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気持ちの通わぬ夫婦

2018年3月29日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第24回・№2)

北山で一夜を過ごし、京に戻った源氏は、先ず宮中に父・桐壺帝を訪ね、
報告をしました。来合わせた(おそらく、源氏を自邸に伴うため、わざわざ
お出でになったのでしょうが)左大臣に、「のどやかに一二日うちやすみ
たまへ」(我が家で一、二日のんびりと静養なさってください)と、誘われ、
内心では「左大臣邸ではのんびりとなんか出来ないよ」とお思いだった
でしょうが、源氏は共に退出して左大臣邸にいらっしゃいました。

しぶる娘を急き立てて、気の毒なほどの心遣いをしている父・左大臣の
意も介さず、葵の上は相変わらず素っ気ない態度で源氏を迎えます。
源氏の目にはそんな葵の上が絵に描いた姫君のように映り、「時々は
世の常なる御けしきを見ばや。堪えがたうわづらひはべりしをも、いかが
とだに問はせたまはらぬこそ、めづらしからぬことなれど、なほうらめしう」
(たまには世間並みの妻らしいご様子が見たいものですね。我慢できない
ほどの病気に苦しんだことも、如何ですか、とさえ訊いてはくださらないのが、
今に始まったことではありませんが、やはり恨めしいことで)と、愚痴の一つ
も言いたくなります。

ところが、かろうじて受け答えした葵の上の口から発せられたのは「問はぬは
つらきものにやあらむ」(尋ねないのは薄情なものなのですか、いつだって
私はあなたに問う(訪う)てはいただいておりませんのに)という、言葉尻を
捉えた痛烈な皮肉でした。

一方だけを責めることは出来ない、最初からボタンを掛け違えてしまった
ような源氏と葵の上の夫婦関係です。26日のブログに記した女三宮も、
葵の上も、生活の困窮などとは全く無縁の恵まれた生活環境にありながら、
妻としての幸せには恵まれなかった方々です。

この辺り、詳しくは先に書きました「全文訳(7)」をご覧ください。


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第五帖「若紫」の全文訳(7)

2018年3月29日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第24回・№1)

今月の「紫の会」は、「若紫」の巻の201頁・9行目~212頁・5行目迄を
読みました。前半部分は12日のほうで書きましたので、今日は後半部分
(207頁・1行目~212頁・5行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)

源氏の君は先ず宮中にお出でになって、ここ数日のお話を申し上げ
なさいます。たいそうひどくやつれてしまったなぁ、と、帝は不吉なほど
とお思いになっておられました。聖の霊験あらたかなことなどをお尋ねに
なります。源氏の君が詳しくお話申し上げますと、帝は「阿闍梨などに
なってもよさそうな者だね。修行の功労は積んでいるのに、今まで朝廷
には知られていなかったことだ」と、敬意を持っておっしゃるのでした。

左大臣が丁度参内なさって、「北山へお迎えにも、と思いましたが、お忍び
でのお出ましにそれもいかがなものかと遠慮いたしました。のんびりと私ども
の所で一日、二日、お休みください」と言って、「このままお送りいたしましょう」
と、申し上げなさるので、源氏の君はあまりお気持ちは進まないのですが、
左大臣に引きずられる格好で退出なさいました。左大臣はご自分の牛車の
上席に源氏の君をお乗せして、ご自身は末席にお座りになります。このように
源氏の君を大切にお世話なさる左大臣のお気持ちが懇ろなのを、源氏の君は
さすがに心苦しくお思いになっているのでした。

左大臣邸でも、源氏の君がいらっしゃるであろうと心遣いをなさって、長らく
お出でにならないうちに、いっそう美しく磨き立てて用意万端整えておられました。
葵の上は、いつものように、引っ込んだままで、すぐにも出て来られないのを、
左大臣がしきりにお勧め申し上げなさって、やっとのことでお出ましになりました。
ただ物語絵に描かれた姫君のように、その場に座らされて、身じろぎなさるのも
容易ではなく、きちんとお行儀よくしておられます。

