今のテレビドラマを見ているような・・・
2022年8月30日(火) 高座渋谷「源氏物語に親しむ会」(通算161回 統合111回)
昨日、今日と秋を感じさせる凌ぎ易い日が続きましたが、明日からは
また真夏日の復活となるようで、やはり本格的な秋の到来は彼岸迄
待つことになるのでしょうか。
会場での講座をオンライン参加でも可能な形にして2回目、今日は
お二人の方がオンライン参加をなさいました。会場に着いてから、
LANケーブルを忘れたことに気づき、事務所に頼んで貸していただき
ました。「本当は貸し出しできないんですけど、特別にお貸しします」
と言われましたから、もう二度と同じ失敗は許されません。肝に銘じて
おかねばなりませんね。
講読は第39帖「夕霧」の後半です。夕霧は落葉の宮と一夜を共に
過ごしたものの、その後本人の訪れがなく、それを気に病んで重篤と
なっていた母・御息所は、三日目も手紙だけが届いたショックで、
とうとう亡くなってしまわれました。母君を死に追いやった夕霧を、
落葉の宮は到底許せず、夕霧からのお便りには一言の返事もない
まま、一ヶ月近くが経ちました。
しびれを切らして小野へと出掛けた夕霧でしたが、落葉の宮との対面
が叶うはずもなく、空しく京へと帰って行きました。
三条殿に戻って来ても夕霧は、「心はそらにあくがれたまへり」(上の空
で心ここにあらずでいらっしゃる)という状態でした。
これまでは浮気一つせず、周囲からも「幸せな夫婦」と思われ続けて
きただけに、妻の雲居雁も、夜も眠れない程嘆いています。
「夜も明けがた近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに
嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の文をぞ急ぎ書きたまふ」
(夜も明け方近くなって、お互いに話しかけなさることも無く、背中を
向け合って嘆き明かし、朝霧が晴れるのも待たずに、夕霧はいつもの
ように、落葉の宮への手紙を急いでお書きになる)。
このシーン、今のテレビドラマでもありますよね。妻が先に寝室で、
背中を向けて寝ているところへ、夫が入って来て、お互い声を掛ける
こともなく、夫も妻に背を向けて横になる。顔がアップになると、妻も
夫も無言のまま悶々とした表情を見せている。それぞれの思いに
眠れぬ夜を明かし、早朝に、夫はそっとベッドを抜け出して、今なら
スマホで別の女性にメールしている、といった感じでしょうか。
千年前の物語も、今のテレビドラマも変わらないのねぇ、と共感を
覚える場面なのですが、テレビドラマの中で、交差することの無い
夫婦の心のすれ違いを端的に表すことが出来る手法として、取り
入れられているものを、既に千年前の物語で表現しているという
ことに、我々は感嘆すべきではないかと思うのです。
昨日、今日と秋を感じさせる凌ぎ易い日が続きましたが、明日からは
また真夏日の復活となるようで、やはり本格的な秋の到来は彼岸迄
待つことになるのでしょうか。
会場での講座をオンライン参加でも可能な形にして2回目、今日は
お二人の方がオンライン参加をなさいました。会場に着いてから、
LANケーブルを忘れたことに気づき、事務所に頼んで貸していただき
ました。「本当は貸し出しできないんですけど、特別にお貸しします」
と言われましたから、もう二度と同じ失敗は許されません。肝に銘じて
おかねばなりませんね。
講読は第39帖「夕霧」の後半です。夕霧は落葉の宮と一夜を共に
過ごしたものの、その後本人の訪れがなく、それを気に病んで重篤と
なっていた母・御息所は、三日目も手紙だけが届いたショックで、
とうとう亡くなってしまわれました。母君を死に追いやった夕霧を、
落葉の宮は到底許せず、夕霧からのお便りには一言の返事もない
まま、一ヶ月近くが経ちました。
しびれを切らして小野へと出掛けた夕霧でしたが、落葉の宮との対面
が叶うはずもなく、空しく京へと帰って行きました。
三条殿に戻って来ても夕霧は、「心はそらにあくがれたまへり」(上の空
で心ここにあらずでいらっしゃる)という状態でした。
これまでは浮気一つせず、周囲からも「幸せな夫婦」と思われ続けて
きただけに、妻の雲居雁も、夜も眠れない程嘆いています。
「夜も明けがた近く、かたみにうち出でたまふことなくて、背き背きに
嘆き明かして、朝霧の晴れ間も待たず、例の文をぞ急ぎ書きたまふ」
(夜も明け方近くなって、お互いに話しかけなさることも無く、背中を
向け合って嘆き明かし、朝霧が晴れるのも待たずに、夕霧はいつもの
ように、落葉の宮への手紙を急いでお書きになる)。
このシーン、今のテレビドラマでもありますよね。妻が先に寝室で、
背中を向けて寝ているところへ、夫が入って来て、お互い声を掛ける
こともなく、夫も妻に背を向けて横になる。顔がアップになると、妻も
夫も無言のまま悶々とした表情を見せている。それぞれの思いに
眠れぬ夜を明かし、早朝に、夫はそっとベッドを抜け出して、今なら
スマホで別の女性にメールしている、といった感じでしょうか。
千年前の物語も、今のテレビドラマも変わらないのねぇ、と共感を
覚える場面なのですが、テレビドラマの中で、交差することの無い
夫婦の心のすれ違いを端的に表すことが出来る手法として、取り
入れられているものを、既に千年前の物語で表現しているという
ことに、我々は感嘆すべきではないかと思うのです。
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今月の光琳かるた
2022年8月27日(土)
8月も残り少なくなってきました。もう1年の2/3が終わってしまうのかと
思うと、「そんなに早く過ぎ去らないで!」と、叫びたくなるほどです。
このところ、「光琳かるた」の入れ替えも月末近くになることが多く、
今月も今日になってしまいました。
残り8首のうち、100首目(順徳院の歌)はやはり最後に取っておきたい
ので、8月~2月までを、どの歌にするかを割り振ってみました。まだ
厳しい残暑も続いておりますが、もう秋の歌にしないと、11月までに
秋の歌を紹介し終えられないので、ここから4回、残った秋の歌を
取り上げてまいります。まず今月はこの歌です。
「寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」
七十番・良暹法師

(寂しさのあまり、家を出て、辺りをながめていると、
どこも同じような寂しい秋の夕暮れであることよ)
この歌は、『新古今集』の「三夕の歌」、
寂蓮法師「寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」
西行法師「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
で馴染み深い、「秋の夕暮」を結句に持ってきた体言止めの歌ですが、
「秋の夕暮」の用例は、『万葉集』はもとより「三代集」までには見られず、
この歌の採られている『後拾遺集』に初出の歌語なのです。
