処分してしまえるのですが、どうにも捨て難いのが、
手紙と写真です。
そのあたり、今日読んだ「幻」の巻の終盤は、参考になりますね。
源氏は出家の決意が固まってきたところで、これまで捨てるには
惜しいと思われて、残しておいた女君たちからの手紙を破り捨て
られたのですが、これだけは別に保管してあった須磨流謫中の
源氏のもとに届いた紫の上からの手紙も、焼いて処分する決心を
なさいました。
源氏はもちろんのこと、側で手紙を焼くお手伝いをする女房たちも、
悲しみは並大抵ではありません。でも、源氏は手紙を読み返せば、
一段と心も乱れ、傍目にもみっともないことになろうかと、ただ、
紫の上がこまごまとお書きになっている横に、
「かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ」
(掻き集めて見たところで、もう紫の上はこの世になく、空しいばかりの
この手紙よ、亡き人と同じように煙となって空に立ち上って行くがよい)
と、書きつけて、全部焼かせなさったのでした。
時に源氏52歳の12月。「桐壺」の巻から始まった光源氏の一代記は、
こうして「終活」も済ませ、出家の準備が整ったところで、静かに幕を
下ろします。
私も高齢者の仲間入りをしてから早二年半余りが経ち、段々と
「終活」が気になって来ています。自分の身の回りの物などは、
比較的あっさり処分してしまえるのですが、どうにも捨て難いのが、
手紙と写真です。
そのあたり、今日読んだ「幻」の巻の終盤は、参考になりますね。
源氏は出家の決意が固まってきたところで、これまで捨てるには
惜しいと思われて、残しておいた女君たちからの手紙を破り捨て
られたのですが、これだけは別に保管してあった須磨流謫中の
源氏のもとに届いた紫の上からの手紙も、焼いて処分する決心を
なさいました。
源氏はもちろんのこと、側で手紙を焼くお手伝いをする女房たちも、
悲しみは並大抵ではありません。でも、源氏は手紙を読み返せば、
一段と心も乱れ、傍目にもみっともないことになろうかと、ただ、
紫の上がこまごまとお書きになっている横に、
「かきつめて見るもかひなし藻塩草おなじ雲居の煙とをなれ」
(掻き集めて見たところで、もう紫の上はこの世になく、空しいばかりの
この手紙よ、亡き人と同じように煙となって空に立ち上って行くがよい)
と、書きつけて、全部焼かせなさったのでした。
時に源氏52歳の12月。「桐壺」の巻から始まった光源氏の一代記は、
こうして「終活」も済ませ、出家の準備が整ったところで、静かに幕を
下ろします。
第二帖「帚木」の巻・全文訳(3)
2016年11月14日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第8回・№2)
本日読みました「帚木」の巻(53頁・3行目~61頁・14行目まで)の
前半に当たる部分(53頁・3行目~56頁・14行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
様々な女性のことを話し合っているうちに、「通りいっぺんの恋人
として付き合うには問題なくても、自分の妻として信頼できる女を
選ぶとなると、沢山いる女の中でも、なかなか決めかねるものです。
男が朝廷にお仕えするにあたっては、しっかりとした天下の柱石と
なる人物と言えども、本当の政治家としての器に値する者を挙げる
となると、難しいでしょうよ。でも、いくら際立った人物だとしても、
一人や二人で天下の政治を治めて行けるものではないので、
上の者は下の者に助けられ、下の者は上の者に従って、
多岐に渡る事も融通を付け合ってこなしているのでしょう。
それに比べると、狭い家庭内の主婦とすべき人一人のことを
考えてみますと、不十分では困る大切な事々が、あれこれと
多いものです。一長一短で、まあ人並みでどうにかこれなら、
という女が少ないので、浮気っぽい遊び半分の気持ちで、
大勢の女を比較してみようという趣味はありませんが、
この女こそ生涯の伴侶にしたいと思う程に、同じ事なら自分が
力をいれて、直してやらねばならぬような所がなく、気に入る
人と結婚できないものかと、選び始めると、なかなか決め難い
ということなのでしょう。必ずしも自分の好みのタイプでなくても、
