「vent sud」(高座渋谷クラス・新年会)
2020年1月7日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(通算146回 統合96回)
2020年の仕事始めは、高座渋谷での『源氏物語』の講読会となりました。
例会に先立ち、幹事さんたちが探してくださった、高座渋谷駅東口近くに
あるカフェレストラン「vent sud」(ヴァン シュ)で、新年会の楽しいひと時
を過ごしました。

店先に置かれた看板。ドアを開けると、
すぐにアットホームな感じに包まれます。

メインディッシュの「ローストビーフ」。柔らかくて美味しい
ローストビーフもさることながら、半端ではないこの野菜
の量を見て下さい!「地産地消」で、殆ど地場野菜だとか。
身体が喜ぶヘルシーランチです。

食後のお茶をいただきながら、話も大いに弾みますが、
間もなく例会開始の時間。ということで、記念撮影です。
例会の会場は、駅を挟んで反対側。でも、どちらも駅のすぐそばですから、
さほど移動時間はかかりません。定刻を少し過ぎていましたが、昨年度
からの続きで、第36帖「柏木」を読みました。
夕霧が臨終の床にある柏木を見舞った時、柏木は、自分が亡き後、妻の
女二の宮(落葉の宮)を、ことに触れて訪ねてやってほしい、と遺言しました。
律儀な夕霧のこと、必ず約束を果たすに決まっています。
柏木が亡くなったのは、春まだ浅い1月でした。神事が多い2月をやり過ごし、
桜の花咲く3月、夕霧は初めて一条の宮(落葉の宮とその母・御息所の居宅)
を弔問に訪れました。新たな夕霧の物語がここから始まることになりますが、
まだ夕霧自身も、この先自分がどのように変化して行くのかわかっていません。
このクラスは、次回で「柏木」の巻を読み終える予定です。
2020年の仕事始めは、高座渋谷での『源氏物語』の講読会となりました。
例会に先立ち、幹事さんたちが探してくださった、高座渋谷駅東口近くに
あるカフェレストラン「vent sud」(ヴァン シュ)で、新年会の楽しいひと時
を過ごしました。

店先に置かれた看板。ドアを開けると、
すぐにアットホームな感じに包まれます。

メインディッシュの「ローストビーフ」。柔らかくて美味しい
ローストビーフもさることながら、半端ではないこの野菜
の量を見て下さい!「地産地消」で、殆ど地場野菜だとか。
身体が喜ぶヘルシーランチです。

食後のお茶をいただきながら、話も大いに弾みますが、
間もなく例会開始の時間。ということで、記念撮影です。
例会の会場は、駅を挟んで反対側。でも、どちらも駅のすぐそばですから、
さほど移動時間はかかりません。定刻を少し過ぎていましたが、昨年度
からの続きで、第36帖「柏木」を読みました。
夕霧が臨終の床にある柏木を見舞った時、柏木は、自分が亡き後、妻の
女二の宮(落葉の宮)を、ことに触れて訪ねてやってほしい、と遺言しました。
律儀な夕霧のこと、必ず約束を果たすに決まっています。
柏木が亡くなったのは、春まだ浅い1月でした。神事が多い2月をやり過ごし、
桜の花咲く3月、夕霧は初めて一条の宮(落葉の宮とその母・御息所の居宅)
を弔問に訪れました。新たな夕霧の物語がここから始まることになりますが、
まだ夕霧自身も、この先自分がどのように変化して行くのかわかっていません。
このクラスは、次回で「柏木」の巻を読み終える予定です。
今月の光琳かるた
2020年1月3日(金)
お正月気分もないまま、三が日を過ごしましたが、昨日は息子一家が
やって来たので、久しぶりの「百人一首」かるた取りをして遊びました。
この一年は、私も孫たちの「百人一首」から離れてしまっていたので、
新たに覚えた歌もゼロでしたが、「今月の光琳かるた」のご紹介も
さぼりがちで、今回も3ヶ月空いてしまいました。そこで新年のブログは
これからスタートしようと思い、「今月の光琳かるた」を選びました。
孫にも次に覚える歌として、今日同じ歌を渡しました。
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」
五十番 藤原義孝

