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どうぞ良い御年を!

2018年12月30日(日)

泣いても笑ってもあと一日、平成最後の年の暮れです。

ブログ上での数え日のご挨拶もすでに四度目となりました。

今年も、拙いブログにお付き合い頂き、有難うございました。

12月は半ば以降、いろんな不調に見舞われました。先ずはこんな
病名初めて聞いたという「胸鎖関節炎」を起こしました。左右の鎖骨
の間がポコッと膨らんで、それに伴い鎖骨から肩の辺りまで痛くなり、
腕の動作も不自由になりました。五日程で痛みは収まりましたが、
「膨らみは靭帯が緩んでいるので、ずっと残るかもしれません」との
お医者様の言葉通り、今もそのままです。

次には、プリンターの不調。年賀状の印刷もスムーズに行かず、
三日かかってやっとこさ刷り上がりました。昨日、講読会にご参加
下さっている皆さま宛のものは投函し終えましたが、友人、知人、
親戚関係はまだこれからの状態です。辛うじて松が取れる前には
届くでしょうか。

最後はリフォームをしたお風呂。やはり新年には新しいお風呂に
入りたいと思い、25日~26日で、浴室のリフォームをしました。
ところが浴槽に張るお湯の温度が上がらないのです。昨日はTOTO
のメンテナンスの方にも調べて頂きましたが、原因不明で、もう年明け
を待たねばならなくなりました。ただ、今回付いた浴室暖房がポカポカ
快適なので、シャワーでも全然寒くないのが救いです。

でもまあ、秋以降、過密スケ―ジュールをこなしつつ、風邪も引かずに
ここまで来られたのですから、こんなのはぜえ~んぶ些細な事でござい
ます。

明日は一日、おせち料理作りです。今夜これから少しでも年賀状を
書くことにしましょう。

それでは皆さま、どうぞ良い御年をお迎えくださいませ。


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青春の記念碑ー青海波の舞ー

2018年12月27日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第33回・№2)

今年の仕事納めとなりました。「源氏物語」が96回、「枕草子」が12回、
計108回(除夜の鐘の数と同じですね)の講読会があり、5月には前日 
に高熱を出すという危機もありましたが、何とか休講ゼロで、無事に
この一年を終えることが出来ました。

さて、今年最後の講読会は「紫の会・木曜クラス」で、第7帖「紅葉賀」の
冒頭部分を読みました。朱雀院への行幸に先立って行われた試楽と、
行幸の本番において、帝をはじめ見る人すべてが感涙に咽ぶ、という
圧倒的な青海波を舞った源氏の姿を映し出しているところです。

「源氏物語」の中の「舞楽」と言って思い浮かぶものは何ですか?と、
お尋ねすると、殆どの方から「青海波」という答えが返ってまいります。
それほど、この「青海波」の舞われる場面は印象的で、まさに源氏の
「青春の記念碑」と呼ぶに相応しいものです。

    007「紅葉賀」②
         「青海波」を舞う源氏(左)と頭中将(右)
           (伝土佐光則・江戸時代前期)
 
試楽の場面は12月10日の第7帖「紅葉賀」の全文訳(1)で、行幸本番
での「青海波」については、本日の(№1)の全文訳(2)で、それぞれの
全貌をご覧頂ければ、と存じます。


第7帖「紅葉賀」の全文訳(2)

2018年12月27日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第33回・№1)

第2月曜日のクラスに続き、こちらの第4木曜日クラスも、今月から
第7帖「紅葉賀」に入りました。第1回目は、11頁・1行目~15頁・12行目
までを読みましたが、前半は12月10日の「紅葉賀」の全文訳(1)で書き
ましたので、今日は、後半の13頁・14行目~15頁・12行目の全文訳と
なります。(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による)


行幸には、親王たちなどをはじめ、残る人無くお供なさいました。東宮も
お出でになります。例によって、龍頭鷁首の船が池を漕ぎ回って、唐楽・
高麗楽と数を尽くした舞の種類が多うございました。管楽器、打楽器の
音が辺り一帯に響き渡ります。

先日の試楽の折の源氏の君の夕陽に映えたお姿を帝が空恐ろしくお思い
になって、御誦経などを方々のお寺におさせになるのを、聞く人も尤もな
ことだとお心の内をお察し申し上げますが、弘徽殿の女御だけは、大仰な
なさりようだ、とお憎みになっておられました。

