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老いの悲しさ

2017年8月28日(月) 溝の口「湖月会」(第110回)


先週の猛暑の戻りも落ち着いて、夜になると秋虫の声が聞こえて来るように

なりました。


このクラスは第2金曜日(8月11日)のクラスと同じ所を読みました。


女三宮の懐妊が、柏木との密通によるものであることを源氏に知られて、

恐れおののく柏木と女三宮。女三宮は、悪阻に精神的ショックも加わり、

体調は悪くなるばかりです。


そんな女三宮の様子を耳になさって心配でならないのが、父の朱雀院です。

もう、出家しておられるのですから、俗世のことにはかかわってはならない

身なのですが、やはり女三宮のことだけは気がかりで、お手紙がまいります。


ちょうど源氏が女三宮のところにおいでになっている時だったので、源氏も

そのお手紙をご覧になります。お返事を書くよう促しながら、女三宮を

諄々と諭す源氏の言葉の中には、棘と悲しみが綯い交ぜになっておりました。


ここは、誰にも打ち明けることの出来ない秘密を一人胸の内に納めておか

なければならない源氏の屈折した思いと共に、老いの悲しさを感じさせる

場面でもあります。


源氏はやや自虐的に自分の老いを語ります。「今はこよなくさだ過ぎにたる

ありさま」(いまはもうすっかり年をとってしまった私の様子)、「古人の

さかしら」(年寄りのおせっかい)、「いかにうたての翁や」(ああ、なんて

嫌なじいさんだ)と。


老いは生きている限り、すべての人に平等に訪れ、それはスーパーヒーローの

源氏でさえ、例外ではないのです。若い柏木への嫉妬も、老いを自覚せざるを

得ないがゆえのものでありましょう。


若き日に密通を犯した源氏が、30年近い歳月を経て、今度は密通される側に

立たされているという事実。やりきれない運命の循環です。


読者をも巻き込んで、息苦しくも迫力ある展開を見せた「若菜下」の巻も、

いよいよ次回で読了の予定です。



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古稀の祝い

2017年8月27日(日)


夫が古稀を迎えました。

我々夫婦は長年、互いの誕生日にお祝いをしたり、プレゼントを贈ったり、

などとは一切無縁で過ごして来ましたが、息子が結婚してからは、誕生日や、

父の日、母の日に、プレゼントが届くようになりました。嫁のお蔭でしょう。


今回の「古稀の祝い」も、息子夫婦がすべてを御膳立てしてくれての実現と

なりました。


お酒を飲まない私が、車の運転ができないので(免許を持っていません)、

駅近くの帰りが楽な所を、ということで、相模大野駅直結の「小田急ホテル

センチュリー」に入っている「新福記」というオーダーバイキングの中華料理

に行きました。


初めてのお店ですが、オーダーしてから、しばらく待ってお料理が運ばれて

来るので、あまりバイキングのお店という感じはしません。お味も、さっぱり

とした物が多く、お隣も年配の女性が混じったグループでしたし、高齢者にも

抵抗のない中華でした。


息子も、孫も、どちらも父親が30歳になる年に生まれていますので、30年後、

その頃にはもう私たちはいないでしょうが、今度は息子が孫にこうして「古稀

の祝い」をしてもらうのかなぁ、と思いながら、お店を後にしました。


          DSCF3049.jpg

    お料理が綺麗に並んでいるところを写真に撮りたかった

    のですが、来る傍からすぐに食べてしまうので、この程度

    の写真しか撮れませんでした。



夢に現れた女とは?