(あなたのためなら惜しくない命だと思っていましたが、お逢い
出来た今は、あなたとの逢瀬のためにその命までも長く続いて
欲しいと思うことですよ)
『後拾遺和歌集』のこの歌の詞書には「女のもとより帰りてつかはし
ける」とあり、所謂「後朝(きぬぎぬ)の歌」であることがわかります。
作者の藤原義孝は、三蹟の一人「行成」の父、と言ったほうが、理解
され易いでしょうか。
義孝は、双子の兄・挙賢(たかかた)と共に、当代切ってのイケメン
貴公子としてもてはやされる存在でした。ところが疱瘡(もがさ・天然痘
のこと)が流行し、同じ日の朝に挙賢が、夕べに義孝が亡くなってしまい
ました。まだ21歳の若さでした。
義孝は道心深く、『大鏡』には次のようなエピソードが載っています。
ある時珍しく義孝が、宮中の女房の局に立ち寄って雑談に興じた後、
お帰りになったので、「これからどんな女性のところへいらっしゃるの
かしら?」と、皆も興味津々で跡をつけさせたところ、世尊寺にお出で
になり、何度も西に向かって礼拝をなさっていた、との報告を受けた
のでした。
その時の義孝は、月明りに色白の顔、鬢の毛筋までが際立って、実に
素晴らしかった、と語られていますが、浮世絵師・月岡芳年は『月百姿』
の中に、『世尊寺の月』と題してその姿を描いています。

なぜ「今月の光琳かるた」をこの歌にしたかと言いますと、昨秋講読会で、
『源氏物語』の続編・『山路の露』の作者として、世尊寺伊行(義孝の子孫
にあたる)説があることを紹介した帰り道、この『世尊寺の月』(「百人一首」
講座の折にプロジェクターで映してお見せしました)の話になったり、先月
の『枕草子』・第221段に義孝の歌が使われていたり、と、触れる機会が
多かったことによります。
私からすれば、このような何の技巧も用いないストレートな表現で、天下
の美男から、「私が生きていたいのはあなたに逢うため」、なんて歌を
贈られたら、それは女冥利に尽きるというものではないか、と思っている
のですが・・・。
お正月気分もないまま、三が日を過ごしましたが、昨日は息子一家が
やって来たので、久しぶりの「百人一首」かるた取りをして遊びました。
この一年は、私も孫たちの「百人一首」から離れてしまっていたので、
新たに覚えた歌もゼロでしたが、「今月の光琳かるた」のご紹介も
さぼりがちで、今回も3ヶ月空いてしまいました。そこで新年のブログは
これからスタートしようと思い、「今月の光琳かるた」を選びました。
孫にも次に覚える歌として、今日同じ歌を渡しました。
「君がため惜しからざりし命さへ長くもがなと思ひけるかな」
五十番 藤原義孝

(あなたのためなら惜しくない命だと思っていましたが、お逢い
出来た今は、あなたとの逢瀬のためにその命までも長く続いて
欲しいと思うことですよ)
『後拾遺和歌集』のこの歌の詞書には「女のもとより帰りてつかはし
ける」とあり、所謂「後朝(きぬぎぬ)の歌」であることがわかります。
作者の藤原義孝は、三蹟の一人「行成」の父、と言ったほうが、理解
され易いでしょうか。
義孝は、双子の兄・挙賢(たかかた)と共に、当代切ってのイケメン
貴公子としてもてはやされる存在でした。ところが疱瘡(もがさ・天然痘
のこと)が流行し、同じ日の朝に挙賢が、夕べに義孝が亡くなってしまい
ました。まだ21歳の若さでした。
義孝は道心深く、『大鏡』には次のようなエピソードが載っています。
ある時珍しく義孝が、宮中の女房の局に立ち寄って雑談に興じた後、
お帰りになったので、「これからどんな女性のところへいらっしゃるの
かしら?」と、皆も興味津々で跡をつけさせたところ、世尊寺にお出で
になり、何度も西に向かって礼拝をなさっていた、との報告を受けた
のでした。
その時の義孝は、月明りに色白の顔、鬢の毛筋までが際立って、実に
素晴らしかった、と語られていますが、浮世絵師・月岡芳年は『月百姿』
の中に、『世尊寺の月』と題してその姿を描いています。

なぜ「今月の光琳かるた」をこの歌にしたかと言いますと、昨秋講読会で、
『源氏物語』の続編・『山路の露』の作者として、世尊寺伊行(義孝の子孫
にあたる)説があることを紹介した帰り道、この『世尊寺の月』(「百人一首」
講座の折にプロジェクターで映してお見せしました)の話になったり、先月
の『枕草子』・第221段に義孝の歌が使われていたり、と、触れる機会が
多かったことによります。
私からすれば、このような何の技巧も用いないストレートな表現で、天下
の美男から、「私が生きていたいのはあなたに逢うため」、なんて歌を
贈られたら、それは女冥利に尽きるというものではないか、と思っている
のですが・・・。
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