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終わってしまえばそれまでなのですが・・・

2017年10月30日(月)

二週続けて、台風一過の青空が広がった月曜日となりましたが、
今日は北風が強まって、東京では「木枯らし1号」が吹いたと
発表されました。

去年の11月に大腸ポリープの切除を受けた際、まだ一つポリープ
が残っているし、1年くらい経ったら、必ず内視鏡検査を受けるように、
と言われていたので、今日再び近くの専門クリニックで、予定通り
切除しました。しかも、また新たなポリープも見つかって、二個も!

このクリニックでの検査は三度目ですが、施術中に痛みを感じたのは
今回が初めてでした。もちろん麻酔をしていますので、痛いと言っても
我慢できないようなものでなく、何かぐうーっと押されてるぅ、程度の
ものです。これまでの二回は、全く無痛でした。

それより何より、この検査で嫌なのは、検査前に2リットルの洗浄液を
飲まなければならないことです。途中で一度吐いてしまい、しばらく中断
しながらも、3時間余で、ようやくクリアー。

あとは、またこの先、四日間、検査前日と同じ制限食になることですが、
早くも、冷蔵庫の中の野菜や果物に手が出そうになるので、「ダメダメ」
と、自分に言い聞かせています。それでも、洗浄液の苦痛に比べれば
ぜ~んぜんです。

四日間は、食事制限だけではなく、運動をはじめ幾つかの生活制限も
ありますが、いずれもたいしたことではありません。

あの洗浄液の苦痛だって、終わってしまえばそれまで、のものなのです。

陣痛の苦しみでさえ、終わってしまえばそれまでだったなぁ、と、40年も
前のことを今、ふと思い出しました。


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左大臣はなぜここまで源氏に尽くすのか

2017年10月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第19回・№2)

無理を押して、東山に安置されている夕顔の亡骸との対面に
源氏はお出掛けになりました。帰宅後、二十日余り、重い病の
床に就かれたものの、その後は快方に向かい、約一ヶ月で、
宮中に参内できるまで回復なさいました。

その間、左大臣は、自ら二条院へ日参して、あらゆる手立てを
講じ、「経営(けいめい)」なさったとあります。

「経営」とは、「駆け回って世話をすること」を意味しますが、なぜ
左大臣はここまで源氏に尽くすのか、と、本文には書かれていない
裏を探ってみたくなります。

桐壺帝のモデルとされる醍醐天皇は、摂関を置かず、時平・道真の
左右大臣と共に親政を行った天皇です。桐壺帝にも外戚めいた人物
は登場しないので、おそらく当代の権勢を競っていたのは左大臣と
右大臣だと考えられます。

右大臣は東宮の外祖父なので(長女・弘徽殿女御所生の一の御子
が東宮・のちの朱雀帝)、たとえ葵の上を東宮妃としたところで、
次期政権においては、左大臣は右大臣の後塵を拝することになって
しまいます。

それなら、帝の最愛の御子でありながら、後見を持たない源氏を
娘婿にして、今の御代において権力を手中するほうが得策と、
左大臣は考えたのでありましょう。

ここで源氏が亡くなるような事態になったら、左大臣にとっては、
帝とを繋ぐ最強のパイプを失うことになります。折角、東宮妃に
と望まれたのを断ってまで、葵の上を源氏と結婚させたことが
水の泡となってしまいます。まだ17歳の源氏に死なれては
堪りません。

単に「可愛い娘の婿だから」だけで、日々、婿宅に日参までして
病平癒のために奔走する舅は、いないはず。左大臣の「経営」には、
こうした思惑が働いていたと見るべきでしょう。

時にはこのように、物語の裏を想像しながら読んでみるのも楽しい
ものです。

本日の講読箇所の後半の全文訳を、この下に書いておりますので、
よろしければご参照ください。


第四帖「夕顔」の全文訳(10)

2017年10月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第19回・№1)

本日講読しました第四帖「夕顔」(160頁・4行目~167頁・14行目)の
後半部分(164頁・13行目~167頁14行目まで)の全文訳です。
前半は10/9(月)の全文訳をご覧ください。 
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)