夫婦になった縁だけを大事にして女と一緒にいる男は、傍から
見れば誠実な男に見えるし、そうして捨てられずにいる女も、
取り柄があるのだろうと思われがちです。
ですが、いやまあ、世間の夫婦の様子を数多く見てまいりますと、
想像もつかない程、結構に思える例はありませんね。お二人の
ような名門のご子息方のこの上ない女性のお選びには、ましてや、
どんな方ならお似合いでしょうか。
見た目もそこそこで、若い年頃の女が、自分自身では塵も付かない
ようにと振舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉を選び、墨付きも
薄くて、男にじれったく思わせ、もう一度はっきりと姿をみたいと
男をやきもきさせながら待たせて、かすかな声が聞けるほどまで
近しい仲になっても、息づかいの下に消えてしまいそうな声を
呑み込んで、言葉が少ないのがたいそうよく欠点を隠すものなの
です。なよやかで女らしいと見ていると、風情ばかりに捉われすぎて、
ややもすればあだっぽくなってしまう。これを女の第一の難点と
すべきでしょう。
家刀自としての仕事の中でもいい加減には出来ない夫の世話と
いうものは、情趣を重んじ過ぎて、ちょっとしたこともしゃれており、
趣味的なことにばかりたしなみがあるような面は、なくてもよかろう
と思われもしますが、しかしまた家事一点張りで、額髪をすぐに耳に
挟んで、なりふり構わぬ世話女房型で、ただもう所帯じみた世話に
ばかりにかまけていて、夫が朝夕の出入りをするにつけても、公私に
わたる人々の振る舞いや、善きにつけ悪しきにつけ見聞きした出来事を、
親しくもない人にわざわざ話して聞かせたりはしないものでしょう。
身近にいる妻で、話を理解してくれる人と語り合いたいものだと、
自然と笑いが込み上げてきたり、涙ぐまれたり、むやみに義憤を覚えて、
自分の胸一つに納めきれないような多くの事があっても、この人に話しても
どうせわかりはしないだろうと思うと、ついそっぽ向くことになってしまい、
こっそりと思い出し笑いなどもして、「あーあ」などと独り言も出て来てしまう
のですが、妻が「何ですの?」などと間の抜けた顔で夫を見上げているなんて
いうのは、まったくお話になりません。
ただもう子供っぽくて、素直な女を、何かと教育し妻にするのがよさそうです。
頼りなくても、仕込み甲斐がある気がいたしましょう。ただ、その女の家で
一緒に居る分には、そのようなかわいらしさに免じて欠点も見逃せましょうが、
傍にいない時に、必要な用事を頼んだり、何か事がある時にしでかすことが、
それが趣味的なことでも、実用的なことでも、自分で判断ができず、しっかりと
した配慮がないのは、とても残念で、頼りないという欠点が、やはり困ったこと
でしょう。いつもは少しよそよそしく、好感の持てない人が、何かの折に「おやっ」
と思われる見栄えのすることもあるものです。」など、至らぬところのない論客の
左馬頭も、結論を出しかねて、大きなため息をついておりました。
「今はもう、家柄の良し悪しなど問題にしますまい、容貌なんか尚更です。
どうしようもなく性格がひねくれていなければ、ただ一途に実直で、
落ち着いた性格の妻を、生涯の伴侶、と考えて置くしか他ありません。
それ以上の教養や気の利く点が備わっていたなら、それは「儲け」だと
思って、少し位至らない点があっても、無理にそれ以上は要求しますまい。
安心できるゆったりとした性格さえ確かならば、女らしい風情はそのうち
自然に身に付いてくるものですからね。
本日読みました「帚木」の巻(53頁・3行目~61頁・14行目まで)の
前半に当たる部分(53頁・3行目~56頁・14行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)
様々な女性のことを話し合っているうちに、「通りいっぺんの恋人
として付き合うには問題なくても、自分の妻として信頼できる女を
選ぶとなると、沢山いる女の中でも、なかなか決めかねるものです。
男が朝廷にお仕えするにあたっては、しっかりとした天下の柱石と
なる人物と言えども、本当の政治家としての器に値する者を挙げる
となると、難しいでしょうよ。でも、いくら際立った人物だとしても、