「春はあけぼの」と同様、『枕草子』で清少納言が「秋は夕暮れ」と、初段
で記した美意識の影響とも考えられます。良暹法師が、「秋の夕暮」を
どこまで寂しい心象風景として捉えていたかはわかりませんが、新古今
時代の歌人たちに及ぼした影響の大きさは計り知れないと言えましょう。
「三夕の歌」と比べてみると、三句切れであるか否か、という違いが最初
に目に入って来ますが、もう少しよく見ると、「三夕の歌」には「真木立つ山」、
「鴫立つ沢」、「浦の苫屋」という、寂寥美を印象付ける具象物が配されて
いるのに対し、良暹法師は、秋の風景そのものに寂しさを描出しているの
がわかります。
作者の良暹法師は、比叡山の僧から祇園社の別当になったということが、
『勅撰作者部類』という南北朝時代に書かれた書物に記されている以外、
伝記資料はありません。私家集も残っていないため、彼の人物像の
手掛かりとなるのは、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に残る32首の歌と、
『袋草紙』などの説話のみ、ということになります。
これらを見ると、良暹法師は修理大夫の橘俊綱との親交が深く、彼の
伏見邸サロンに集う「時の歌詠み」の一人だったことがわかります。晩年、
良暹法師は都を離れ、洛北大原に草庵を結びましたが、移り住んで
間もなく、俊綱に挨拶の一首を贈っています。
「大原やまだすみがまも習はねばわが宿のみぞけぶりたえたる」(大原に
住み始めてまだ間もないので、ここは炭を焼くところですが、私の宿だけは
竈からの煙も上っていません)『詞花和歌集』雑下
この歌は俊綱を取り巻く旧友たちの絶賛を博し、後世の語り草ともなりました。
次世代のトップ歌人、源俊頼(74番)が大原に遊んだ時、「此の所は良暹が
旧坊なり、いかでか下馬せざらんや」と言い、一同も感歎してこれに倣った、
という話が『袋草紙』に載っています。
8月も残り少なくなってきました。もう1年の2/3が終わってしまうのかと
思うと、「そんなに早く過ぎ去らないで!」と、叫びたくなるほどです。
このところ、「光琳かるた」の入れ替えも月末近くになることが多く、
今月も今日になってしまいました。
残り8首のうち、100首目(順徳院の歌)はやはり最後に取っておきたい
ので、8月~2月までを、どの歌にするかを割り振ってみました。まだ
厳しい残暑も続いておりますが、もう秋の歌にしないと、11月までに
秋の歌を紹介し終えられないので、ここから4回、残った秋の歌を
取り上げてまいります。まず今月はこの歌です。
「寂しさに宿を立ち出でてながむればいづくも同じ秋の夕暮れ」
七十番・良暹法師

(寂しさのあまり、家を出て、辺りをながめていると、
どこも同じような寂しい秋の夕暮れであることよ)
この歌は、『新古今集』の「三夕の歌」、
寂蓮法師「寂しさはその色としもなかりけり真木立つ山の秋の夕暮」
西行法師「心なき身にもあはれは知られけり鴫立つ沢の秋の夕暮」
藤原定家「見渡せば花も紅葉もなかりけり浦の苫屋の秋の夕暮」
で馴染み深い、「秋の夕暮」を結句に持ってきた体言止めの歌ですが、
「秋の夕暮」の用例は、『万葉集』はもとより「三代集」までには見られず、
この歌の採られている『後拾遺集』に初出の歌語なのです。
「春はあけぼの」と同様、『枕草子』で清少納言が「秋は夕暮れ」と、初段
で記した美意識の影響とも考えられます。良暹法師が、「秋の夕暮」を
どこまで寂しい心象風景として捉えていたかはわかりませんが、新古今
時代の歌人たちに及ぼした影響の大きさは計り知れないと言えましょう。
「三夕の歌」と比べてみると、三句切れであるか否か、という違いが最初
に目に入って来ますが、もう少しよく見ると、「三夕の歌」には「真木立つ山」、
「鴫立つ沢」、「浦の苫屋」という、寂寥美を印象付ける具象物が配されて
いるのに対し、良暹法師は、秋の風景そのものに寂しさを描出しているの
がわかります。
作者の良暹法師は、比叡山の僧から祇園社の別当になったということが、
『勅撰作者部類』という南北朝時代に書かれた書物に記されている以外、
伝記資料はありません。私家集も残っていないため、彼の人物像の
手掛かりとなるのは、『後拾遺和歌集』以下の勅撰集に残る32首の歌と、
『袋草紙』などの説話のみ、ということになります。
これらを見ると、良暹法師は修理大夫の橘俊綱との親交が深く、彼の
伏見邸サロンに集う「時の歌詠み」の一人だったことがわかります。晩年、
良暹法師は都を離れ、洛北大原に草庵を結びましたが、移り住んで
間もなく、俊綱に挨拶の一首を贈っています。
「大原やまだすみがまも習はねばわが宿のみぞけぶりたえたる」(大原に
住み始めてまだ間もないので、ここは炭を焼くところですが、私の宿だけは
竈からの煙も上っていません)『詞花和歌集』雑下
この歌は俊綱を取り巻く旧友たちの絶賛を博し、後世の語り草ともなりました。
次世代のトップ歌人、源俊頼(74番)が大原に遊んだ時、「此の所は良暹が
旧坊なり、いかでか下馬せざらんや」と言い、一同も感歎してこれに倣った、
という話が『袋草紙』に載っています。
『源氏物語』-平安朝日本語復元による試み-
2022年8月25日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第25回・通算72回・№2)
私が『源氏物語』の平安朝日本語復元読みを試みたテープが発売されて
いると知ったのは、もう30年近く前になるでしょうか。すぐさま書店に注文
して買い求めました(まだAmazonでポチッ、なんてない頃です)。
金田一春彦氏の言語監修で、朗読は新劇女優の関弘子さんがなさって
います(発行所は大修館書店)。
朗読テープには、「桐壺」、「夕顔」、「若紫」、「須磨」の四つの巻の一部が
収録されていて、「須磨」は、ちょうど今月のオンライン「紫の会」で最後に
読んだ場面、「須磨には、いとど心尽くしの秋風に~」の古来景情一致の
名場面としてよく知られている所から始まっているので、そこを皆さまに
聴いていただきました。
ラジカセをパソコンに向けて、音のボリュームを上げると、オンラインで
ご参加の方々にもちゃんと聞こえたようでした。
今、私たちが普通の発音、アクセントで音読するのとは随分違いがあり、
一番よくわかるのは、タ行とハ行の発音の違いかと思います。タ行は、
「チ」と「ツ」が、「ティ」、「トゥ」と聞こえ、ハ行はすべて子音が「h」ではなく
「f」になっているので、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と聞こえます。また母音は
a、i、u、e、o の5つに加えて、「ゐ」「ゑ」「を」を、wi、we、woと発音して
いるので、今よりもかなり複雑です。
アクセントについては、平安末期の漢字辞典『類聚名義抄』の和訓や、
『日本書紀』のような漢文書籍の和訓に施されたアクセント記号などを
はじめ、今にも伝わる仏教の「声明」の類の抑揚の付け方などを分析
の上、この時代のアクセントを再構なさったようです。現在のアクセント
よりも抑揚が激しく、先週の月曜クラスでは、「お能みたいですね」と、