道中はたいそう露が降りている上に、ひとしお濃い朝霧の為に、
源氏の君はどこともなくさまよっておられる気がなさいます。

夕顔が生前と変わらぬまま横たわっていた様子や、着せ掛け合って
寝たご自分の紅の御衣がそのまま掛けてあったことなどを思い出さ
れると、どういう前世からの因縁だったのかと道すがらお考えになって
おられました。

御馬にもしっかりと乗れそうにもないご様子なので、また惟光が
付き添って助けながらお連れするのですが、賀茂川の堤のあたりで、
馬から滑り下りて、ひどくご気分が悪いので、「こんな道中で、野たれ
死にしてしまうのであろうか。とても帰り着けそうにない気がする」と、
源氏の君がおっしゃるので、惟光はうろたえて、自分さえしっかりして
いたら、いくら行きたいとおっしゃったとしても、このような場所に
お連れすべきではなかった、と思うと、気が気ではないので、川の
水で手を清めて、清水の観音様をお祈り申し上げたところで、
どうしたらいいものかと、途方に暮れておりました。源氏の君も
強いて気力を振り絞り、心の中で仏さまにお祈りなさって、また
何かと惟光に助けられながら、二条院へと帰り着かれたのでした。

尋常ではない深夜のお忍び歩きを、二条院の女房たちは「みっとも
ないことですわね。ここのところ、いつもより落ち着かないご様子で
お忍び歩きをなさっていた中でも、昨日のご様子はとてもご気分が
悪そうでしたのに、どうしてこんなにうろつき歩いていらっしゃるの
でしょう」と、嘆き合っておりました。

本当に横になられるとそれっきり、たいそうひどくお苦しみになって、
二、三日が経過すると、すっかり弱って行かれるようでした。帝も
お聞きあそばして、お嘆きになることこの上ございません。病平癒の
ための御祈りが、あちらこちらの寺社で絶え間なく、大騒ぎして
行われます。祭、祓、修法など、言い尽くすことも出来ないほどで
ございました。世にも稀な、不吉なまでに美しい源氏の君のご様子
なので、長生きはお出来にならないのではないかと、天下の人々の
間で騒ぎとなっておりました。

源氏の君は苦しいご気分のうちにも、あの右近をお呼びになって、
部屋などもご自分のお部屋近くにお与えになって仕えさせていらっ
しゃいます。惟光は、動転している気持ちを静めて、右近が頼る人
もないと思っているのを、何かと援助しながらご奉公させておりました。

源氏の君は、少しばかり気分が良いと思われる時には、右近を呼び
出してご用を言いつけたりなさるので、ほどなくご奉公にも馴染んだ
のでした。右近は喪服の色もたいそう濃くして、美人ではありませんが、
どこといって欠点のない無難な若い女房でした。源氏の君が「不思議
な程短くて終わったあの人との宿縁に引きずられて、私もこれ以上
生きてはいられないだろう。お前が長年頼りにしてきた主人を失って、
心細く思っている慰めにもなろうと、もし私の命が長らえば、あれこれと
面倒を見てやるつもりだったが、間もなく私もあの人のあとを追いそう
なのが残念でならないことだよ」と、こっそりおっしゃって力無くお泣きに
なるので、右近は、もう今更言っても仕方のないことはさておいて、
この君にもしものことがあったりしたら、とんでもないことだと思い申し
上げておりました。

二条院の人々は、足も地につかないほどうろたえております。帝から
のお使いは雨脚よりも頻繁でございました。源氏の君は、帝が思い
嘆いていらっしゃるご様子をお聞きになると、とても恐れ多くて、強いて
気持ちを強く持とうとお思いになるのでした。左大臣も、懸命にお世話
をなさって、左大臣ご自身が毎日二条院へ足をお運びになって、あれ
これ手当をおさせになったその甲斐あってか、二十日余り重篤で
いらっしゃいましたが、特に後遺症も残らず、ご快方に向かうご様子
が窺えました。