源氏の君は、思うことをそれとなく口にして、この度の北山行きのお話をするに
しても、話し甲斐のあるように、気の利いた受け答えでもしてくださるのなら、
情愛も湧こうというものだけれど、葵の上が少しも打ち解けず、源氏の君を
よそよそしく気詰まりな相手だとお思いで、年が経つにつれて、二人の御心の
隔ても増すのを、とても辛く心外だとお思いなので、「時々は人並みの妻らしい
ご様子を見たいものですね。私が堪えがたく病気に苦しみましたことも、
如何ですか、ともお尋ね下さらないのは、今に始まったことではありませんが、
やはり恨めしくて」と、申し上げなさいます。やっとのことで、「問わないのは
本当に辛いことなのでしょうか」と言って、流し目でこちらをご覧になった
葵の上の目元は、とても近寄り難い感じで、気品のある美しいご容貌で
ありました。

「たまに何かおっしゃると思えば、とんでもないことをおっしゃるのですね。
問うだの問わぬだのは、人目を忍ぶ仲の話で、私たちの間柄とは異なる
話でございましょう。情けないおっしゃりようです。いつも素っ気ない
お仕打ちを、もしやお考え直しくださる折もあろうかと、あれこれ試して
申し上げておりますのを、いよいよ私をお疎みのようですね。仕方ありません、
命があればそのうちに」と言って、源氏の君は御帳台の中にお入りになりました。
葵の上はすぐにもお入りにならず、源氏の君は誘いあぐねなさって、ため息を
ついて横になっておられますが、何となく面白くないのでしょうか、わざと眠そうな
ふりをなさって、あれこれと女性との仲で思い悩まれることが多うございました。

この若草(若紫)の成長して行く様子がやはり見たいので、不似合いな年頃と
尼君たちが思うのも無理のないことだよ、交渉し難いことでもあるなぁ、何とか
手立てして、ただ二条院に迎え取って、明け暮れの慰めに見よう、兵部卿の宮は
とても上品で優美なお方だけれど、華やかな美しさではないのに、あの少女は
どうしてご一族のあのお方(藤壺)に似ておいでなのだろう、お二人は同じ后腹で
いらっしゃるからだろうか、などと源氏の君はお思いでした。翌日、北山の尼君に
お手紙を差し上げなさいました。僧都にもそれとなく仄めかしてお書きになった
ようです。

尼君への手紙には、「取り合っても下さらなかったご様子に気が引けまして、
思っていることも存分に申し上げ切れないまま終わってしまったのが残念で
なりません。これほどまでに申し上げることからしましても、並々ならぬ私の
思いの深さをお分かり頂けましたなら、どんなに嬉しうございましょう。」
などとお書きになりました。そのなかに小さく結び文にして、

「おもかげは身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど(山桜の美しい面影は
私の身体からも離れることがありません。こころのすべてはそちらに残して
来たのですが)夜風に山桜が散らぬかと心配でなりません」

と、書いてありました。筆跡などは言うまでもなく、ただ無造作にお包みに
なっている様子も、年を取った尼君たちの目には、眩しい程に素晴らしく
見えました。「ああ、困ったことよ、どうお返事申し上げよう」と、尼君は
思案に暮れておられます。「通りすがりにおっしゃったお話は、どうでもよい
ことのようにも存ぜられましたが、わざわざのお手紙を頂戴いたしますと、
お返事の申し上げようもございません。まだ難波津の歌さえちゃんと
続け字で書けないようなことでございますので、お話にもなりません。
それにしても、
  
嵐吹く尾の上の桜散らぬ間を心とめけるほどのはかなさ(山の峰の桜が
激しい山風に吹き散らされない間だけお気に留めなさるとはほんの
気まぐれでございますね)

こちらはいっそう心配でなりません。」と、尼君はお書きになっていました。
僧都のお返事も同じようなものでしたので、源氏の君はがっかりして、
二、三日後、惟光を使者としてお遣わしになりました。「少納言の乳母と
いう人がいるはずだ。その人を尋ねて、詳しく相談せよ」など、言い聞かせ
なさいます。惟光は「何ともお目の届かないところのない好き心でいらっしゃる
ことよ。あんなに子供っぽい様子の人だったのに」と、はっきりとではないけれど、
垣間見したときのことを思い出しておかしく思うのでした。わざわざこうした
お手紙があるのを、僧都も恐縮の由、申し上げなさいます。