おっしゃった方もありました。
音読のスピードはゆっくりです。当時に比べると、あらゆる物事のスピード
は加速している気がしますね。
2018年の5月末に、溝の口クラスの有志の方々と、「松阪・斎宮」への旅を
楽しみました。その時に訪れた「斎宮歴史博物館」では二つの映像を見る
ことができますが、そのうちの一つ「今よみがえる幻の宮」において、京から
の勅使が斎宮御所を訪れている場面で、この平安朝の復元言葉で会話が
交わされていました。伊勢神宮などにお出かけの際に、ちょっと立ち寄って
みられるのもいいですよ。最寄り駅は、松阪と伊勢市駅の中間にある「斎宮」
というひっそりとした無人駅です。
本日の講読箇所の全文訳は、前半は(⇒こちらから)、後半は(⇒こちらから)
どうぞ。
私が『源氏物語』の平安朝日本語復元読みを試みたテープが発売されて
いると知ったのは、もう30年近く前になるでしょうか。すぐさま書店に注文
して買い求めました(まだAmazonでポチッ、なんてない頃です)。
金田一春彦氏の言語監修で、朗読は新劇女優の関弘子さんがなさって
います(発行所は大修館書店)。
朗読テープには、「桐壺」、「夕顔」、「若紫」、「須磨」の四つの巻の一部が
収録されていて、「須磨」は、ちょうど今月のオンライン「紫の会」で最後に
読んだ場面、「須磨には、いとど心尽くしの秋風に~」の古来景情一致の
名場面としてよく知られている所から始まっているので、そこを皆さまに
聴いていただきました。
ラジカセをパソコンに向けて、音のボリュームを上げると、オンラインで
ご参加の方々にもちゃんと聞こえたようでした。
今、私たちが普通の発音、アクセントで音読するのとは随分違いがあり、
一番よくわかるのは、タ行とハ行の発音の違いかと思います。タ行は、
「チ」と「ツ」が、「ティ」、「トゥ」と聞こえ、ハ行はすべて子音が「h」ではなく
「f」になっているので、「ファ・フィ・フ・フェ・フォ」と聞こえます。また母音は
a、i、u、e、o の5つに加えて、「ゐ」「ゑ」「を」を、wi、we、woと発音して
いるので、今よりもかなり複雑です。
アクセントについては、平安末期の漢字辞典『類聚名義抄』の和訓や、
『日本書紀』のような漢文書籍の和訓に施されたアクセント記号などを
はじめ、今にも伝わる仏教の「声明」の類の抑揚の付け方などを分析
の上、この時代のアクセントを再構なさったようです。現在のアクセント
よりも抑揚が激しく、先週の月曜クラスでは、「お能みたいですね」と、
おっしゃった方もありました。
音読のスピードはゆっくりです。当時に比べると、あらゆる物事のスピード
は加速している気がしますね。
2018年の5月末に、溝の口クラスの有志の方々と、「松阪・斎宮」への旅を
楽しみました。その時に訪れた「斎宮歴史博物館」では二つの映像を見る
ことができますが、そのうちの一つ「今よみがえる幻の宮」において、京から
の勅使が斎宮御所を訪れている場面で、この平安朝の復元言葉で会話が
交わされていました。伊勢神宮などにお出かけの際に、ちょっと立ち寄って
みられるのもいいですよ。最寄り駅は、松阪と伊勢市駅の中間にある「斎宮」
というひっそりとした無人駅です。
本日の講読箇所の全文訳は、前半は(⇒こちらから)、後半は(⇒こちらから)
どうぞ。
第12帖「須磨」の全文訳(14)
2022年8月25日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第25回・通算72回・№1)
一昨日が二十四節気の「処暑」。さすがに猛暑日が鳴りを潜め、風の
中に秋が感じられるようになりました。まだまだ残暑厳しい日もありま
しょうが、季節は確実に移ろい始めていますね。
今月のオンライン「紫の会」は、232頁・1行目~237頁・11行目迄を
読みましたが、その前半部分の全文訳は8/15に書きましたので
(⇒こちらから)、今日は後半部分(235頁・3行目~237頁・11行目)
となります。(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
朧月夜は、世間の物笑いの種となり、たいそう萎れておられましたが、
右大臣がとてもかわいがっておられる姫君なので、熱心に弘徽殿の大后
や朱雀帝にお願いなさったので、尚侍というのは、必ずしも女御や御息所
のようなお立場ではなく、あくまで公的な官職だからとお考え直しになり、
また源氏の君が憎かったからこそ、右大臣や弘徽殿の大后は、朧月夜に
対して厳しい処置もなさったのですが、今は源氏の君も須磨へと退去なさ
ってしまわれたので、朧月夜は停止処分も解かれて、参内なさることに
なったにつけても、やはり心に沁み込んでいる源氏の君のことが恋しくて
たまらないのでした。
朧月夜は七月に参内なさいました。帝の朧月夜に対する寵愛の深さは今も
変わらないので、帝は人のそしりもお気になさらず、以前のようにお傍に
ずっと侍らせなさって、何かにつけて怨んだり、そうかと思うと、しみじみと
愛をお誓いになるのでした。帝はご様子も、ご容貌も、とても優雅でお綺麗
でいらっしゃいますが、源氏の君のことばかりを思い出されることの多い
朧月夜の心の内には恐れ多いことでありました。
管弦の遊びをなさる折に、帝が「あの人(源氏の君をいう)がいないのが
実に寂しくてならないね。どんなにか私以上にそう思っている人が多いこと
であろう。何事につけても、光が失せたように物足りない気がすることだよ」
とおっしゃって、「父院のご遺言に背いてしまったことよ。きっと罰を受ける
ことになろう」と涙ぐまれるので、朧月夜も涙をこらえ切れません。
「この世はこうして生きているにつけてもつまらないものだなぁと思い知るに
つれて、長くこの世に生きていたいとも思いません。でも、もしそうなったら、
あなたはどうお思いだろうか。程近い須磨との別れよりも悲しんでいただけ
まいと思うと、くやしいのです。生きているこの世で恋しい人と暮らさねば
意味がない、という古歌は、全く大したことのない人が詠んだ歌だと思うよ」
と、帝がたいそう優しいご様子で、物事を本当にしみじみと深くお思いに
なっておっしゃるにつけても、朧月夜はほろほろと涙がこぼれ出すので、
「それごらん、誰のために泣いているのかね」と、帝はおっしゃるのでした。
「あなたに今まで御子たちのいないのが物足りないことです。東宮を父院
がおっしゃったように、養子同然に大切に思ってはいるけれど、それは
それでいろいろと妨害も出てくるようなので、心苦しいことで」など、帝の
ご意向を無視して政治を取り仕切られる方がおられるので、まだお若くて
強いこともおっしゃれないため、帝は、源氏の君や東宮を気の毒だとお思い
になることも多いのでした。
須磨ではいよいよ物思いを募らせる秋風が吹き、海からは少し離れている
けれど、行平の中納言が「関吹き越ゆる」と詠んだという風に立つ海岸の
波が、夜毎に本当に真近に聞こえて、この上なく心に沁みるものは、この
ような所の秋でありました。
源氏の君の御前にはとても人が少なくて、皆寝静まっていますが、源氏の君