穢れに触れて謹んでおられた期間が明けるのと、病平癒とが重なった
ので、ご心配になっている帝のお心も恐れ多いので、源氏の君は宮中
のご自分の宿直所にお出ましになったりなさいました。左大臣は、
ご自分の牛車で源氏の君をお迎え申し上げられて、御物忌や何やかや、
うるさい程厳重に慎みをおさせになります。源氏の君ご自身は、まだ
ぼんやりとしていて、まるで別世界に生き返ったように、しばらくの間は
お感じになっておられました。


産養の儀

2017年10月23日(月) 溝の口「湖月会」(第112回)

昨年の8月22日に、「湖月会」は一度台風で中止し、9月5日に延期
しましたので、「また湖月会に台風?」と、気を揉みましたが、台風が
速度を上げてくれたおかげで、午前中にはすっかり収まり、電車の
遅延もありませんでした。

こちらのクラスも、今回から第36帖「柏木」に入りました。

「柏木」の巻は、三つの事柄(「薫の誕生」・「女三宮の出家」・「柏木の死」)
を中心に綴られた巻ですが、今日は第2金曜日(10/11)の記事に
書いた「柏木の自己分析」から「薫の誕生」のところまでを読みました。

平安時代の貴族の家では子供が誕生すると、三日目、五日目、
七日目、九日目に、出産を祝う儀式が行われました。それを産養
(うぶやしなひ)と言い、それぞれの日に、儀式の主催者がいて、
七日目が最も盛大に行われました。

ここで女三宮がお産みになった若君(のちの薫)の産養は、三日目が
六条院のご夫人方、五日目が秋好中宮、メインの七日目は帝主催の
公的儀式となりました。

明石の女御腹の第一皇子の七日目は、東宮の若宮ですから、これも
当然、時の帝・冷泉帝の主催となりました。

「宇治十帖」で、中の君が匂宮の第一子を出産した時は、七日目の
産養は、匂宮の母である明石中宮が主催してくださいます。これに
よって、中の君の産んだ若君は世間的にも認知されたのでした。
因みに、この産養の五日目の主催者は、薫です。時の流れを感じ
させますね。

「紫式部日記」には、中宮彰子の産んだ敦成親王の産養の儀が
詳しく記されており、やはり七日目は、誕生した若宮の父でもある
一条天皇自らが、主催されています。

こうしてみると、父親は准太上天皇の源氏、母親は今上帝の妹・
内親王の女三宮である若君(薫)の産養が、天皇や東宮の御子と
同じ格式のもとに行われたことがわかります。実際には薫の父親は
柏木ですが、それは世間の誰一人として知らないことです。慶事に
沸き立つ蔭で、どうしても若君を疎んでしまう源氏や、そんな源氏に
絶望して出家を望む女三宮の姿が描かれることで、見かけの華やかさ
とは裏腹に、平和と秩序を失った六条院の内実が浮かび上がって来る
のです。

来月は、第2金曜日のクラスと同様に、「女三宮の出家」と「柏木の死」
という「柏木」の巻の山場を読む予定です。


今年も作りましたー栗の渋皮煮ー

2017年10月22日(日)

先日、去年と同じご近所の方から、大粒の栗を戴きました。
全部で11粒。「この量なら何とかなるだろう」と、今年も
「栗の渋皮煮」にチャレンジしました。

毎年「源氏物語を読む会」で作って来て下さる方のようには
とてもまいりませんが、二度目ということもあって、去年よりは
少し要領も良くなった気がします。

煮上がったものを冷ましてお皿に盛り付け、写真を撮りました
ので、記念にブログにUPしました。

   DSCF3228.jpg
        去年は10月13日に作っていますね。
        さて、どちらのほうが美味しいかな?