2017年8月24日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第17回・№2)

このまま秋になってしまうことはあるまい、とは思っていましたが、
いやぁー、戻って来ました猛暑。明日はもっと暑くなるとか。
このところの涼しさに慣れてしまった身体には堪えますね。

第4帖「夕顔」に入って3回目、夕顔の宿で一夜を過ごした源氏は、
夕顔を伴って某院へと出掛けます。

二人だけの濃密な時間を過ごした後、源氏を待ち受けていたのは
恐怖の一夜でした。

今日はその触りまでを読みましたが、ここから夕顔が怪死してしまう
ところまでが、「夕顔」の巻のクライマックスとなります。

夜中になって、うとうととしていた源氏の枕元に美しい女が座って
「己がいとめでたしと見たてまつるをば、尋ね思ほさで、かくことなる
ことなき人を率ておはして時めかしたまふこそ、いとめざましくつらけれ」
と、言って、源氏の傍らで寝ている夕顔を引き起こそうとするので、
源氏がハッと目覚めると、灯りが消えてしまっていました。

この源氏の夢に現れた女のセリフですが、通常は、この直前に源氏が
六条御息所と夕顔を比べていたり、「葵」の巻で、生霊となって現れること
などからして、この幻影を六条御息所と考え、(私がとてもあなたのことを
素晴らしいお方とお慕いしておりますのに、訪ねて下さろうともなさらず、
こんなたいしたこともない女を、連れ出してご寵愛なさっておいでなのが、
たまらなく心外で辛うございます)のように訳すことが多いのですが、
かなり強引に言葉を入れ込んだ訳し方になっています。

文法的にも一番無理のない訳をしますと、(私がとても素晴らしいと
思い申し上げているお方を、お訪ねになろうともお思いにならないで、
こんなつまらない女を連れて来てご寵愛なさるのが、とても心外で
辛うございます)となります。

つまり、「私」は六条御息所ではなく、この物の怪が、「いとめでたし」と
思っている対象が六条御息所ということになります。六条御息所贔屓の
廃院に住む魔物が出て来て、源氏に恨み言を言うわけですが、そんな
自分の恨みでもないことの為にわざわざしゃしゃり出て来て、挙句に
夕顔までとり殺してしまうなんて、ちょっとおせっかいすぎる物の怪では
ないでしょうか。

また、この物の怪は、源氏の六条御息所に対する良心の呵責が生んだ
幻覚に過ぎない、という説もありますが、そうなると、夕顔の突然死の
説明が難しくなります。

物の怪の正体は限定せずに、判断は読者の考えに委ねましょう、と
いう考え方も、近年は結構支持されているようです。

次回は、その夕顔の死と、それに続く場面を読む予定です。


第四帖「夕顔」の全文訳(6)

2017年8月24日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第17回・№1)

本日講読しました第四帖「夕顔」(140頁・6行目~149頁・14行目)の
後半部分(145頁・2行目~149頁・14行目まで)の全文訳です。
前半は8/14(月)の全文訳をご覧ください。 
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)

牛車を邸内に引き入れさせて、西の対に御座所が用意されるまで、
高欄に轅を引きかけて停車しておられます。右近は、華やいだ
気分になって、これまでのことなどを一人で思い出しておりました。
管理人が懸命にお世話に走り回っている様子から、この君が
源氏の君であることをはっきりと理解したのでした。

物が薄ぼんやりと見える頃に、牛車からお降りになったようで
ございました。間に合わせですが、こざっぱりと室内は整えて
あります。「お供に誰もお仕えしていないのですね。不都合な
ことでございますなぁ」と言う管理人は、親しい下家司として、
二条院にもお仕えしている者でしたから、近くに寄って来て、
「しかるべき人をお呼びいたしましょうか」など、右近を介して
申し上げさせますが、「わざと人が来るはずもない隠れ家を
求めてやって来たのだ。絶対に口外するのではないよ」と、
口止めをさせなさいます。御粥などを差し上げましたが、
お運びする給仕も人数が揃いません。源氏の君もまだ経験を
したことのないご外泊なので、「息長川」の歌のように、ただもう
変わらぬ愛を誓い続けていらっしゃるばかりでした。

日が高くなる頃にお起きになって、格子も源氏の君ご自身で
お上げになります。お庭はたいそう荒れ果てていて、人影もなく
遥々と見渡されて、木立がひどく気味悪げに古びております。
植え込みの草木などは、特に見所もなく、一面秋の野原と
なっていて、池も水草で埋もれているので、とても恐ろしそうな
感じになってしまっているところでございましたよ。別棟のほうに
部屋などを作って、人が住んでいるようですが、こちらとは離れて
おりました。「恐ろしくもなってしまったところだなぁ。とは言っても
鬼なども、私のことなら見逃してくれるだろう」とおっしゃいます。