惟光は少納言の乳母に来意を告げて会いました。詳しく、源氏の君の
お気持ちやお言葉、日頃のご様子などを話します。惟光は多弁な人で、
もっともらしくあれこれと言い続けますが、とても無理なお歳なのに、
源氏の君はどういうおつもりなのかと、とても不安なことに北山では
誰もがお思いになっていました。お手紙にもとても熱心にお書きになって、
例によってその中に結び文にして、「その放ち書きがやはり拝見したい
のです」とお書きになって
 
「あさか山浅くも人を思はぬになど山の井のかけ離るらむ」(あなたを浅くは
思っておりませんのに、どうして私から遠く離れてしまわれるのでしょう)

と歌がしたためられていました。お返事は尼君が、

「汲みそめてくやしと聞きし山の井の浅きながらや影を見るべき」(汲んでみて
後悔すると聞きました山の井のように浅いお心のままで、どうして姫君の姿を
ご覧になれましょうか)

と差し上げなさいました。惟光も同じような報告をします。少納言の乳母が、
「尼君のご病気が多少なりとも快方に向かわれましたら、もうしばらくして、
京のお邸にお帰りになってのちに、ご挨拶申し上げましょう」と言ったと聞き、
源氏の君はもどかしくお思いになっておられました。


女三宮は資産家

2018年3月26日(月) 溝の口「湖月会」(第117回)

電車に乗っていても、次から次へと窓に桜の花が映り、この季節独特の
心弾むものを感じました。

こちらのクラスも、第2金曜日のクラス同様、第37帖「横笛」の後半から、
第38帖「鈴虫」の前半にかけてを読みました。

「横笛」の巻で語られ始めた夕霧の落葉の宮への恋は、一旦休止して、
「鈴虫」の巻は、「若菜下」から「柏木」へと続いた女三宮と柏木の密通
事件の後日談のような形で、出家後の女三宮を中心とした、仏教的
色彩が濃い巻となっています。

源氏50歳の夏、女三宮の持仏開眼供養が行われます。やはり女三宮が
出家してしまわれたことが、何とも残念で悔やまれてなりませんが、
それでも源氏は、女三宮がお手元で使われる「御持経」を、特注の紙に
自ら筆を取ってお書きになり、それは目も眩むほどの立派なものでした。

この法要は、源氏のみならず、六条院のご夫人方や、帝(女三宮の兄)、
朱雀院(女三宮の父)なども肩入れなさったので、お布施だけでも置き場が
ないほどの盛儀となりました。

女三宮は出家に伴って朱雀院より三条の宮を譲り受けており、この際
女三宮はそちらへお移りになるのがよかろうと、朱雀院はお考えでしたが、
源氏が異議を唱えて、六条院に留まられることになりました。

源氏は、六条院も尼となった女三宮の住まいに相応しく改築し、三条の宮
には蔵を増築して、二品の内親王としての税収入をはじめ、諸国から献上
されるもの、朱雀院から相続なさった財産(朱雀院は出家に際して目ぼしい
物はみな女三宮に賜られた)などを収めさせなさいました。

そして女三宮はもとより、女房たちや下々の者に至るまで、日常の生活に
かかる経費のすべてを、今は源氏が負担しておられるので、女三宮の莫大な
資産は増えこそすれ、目減りするようなことはありません。

源氏の死後は、三条の宮に移られましたが、上記の物に源氏の遺産が加わり、
女三宮は生涯経済的には恵まれた方だったと思います。

そんな女三宮ですが、希薄な夫の愛、全く望んでもいない柏木からの懸想、と、
女としての幸せは得られないまま、尼となってその先の長い人生を送らなければ
ならない運命を背負った女性でもありました。


国宝「源氏物語絵巻」宿木・第三段

2018年3月24日(土) 淵野辺「五十四帖の会」(第147回)

三日前には雪が降ったのに、今日は東京の桜が平年よりも十日も
早く満開になった、とニュースが伝えていました。差が激し過ぎて
体調管理が難しいですね。着る物にも迷ってしまいます。

淵野辺のクラスは、第49帖「宿木」もあと一回で読了、というところ迄
来ました。今回は国宝「源氏物語絵巻」宿木・第三段に描かれている
場面から、年が替わり、薫は大納言に昇進、中の君は匂宮の第一子
となる男君を出産、裳着を挙げた女二宮と薫の結婚、匂宮と中の君の
若君の「五十日(いか)の祝」までを読みました。