薄を見るとつらいのよ

2017年10月20日(金) 溝の口「枕草子」(第13回)

秋雨前線が停滞しての長雨に、いいかげんうんざりしているところへ、
大型台風21号が接近中。23日の「湖月会」は難しいのでは?と、気を
揉んでおります。

今日はまだ、傘も使わずに済み、「枕草子」の第61段から第66段まで
を読みました。全段「類聚章段」で、中心は第63段の「草は」と第64段
の「草の花は」だったので、プロジェクターでその植物を映して、見て
頂きながら進めていると、さながら、植物図鑑をめくっているかのよう
でした。

第64段では、秋の七草が次々に取り上げられているのですが、あれ程
人目にも付き易く、歌にもよく詠まれる「薄」が、なかなか出て来ません。
で、最後になってやっと、「『これに薄を入れぬ、いみじうあやし』と、人いふ
めり。」(「これの中に薄を入れないのは、とっても変だわ」と、人が言って
いるようです。)という書き出しで、「薄」について語って行きます。

秋の野の薄は何にもまして情趣があり、まだ濃い蘇芳色した穂先が
朝霧に濡れてうちなびいているのなんか最高!と褒めちぎります。

でも、薄は、秋が終わり他の花がみんな散ってしまっても、「冬の末まで、
頭のいと白くおほどれたるも知らず、むかし思ひ出で顔に、風になびきて
かひろぎ立てる、人こそいみじう似たれ。よそふる心ありて、それをしも
こそ、あはれと思ふべけれ。」(冬の終わりまで、真っ白なざんばら頭に
なっているのにも気づかず、昔懐かしそうに、風にゆらゆらと靡いている
のは、人間とそっくりなのよね。思い当たる節があって、それこそが、
切ない気持ちにさせられるのだと思うわ。)というふうに結んでいます。

鶯とホトトギスを比較した折にも、鶯の引き際を知らないのに不快感を
示していた作者ですから、薄に対してもそうした思いもあったでしょうが、
ここでは、まるで白髪の老人が不様によろよろとしているような薄の姿が、
老いた父・元輔の姿と重なることが、一番遣り切れなかったのではないで
しょうか。

清少納言は元輔が60歳近くになって生まれた娘で、しかも元輔は83歳迄
生き、当時としてはとても長寿でしたので、父親の老醜を目の当たりにして
いた清少納言が、人に指摘されるまで、この段に「薄」を入れたくなかったと
いうのも納得できる話です。


リンボウ先生の講演会

2017年10月18日(水)

先程の湘南台クラスの講読会の記録に、この講演会のことも続けて
書こうかと思いましたが、一つの記事があまり長くなるのもなぁ、と思い、
二つに分けました。

今日、湘南台での講読会の後、向ヶ丘遊園駅から徒歩5分位のところ
にある「多摩市民館」で、リンボウ先生こと林望氏の「古典文学のすすめ」
と題した講演会に行ってまいりました。

林望氏の「謹訳源氏物語」が出た頃、何度か講演会に行く機会があり、
その度毎に、配布された源氏物語の原文を見ながら、林氏が、自身の
訳された現代語訳を読み上げられるのを聴きました。リンボウ先生の
朗読はとても情感がこもっていて心に響き、いつかこういうのをやって
みたい、という憧れが、「紫の会」での、全文を訳して最後に通して読む、
になったのですが、いささか無謀だったかな、と後悔していないわけでも
ありません。

今日の講演は「日本文学は恋愛と自然の移ろいに尽きる」というところ
から始まりました。

「恋ふ」とは、「乞ふ」=「相手の魂を呼ぶこと」で、万葉集の「吾妹子に
恋ひてすべなみ白栲の袖反ししは夢に見えきや」(あなたに恋をして、
でもどうすることもできないので、白栲の衣の袖を返して寝た私は、
あなたの夢に現れたでしょうか)の「袖反しし」とは、掛けて寝ている
衣の肩口(袖にあたる部分)をめくって、「どうぞここへ」と、相手の魂を
呼び込もう、とすることなのだそうです。「ころもかたしき」(独り寝の寂しさ)
にも通じる、古代日本人の和歌に詠み込まれた感性の一端に触れた気が
いたしました。