源氏の君はまだ覆面で顔をお隠しになっていましたが、夕顔が
たいそう薄情だと思っているので、確かにこんなに親しい仲に
なってまだ隠し立てしているのも、今の二人にはそぐわない
ことだな、と、お思いになって、

「夕露に紐とく花は玉鉾のたよりに見えしえにこそありけれ
(夕べの露によって開く花のように、紐を解いて顔をお見せする
のは、通りすがりに道で出会ったご縁があったからなのですね)
露の光はいかがですか」

とおっしゃると、夕顔は流し目でこちらを見て、

「光ありと見し夕顔のうは露はたそかれどきのそら目なりけり」
(光輝いていると見えた夕顔の花の上に置いた露は、黄昏時の
見間違いでございました)

と、かすかな声で言います。源氏の君は、このような歌でも面白いと、
殊更にお思いになります。如何にも打ち解けておられる源氏の君の
ご様子は、世にまたとなく、場所が場所だけに、ますます不吉な程に
お見えになります。「いつまでも隠し立てをなさっているのが恨めしくて、
顔はお見せすまいと思っておりましたのに。今からでも名乗ってください。
このままではとても気味悪いよ」と源氏の君はおっしゃいますが、夕顔は
「海人の子ですから」と答えて、やはり明かそうとしないところは、とても
甘えております。「よかろう、これも自分のせいなのだろう」と、恨んだり、
また仲睦まじく話し合ったりして一日をお過ごしになるのでした。

惟光がここを探し当てて、おやつなどを差し入れいたしました。右近が
「やっぱり手引きしたのはあなただったのね」と言って責めるのが、
さすがに辛いので、源氏の君のお側にも近寄れません。こんな道行
までなさるご執心ぶりが面白くもあり、源氏の君をここまで夢中に
させるからにはいい女に違いない、と推測されるにつけても、
自分のものにしようと思えば出来たのに、主君に譲り申し上げて、
我ながら心の広いことだなぁ、などと、不届きなことを考えておりました。

たとえようもない程静かな夕方の空を眺めなさって、奥のほうは暗くて
気味が悪いと夕顔が思っているので、簀子との境の御簾を上げて
添い臥しておられます。夕映えの中でお互いの顔を見交わして、
夕顔も、このようなことになったのが思い掛けなく妙な気分では
ありながら、すべての嘆きを忘れて、少し打ち解けて行く様子が、
大層可愛らしいのでした。夕顔はずっと源氏の君のお側に寄り添って
過ごし、何かをとても怖がっている様子が、あどけなくていじらしく
感じられました。

格子をすぐに下ろされて、灯りを点けさせて、「すっかり深い仲に
なりながら、相変わらず心の中に隠し隔てをするお気持ちを残して
おられるのが情けない」と、源氏の君は夕顔をお恨みになります。

宮中では帝が自分をどんなにお捜しになっていることだろうに、
お使いはどこを捜しているのだろう、と源氏の君は想像なさり、
一方では、こんな女にここまで心を奪われるとは、我ながら、
おかしなことだ、六条のお方も、どんなにか思い乱れていらっしゃる
であろう、あのお方に恨まれるとなると、辛くもあり、無理もないことだ
と、お気の毒だと思われる点では、まず思い出しておられました。

無邪気におっとりと目の前に座っている女を、ああいいなぁ、と
お思いになるにつけ、余りにも思慮深く、見ているこちらまで
息苦しくなってしまうような六条の女君のご様子を、少し取り去って
しまいたいものだ、と、ついつい心の中で夕顔とお比べになって
しまわれるのでした。

宵を過ぎた頃、源氏の君が少しウトウトとなさると、枕元にたいそう
美しい女が座っていて、「私がとてもあなたのことを素晴らしいお方と
お慕いしておりますのに、訪ねて下さろうともなさらず、こんなたいした
こともない女を、連れ出されてご寵愛なさっておいでなのが、たまらなく
心外で辛うございます」と言って、この源氏の君の横に寝ている女を
引き起こそうとしている、とご覧になりました。何かに襲われるような
気がして、ハッとお目ざめになりますと、灯りも消えておりました。