一人や二人で天下の政治を治めて行けるものではないので、
上の者は下の者に助けられ、下の者は上の者に従って、
多岐に渡る事も融通を付け合ってこなしているのでしょう。
それに比べると、狭い家庭内の主婦とすべき人一人のことを
考えてみますと、不十分では困る大切な事々が、あれこれと
多いものです。一長一短で、まあ人並みでどうにかこれなら、
という女が少ないので、浮気っぽい遊び半分の気持ちで、
大勢の女を比較してみようという趣味はありませんが、
この女こそ生涯の伴侶にしたいと思う程に、同じ事なら自分が
力をいれて、直してやらねばならぬような所がなく、気に入る
人と結婚できないものかと、選び始めると、なかなか決め難い
ということなのでしょう。必ずしも自分の好みのタイプでなくても、
夫婦になった縁だけを大事にして女と一緒にいる男は、傍から
見れば誠実な男に見えるし、そうして捨てられずにいる女も、
取り柄があるのだろうと思われがちです。
ですが、いやまあ、世間の夫婦の様子を数多く見てまいりますと、
想像もつかない程、結構に思える例はありませんね。お二人の
ような名門のご子息方のこの上ない女性のお選びには、ましてや、
どんな方ならお似合いでしょうか。
見た目もそこそこで、若い年頃の女が、自分自身では塵も付かない
ようにと振舞い、手紙を書いても、おっとりと言葉を選び、墨付きも
薄くて、男にじれったく思わせ、もう一度はっきりと姿をみたいと
男をやきもきさせながら待たせて、かすかな声が聞けるほどまで
近しい仲になっても、息づかいの下に消えてしまいそうな声を
呑み込んで、言葉が少ないのがたいそうよく欠点を隠すものなの
です。なよやかで女らしいと見ていると、風情ばかりに捉われすぎて、
ややもすればあだっぽくなってしまう。これを女の第一の難点と
すべきでしょう。
家刀自としての仕事の中でもいい加減には出来ない夫の世話と
いうものは、情趣を重んじ過ぎて、ちょっとしたこともしゃれており、
趣味的なことにばかりたしなみがあるような面は、なくてもよかろう
と思われもしますが、しかしまた家事一点張りで、額髪をすぐに耳に
挟んで、なりふり構わぬ世話女房型で、ただもう所帯じみた世話に
ばかりにかまけていて、夫が朝夕の出入りをするにつけても、公私に
わたる人々の振る舞いや、善きにつけ悪しきにつけ見聞きした出来事を、
親しくもない人にわざわざ話して聞かせたりはしないものでしょう。
身近にいる妻で、話を理解してくれる人と語り合いたいものだと、
自然と笑いが込み上げてきたり、涙ぐまれたり、むやみに義憤を覚えて、
自分の胸一つに納めきれないような多くの事があっても、この人に話しても
どうせわかりはしないだろうと思うと、ついそっぽ向くことになってしまい、
こっそりと思い出し笑いなどもして、「あーあ」などと独り言も出て来てしまう
のですが、妻が「何ですの?」などと間の抜けた顔で夫を見上げているなんて
いうのは、まったくお話になりません。
ただもう子供っぽくて、素直な女を、何かと教育し妻にするのがよさそうです。
頼りなくても、仕込み甲斐がある気がいたしましょう。ただ、その女の家で
一緒に居る分には、そのようなかわいらしさに免じて欠点も見逃せましょうが、
傍にいない時に、必要な用事を頼んだり、何か事がある時にしでかすことが、
それが趣味的なことでも、実用的なことでも、自分で判断ができず、しっかりと
した配慮がないのは、とても残念で、頼りないという欠点が、やはり困ったこと
でしょう。いつもは少しよそよそしく、好感の持てない人が、何かの折に「おやっ」
と思われる見栄えのすることもあるものです。」など、至らぬところのない論客の
左馬頭も、結論を出しかねて、大きなため息をついておりました。
「今はもう、家柄の良し悪しなど問題にしますまい、容貌なんか尚更です。
どうしようもなく性格がひねくれていなければ、ただ一途に実直で、
落ち着いた性格の妻を、生涯の伴侶、と考えて置くしか他ありません。
それ以上の教養や気の利く点が備わっていたなら、それは「儲け」だと
思って、少し位至らない点があっても、無理にそれ以上は要求しますまい。
安心できるゆったりとした性格さえ確かならば、女らしい風情はそのうち
自然に身に付いてくるものですからね。
理想の妻とは?