匂宮が夕霧の六の君と結婚したことで、宇治を捨て都に出て来た
ものの、中の君の立場は危ういものとなりました。相手が今を時めく
夕霧右大臣家であるだけに、中の君の苦悩は増すばかり。身重の
中の君の気持ちはふさぎがちですが、匂宮が琵琶を奏でて、そんな
中の君を慰めます。国宝「源氏物語絵巻」宿木・第三段の場面です。

   絵巻「宿木」第三段
この絵は、原文に忠実で、「小さき御几帳のつまより、脇息に寄り
かかりて、ほのかにさし出でたまへる、いと見まほしくらうたげなり」
(小さな御几帳の端から、脇息に寄りかかってちらりと顔をのぞかせ
ておられるのが、もっとよく見たい、と思われるほど可愛い気である)
と書かれている中の君の様子を、そのまま絵に描き表しています。
中の君を愛おしく思って投げかける匂宮の視線を、中の君は受け
止めることなく、苦悩に満ちた表情で遠くを見ています。

「秋果つる野べのけしきもしのすすきほのめく風につけてこそ知れ」
(秋が終わってしまった野辺の様子も篠薄がそよめく風から感じ取る
ように、私にすっかり飽きてしまわれたことが、あなたの何気ない素振り
で分かるのです)という中の君に歌に即して、左下の庭に揺れる秋草と
右端の御簾のたわみが吹き抜ける風を表現し、中の君の心の内を象徴
しているかのようです。 
 

市川海老蔵特別公演「源氏物語」~第二章~

2018年3月22日(木)

このブログを書き始めて間もない2015年3月に、横浜・神奈川芸術劇場に
観に行ったのが、市川海老蔵特別公演「源氏物語」の~第一章~でした。

その時のブログを読み返してみると、先ず最初に、「海老蔵の「光源氏」の
なんとまあ美しいこと!!」と、書いていますが、その印象は三年経っても、
まったく変わっていませんでした。前回よりも少しやつれた感じが、いっそう
憂いに満ちた今回の役どころにはぴったりな感じがしました。

「歌舞伎✕オペラ✕能」の新しい感覚で作り出された「源氏物語」は、不思議な
調和をもたらし、特にカウンターテナーの哀愁を帯びた歌声が、「源氏物語」の
イメージにこれほどマッチするとは、この公演(前回)で初めて知ったことでした。

全体の構成などは、前回のほうが優れている気がしました。これは何でも初回は
感動が大きいということに因るのかもしれませんが、六条の御息所の生霊に夕顔
が取り殺されるところなど、今回は小面と般若で演じ分けられる御息所の内面が
今一つはっきりせず、そもそもなぜ~第二章~に、また夕顔の話を挿入させるのか、
その必要性が理解できませんでした。それよりも、源氏が須磨へと謫居する引き金
となった、朧月夜との密会の現場を右大臣に押さえられるあたりを、舞台で演じて
欲しかったなぁ、と思いました。

源氏が京に召還され、明石を去る時、原作では明石の上の胎内に宿っている
明石の姫君が、もう大きくなっており、この娘だけを連れて源氏は京へと向かう
のですが、一緒にご覧になった方からも、やっぱり明石の上と姫君との別れは、
あの「薄雲」の「乗りたまへ」でなくっちゃね、というご意見が出ておりました。
私も同感です。今回はサブタイトルの~朧月夜より須磨・明石まで~が、もう少し
丁寧に舞台化されていても良かったのではないでしょうか。

でも、もし~第三章~が出来たら、きっとまた行くと思います。海老蔵源氏に
物語の源氏の姿を重ねたくて・・・。

           海老蔵「源氏」


「総角」とは

2018年3月21日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第199回)

「暑さ寒さも彼岸まで」と申しますが、その彼岸の今日は、とてつもなく
寒い一日となりました。一旦は桜の開花宣言が出るほど暖かくなって
いたのに、最高気温が5度にも達しない、真冬でも滅多にない寒さに
なるなんて・・・。雪がうっすらと積もり始めた頃に、心配してお電話を
下さった方もおられたほどです。それでも、1月22日の大雪に比べると
雪が重そうで、さほど積もることなく、湘南台に着いた時にはもう霙に
替わっていました。それにしてもこの気温の変動、応えますね。