ぞっとなさって太刀を抜いて枕元にお置きになり、右近を起こされ
ました。右近もまた恐ろしいと思っている様子で、傍へ寄って参り
ました。「渡殿で寝ている男を起こして、紙燭を点けて来るように、
と言ってこい」とおっしゃると、右近が「そんな、とても無理ですわ。
暗くって」と言うので、「あーあ、子供っぽい!」と、源氏の君は
お笑いになって、手を叩いて呼ぼうとなさると、その音のこだま
するのが、たいそう気味が悪うございました。誰も聞きつけず、
参上しない上に、夕顔はひどく震えおびえて、どうしようもない
様子です。汗もびっしょりになって、正気を失っているかのようです。
「とっても怖がりなご性分でいらっしゃるので、どんなに恐ろしいと
お思いのことか」と、右近も申し上げます。とてもか弱くて、昼間も
空ばかりを見ていたものだ、可哀想に、と、源氏の君はお思いに
なって、「私が人を起こしてこよう。手を叩くと、こだまするのが、
すごくうるさい。おまえはここで、しばらくご主人様の傍にいなさい」
と言って、右近を引き寄せなさって、西の妻戸の所へ出て、戸を
押し開けなさいますと、渡殿の明かりも消えてしまっておりました。


Eテレ「グレーテルのかまど」

2017年8月21日(月)

今朝、「枕草子」の講読会にご参加くださっている方から
メールを頂戴し、「今夜Eテレ10:00~グレーテルのかまど
・清少納言の枕草子~かき氷~」という番組があることを
お知らせ頂きました。

先日(8/18)のブログに、第39段の「あてなるもの」から、
藤原行成との交流を記した第46段の前半までを読みました、
と書きましたが、「かき氷」は、その「あてなるもの」の中に
書かれているのです。なんとまあ良いタイミングでの放映でしょう。

「あてなるもの」は漢字で書くと「貴なるもの」。 
「高貴なもの」・「上品なもの」といった意味になります。

今の私たちの感覚では、かき氷はむしろ庶民的なイメージですが、
それは氷が、いとも簡単に作れるようになったからです。

平安時代は天然の氷を冬場に切り出し、「氷室」というところで
貯蔵して、夏に取り出して使用していました。ですから夏の氷を
口に出来るのは、貴族のみの特権でした。

原文では、「削り氷に甘葛入れて、あたらしき鋺に入れたる。」
と、あります。

番組では、「削り氷」(けづりひ)は、今と同じかき氷になって
いましたが、当時はこんなに細かく削ることは出来なかったはずで、
いわゆる「かち割り氷」だと考えられています。

それに「甘葛」(あまづら)という甘味料をかけるのですが、
これは蔓草の汁を煮詰めたものです。こちらも庶民の口には
なかなか入らない高級品でした。

「鋺」(かなまり)は金属の器のことで、やはり高貴な感じとなると、
銅製ではなく、銀製だったのではないでしょうか。

この王朝のかき氷が再現されるのかな、と思って見ていましたが、
ヘンデルが作ったのは、同じ「あてなるもの」として挙げられている、
「藤の花」と「雪の降りかかった梅の花」をイメージした、今風のかき氷
でした。

今夜見逃した、という方も大丈夫です。8/23(水)の午前10:25~
10:50に再放送があります。


ここ数日にぴったり!

2017年8月18日(金) 溝の口「枕草子」(第11回)

昨夜、いつもプロジェクターに接続しているパソコンを充電して、
そのあと画面を確認してから電源を切ろう、としましたら、画面が
真っ暗になったまま、何も出て来なくなってしまいました。そのため、
今日は折角借りて頂いたプロジェクターも使えず、申し訳ありません
でした。先程、診て貰いましたが、やはり故障のようです。しばらくは
プロジェクターが使えないかもしれません。