は一人目を覚まして、枕から頭をもたげて四方の激しい風音をお聞きになると、
波がただこの枕元に打ち寄せて来るような心地がして、涙がこぼれ落ちるとも
思わないのに、枕が浮くほどに落涙しておりました。琴の琴を少しお弾きになり
ましたが、我ながらもの寂しく聞こえるので、弾くのを途中でお止めになって、
「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらむ」(恋しさに
耐えかねて泣く声のように聞こえる浦波の音は、恋しく思う都のほうから
風が吹くからなのであろうか)
と、お歌いになると、人々も目覚めて、素晴らしいと思えるので、我慢できず、
何となく起き出しては、鼻をこっそりと一人また一人とかんでいるのでした。
一昨日が二十四節気の「処暑」。さすがに猛暑日が鳴りを潜め、風の
中に秋が感じられるようになりました。まだまだ残暑厳しい日もありま
しょうが、季節は確実に移ろい始めていますね。
今月のオンライン「紫の会」は、232頁・1行目~237頁・11行目迄を
読みましたが、その前半部分の全文訳は8/15に書きましたので
(⇒こちらから)、今日は後半部分(235頁・3行目~237頁・11行目)
となります。(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
朧月夜は、世間の物笑いの種となり、たいそう萎れておられましたが、
右大臣がとてもかわいがっておられる姫君なので、熱心に弘徽殿の大后
や朱雀帝にお願いなさったので、尚侍というのは、必ずしも女御や御息所
のようなお立場ではなく、あくまで公的な官職だからとお考え直しになり、
また源氏の君が憎かったからこそ、右大臣や弘徽殿の大后は、朧月夜に
対して厳しい処置もなさったのですが、今は源氏の君も須磨へと退去なさ
ってしまわれたので、朧月夜は停止処分も解かれて、参内なさることに
なったにつけても、やはり心に沁み込んでいる源氏の君のことが恋しくて
たまらないのでした。
朧月夜は七月に参内なさいました。帝の朧月夜に対する寵愛の深さは今も
変わらないので、帝は人のそしりもお気になさらず、以前のようにお傍に
ずっと侍らせなさって、何かにつけて怨んだり、そうかと思うと、しみじみと
愛をお誓いになるのでした。帝はご様子も、ご容貌も、とても優雅でお綺麗
でいらっしゃいますが、源氏の君のことばかりを思い出されることの多い
朧月夜の心の内には恐れ多いことでありました。
管弦の遊びをなさる折に、帝が「あの人(源氏の君をいう)がいないのが
実に寂しくてならないね。どんなにか私以上にそう思っている人が多いこと
であろう。何事につけても、光が失せたように物足りない気がすることだよ」
とおっしゃって、「父院のご遺言に背いてしまったことよ。きっと罰を受ける
ことになろう」と涙ぐまれるので、朧月夜も涙をこらえ切れません。
「この世はこうして生きているにつけてもつまらないものだなぁと思い知るに
つれて、長くこの世に生きていたいとも思いません。でも、もしそうなったら、
あなたはどうお思いだろうか。程近い須磨との別れよりも悲しんでいただけ
まいと思うと、くやしいのです。生きているこの世で恋しい人と暮らさねば
意味がない、という古歌は、全く大したことのない人が詠んだ歌だと思うよ」
と、帝がたいそう優しいご様子で、物事を本当にしみじみと深くお思いに
なっておっしゃるにつけても、朧月夜はほろほろと涙がこぼれ出すので、
「それごらん、誰のために泣いているのかね」と、帝はおっしゃるのでした。
「あなたに今まで御子たちのいないのが物足りないことです。東宮を父院
がおっしゃったように、養子同然に大切に思ってはいるけれど、それは
それでいろいろと妨害も出てくるようなので、心苦しいことで」など、帝の
ご意向を無視して政治を取り仕切られる方がおられるので、まだお若くて
強いこともおっしゃれないため、帝は、源氏の君や東宮を気の毒だとお思い
になることも多いのでした。
須磨ではいよいよ物思いを募らせる秋風が吹き、海からは少し離れている
けれど、行平の中納言が「関吹き越ゆる」と詠んだという風に立つ海岸の
波が、夜毎に本当に真近に聞こえて、この上なく心に沁みるものは、この
ような所の秋でありました。
源氏の君の御前にはとても人が少なくて、皆寝静まっていますが、源氏の君
は一人目を覚まして、枕から頭をもたげて四方の激しい風音をお聞きになると、
波がただこの枕元に打ち寄せて来るような心地がして、涙がこぼれ落ちるとも
思わないのに、枕が浮くほどに落涙しておりました。琴の琴を少しお弾きになり
ましたが、我ながらもの寂しく聞こえるので、弾くのを途中でお止めになって、
「恋ひわびて泣く音にまがふ浦波は思ふかたより風や吹くらむ」(恋しさに
耐えかねて泣く声のように聞こえる浦波の音は、恋しく思う都のほうから
風が吹くからなのであろうか)
と、お歌いになると、人々も目覚めて、素晴らしいと思えるので、我慢できず、
何となく起き出しては、鼻をこっそりと一人また一人とかんでいるのでした。
いつまで経っても頼りない母
2022年8月22日(月) 溝の口「湖月会」(第160回)
コロナ禍で、一番長い休講が続いた溝の口の「湖月会」が、ようやく
2年半ぶりに会場での講座再開となりました。これで2020年3月以降、
一度も行えていない、という会場ラスは無くなりました。このまま継続
してやっていけますように、と祈っております。
CD講読でオンラインクラスとの差が無くなりましたので、読んだ所は
8月3日のオンラインクラス(⇒こちらから)、8月12日の第2金曜クラス
(⇒こちらから)と同じです。今日は先の2クラスの記事では触れて
いない、講読箇所の最後の場面に書かれている女三宮の現状を
ご紹介しておきましょう。
薫は大君亡き後、ずっと精進を続けていて、いっそう仏道に励む日々
を送っています。母の女三宮もすでに47歳位になっており、当時では
初老の域に達しています。でも未だにしっかりとしたところのない、頼り
なさを感じさせる人だと書かれています。そんな女三宮が、このような
薫の様子を見て、出家してしまうのではないか、と不安を覚え、薫に
「自分が生きている間は出家しないで欲しい。尼姿の身の自分がその
ようなことを言える立場ではないが、あなたが出家してしまわれたら、
私はもう生きている甲斐も無い気がするでしょう」とおっしゃるので、
薫は「かたじけなくいとほしくて」(恐れ多くおいたわしいので)、「御前
にてはもの思ひなきさまをつくりたまふ」(母宮のお前では、何の物思い
もないように取り繕っておられる)のでした。
以前、第45帖「橋姫」でも、弁の尼から出生の秘密を聞かされ、柏木が
女三宮に残した遺書もあるので、薫は母の所を訪れますが、女三宮は
お経を読んでいる姿を息子に見られて恥ずかしがり、慌ててお経を
隠そうとします。そんな子どもっぽい母親のしぐさに、薫は「自分が出生
の秘密を知ったことを、決して母に悟られてはならない」と、決意して
いましたね。
8月12日に取り上げた『無名草子』の中でも、「何とも頼りない女三宮が
母親というのが不思議です。紫の上腹というのなら納得できます」と、