垣代などには殿上人や地下の者も、格別優れていると世間でも認められて
いる達人ばかりをお揃えになりました。宰相の二人の左衛門の督と右衛門
の督が、それぞれ左右の楽の総監督を務めました。選ばれた者たちは、
舞の師など、世間に優れた者たちをそれぞれ迎えて、各自家に引き籠って
練習に励んだのでした。

小高い紅葉の蔭に、四十人の垣代の、言いようもなく見事に吹く楽の音に
響きあった松風が、本当の深山おろしのように聞こえて吹き乱れ、色とりどり
に散り交う木の葉の中から、源氏の君の青海波の輝かしく舞い出でた様子は、
何とも空恐ろしい程のお美しさでした。

挿頭の紅葉がたいそう散り落ちて、源氏の君のお顔の照り映える美しさに
圧倒された感じなので、御前に咲いている菊を折って左大将が差し替え
なさいました。

日が暮れかかる頃に、ほんの少しだけ時雨れて、空の様子までが訳知り顔
に感涙を催しているかのようでありますのに、源氏の君がそうした素晴らしい
お姿に、菊の花が様々に色変わりしてこの上なく美しいのを冠に挿して、
今日は二つとない秘術を尽くした入綾を舞われたご様子は、ぞくっとするほど
で、この世のこととも思えませんでした。何も分かるはずのない下人たちで、
木の下や岩陰や築山の木の葉に隠れて見物している連中までも、少し物の
情趣を理解する者は、涙を流しておりました。

承香殿の女御がお生みになった第四皇子は、まだ元服前の童姿で秋風楽を
舞われましたが、これが青海波に次いでの見ものでございました。この二つの
舞に興は尽きてしまったので、他の舞には目も移らず、却って興醒ましであり
ましたでしょうか。

その夜、源氏の君は正三位になられました。頭中将は従四位の上から正四位
の下に昇進なさいました。上達部は、皆しかるべき人が昇進の喜びに浴された
のも、源氏の君のご昇進に連れて恩恵を蒙ったのでありますから、舞で人の目
を驚かせ、昇進で心も喜ばせなさるなんて、前世でどんな徳を積まれたのか、
知りとうございました。


「死者の美」ー紫の上の場合ー

2018年12月24日(月) 溝の口「湖月会」(第126回)

今日は「クリスマスイブ」。休日になったせいか、ケーキ屋さんと、
チキン売り場には長蛇の列。フランスパンも売り切れ。もう歩く
だけで疲れるので、早々に帰って来ました。結局溝の口の丸井で
買ったのは薄口醤油の1本だけでした。

「湖月会」も、第2金曜日のクラスと同じ第40帖「御法」の紫の上の
亡くなる場面を中心に読みました。亡くなる直前に三人(紫の上と
源氏と明石中宮)で歌を詠み交わし(「国宝源氏物語絵巻・御法」に
描かれている場面)、明石中宮に手を取られ、やがて臨終を迎える
紫の上ですが、ここは2015年9月12日に「悲しみのクライマックス
ー紫の上の死ー」
と題して既に取り上げていますので、今回は、
12月19日の記事に関連したところで、夕霧の目に映った紫の上の
「死者の美」について書いておきたいと思います。

宇治の大君は、亡くなっても髪を梳ると、生前と同じ芳香が漂い、
どこまでも慕わしく、かぐわしい、と嗅覚的な美の表現がなされて
いるのに対し、紫の上の「死者の美」は、視覚的に語られていると
19日に書きましてが、同じ髪の美しさを記したところは次のように
なっています。

「御髪のただうちやられたまへるほど、こちたくけうらにて、露ばかり
乱れたるけしきもなう、つやつやとうつくしげなるさまぞ限りなき。」
(御髪が無造作に枕元にうちやられておありなのが、たっぷりと
あって美しく、ほんの一筋も乱れている様子もなく、つやつやとして
美しいご様子がこの上ない。)

死してなお、一点の非の打ち所もない紫の上の美しさに、夕霧は、
いっそ自分の魂が紫の上のご遺骸に留まって欲しい、と願うほど
でした。

新年最初の例会では「御法」の巻を読み終え、第二部の最後の巻
「幻」に入る予定です。いよいよ光源氏の物語も大詰めに近づいて
おります。


友達以上恋人未満で

2018年12月21日(金) 溝の口「枕草子」(第27回)