それでも、何とか「枕草子」は、第39段の「あてなるもの」から、
藤原行成との交流を記した第46段の前半までを読みました。

第41段は、いわゆる「随想章段」で、「類聚章段」に挟まれた、ごく短い
段ですが、まさに今年のちょうどここ数日のことを述べているかのような
段なので、ぜひ今日のブログにはこれを取り上げたいと思いました。
百字にも満たないので、全文を書きますね。

七月ばかりに、風いたう吹きて、雨など騒がしき日、おほかたいと
涼しければ、扇もうち忘れたるに、汗の香すこしかかへたる綿衣の
薄きを、いとよくひき着て、昼寝したるこそ、をかしけれ。
(七月頃に、風が強く吹いて、雨音などがうるさい日は、大抵はとても
涼しいので、扇を使うこともつい忘れて、汗の臭いの少し籠っている
薄い綿の入った夜着を、引き被って、昼寝をするのって、いいものだわ。)

旧暦の七月は今の八月に当たりますので、まさに今頃の話です。
ここ数日、雨も多く、気温も真夏日にまで上がりません。涼しく
感じられて、扇は、今ならエアコンとか扇風機に置き換えられる
でしょうね、ついリモコンをどこに置いたかも忘れています。大半の
夏掛けは、洗濯機で丸洗いが出来ますから、現代ではあまり汗臭い
ものを使う人はいないでしょうが、それでも、うたた寝をするにも、
何か上に掛けるものが欲しいところなども、今の季節にピタッと
きます。

「枕草子」は過去にも何度か読んでいますが、この段のことは、
夏から秋へと移りゆく季節の感慨を、清少納言らしい筆致で、
小気味よく書いてあるなあ、という印象で終わっていました。
こんなにタイムリーに読んだのは、これまでの記憶にはありません。
今日からは忘れられない段となりましょう。


大君への恋の始まり

2017年8月16日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(通算192回 統合46回)

梅雨の頃は晴天が続き、真夏の水不足が懸念されたのですが、
8月に入ってからは、日照時間の不足による農作物への影響が
案じられるようになりました。この逆転の現象、やはり「異常気象」
と言うべきなのでしょうね。

今回、このクラスは、第45帖「橋姫」の中盤、「国宝・源氏物語絵巻」
にも描かれている、「橋姫」の中で最も有名な、薫が初めて宇治の
大君と中の君姉妹の姿を垣間見る場面から読みました。

   国宝「源氏物語絵巻」・橋姫
           国宝・源氏物語絵巻「橋姫」

この場面についての説明は、2016年10月6日の記事に書きましたので、
そちらをご参照ください。

今日は、これまで「山里に思いも掛けない美女の発見」など、虚構の
昔物語の世界のことでしかない、と思っていた薫が、垣間見によって
現実にもあることを知り、姫君たちに挨拶をしたいと、アプローチする
ところをご紹介したいと思います。

薫が宇治に通い始めて既に足掛け三年が経っているにもかかわらず、
その間殆ど興味を覚えることもなかった姫君たちの存在が、この垣間見を
境に大きく変化し、「宇治十帖」は恋の物語へと舵を切り始めます。

八の宮邸の若い女房たちは、京の貴公子の応対などしたこともないので、
簀子に薫を座らせ、御茵(お座布団)を出す手つきも様になりません。
薫は御簾の内(廂の間)にも入れて貰えない不満を訴えますが、それに
お返事できるような女房も傍にはおらず、仕方なく大君がお相手をします。

「何事もわきまえぬ私どもでございますので、わかったようなお返事を
どうして申し上げられましょう」と言う大君の、奥ゆかしさ、気品ある声に、
薫はグッと心惹かれ、「なほかく忍びあまりはべる深さ浅さのほども、
分かせたまはむこそかひははべらめ」(やはりこうして心の中に秘めて
おくことが出来ない私の気持ちの程が、深いか浅いか、分かって頂けて
こそ、甲斐があるというものでございましょう)と、女を口説く場合の
常套句を口にしますが、そのあとすぐに「世の常のすきずきしき筋には、
おぼしめし放つべくや。さやうのかたは、わざとすすむる人はべりとも、
なびくべうもあらぬ心強さになむ」(世間によくある色めいたこととお考え
下さいますな。そのような色恋沙汰はわざわざ勧める人があったとしても、
なびかぬ決心をしておりますので)と、自分の好き心を否定してしまいます。