しっかり者の薫の母親として、こんなぼんやりした女三宮はあり得ない、
というふうに書かれていました。
ただ、いくらぼんやりの女三宮でも、望まない柏木との密通、その結果の
懐妊、しかもそれを源氏に知られてしまった時の苦悩は並大抵のことでは
なかったはずです。それがこうして晩年になって、孝行者の息子に頼り
切っていられるのですから、人生、最後までわからないものだと思います。
コロナ禍で、一番長い休講が続いた溝の口の「湖月会」が、ようやく
2年半ぶりに会場での講座再開となりました。これで2020年3月以降、
一度も行えていない、という会場ラスは無くなりました。このまま継続
してやっていけますように、と祈っております。
CD講読でオンラインクラスとの差が無くなりましたので、読んだ所は
8月3日のオンラインクラス(⇒こちらから)、8月12日の第2金曜クラス
(⇒こちらから)と同じです。今日は先の2クラスの記事では触れて
いない、講読箇所の最後の場面に書かれている女三宮の現状を
ご紹介しておきましょう。
薫は大君亡き後、ずっと精進を続けていて、いっそう仏道に励む日々
を送っています。母の女三宮もすでに47歳位になっており、当時では
初老の域に達しています。でも未だにしっかりとしたところのない、頼り
なさを感じさせる人だと書かれています。そんな女三宮が、このような
薫の様子を見て、出家してしまうのではないか、と不安を覚え、薫に
「自分が生きている間は出家しないで欲しい。尼姿の身の自分がその
ようなことを言える立場ではないが、あなたが出家してしまわれたら、
私はもう生きている甲斐も無い気がするでしょう」とおっしゃるので、
薫は「かたじけなくいとほしくて」(恐れ多くおいたわしいので)、「御前
にてはもの思ひなきさまをつくりたまふ」(母宮のお前では、何の物思い
もないように取り繕っておられる)のでした。
以前、第45帖「橋姫」でも、弁の尼から出生の秘密を聞かされ、柏木が
女三宮に残した遺書もあるので、薫は母の所を訪れますが、女三宮は
お経を読んでいる姿を息子に見られて恥ずかしがり、慌ててお経を
隠そうとします。そんな子どもっぽい母親のしぐさに、薫は「自分が出生
の秘密を知ったことを、決して母に悟られてはならない」と、決意して
いましたね。
8月12日に取り上げた『無名草子』の中でも、「何とも頼りない女三宮が
母親というのが不思議です。紫の上腹というのなら納得できます」と、
しっかり者の薫の母親として、こんなぼんやりした女三宮はあり得ない、
というふうに書かれていました。
ただ、いくらぼんやりの女三宮でも、望まない柏木との密通、その結果の
懐妊、しかもそれを源氏に知られてしまった時の苦悩は並大抵のことでは
なかったはずです。それがこうして晩年になって、孝行者の息子に頼り
切っていられるのですから、人生、最後までわからないものだと思います。
訪問先のブログから戴いた情報で(その2)
2022年8月20日(土)
訪問させていただいているブログには、「作って食べてみたいなぁ」と
思うお料理があれこれと掲載されていて、今夜のメニューはお味噌汁
を除き、全てその真似っこ料理となりました。2週間前(8/6)に続いて、
「訪問先のブログから戴いた情報で」の(その2)です。(8/6の記事は
⇒こちらから)
先ずはメインディッシュとして作った「牛スネ肉のバルサミコ酢煮」です。
これは私向きだと思い、すぐにレシピをメモしておき、スーパーで和牛の
スネ肉が20%OFFになっていた時に購入。お肉は暫く冷凍庫で眠って
いましたが、ようやく出番となりました。ブロ友さんはスペアリブで作って
おられた料理です。

玉ねぎが殆どどこにあるのかわからない状態に。
次回はもう少し大きめに切ります。バルサミコ酢と
醤油と蜂蜜に、鷹の爪を半本加えてのお味。
牛スネ肉はシチューやポトフには欠かせないのです
が、これでもう一つレパートリーが加わりました。
さほど手間もかからず、お客様にも出せそうです。
続いて副菜を2品。一つは「茄子のチーズ焼き」。このお料理は、私が
拝見したブログがオリジナル版ではなく、オリジナル版の載っている
ブログが紹介されていたので、そちらも訪問いたしました。YouTubeの
動画で詳しい作り方がわかるようになっていましたが、アナログ派の私
は、YouTubeを見ながらひたすら紙にメモ。台所ではそのメモを見ながら
作りました。

茄子が小さかったので、レシピでは2本でしたが、
3本にしました。醤油、砂糖、酒、みりん、味噌。
使う調味料は完全に和風なのですが、チーズが
加わることで、和洋折衷のちょっとオシャレな味
に変身!
もう一品は、また別のブロ友さんの真似っこです。少し前に姉から、
亡くなった叔母が得意だった胡瓜の中華風甘酢漬けのレシピを
教えて、とLINEがあったのですが、レシピは取ってないし、最近は
とんと作ってないしで、「甘酢に胡麻油を入れればいいんじゃない?」
などと、適当な返事をしてしまいました。そうしたら、甘酢に砂糖と、
醤油と、胡麻油を加える、と書かれた胡瓜の即席漬けが紹介されて
いる記事を見て、「そっか、胡麻油だけではなく、砂糖と醤油ね」、と
わかり、早速そのようにしました。

甘酢にしっかりと味が付いているので、砂糖と醤油は
控え目に、それぞれ小さじ1/2弱程度。胡麻油だけは
小さじ1強、加えました。鷹の爪を散らすのを忘れちゃい
ましたけど・・・(-_-;)
訪問させていただいているブログには、「作って食べてみたいなぁ」と
思うお料理があれこれと掲載されていて、今夜のメニューはお味噌汁
を除き、全てその真似っこ料理となりました。2週間前(8/6)に続いて、
「訪問先のブログから戴いた情報で」の(その2)です。(8/6の記事は
⇒こちらから)
先ずはメインディッシュとして作った「牛スネ肉のバルサミコ酢煮」です。
これは私向きだと思い、すぐにレシピをメモしておき、スーパーで和牛の
スネ肉が20%OFFになっていた時に購入。お肉は暫く冷凍庫で眠って
いましたが、ようやく出番となりました。ブロ友さんはスペアリブで作って
おられた料理です。

玉ねぎが殆どどこにあるのかわからない状態に。
次回はもう少し大きめに切ります。バルサミコ酢と
醤油と蜂蜜に、鷹の爪を半本加えてのお味。
牛スネ肉はシチューやポトフには欠かせないのです
が、これでもう一つレパートリーが加わりました。
さほど手間もかからず、お客様にも出せそうです。
続いて副菜を2品。一つは「茄子のチーズ焼き」。このお料理は、私が
拝見したブログがオリジナル版ではなく、オリジナル版の載っている
ブログが紹介されていたので、そちらも訪問いたしました。YouTubeの
動画で詳しい作り方がわかるようになっていましたが、アナログ派の私
は、YouTubeを見ながらひたすら紙にメモ。台所ではそのメモを見ながら
作りました。

茄子が小さかったので、レシピでは2本でしたが、
3本にしました。醤油、砂糖、酒、みりん、味噌。
使う調味料は完全に和風なのですが、チーズが
加わることで、和洋折衷のちょっとオシャレな味
に変身!