2016年11月14日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第8回・№1)
今夜の月は「スーパームーン」とのことで期待していたのですが、
この辺りは夕方から雨になってしまい、残念ながら見ることが
出来ませんでした。
「紫の会」は「帚木」の巻に入って二回目、今回は「雨夜の品定め」の
核心部分を読みました。
左馬の頭が、妻とするにはどのような女性が相応しいか、あれこれと
熱弁をふるう場面です。
政治の世界では、どんな切れ者でも一人で社会を動かすことはなく、
皆の協調のもとで成り立っているが、家事を取り仕切るのは主婦一人
の才覚に負うものなので、なかなか「この人」と、選ぶことが難しい、と
左馬の頭は言い、以下、様々なタイプの女を挙げていきます。
若く美しいとの評判の女性で、手紙の言葉も、筆遣いも女らしい風情があり、
声を直接交わすようになっても、消え入るような声で多くは語らず、
「なよやかないい女だ」と思っていると、そういう女性は、常に風流であろう
として、ややもすればあだっぽくなってしまう。このタイプは先ず不合格。
じゃあ、その正反対の、なりふり構わず家事一辺倒で、まともに話をする
気にもなれない、所帯じみた世話女房型の女も困りもの。
おっとりとして、従順な可愛気のある女が良さそうな気もするが、自分が
傍に付いている時はいいけど、不在時に何か事があっても対処できない
ようでは、頼りにならない。
いやもう、家柄も、美貌も二の次として、性格が良くて、真面目で、落ち着きが
あれば、そういう女性を生涯の伴侶とするしかありませんね。風情なんてものは
後から備わってくるものでしょうから。
とまあ、さすがの左馬の頭も、すっきりとした結論は出せずにいるのでした。
今の独身男性の理想の妻像も、さほど違いはないような気もします。
「雨夜の品定め」の、古くて新しい女性観、時折、クスッと笑いながら、楽しく
読みました。
このあと、いつものように、引き続いて本日の講読個所の前半の全文訳を
書きます(後半は24日に)。
今夜の月は「スーパームーン」とのことで期待していたのですが、
この辺りは夕方から雨になってしまい、残念ながら見ることが
出来ませんでした。
「紫の会」は「帚木」の巻に入って二回目、今回は「雨夜の品定め」の
核心部分を読みました。
左馬の頭が、妻とするにはどのような女性が相応しいか、あれこれと
熱弁をふるう場面です。
政治の世界では、どんな切れ者でも一人で社会を動かすことはなく、
皆の協調のもとで成り立っているが、家事を取り仕切るのは主婦一人
の才覚に負うものなので、なかなか「この人」と、選ぶことが難しい、と
左馬の頭は言い、以下、様々なタイプの女を挙げていきます。
若く美しいとの評判の女性で、手紙の言葉も、筆遣いも女らしい風情があり、
声を直接交わすようになっても、消え入るような声で多くは語らず、
「なよやかないい女だ」と思っていると、そういう女性は、常に風流であろう
として、ややもすればあだっぽくなってしまう。このタイプは先ず不合格。
じゃあ、その正反対の、なりふり構わず家事一辺倒で、まともに話をする
気にもなれない、所帯じみた世話女房型の女も困りもの。
おっとりとして、従順な可愛気のある女が良さそうな気もするが、自分が
傍に付いている時はいいけど、不在時に何か事があっても対処できない
ようでは、頼りにならない。
いやもう、家柄も、美貌も二の次として、性格が良くて、真面目で、落ち着きが
あれば、そういう女性を生涯の伴侶とするしかありませんね。風情なんてものは
後から備わってくるものでしょうから。
とまあ、さすがの左馬の頭も、すっきりとした結論は出せずにいるのでした。
今の独身男性の理想の妻像も、さほど違いはないような気もします。
「雨夜の品定め」の、古くて新しい女性観、時折、クスッと笑いながら、楽しく
読みました。
このあと、いつものように、引き続いて本日の講読個所の前半の全文訳を
書きます(後半は24日に)。
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