このクラスは今回で第46帖「椎本」を読み終え、次の「総角」に少し入り
ました。

「源氏物語」の巻名で、読み難いものの一つにこの「総角」(あげまき)が
挙げられるかと思います。

巻名の由来は、宇治の姫君たちが父・八の宮の一周忌の法要のため、
経文の飾りの糸を編んでいましたが、訪れた薫が、総角結びにするその
糸に寄せて、

「あげまきに長き契りをむすびこめおなじ所によりもあはなむ」(総角結びの
中に末長い契りを結びこめて、一つ所に結び合わされる、そのようにあなた
となりたいものです)

と、詠みかけた歌によるものです。

「総角結び」というのは、古代男子の髪型である角髪(みずら)から考案された
結びで、高松塚古墳の壁画にも見られます。 総角結びは、装飾結びの代表
として、浄化、魔除け、あるいは人と人の縁などの意味を込め、神社仏閣の
幕に付いている房や、大相撲の土俵の屋根から下がる房など、気をつけて
いると、いろんなところで使われているのを目にすることが出来ます。

          DSCF3399.jpg
                  これが「総角結び」


雪山の思い出

2018年3月16日(金) 溝の口「枕草子」(第18回)

この「枕草子」の講読会は、いつも溝の口の高津市民館を会場として
いるのですが、18回目にして初めて、高津市民館に抽選申し込みを
した部屋が全部外れ、キャンセルも出ず、今日は武蔵小杉駅前の
タワーマンションの2階にある「中原市民館」が会場となりました。

高津市民館に比べ部屋が狭いので、ご参加下さった皆さまには
窮屈な思いをしていただくことになりましたが、交通の便からすると、
こちらのほうが便利な方もあったかと思います。

さて「枕草子」の本文ですが、前回途中になってしまった第82段の残り
から読み始め、第84段までを読み終えました。

第82段は、長徳4年(998年)の12月10日過ぎに降った大雪で、その頃
中宮さまの居所となっていた職御曹司の庭に巨大な雪山を作り、それが
いつまで融けずに持つか、という賭けをした時の顛末を記した段です。

皆が年内を予想した中で、清少納言だけは来年1月の10日過ぎまでは
残っている、と言いました。本人もあとになって、「元日くらいまで、って
言っておけば良かった」と思いましたが、そのまま押し通したのでした。

ところが、20日頃に雨が降っても融けず、大晦日になっても、少し小さく
なっただけで、年が改まりました。元日の夜にまた大雪が降ったので、
清少納言は「ヤッター!」と思いましたが、中宮さまから「新しく積もった
分は捨てるのよ」と言われてしまいました。

もうこうなったら、15日まで持たせたい、と願っているところに、3日に
中宮さまが宮中にお入りになることになって、皆もこの職御曹司の雪山
の決着が見られなくなったことを残念がりましたが、清少納言は清掃係
の女に見張りを言いつけて、諦めませんでした。

7日まで宮中で中宮さまにお仕えした後、里下がりをしても、使いを遣って
毎日雪山の状態の報告をさせていました。14日には前夜雨が降りましたが、
雪はまだ十分に残っていて、清少納言は、翌日になったらその雪に世間の
語り草にもなりそうな歌を付けて中宮さまに献上しようと張り切っていました。

なのに、15日の朝、雪を取りに行かせたら、もう跡形も無くなっていたとの
こと。「誰かが私のことを妬んだんだわ」と清少納言は思っておりましたが、
20日に宮中に参内すると、何とその犯人が中宮さまだったと分かり、
泣き出しそうになるほど口惜しがりました。中宮さまから「私が白状したの
だから、お前も作ったその歌を教えておくれ」と言われても、拗ねてお教え
しない清少納言に、しまいにはそこにいらした一条天皇までもが「お前に
勝たせたくなかったんだろうよ」と言ってお笑いになった、という話です。

今となっては、すべての出来事が懐かしい思い出となって蘇り、書き記す
うちにこのような長い、長い段となったのでしょう。

それというのも、2月には道長の娘・彰子が裳着を挙げて、11月に入内、
女御となりました。翌長保2年(1000年)の2月には彰子が中宮となって、
定子は皇后に押し上げられる形で辛い立場に追いやられました。しかも
同年12月に、定子は第三子・媄子内親王の出産で、命まで落として
しまわれたのですから。雪山を作ってからちょうど2年後のことでした。