薫という人は、これから先もこのような中途半端な態度が目に付きます。
心から自分をさらけ出すことが出来ないタイプなのです。この辺りが匂宮とは
対照的です。

そういう意味では、薫は現代の青年に近いのかもしれません。


平安京の庶民の生活

2017年8月14日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第17回・№2)

今日も最高気温が30度に達せず、あの猛暑日のお詫びをしている
のかな、と思われるようなここ数日の涼しさです。

「源氏物語」は平安時代の上流貴族社会を描いた物語ですので、
物語の中に庶民の生活が描かれることはほとんど無いのですが、
ここは珍しく、平安京に住まう庶民の生活を事こまかく描写している
場面が出てきます。

八月十五日の夜、源氏は夕顔の宿に泊まりました。中秋の名月の光が、
板葺きの屋根の隙間から、射し込んできます。源氏のような貴族の
お邸の屋根は檜皮葺ですから、月の光が天井から射し込んで来ること
などあり得ません。

明け方近くになると、この年は冷夏だったのでしょうか、不作でさっぱりだ、
などと、近隣の男が大きな声で北隣の家に話しかけているのが聞こえて
来ます。

精米に使う「唐臼」の音が、雷のゴロゴロという音よりもうるさく聞こえて
何の音かも分からぬまま、これには源氏も閉口なさっています。

ただ、砧を打つ音や雁の声、といった風情あるものも身近に感じられる
のでした。

一番面白いのは、住まいのレベルの違いを、「壁のなかの蟋蟀だに
間遠に聞きならひたまへる御耳に、さしあてたるやうに鳴き乱るるを」
(いつもは壁の中で鳴いている蟋蟀でさえ、遠くで鳴いているように
聞き慣れていらっしゃる御耳に、ここでは庭の虫の声が、まるで耳に
押し付けたかのようにうるさく鳴いているのを)と、ややユーモアを
持って書いているところでしょう。

さすがに源氏は、ここでの逢瀬は落ち着かなくて「いざ、ただこのわたり
近き所に心安くて明かさむ。かくてのみはいと苦しかりけり」(さあ、
この辺りに近い所で、気楽に夜を明かそう。こんな所でばかり逢うのは
やりきれないよ)と、夕顔を某院へと連れ出そうとなさいます。

これが、「恐怖の恋のアバンチュール」になるなんて、源氏は全く思っても
いません。でも、夕顔には悪い予感があったような気がいたします。

詳しくは、この下に書きました全文訳をお読みいただければ、と存じます。


第四帖「夕顔」の全文訳(5)

2017年8月14日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第17回・№1)

本日講読しました第四帖「夕顔」(140頁・6行目~149頁・14行目)の
前半部分(140頁・6行目~145頁・1行目まで)の全文訳です。
後半は8/24(木)に書きます。 
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)

八月十五日の夜、中秋の名月の光が、隙間の多い板葺きの屋根からは
すっかり射し込んできて、源氏の君は、見慣れていらっしゃらない住まいの
様子も珍しい上に、明け方近くになったのでありましょう、近隣の家々から
聞こえて来る卑賎の男たちの声に目を覚ましなさると、「ああ、なんて寒いん
だろう。今年は不作だから商いもさっぱりで、田舎への買い出しに行く気にも
なれなくて、本当に心細いことだよ。北隣さん、聞いておられるかい?」などと
言い交わしているのが聞こえてきます。全く頼りないそれぞれの生計のために、
起き出して気忙しく立ち騒いでいるのも間近なのを、夕顔はとても恥ずかしく
思っておりました。体裁を気にして格好をつけようとする人なら、消え入って
しまいたくなるような住まいの様子でしたでしょうよ。でも、夕顔はおっとりと
していて、辛いことも、嫌なことも、きまり悪く感じるようなことも、気に病んで
いるふうでもなく、当人の仕草や様子は、とても品が良くあどけなくて、
この上なく乱雑な近隣の不作法を、何のことだかわかってもいないような
態度なので、却って恥ずかしがって赤くなったりするよりは、罪がないように
源氏の君には思えました。