本年最後の溝の口の「枕草子」は、第124段から第129段までを
読みましたが、ここはご紹介したいお話が満載のところ。

晩秋の雨上がりの情景を描いて秀逸な第124段も、「百人一首」
にも採られている「夜をこめて鶏のそら音に(百人一首では「は」
になっている)はかるとも世に逢坂の関はゆるさじ」の歌の成立
事情を伝えている第129段も捨てがたいのですが、この両段の
ことは、これまでに「百人一首」の中でも触れて来ているので、
そちらを参照していただくことにして、

第124段→2018年9月13日「今月の光琳かるた」37番 文屋朝康
第129段→2016年2月10日「今日の一首(18)」

今回は他のカテゴリでは書く機会もないと思われる第128段を
取り上げておきましょう。

長徳元年(995年)の4月10日に中宮定子の父・関白道隆は亡くなり、
その後一年、毎月忌日法要が営まれましたが、九月十日の法要の際、
斉信(ただのぶ)が漢詩の一句「月秋と期して身いづくか」(月は秋と
なって美しく輝くがその月を愛でた人はどこへ行ってしまったのか)と、
まことに時を得た道隆を惜しむ思いを朗詠なさったので、清少納言の
感激も一入。早速中宮さまにご報告、と並み居る人をかき分けて奥へ
行こうとすると、中宮さまも同じ気持ちで奥から出ていらしたのでした。

このように、清少納言が斉信を褒め称えることを憚らずにいたところ、
当の斉信から「どうしてあなたは私と親密な関係にはなってくださらない
のですか。私のことを憎からず思っておられることは承知しているし、
こんなに長く付き合っていて未だに他人はないでしょう?蔵人頭の役職
を離れたら、そうそう顔を合わせることもなくなって、このままでは何を
思い出にすればいいの?」と言われて、清少納言はこう答えました。

「あなたと深い仲になるのは簡単なことだけど、そうなったら私は手放しで
あなたを褒めちぎれなくなってしまいますわ。自分の男を自慢するような
みっともないことはしたくないし、やっぱりあなたとは友達以上恋人未満が
ベストな間柄だと思うの」

「『頼もしげなのことや』とのたまふも、いとをかし」(斉信さまが「つまんない
なぁ」とおっしゃったのも、とってもいい感じでした)と、この話を結んでいます。

これもまあ作者の「われぼめ」(自慢話)の一種で、頭が切れてダンディな
斉信さまと私ってこんな関係でしたのよ、と吹聴しているようなものです。

藤原斉信は「一条朝の四納言」と呼ばれた一人で、「紫式部日記」にも
しばしば登場しています。斉信に対して決して馴れ馴れしい態度など
とることが出来なかった紫式部には、こうした清少納言が苦々しくもあり、
また羨ましかったのかもしれません。


宇治の大君死す

2018年12月19日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第208回)

先週の溝の口の「源氏物語を読む会」では、紫の上が亡くなる場面を
読みましたが、今週の湘南台の「源氏物語を読む会」では、「宇治十帖」
の最初のヒロイン・大君が亡くなる場面を読みました。

先月のこのクラスの講読会の記事にも書きましたが、作者が今にも
亡くなろうとしている人の美しさ「滅びゆく者の美」と、命絶えたのちの
美しさ「死者の美」に力を注いでいるのが、この二人(紫の上と大君)
なのです。

紫の上の場合は、「滅びゆく者の美」は明石中宮の目を通して、また
「死者の美」は夕霧の目を通して語られますが、大君の場合はどちらも
薫の目を通して語られます。

葵の上も、紫の上も、死期に臨んで「らうたげなり」(可愛らし気である)と
いう表現が用いられていましたが、大君も痩せ細って弱々しそうなのに、
肌の色つやは変らず、「白ううつくしげに」(色白でかわいらしく)、まるで、
白いお召し物の中に身もない人形を寝かせているような感じだと、薫の目
には映るのでした。