もう一品は、また別のブロ友さんの真似っこです。少し前に姉から、
亡くなった叔母が得意だった胡瓜の中華風甘酢漬けのレシピを
教えて、とLINEがあったのですが、レシピは取ってないし、最近は
とんと作ってないしで、「甘酢に胡麻油を入れればいいんじゃない?」
などと、適当な返事をしてしまいました。そうしたら、甘酢に砂糖と、
醤油と、胡麻油を加える、と書かれた胡瓜の即席漬けが紹介されて
いる記事を見て、「そっか、胡麻油だけではなく、砂糖と醤油ね」、と
わかり、早速そのようにしました。

甘酢にしっかりと味が付いているので、砂糖と醤油は
控え目に、それぞれ小さじ1/2弱程度。胡麻油だけは
小さじ1強、加えました。鷹の爪を散らすのを忘れちゃい
ましたけど・・・(-_-;)
表裏のない清少納言の人柄
2022年8月19日(金) 溝の口「枕草子」(第43回)
お盆休みの期間も終わり、猛暑日から解放された今日、先月より
再開した溝の口の「枕草子」の講読会にまいりました。
コロナの感染者はなかなか減少に転じてくれず、全国では一日で
26万人を超える感染者が出ておりますが、しっかりと感染対策を
していれば、休講にはしなくてもよい、というwithコロナの考え方に
このクラスもなってきていて、休会中の方を除けば全員出席で、
『枕草子』の第256段から第259段までを読みました。
本日の講読箇所では「嬉しきもの」が中心になっています。清少納言
にとっての一番の「嬉しきもの」とは、中宮さま(定子)から、誰よりも
目をかけていただいていることが実感できる時だったはずです。
これにつきましては一昨年、オンラインクラスで読んだ際に記事にした
ので(⇒こちらから)、ここでは作者が思いつくままに取り上げている
「嬉しきもの」の中から、その正直というか、表裏のない人柄の窺える
ところをご紹介しておきましょう。
その1・・・「人の破り棄てたる文を継ぎて見るに、同じ続きをあまた行
見続けたる」(人が破り棄てた手紙を見つけてそれを継ぎ合わせて
読むと、ちょうど一続きになっている部分を何行も続けて読めた時)。
これってプライバシーの侵害で問題になりそうな行為です。おそらく
この手紙はラブレターでしょう。覗き見的なことが好きなところもある
清少納言ですが、それを隠そうとせずにこうして書いているのが、
どこか憎めないんですよね。
その2・・・「『われは』など思ひてしたり顔なる人、はかり得たる」(自分
こそは一番だ、と思って得意顔になっている人を、まんまと引掛ける
ことに成功した時)。
その3・・・「憎き者の、悪き目見るも、『罪や得らむ』と思ひながら、
また嬉し」(憎らしいと思っている人が、ひどい目に遭うのも、「罰が
当たりそう」とは思うものの、また嬉しいわ)
その2、その3は、言うなれば「ざまぁみろ」という心理でしょうが、
普通は自分の心の中に納めておいて、このように発言はしないと
思われます。
第252段でも「陰で人の噂をするのは楽しい」って書いていましたし
(それに関しては⇒こちらから)、このあっけらかんとした人柄に、
中宮さまも、清少納言になら心許せる、と感じておられたのでは
ないでしょうか。
お盆休みの期間も終わり、猛暑日から解放された今日、先月より
再開した溝の口の「枕草子」の講読会にまいりました。
コロナの感染者はなかなか減少に転じてくれず、全国では一日で
26万人を超える感染者が出ておりますが、しっかりと感染対策を
していれば、休講にはしなくてもよい、というwithコロナの考え方に
このクラスもなってきていて、休会中の方を除けば全員出席で、
『枕草子』の第256段から第259段までを読みました。
本日の講読箇所では「嬉しきもの」が中心になっています。清少納言
にとっての一番の「嬉しきもの」とは、中宮さま(定子)から、誰よりも
目をかけていただいていることが実感できる時だったはずです。
これにつきましては一昨年、オンラインクラスで読んだ際に記事にした
ので(⇒こちらから)、ここでは作者が思いつくままに取り上げている
「嬉しきもの」の中から、その正直というか、表裏のない人柄の窺える
ところをご紹介しておきましょう。
その1・・・「人の破り棄てたる文を継ぎて見るに、同じ続きをあまた行
見続けたる」(人が破り棄てた手紙を見つけてそれを継ぎ合わせて
読むと、ちょうど一続きになっている部分を何行も続けて読めた時)。
これってプライバシーの侵害で問題になりそうな行為です。おそらく
この手紙はラブレターでしょう。覗き見的なことが好きなところもある
清少納言ですが、それを隠そうとせずにこうして書いているのが、
どこか憎めないんですよね。
その2・・・「『われは』など思ひてしたり顔なる人、はかり得たる」(自分
こそは一番だ、と思って得意顔になっている人を、まんまと引掛ける
ことに成功した時)。
その3・・・「憎き者の、悪き目見るも、『罪や得らむ』と思ひながら、
また嬉し」(憎らしいと思っている人が、ひどい目に遭うのも、「罰が
当たりそう」とは思うものの、また嬉しいわ)
その2、その3は、言うなれば「ざまぁみろ」という心理でしょうが、
普通は自分の心の中に納めておいて、このように発言はしないと
思われます。
第252段でも「陰で人の噂をするのは楽しい」って書いていましたし
(それに関しては⇒こちらから)、このあっけらかんとした人柄に、
中宮さまも、清少納言になら心許せる、と感じておられたのでは
ないでしょうか。
これが本当の愛なのでは?
2022年8月17日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第233回)
先月、コロナの感染急拡大を受けて、初めてオンラインでの例会を
行った湘南台クラスですが、コロナもまだ収束には程遠い状況ですし、
残暑も厳しい折から、今月はもう一度オンラインで、ということに
なりました。
物語は、いよいよ「宇治十帖」の佳境へと入って来ました。
あの二条院で偶然見かけ、言い寄りながらも不首尾に終わった女を
遂に探し出した匂宮は、一夜を共にした女(浮舟)と別れて京へ帰る
気がせず、更にもう一夜を宇治で過ごすことにします。
自分のためにそこまでしてくれる匂宮に、浮舟は思うのです。「いとさま
よう心にくき人を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべし、とおぼし
こがるる人を、心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」(とてもきちんと
して奥ゆかしいお方〈薫〉を見馴れていたけれど、片時も逢っていないと
死んでしまいそうだ、と恋に身を灼かれるお方〈匂宮〉に対して、本当に
深い愛情とは、このようなことを言うのではないだろうか)と。
常に落ち着いた上品な振舞いの薫と、自分の感情を素直に表出して、
無謀と思われる振舞いも厭わない匂宮。その違いが、浮舟に「本当の
愛とは?」と考えさせるのです。
これまで、殆ど語られることのなかった浮舟の心情が、匂宮によって
女として目覚めさせられたこの時点から、細やかに語られていくように
なります。
匂宮に心惹かれながらも、二人が結ばれたことが他の人に知られたら
どう思われようか、と、先ず中の君のことが気になり、匂宮が再三再四、
素性を聞き出そうとなさっても、それには口を閉ざし続ける浮舟でした。
浮舟が薫ではなく、真っ先に中の君を気にしているというのも、薫と浮舟
の距離感の表れのような気がしますね。
先月、コロナの感染急拡大を受けて、初めてオンラインでの例会を
行った湘南台クラスですが、コロナもまだ収束には程遠い状況ですし、
残暑も厳しい折から、今月はもう一度オンラインで、ということに
なりました。
物語は、いよいよ「宇治十帖」の佳境へと入って来ました。
あの二条院で偶然見かけ、言い寄りながらも不首尾に終わった女を
遂に探し出した匂宮は、一夜を共にした女(浮舟)と別れて京へ帰る
気がせず、更にもう一夜を宇治で過ごすことにします。