ごろごろとなる雷よりもおどろおどろしく踏み鳴らしている唐臼の音も、すぐ
枕もとのように感じられるので、「ああ、やかましい」と、源氏の君もこれには
閉口なさっていました。何の物音かおわかりにもならず、とても異様で嫌な音だ、
とだけお聞きになっているのでした。いろいろとごたごたしたことばかりが多う
ございました。

白栲の衣を打つ砧の音も、かすかにあちらこちらから聞こえて来て、空を飛ぶ
雁の声も加わって、感に堪えないようなことも沢山あります。縁に近い御座所
なので、遣戸を引き開けて、源氏の君は夕顔と共に、外をご覧になります。
手狭な庭にしゃれた淡竹があり、庭の植え込みに置いた露は、やはりこのような
所でも、同じようにきらめいておりました。虫の声々が入り混じって、日頃は、
壁の中のような近くにいるコオロギでさえ、遠くで鳴いているように聞き慣れて
いらっしゃるのに、庭の鳴き声がまるで耳に押し付けたかのようにうるさく
聞こえるのを、却って風変わりで面白い、とお思いなのも、この女への愛情の
深さ故に、全てのことが許される気がなさったのでございましょうね。

夕顔は、白い袷に、薄紫の着慣れた表着を重ねて、はなやかではない姿が
たいそう可愛らしく、はかなげな感じがして、どこがどうと取り立てて優れている
点もないのだけれど、ほっそりとしなやかで、ちょっと物を言う雰囲気が「ああ、
いじらしい」と、ただもういとしく思われるのでした。余りにも純粋な感じなので、
もう少し気取ったところがあってもいいのに、と、源氏の君はご覧になりながら、
やはりもっとくつろいでこの女と一緒に過ごしたい、とお思いになるので、
「さあ、この辺りに近い所で、気楽に夜を明かそう。こんな所でばかり逢うのは
やりきれないよ」とおっしゃるので、夕顔は、「とてもそんな。急ですもの」と、
たいそうおっとりと言ってすわっておりました。

源氏の君が、二人の仲は来世までも、と頼りにさせなさると、打ち解けて来る
心根などが、不思議な程、他の女とは様子が違っていて、男女のことに
慣れている人とも思えないので、他人の思惑を気になさることもお出来にならず、
右近を呼び出して、随身を呼ぶようにお命じになり、牛車を縁側まで引き入れ
させなさいました。この家の女房たちも、源氏の君の夕顔へのお気持ちが
いい加減ではないのを知っているので、不安を覚えながらも、源氏の君を
ご信頼申し上げておりました。
 
夜明けも近くなっていました。鶏の声などは聞こえなくて、御嶽精進なので
しょうか、ただ年寄りじみた声で額ずいているのが聞こえて来ます。とても
しみじみと、朝露がはかなく消えてしまうのと何も変わらない人の世で、
老人が何を欲張って我が身のご利益を願っているのか、と、源氏の君は
お聞きになっておりました。「南無当来導師」と拝んでいるようです。
「ほら、あれをお聞きなさい。あの老人だって、この世だけとは思っていない
のですよ」と、しみじみとお感じになって、

「優婆塞が行ふ道をしるべにて来む世も深き契り違ふな」(優婆塞が修行する
仏の道に導かれて、来世までも二人の深い約束を守ってくださいね)

長生殿で誓ったという古い昔の例は不吉なので、比翼の鳥に生まれ変わる
約束とは全く異なる趣で、弥勒菩薩が出現なさる未来までも、と、誓いを立て
なさいます。そんな遠い先までのお約束は、とても大げさなことでございました。
 
「前の世の契り知らるる身の憂さにゆくすゑかねて頼みがたさよ」(前世からの
因縁も思い知られるような私の身の上の辛さに、未来のことなどとても頼みに
できそうにございませんわ)