GRILL UKAI MARUNOUCHI

2018年3月15日(木)

3月も早半ば。気温もグーンと上昇して、日中は初夏のような陽気と
なった一日でした。

このブログでご紹介するのも、もう7回目となりますが、今日は年に
3回ある昔の職場の講師仲間の集まりの日でした。今回の幹事さんが
選んで下さったお店は、「GRILL UKAI MARUMOUCHI」。

家から歩いて行ける所にある「横浜 うかい亭」(ただし、お友達と気軽に
ランチ、というには敷居が高すぎて、25年住んでいて行ったのはたった
2回だけ)も、今年の新年会があった鷺沼の「とうふ屋 うかい」も、同じ
グループだと思いますが、郊外の「うかい」がどこも広いお庭があるのに
対し、こちらはビルの中で、店名の表記もアルファベットと、如何にも
都心のお店、という感じです。

それもそのはず、東京のど真ん中、丸の内の「三菱一号館美術館」と
同じ敷地内にあり、窓の向こうにはその美術館の建物が見えていて、
落ち着いた個室で、優雅に食事が楽しめるフレンチレストランでした。

アミューズの「ゆり根入り洋風茶碗蒸し」を口にした途端、「わぁー
美味しい!」。色とりどりの野菜やお肉が盛り合わされた前菜、メインは
「GRILL」と言うだけあって、すべてグリル料理のようです。今回は
ハンバーグでしたが、すごくジューシーで、ソースが絶品。パンがまた
美味しかったのですが、そのパンにつけて、お皿を拭くように食べて
しまいました。

     DSCF3394.jpg
      そして嬉しい最後のデザート。5種類の中から、
      「お好きなだけどうぞ」ということで、モンブラン、
      いちご添えのシフォンケーキ、オレンジのゼリー
      の三点をチョイスしました。どれも全部◎でした!

     DSCF3396.jpg
    外に出てから、いつものように「顔がわからない距離で」
    の記念撮影をしました。左奥が「三菱一号館美術館」。

東京駅に隣接している「KITTE」ビルにも初めて入りました。本当に
「おのぼりさん」の私です。そう言えば2月以降、また多摩川を越えて
いなかったなぁ、と・・・。行きにもまごつき、帰りにもまごつきながらも、
たまには都会の空気も吸わなきゃ、という思いを新たにいたしました。


桜の花に譬えられる少女

2018年3月12日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第24回・№2)

ようやく春らしさが定着してまいりました。陽射しも暖かく感じられ、
戸外で深呼吸をしたくなるところですが、どっこい今は花粉も大量に
飛んでいますから、戸外ではマスク、でございます。

本日講読したところは、前半が北山での一夜が明けて源氏が帰途に
着くまでの出来事、後半が京に戻ってからのお話です。

僧都が用意した送別の宴で、源氏は「宮人に行きて語らむ山桜
風よりさきに来ても見るべく」(大宮人たちに京へ帰って話しましょう。
この美しい山桜を風が吹き散らす前に来て見るように)と、歌を詠み
ます。

そして、京に戻ってからも、少女(若紫)のことを諦め切れない源氏は
尼君のもとに手紙を遣わし、その中に小さな結び文にして「おもかげは
身をも離れず山桜心の限りとめて来しかど(山桜の美しい面影は私の
身体から離れることはありません。心のすべてをそちらに置いて来たの
ですが)夜の間も、うしろめたくなむ」(夜風に山桜が散ってしまわないか
心配でなりません)と、若紫宛にした恋文の形のものも同封したのでした。

「山桜を散らす風」とは、少女(若紫)が、自分以外の誰かのものになって
しまうことを意味しますので、最初の歌も宮人に告げよう、と言いながらも、
必ず私が、という源氏の秘めた強い意志の表れとして読むことができましょう。

若紫は、こののち源氏の妻となり、紫の上と称されますが、ずっと花の
代表である「桜」に譬えられ続けます。

第28帖の「野分」では、紫の上を垣間見た夕霧が、「春の曙の霞の間より、
おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見るここちす」(春の夜明けに立ち込めて
いる霞の隙間から、風情ある樺桜が咲き乱れているのを見ているような
気がする)と、その息を呑むような美貌に衝撃を受けています。