自分のためにそこまでしてくれる匂宮に、浮舟は思うのです。「いとさま
よう心にくき人を見ならひたるに、時の間も見ざらむに死ぬべし、とおぼし
こがるる人を、心ざし深しとは、かかるを言ふにやあらむ」(とてもきちんと
して奥ゆかしいお方〈薫〉を見馴れていたけれど、片時も逢っていないと
死んでしまいそうだ、と恋に身を灼かれるお方〈匂宮〉に対して、本当に
深い愛情とは、このようなことを言うのではないだろうか)と。
常に落ち着いた上品な振舞いの薫と、自分の感情を素直に表出して、
無謀と思われる振舞いも厭わない匂宮。その違いが、浮舟に「本当の
愛とは?」と考えさせるのです。
これまで、殆ど語られることのなかった浮舟の心情が、匂宮によって
女として目覚めさせられたこの時点から、細やかに語られていくように
なります。
匂宮に心惹かれながらも、二人が結ばれたことが他の人に知られたら
どう思われようか、と、先ず中の君のことが気になり、匂宮が再三再四、
素性を聞き出そうとなさっても、それには口を閉ざし続ける浮舟でした。
浮舟が薫ではなく、真っ先に中の君を気にしているというのも、薫と浮舟
の距離感の表れのような気がしますね。
六条御息所とも文を交わす
2022年8月15日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第25回・通算72回・№2)
源氏が須磨に退居して約2ヶ月。暮らしにも慣れて、季節も五月雨
(今の梅雨)の頃となり、いっそうのもの侘しさに京が恋しく思われ、
源氏は、紫の上をはじめとして、藤壺、朧月夜、花散里などと文を
交わされるのでした。
そして本日の講読箇所の冒頭には、「まことや、騒がしかりしほどの
まぎれに漏らしてけり」(そうそう、そう言えば、須磨にお移り以来の
何かと騒がしいのに取り紛れて、お話するのを忘れておりました)、
とあって、斎宮となった娘と共に伊勢に下った六条御息所にも、
源氏は文を持たせた使者を遣わしたのだ、と語り始められます。
源氏からの手紙の内容は書かれていませんが、御息所からの
「うきめかる伊勢をの海士思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて」
(辛い日々を送っている伊勢の私を思い遣ってくださいませ。涙に
くれておられるという須磨の浦で)という返歌からしても、京の女君
たちへの文同様に、「須磨の浦で涙にくれて過ごしている」と、
源氏は侘しさを訴えたものと思われます。
情趣溢れる御息所からの返書を見て、源氏は後悔します。「ひとふし
憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひうむじて別れ
たまひにし、とおぼせば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえ
たまふ」(一つだけ嫌だと思われた自分の判断の誤りで、あの御息所も
情けなく辛いと思い、私と別れて行かれたのだ、とお思いになると、
今になって、お気の毒で、申し訳ないことをしたと思われるのでした)と。
源氏が「ひとふし憂し」と思ったのは、御息所が生霊となったのを見て
しまったことを言っているのですが、それを自分の「心あやまり」だと
反省しているのです。確かに御息所を生霊となるところまで追い込む
そもそもの要因は、源氏自身の御息所を疎んじる態度にあったからに
違いありませんものね。
そして御息所へのお返事には、「かく世を離るべき身と、思ひたまへ
ましかば同じくはしたひきこえましものを」(このように都を離れねば
ならない身の上だとわかっていましたなら、いっそあなたの後をお慕い
申せばよかったのに)などと書いて、歌にも、「伊勢人の波の上漕ぐ
小舟にもうきめは刈らで乗らましものを(こんな憂き目を見るくらいなら、
伊勢にお供すれば良かった)と詠むのです。
随分と身勝手な甘言だと思いますが、こういう言葉が一番御息所の心
に響くことを、源氏は承知していたのでしょう。プレイボーイの真骨頂
と言えるのかもしれませんね。
この御息所と源氏の手紙の遣り取りの場面、詳しくは「須磨の全文訳
(13)」をご覧下さいませ(⇒こちらから)。
源氏が須磨に退居して約2ヶ月。暮らしにも慣れて、季節も五月雨
(今の梅雨)の頃となり、いっそうのもの侘しさに京が恋しく思われ、
源氏は、紫の上をはじめとして、藤壺、朧月夜、花散里などと文を
交わされるのでした。
そして本日の講読箇所の冒頭には、「まことや、騒がしかりしほどの
まぎれに漏らしてけり」(そうそう、そう言えば、須磨にお移り以来の
何かと騒がしいのに取り紛れて、お話するのを忘れておりました)、
とあって、斎宮となった娘と共に伊勢に下った六条御息所にも、
源氏は文を持たせた使者を遣わしたのだ、と語り始められます。
源氏からの手紙の内容は書かれていませんが、御息所からの
「うきめかる伊勢をの海士思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて」
(辛い日々を送っている伊勢の私を思い遣ってくださいませ。涙に
くれておられるという須磨の浦で)という返歌からしても、京の女君
たちへの文同様に、「須磨の浦で涙にくれて過ごしている」と、
源氏は侘しさを訴えたものと思われます。
情趣溢れる御息所からの返書を見て、源氏は後悔します。「ひとふし
憂しと思ひきこえし心あやまりに、かの御息所も思ひうむじて別れ
たまひにし、とおぼせば、今にいとほしうかたじけなきものに思ひきこえ
たまふ」(一つだけ嫌だと思われた自分の判断の誤りで、あの御息所も
情けなく辛いと思い、私と別れて行かれたのだ、とお思いになると、
今になって、お気の毒で、申し訳ないことをしたと思われるのでした)と。
源氏が「ひとふし憂し」と思ったのは、御息所が生霊となったのを見て
しまったことを言っているのですが、それを自分の「心あやまり」だと
反省しているのです。確かに御息所を生霊となるところまで追い込む
そもそもの要因は、源氏自身の御息所を疎んじる態度にあったからに
違いありませんものね。
そして御息所へのお返事には、「かく世を離るべき身と、思ひたまへ
ましかば同じくはしたひきこえましものを」(このように都を離れねば
ならない身の上だとわかっていましたなら、いっそあなたの後をお慕い
申せばよかったのに)などと書いて、歌にも、「伊勢人の波の上漕ぐ
小舟にもうきめは刈らで乗らましものを(こんな憂き目を見るくらいなら、
伊勢にお供すれば良かった)と詠むのです。
随分と身勝手な甘言だと思いますが、こういう言葉が一番御息所の心
に響くことを、源氏は承知していたのでしょう。プレイボーイの真骨頂
と言えるのかもしれませんね。
この御息所と源氏の手紙の遣り取りの場面、詳しくは「須磨の全文訳
(13)」をご覧下さいませ(⇒こちらから)。
第12帖「須磨」の全文訳(13)
2022年8月15日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第25回・通算72回・№1)
台風8号はたいした被害ももたらさず通り過ぎて行きましたが、厳しい残暑が
戻ってまいりました。明日はこの辺りもまた猛暑日の予報となっています。
今月のオンライン「紫の会」の講読箇所は、232頁・1行目~237頁・11行目迄
ですが、今日の全文訳はその前半部分(232頁1行目~235頁・2行目)となり
ます。後半部分は、第4木曜日(8/25)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
そうそう、そう言えば、須磨にお移り以来の何かと騒がしいのに取り紛れて、
お話するのを忘れておりました。あの伊勢の斎宮にも、源氏の君からの
お便りがありました。伊勢にいらっしゃる六条御息所からも、わざわざ使者が
訪ねてまいりました。ひとかたならぬ深いお気持ちが書かれております。