大君は長い間病の床に臥し身づくろいもしていないはずなのに、オシャレ
に憂き身をやつしている人よりも、気品があり、美しく見えました。

亡くなられても、可愛らし気に横たわっておられ、髪を梳ると、生前と同じ
芳香が漂い、どこまでも慕わしく、かぐわしいにつけても、薫は「もし仏が
私にこの世への執着を断つために、大君との死別をお与えになったのなら、
この亡骸に悲しみも吹き飛んでしまいそうな醜さを見つけさせてください」
と願うほどでした。

紫の上の「死者の美」が視覚的であるのに対し、大君のそれは嗅覚的に
語られています。生来の芳香を身に付けている薫と、対抗して人工的な
良い香りを薫きしめることに余念のない匂宮。「嗅覚美」がポイントとなって
いる「宇治十帖」のヒロインらしい「死者の美」の表現かとも思えます。


二度目の「GRILL UKAI MARUNOUCHI」

2018年12月17日(月)

3月、7月、12月と、年に三度ある昔の職場の講師仲間の集い。
7月は病院の受診日と重なってしまい欠席したので、9ヶ月ぶり
に皆さまとお目にかかりました。

場所は3月の時と同じ「GRILL UKAI MARUNOUCHI」。
とても落ち着いた個室で、お料理も美味しく、次回もここで、と
いうことになりました。

スープも、オードブルも、メインディッシュの「ビーフシチュー」も
みんなUPしたい写真なのですが、私としては、やはりこの1枚が
外せないかな、というところでして・・・。

  DSCF3757.jpg
  5種類のデザートは好きなだけチョイスできるのですが、
  「全種類になさいますか」と訊かれて、お一人が「はい」
  と答えてくださったので、そこで全員右へ倣え。別腹とは
  よく言ったものです。

  DSCF3758.jpg
  10人前後の会食(特に女子会)にはとても良い場所だと
  思います。

帰路、「KITTE」ビルに設置された「ホワイトツリー」を見ました。

      DSCF3763.jpg
  本物のモミの木を使った屋内のクリスマスツリーとしては
  日本最大級を誇る14.5mの巨大なツリーです。様々な色
  の照明が当てられて、次々に色は変化して行くのですが、
  「やっぱりホワイトが一番ね」で全員一致。

まだ明るい時間に解散したのですが、延々と電車に乗って自宅の
最寄り駅に着いた時にはすっかり日が暮れていました。おかげで、
本日が貸し出し期限だった図書館の本を読み終え返却出来ました。


今月の光琳かるた

2018年12月16日(日)

11月は超過密スケジュールをこなすのが精一杯で、光琳かるたの
入れ替えは出来ずに終わってしまいました。ですから12月は早めに、
と思っていたのに、あーあ、もう半ば過ぎ・・・😢

今月はやはり冬の歌になりますよね。

「朝ぼらけ宇治の川霧たえだえにあらはれわたる瀬々の網代木」
                     六十四番・権中納言定頼
   DSCF3747.jpg
  (明け方の宇治川では立ち込めていた霧が所々途切れて、
  その間から瀬々に掛けられた網代木が現れて来たことよ)

この歌を目にした途端、「源氏物語」の「宇治十帖」の世界が広がって
見えるのは私だけではないでしょう。おそらく「百人一首」の撰者である
定家もそれゆえにこの一首を採択したのだと思われます。

作者の藤原定頼は、7月12日の「今月の光琳かるた」で紹介した55番の
歌の作者・藤原公任の長男で、世が世なら「摂関家」の嫡男にもなれた
血筋ですが、55番の歌の折に述べたように、公任の父・頼忠の娘の遵子
は円融天皇の中宮に冊立されながらも皇子を生さず、兼家の娘・詮子は
のちの一条天皇を産んだので、ここで両家は明暗を分けたのでした。

父・公任の代で既に大臣にもなれず大納言止まりでしたが、定頼はさらに
低い中納言に終わりました。

しかし定頼もまた、父親譲りの歌才に恵まれ、加えて名うてのプレイボーイ
として多くの女性との浮名も流しました。「百人一首」の女流歌人だけでも、
58番・大弐三位、60番・小式部内侍、65番・相模とは恋仲だったと知られて
います。

特に60番・小式部内侍の歌の成立の背景には定頼が深く関わっているので、
来月はその60番の歌を取り上げることにいたしましょう。


紫の上の遺言

2018年12月14日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第126回)