また第35帖「若菜下」で、「女楽」が行われた時、源氏はそれぞれの女君を
花によそえてみますが、やはりここでも、紫の上は「桜」です。「花といはば
桜にたとえても、なほものよりすぐれたるけはひことにものしたまふ」(花と
言うなら、桜に譬えても、やはり他の誰よりも優れている様子は格別で
いらっしゃる)。

生涯を通して、その類まれな美貌と人柄を、花において他の追随を許さぬ
桜に譬えられた紫の上。その始まりが、ここにあるのです。


第五帖「若紫」の全文訳(6)

2018年3月12日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第24回・№1)

今回は、「若紫」の巻の201頁・9行目~212頁・5行目迄を読みました。
その前半部分(201頁・9行目~206頁・14行目)の全文訳です。
後半部分は3/29(木)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)

明け方になったので、法華堂での懺法の声が山から吹き下ろす風に
乗って聞こえて来るのですが、それがとても尊く、滝の音に響き合って
おりました。源氏の君が

「吹きまよふ深山おろしに夢さめて涙もよほす滝の音かな」(吹きすさぶ
深山おろしの風に乗って聞こえて来る懺法の声に煩悩の夢も醒めて、
感涙を誘う滝の音であることよ)

と歌を詠まれたので、僧都は
 
「さしぐみに袖ぬらしける山水にすめる心は騒ぎやはする(不意に
おいでになったあなた様が涙ぐまれ袖を濡らされたという山水に、
心を澄ましてここに住んでいる私の心は動かされることはありません)
もう耳慣れてしまいましたことで」

と、申し上げなさいました。明けて行く空は、たいそうひどく霞んで、山の
鳥たちが、どこということもなく囀り合っております。名も分からない木や
草の花々も、色とりどりに散り混じって、錦を敷いたかのように見える所に、
鹿が佇み歩いているのも珍しくご覧になっていると、気分の悪いのも
すっかりお忘れになってしまいました。聖は身動きも不自由ですが、
どうにかして護身の修法をして差し上げさないます。しわがれた声で、
たいそうひどく歯の抜けた間からの発音が奇妙に聞こえるのも、しみじみと
いかにも修行の年功を積んだ感じで、陀羅尼を読んでおりました。

京からのお迎えの人々が参上して、お治りになったお祝いを言上し、
帝からもお見舞いのお託けがありました。僧都は普通では見られない
ような果物など、あれこれと谷の底にあるものまで掘り出して、おもてなしに
奔走なさいます。「今年いっぱい山籠もりの誓いが固うございまして、
京までお見送りにも参れませんので、却ってお名残惜しく思われることで
ございます」など申し上げて、お酒を差し上げなさいました。源氏の君は
「こちらの山水に心惹かれましたが、帝がご心配なさっておられるのも
恐れ多いことですので。また、この桜の時期を逃さずに参りましょう。
  
宮人に行きて語らむ山桜風よりさきに来ても見るべく」(大宮人のもとに
行って語りましょう。美しい山桜を風が吹き散らす前に来て見るように、と。)

とおっしゃるご様子やお声までもがまぶしいほどにご立派なので、
 
「優曇華の花待ち得たるここちして深山桜に目こそ移らね」(あなたさまに
お目にかかって、優曇華の花が咲くのに巡り合えたような心地がして、
深山桜の美しさにも目は移りません)

と、僧都が申し上げなさいますと、源氏の君は、照れ笑いをなさって、
「時あって一度咲くというその花に出会うのは難しいことですのに」と、
おっしゃいました。聖は盃を頂いて、
 
「奥山の松のとぼそをまれにあけてまだ見ぬ花の顔を見るかな」(奥山の
庵の扉を珍しく開けて、まだ見たこともない花のような美しいお顔を拝した
ことですよ)

と、泣きながら見申し上げておりました。

聖は源氏の君にお守りとして独鈷を差し上げます。それをご覧になって、
僧都は、聖徳太子が百済より入手なさった金剛子の数珠で、装飾が施して
あるものを、百済から入って来たままの唐風な筥に入れ、それを透かし編み
の袋に入れて、五葉の松の枝に付け、また、いくつもの紺瑠璃の壺に様々な
薬草を入れて、藤や桜などの枝に付けて、場所柄に相応しい贈り物を献上
なさったのでした。