更に、「古典文学」を読むことは、日本人であることのアイデンティティーの
認識につながるので、ぜひ若い人こそ読んで欲しい、ということに、お話が
及びました。教科書に取り上げられているような細切れになった一部分だけ
ではなく、作品をずうっと通して読めば面白さがわかるので、大学は例えば、
「来年の入試は『枕草子』から出題する」と、予告するようにすれば、受験生
は全体を必死で読むのに、とおっしゃった時には、思わず拍手喝采をしたく
なりました。

教科書には出ていない面白い例として、「枕草子」の二つの話が資料に
載せられていましたが、これが、5/19の「お坊さんはイケメンでなくっちゃぁ~」
と、9/15の「後朝の別れの男の美学」で、共に私もブログに取り上げた段
だったので、何だか嬉しくなりました。

最後に「平家物語」のお好きな一節を原文でお読みくださったのですが、
これも、昨年7月13日の湘南台の百人一首の「今日の一首(23)」で、
藤原俊成にまつわる余談としてご紹介した「忠度都落ち」の場面でした。

リンボウ先生とは何の接点もない、しがない私ですが、ちょっと認められた
ような気分になって、足取りも軽く(膝の痛みを抱えているので、見た目は
きっと重いのですが)、帰って参りました。

この講演会に声を掛けてくださった友人たちに感謝です。


薫はなぜ出生の秘密に気づいていたのか?

2017年10月18日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(通算194回 統合48回)

八の宮の不在時に宇治を訪れた薫は、そこで弁と言う一人の老女房から、
自分の出生の秘密に関する話を仄めかされ、それを確かめたい思いもあり、
十月の五、六日頃に、再び宇治へと出掛けました。

山寺の阿闍梨も呼んで、八の宮と薫、三人で仏典の勉強に夜を徹して励み、
夜明け近くには、薫と八の宮は合奏などをしてお過ごしになりましたが、
その後、八の宮が明け方の勤行にお入りになったので、薫はあの老女房・弁
を呼び出して、自分の出生にまつわる詳しい話を聞き、柏木の形見の文反古
を弁から渡されたのでした。

薫の父親は実は源氏ではなく、柏木だった!このようなスキャンダラスな事実
を、他に知る人がいたら、とんでもないことだと薫は思い、弁に確認します。弁は、
きっぱりと答えます。「小侍従と弁と放ちて、また知る人はべらじ。一言にても、
また異人にうちまねびはべらず」(小侍従とこの弁以外には、他に知っている
人はおりません。一言たりとも他言はいたしておりません)と。

弁がとてもまっとうな信頼するに足る人物であることは、この先を読んでいても、
よくわかることで、薫はそれでも「大君と中の君には話してしまったのではないか」
と疑いを抱きますが、読者は「それはあり得ない」と否定できる人物として描かれて
います。

だとしたら、薫が幼い頃から自分の出生の秘密を薄々知っていたというのは、
もう一人の小侍従の口から洩れたという以外考えられません。

そう言えば、女三宮と小侍従の主従はガードが甘く、だから源氏に柏木からの
手紙を見つけられることになったのだったと、読者は思い当たりますよね。

少し軽率なところのある小侍従のこと、まだごく幼い薫に何か不用意なことを
言ったに違いない、と考えるのは難くないところです。

「ほんと、柏木様にそっくり。血は争えないものですね」とか何とか、小侍従なら
言いそうですし、ほんの子供でも、心にひっかかることに対してはずっと覚えて
いるものだと思います。小侍従は、薫が5、6歳の時に亡くなったとありますから、
幼児の時から、こんな誰にも言えないことを、ずっと抱えて来たのだと思うと、
薫に同情を寄せたくもなります。

このクラスは次回より第46帖「椎本」に入ります。


都会のオキテ

2017年10月14日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第142回)

昨日よりも一段と気温が下がり、雨模様の肌寒い一日でしたが、
このクラスは、先陣を切って第49帖「宿木」に入りました。

「早蕨」の巻は、中の君が匂宮によって京の二条院に引き取られた
ところで終わっていました。続く「宿木」は、そのまま舞台を宇治から
京に移して展開して行きます。

これまで、薫、匂宮と宇治の姫君たちの恋物語は、宇治側に視点を
据えて語られてまいりましたが、薫も匂宮も、本来は京に生きる都会人
ですので、そこには「都会のオキテ」があり、彼らがその秩序の中に
組み込まれた貴人たちであることが、「宿木」の冒頭で示されます。