こうした歌の方面も、実際、この女は頼りなさそうでした。

入るのをためらっている月と同じように、不意に行く先も分からず出かける
ことを夕顔はためらっていますので、源氏の君があれこれと説得なさって
いるうちに、急に月が雲に隠れて、明けて行く空がたいそう趣深いことで
ございました。明るくなってみっともないことにならないうちに、と、例によって
源氏の君は急いでお出ましになり、軽々と夕顔を牛車にお乗せになりました
ので、右近も同乗いたしました。その辺りに近い某院にお着きになって、
管理人をお呼び出しになっている間、荒れ果てた門の忍ぶ草が生い茂って
いるので思わず見上げてしまう程、この上もなく鬱蒼としております。
霧も深く、露もしとどに置いているところに、牛車の簾までも巻き上げなさった
ので、源氏の君のお袖もたいそう濡れてしまいました。

「まだこんなことは経験したことがないのだけれど、何かと気苦労なものだなぁ。
いにしへもかくやは人のまどひけむわがまだ知らぬしののめの道(昔の人も
こんなふうにさ迷い歩いたのだろうか、私はまだこれまで知らなかった明け方の
恋の道行だが) あなたは経験がおありですか」

とおっしゃいます。夕顔は恥ずかしがって、
 
「山の端の心も知らでゆく月はうはの空にて影や絶えなむ(あなたのお気持ち
もわからないのに付いて来た私は、途中で消えてしまうのではないでしょうか)
心細くて」

と言って、とても恐ろしくて気味悪そうにしているので、あの立て込んでいる
住まいに慣れているからだろう、と可笑しく思いになっておられました。


柏木の惑乱

2017年8月11日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第110回)

猛暑日となった一昨日から比べると、随分過ごし易い一日となりました。
もう22:00を過ぎた今は、窓を開け放していると風が冷たく感じられ、
半分位閉めました。でも、このまま涼しくなるなんてことはないでしょうね。

今日8月11日は「山の日」という、去年から始まった、まだあまり慣れない
祝日でしたが、今年のように金曜日に当たると、続けてお盆休みとなって、
お出掛けの人も多いことと思います。このクラスもお休みの方が9人(うち
5人は28日のクラスへ振替予定)あり、いつもより教室が広く感じられました。

いよいよ長い「若菜下」も終盤に差し掛かり、来月には読み終わる予定です。

柏木からの手紙を見つけた源氏がすべてを知って、数日が経ちました。
その後、源氏からは音沙汰がありません。女三宮は、これまでは源氏の
薄情さのせいだと思っていた途絶えも、今は自分のしでかした不始末の
せいだと分かるので、源氏の口から事実が告げられたら、父・朱雀院が
何と思われることだろう、と身の置き所もない思いでおられました。

このあたりが、女三宮の幼さを如実に語っています。事を打開するために
何かを考えるのではなく、親に告げ口をされることを恐れるのは子供です。
すでに女三宮も二十歳を過ぎた大人の女性なのですが、そうした思慮分別
が欠如したまま歳月を重ねていることがわかります。

一方、柏木にも、小侍従から、あの手紙が源氏の手に渡ってしまったことが
知らされます。

これまで源氏からは将来を嘱望され、特別に目を掛けて貰って来ただけに、
もう顔を合わせることも出来ないけれど、さりとて、源氏を避け続ければ、
世間も変に思うだろうし、源氏自身からも「ああ、やっぱり」と思われようと、
不安に苛まされているうちに、宮中に出仕することも適わない状態に陥った
のでした。

思えば、六年前の蹴鞠の日に、御簾の隙間からあのような立ち姿を見て
しまったこと自体、女三宮の不用意さが起こしたことであって、夕霧などは
軽蔑していたではないか、と今更にして、女三宮の浅はかさが見えても
来るのでした。しかしまた、源氏に知られてしまった以上、この先どうなるの
であろうか、と、女三宮を案ずる気持ちも念頭から離れることはありません
でした。

柏木の頭の中は惑乱しています。女三宮を責めたい気持ちも生じて来るし、
また、心配で仕方もないのです。

もとはと言えば、恋してはならない女性に恋をし、密通という罪まで犯して
しまった柏木の愚かさが招いたことではありますが、その愚かさこそが、
恋というものの本質でもあることを、この読み応えのある「若菜下」で、
作者は我々に教えてくれている気がいたします。


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