源氏の君は、聖をはじめ、読経をしてくれた法師のお布施の品々や、その他
にも用意する品々を、いろいろと京へ取りに行かせなさっていたので、
その辺りの木こりにまで、しかるべきものをお与えになり、御誦経のための
お布施などをしてご出立なさいます。

奥に僧都はお入りになって、源氏の君がお願いになったことをそのまま
尼君にお伝えなさいましたが、「なんとも、今はお返事の申し上げようも
ございません。もしお気持ちがございますなら、四、五年の後には如何よう
にもお返事申せましょう」とおっしゃったので、「こうこうです」と、僧都が
源氏の君に話しますが、昨夜伺ったのと同じお返事なので、源氏の君は
がっかりなさいます。

尼君へのお手紙を僧都に仕えている小さな童にお託けになりました。

「夕まぐれほのかに花の色を見てけさは霞の立ちぞわづらふ」(夕暮れ時に
かすかに美しい花の色を見ましたので、今朝はここを立ち去り難い思いで
おります)

尼君からのお返事は
 
「まことにや花のあたりは立ち憂きと霞むる空のけしきをも見む」(本当に
花のあたりは立ち去り難いとお思いなのでしょうか。あなた様のお気持ちを
見届けとうございます)

と、風雅な筆跡でたいそう上品な文字を、無造作に書いておられました。

源氏の君が牛車に乗ろうとなさっているところに、左大臣家から「行先も
おっしゃらずにお出かけになられてしまって」と言って、お迎えの人々や
ご子息たちなどが大勢やって来られました。頭中将、左中弁、その他の
ご子息たちも源氏の君をお慕い申し上げて、「このような折のお供は務め
させて頂こうと思っておりますのに、置き去りになさるなんてあんまりで
ございます」と、恨み申し上げて、「こんなに素晴らしい花陰に少しの間も
足を留めずに立ち帰ってしまうのは残念なことです」とおっしゃいます。

岩陰の苔の上に並んで座り、お酒を召し上がります。落ちて来る水の様子
など、風情ある滝のほとりでございました。頭中将が懐から笛を取り出して、
澄んだ音色でお吹きになります。弁の君は、扇を軽くうち鳴らして、「豊浦の
寺の西なるや」と歌います。

左大臣家のご子息たちも、普通の人よりは優れた貴公子たちですが、
源氏の君がたいそうだるそうに、岩に寄りかかっていらっしゃるお姿は、
この上なく不吉なほどまでにお美しくて、他の何事にも目が移りそうに
ありませんでした。いつものように、篳篥を吹く随身や、笙の笛を持参
させている風流人もおりました。

僧都が、琴の琴を自ら持って来られて、「これでただ一曲だけお弾きになって、
同じことなら、山の鳥も驚かしてやりましょう」と、熱心にお願いなさるので、
源氏の君は「気分が悪くて堪えがたいのですが」と、申し上げなさりながらも、
無愛想にならない程度にお弾きになって、皆でお帰りになりました。

名残惜しくて残念だ、と、取るに足らない法師や、召使の童も、皆涙を落とし
ました。ましてや部屋の中では、年老いた尼君たちなどは、まだこんなに
美しい人のご様子を見たことがなかったので、「この世の方とは思えないわ」と、
お噂し合っておりました。僧都も「まあ、どうした前世からの契りで、このような
美しいお姿で、こんなにもむさ苦しい日本の末世にお生まれになったのだろうと
思って見ると、まことに悲しくなります」と言って、涙をおし拭いなさいました。

この姫君も、子供心にも源氏の君を立派なお方だなぁ、とご覧になって、
「父宮のご様子よりも、素晴らしくていらっしゃるわね」などとおっしゃいます。
女房が「だったら、あのお方のお子様におなりあそばせよ」と、申し上げると、
こっくりと頷いて、それはとっても素敵なことだわ、とお思いでした。お人形遊びや
お絵描きの時にも、「これは源氏の君よ」と、作り出して、綺麗な着物を着せて
大事にしていらっしゃるのでした。


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