言葉や筆使いなどは、他の人よりも格別に優美で、教養のほどが窺えました。
「とても現実のこととは思えませぬお住まいのご様子を承るにつけても、
明けない夜の中で悪夢を見続けているようです。とは言っても、さほど長く
須磨にご逗留はなさるまいと、ご拝察いたしますにつけても、仏の道からも
離れている罪深い身の私だけは、再びお目に掛かるのも遠い先のことで
ございましょう。
うきめかる伊勢をの海士を思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて(辛い日々
を送っている伊勢の私を思い遣ってくださいませ。涙にくれておられるという
須磨の浦で)何事につけても思い乱れますこの頃の世情も、やはりどの
ようなことになってしまうのでしょうか」
と、あれこれと書いてありました。
「伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわが身なりけり」(遠い
伊勢に居て、何の甲斐もないのはこの私でございます)
しみじみと悲しくお思いになるまま、筆を置いては書き、置いては書きしながら、
したためなさったお手紙は、白い唐の紙を四、五枚ほど重ねて巻いてあり、墨
の濃淡が見事でありました。しみじみと思い申し上げた方だったのに、一つだけ
嫌だと思われた自分の判断の誤りで、あの御息所も情けなく辛いと思い、私と
別れて行かれたのだ、とお思いになると、今になって、お気の毒で、申し訳ない
ことをしたと思われるのでした。
こういう折のお便りは、しみじみと心に沁みるので、御息所が差し向けられた
お使いの者までが懐かしく感じられて、二、三日留め置かれて、伊勢の話など
をさせてお聞きになります。若々しいたしなみある斎宮の侍所の人でした。
このようなおいたわしいお住まいなので、こうした身分の者も、自然とお側近く
からちらりと拝見することになるので、源氏の君のお姿やお顔をとても素晴らしい
と、その使者は涙をこぼしておりました。源氏の君がお返事にお書きになる言葉
はご想像くださいまし。
「このように都を離れなければならない身の上だとわかっていましたなら、
いっそあなたの後をお慕い申せばよかったのに、などと存じます。所在無く
心細いままに、伊勢人の波の上漕ぐ小舟にもうきめは刈らで乗らましものを
(こんな憂き目を見るくらいなら、伊勢にお供すれば良かった)
海士がつむなげきのなかに塩垂れていつまで須磨の浦にながめむ(私とて
あなたと同じ嘆きを重ねております。いつまで須磨の浦で物思いをし続ける
ことでしょう)お目に掛かれるのがいつともわかりませぬのが限りなく悲しい
心地がすることです」
などと書かれておりました。このようにどなたとも、こまごまとしたお手紙の
遣り取りをなさっておりました。
花散る里のお邸でも、悲しいとお思いになるままに、姉妹それぞれがお書きに
なったお手紙の趣を源氏の君はご覧になると、その風情も珍しい感じがして、
どちらのお手紙もご覧になっては心を慰めていらっしゃいますが、また同時に、
物思いを誘う種でもあるようでした。
「荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな」(荒まさる軒
の忍ぶ草をぼんやりと眺めながら、しきりに流れ落ちる涙に袖を濡らしている
ことでございますよ)
とあるのを、本当に茂った葎より他にお守りする者もおいでにはならないことで
あろう、と推察なさって、長雨で土塀が所々崩れている、などとお聞きになるので、
京の二条院の家司に命じて、京に近い所の荘園の者などを集めて、修理の御用
を勤めるように仰せになりました。
台風8号はたいした被害ももたらさず通り過ぎて行きましたが、厳しい残暑が
戻ってまいりました。明日はこの辺りもまた猛暑日の予報となっています。
今月のオンライン「紫の会」の講読箇所は、232頁・1行目~237頁・11行目迄
ですが、今日の全文訳はその前半部分(232頁1行目~235頁・2行目)となり
ます。後半部分は、第4木曜日(8/25)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
そうそう、そう言えば、須磨にお移り以来の何かと騒がしいのに取り紛れて、
お話するのを忘れておりました。あの伊勢の斎宮にも、源氏の君からの
お便りがありました。伊勢にいらっしゃる六条御息所からも、わざわざ使者が
訪ねてまいりました。ひとかたならぬ深いお気持ちが書かれております。
言葉や筆使いなどは、他の人よりも格別に優美で、教養のほどが窺えました。
「とても現実のこととは思えませぬお住まいのご様子を承るにつけても、
明けない夜の中で悪夢を見続けているようです。とは言っても、さほど長く
須磨にご逗留はなさるまいと、ご拝察いたしますにつけても、仏の道からも
離れている罪深い身の私だけは、再びお目に掛かるのも遠い先のことで
ございましょう。
うきめかる伊勢をの海士を思ひやれ藻塩垂るてふ須磨の浦にて(辛い日々
を送っている伊勢の私を思い遣ってくださいませ。涙にくれておられるという
須磨の浦で)何事につけても思い乱れますこの頃の世情も、やはりどの
ようなことになってしまうのでしょうか」
と、あれこれと書いてありました。
「伊勢島や潮干の潟にあさりてもいふかひなきはわが身なりけり」(遠い
伊勢に居て、何の甲斐もないのはこの私でございます)
しみじみと悲しくお思いになるまま、筆を置いては書き、置いては書きしながら、
したためなさったお手紙は、白い唐の紙を四、五枚ほど重ねて巻いてあり、墨
の濃淡が見事でありました。しみじみと思い申し上げた方だったのに、一つだけ
嫌だと思われた自分の判断の誤りで、あの御息所も情けなく辛いと思い、私と
別れて行かれたのだ、とお思いになると、今になって、お気の毒で、申し訳ない
ことをしたと思われるのでした。
こういう折のお便りは、しみじみと心に沁みるので、御息所が差し向けられた
お使いの者までが懐かしく感じられて、二、三日留め置かれて、伊勢の話など
をさせてお聞きになります。若々しいたしなみある斎宮の侍所の人でした。
このようなおいたわしいお住まいなので、こうした身分の者も、自然とお側近く
からちらりと拝見することになるので、源氏の君のお姿やお顔をとても素晴らしい
と、その使者は涙をこぼしておりました。源氏の君がお返事にお書きになる言葉
はご想像くださいまし。
「このように都を離れなければならない身の上だとわかっていましたなら、
いっそあなたの後をお慕い申せばよかったのに、などと存じます。所在無く
心細いままに、伊勢人の波の上漕ぐ小舟にもうきめは刈らで乗らましものを
(こんな憂き目を見るくらいなら、伊勢にお供すれば良かった)
海士がつむなげきのなかに塩垂れていつまで須磨の浦にながめむ(私とて
あなたと同じ嘆きを重ねております。いつまで須磨の浦で物思いをし続ける
ことでしょう)お目に掛かれるのがいつともわかりませぬのが限りなく悲しい
心地がすることです」
などと書かれておりました。このようにどなたとも、こまごまとしたお手紙の
遣り取りをなさっておりました。
花散る里のお邸でも、悲しいとお思いになるままに、姉妹それぞれがお書きに
なったお手紙の趣を源氏の君はご覧になると、その風情も珍しい感じがして、
どちらのお手紙もご覧になっては心を慰めていらっしゃいますが、また同時に、
物思いを誘う種でもあるようでした。
「荒れまさる軒のしのぶをながめつつしげくも露のかかる袖かな」(荒まさる軒
の忍ぶ草をぼんやりと眺めながら、しきりに流れ落ちる涙に袖を濡らしている
ことでございますよ)
とあるのを、本当に茂った葎より他にお守りする者もおいでにはならないことで
あろう、と推察なさって、長雨で土塀が所々崩れている、などとお聞きになるので、
京の二条院の家司に命じて、京に近い所の荘園の者などを集めて、修理の御用
を勤めるように仰せになりました。
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