薫と匂宮は、当代きっての貴公子であって、それぞれの立場に相応しい
正妻を持って然るべき、という都会のオキテに縛られている男たちでした。
当然、その正妻として望ましいのは、宇治のような山里に住む没落宮家
の姫君などではなく、帝の女宮や、時の最高権力者の娘だったのです。

「宿木」の巻は、足掛け三年に渡って展開しますが(年立については、
二説あり、これに関しては、また別の機会に取り上げたいと思います)、
第一年は、二人の縁談についての話となっています。

薫には、帝が、母を亡くし後ろ盾を失った女二宮を降嫁させたい、と
お考えになります。この話を耳にした夕霧は、自慢の娘・六の君の
婿候補に、一度は煮え切らない匂宮から薫に変更しようとしたものの、
帝がそのようにお考えなら薫は断念せざるを得ず、再び匂宮に的を
定めて、妹である明石中宮(匂宮の母)に説得をさせ、ついに匂宮に
六の君との結婚を承諾させたのです。

「宿木」の巻は、まず最初に、あの大君を死に追いやる要因ともなった、
匂宮と六の君の婚儀の話を、京側の視点に立って再現することで、
この先、その都会のオキテ(=京の秩序)の中で生きて行かねばならない
中の君の苦悩を語る上でのプロローグとしたのだと思われます。


柏木の自己分析

2017年10月13日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第112回)

今日は、昨日までの夏日の10月から、一気に晩秋の気温となり、
一日中雨も降っていました。向こう一週間はこんなお天気が続く
そうで、少し気が滅入ってきますね。

このクラスと第4月曜日の「湖月会」は、今月から第36帖「柏木」です。

源氏への恐れから重篤に陥った柏木は、両親のたっての願いで、
実家で療養することになりましたが、病は快方に向かうことなく、
年が明けました。

「柏木」の巻は、病床にある柏木の長い心内描写から始まります。

もはや柏木は、こうなった以上、自分は死ぬしかないと思っています。
幼少時より、何事にも人より一段抜きんでよう、と、人一倍志を高く持ち
続けて来たにも拘らず、女三宮を妻とする希望も叶わず、「なべての世の
中すさまじう思ひなりて」(すべてこの世のことがつまらなくなって)と感じて
いたところに、女三宮との密会のチャンスが訪れたのでした。しかしそれは
源氏に知られ、不興を蒙る結果を招くこととなってしまいました。誰を恨む
こともできない、自らの手で自分の人生を台無しにしてしまったのだ、と、
己の生き様を振り返っています。

このまま死ねば、女三宮も「私への恋のために死んでしまった人」と偲んで
くださることもあろう、また源氏の君も、大目に見てくださるに違いない、と
思い巡らしている柏木でしたが、それでも女三宮への執着を断ち切ることは
出来ずに、「今はとて燃えむ煙もむすぼほれ絶えぬ思ひのなほや残らむ」
(今はもう命を終えようとしておりますが、その私を火葬に付す煙も空に
昇らず地上にたゆたい、あなたへの断ち切れぬ思いはやはりいつまでも
この世に残ることでしょう)と書いて、女三宮の許へと遣わすのでした。

「源氏物語」の中で、亡くなる人の様子が詳しく語られるのは、その人に
寄り添って来た人の目を通した形になるのが普通で、このような死に行く
本人の自己分析によって語られるのは珍しいことです。でも、読者はこの
独白によって、傍から見ればただ無謀で愚か、としか思えない柏木像に、
内側から光を当てた姿を重ねることが出来るようになったと言えましょう。

今回は、女三宮の男児(のちの薫)出産のところまでを読みました。次回、
「国宝源氏物語絵巻・柏木」の第一段、第二段、に描かれている、この巻の
山場(女三宮の出家・柏木の臨終)を、読むことになります。


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