今週は寒い一週間となり、今日も風の冷たい一日でした。

今月の溝の口の2クラス(第2金曜日と第4月曜日)が読むのは
紫の上が亡くなるという、悲しみのクライマックスシーンです。

四年前の春に病で倒れて以来、紫の上は健康を取り戻すことは
ありませんでした。身に沁む秋風が吹く頃、養母である紫の上の
病状を案じて二条院に滞在なさっていた明石中宮に手を取られ、
源氏に見守られつつ、露が消えて行くように、43年の生涯を終え
たのでした。

それに先立ち、紫の上は自分の手許で育てていた三の宮(父・帝、
母・明石中宮)に、そっと遺言をなさいます。

「私がいなくなったら思い出してくださるかしら?」と言う紫の上に、
三の宮(この宮がのちの匂宮)は「恋しくてたまらないよ。僕はお父様
よりもお母様よりもおばあさまが一番好きなんだから、おばあさまが
いらっしゃらなくなったりしたら嫌だ!」と、目をこすって涙をごまかし
ながらおっしゃるので、紫の上も思わず微笑みながら涙を落として
おられました。

「大人になったらこの二条院に住んでちょうだい。お庭の紅梅と桜の
花を楽しんで、仏さまにもお供えくださいな」との紫の上の言葉に、
さすがに5歳の子供もこれが遺言なのだと感じるところがあったので
しょう。頷いたあと、泣き顔を見られたくなくて、向こうへ行ってしまわ
れました。

紫の上が10歳の時に連れて来られた二条院。27歳で六条院へ移る迄
ここで過ごし、39歳で病を得てから再び二条院へ戻って来ました。

第三部に入ると、紫の上の遺言通り、二条院は匂宮の私邸となっており、
紫の上の逝去より21年後、匂宮と結ばれた宇治の中の君が二条院に
迎え取られ、紫の上と同じ西の対で暮らすことになります。

共に夫以外に頼れる身内がいないという似た境遇の紫の上と中の君を
二条院に住まう夫人として据えたのは、単なる偶然ではなく、中の君が
最終的には匂宮の最愛の妻となる資格を、作者が与えようとしたのでは
ないかと思うのです。


「朱雀院への行幸」とは

2018年12月10日(月) 溝の口「紫の会・月曜クラス」(第33回・№2)

この冬初めての平年を下回る寒さがやって来ました。明日は
もっと寒くなって、最高気温が10度にも届かないとの予報です。
いよいよダウンコートの出番となりそうです。

今月から第7帖「紅葉賀」に入りました。次の「花宴」の巻と並んで
青年源氏の最も華やかなりし時が語られてまいります。

朱雀院への行幸のことは、第5帖「若紫」でも第6帖「末摘花」でも
如何に人々が熱心に取り組んでいる晴儀であるかが読者にも
知らされておりましたが、「紅葉賀」の巻は、その行幸を控えて、
試楽(リハーサル)が行われるところから始まります。

当時、宮中の外での公的行事には、女御、更衣といった後宮の
妃たちは参加が許されておりませんでした。桐壺帝は、藤壺に
この度の舞楽をぜひとも見せてやりたい、とお思いだったので、
本番に先立ち、宮中の清涼殿の前庭で試楽が行われることに
なったのです。ここで圧倒的だった源氏の「青海波」については、
27日のほうで取り上げることにして、今日はそもそも「朱雀院への
行幸」とは何のために行われたのか、ということを考えておきたい
と思います。

朱雀院は三条の南、朱雀大路の西に面した上皇御所で、ここに
お住まいの一院(桐壺帝の父)のもとに桐壺帝が行幸されるわけ
ですが、本文に直接は書かれていないものの、これまでの記述
からしても、大規模な特別の催しであったことは明らかです。

桐壺帝のモデルは醍醐天皇だとされています。醍醐天皇の父は
宇多天皇ですが、実際に宇多天皇は譲位後、朱雀院にお住まい
でした。

延喜16年(916年)3月8日に、宇多天皇の「五十の賀」のための
朱雀院行幸が催されており、作者はおそらくこれを念頭に置いて
「紅葉賀」の場面を書いたと考えられます。

現帝が、父院の長寿の祝いである「五十の賀」を主催しての行幸
とあれば、人々がこの上なく期待した盛儀であったことも十分納得
出来る話です。

試楽の様子につきましては、先に書きました「紅葉賀の全文訳(1)」
をご覧くださいませ。


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