今月の光琳かるた
2022年10月30日(日)
10月も明日迄となって、やっと「今月の光琳かるた」の更新です(;^_^A
旅行先の美しい紅葉や、お茶席のお菓子に使われた「竜田姫」という
練りきりなど、訪問先のブログでも、紅葉に関する記事をあれこれと
拝見するようになりました。今朝は埼玉県在住の友人から、赤く綺麗に
色付いた紅葉の写真がLINEで送られてまいりました。
はい、ですから今月は満を持しての(笑)この歌の登場でございます。
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」
六十九番・能因法師

(嵐によって吹き散らされた三室の山の紅葉は、
竜田川に晒す錦となっていることよ)
竜田川は言わずと知れた紅葉の名所で、古来「歌枕」として数々の
和歌に詠み込まれてきましたが、紅葉が錦に見立てられる光景は、
美術工芸の世界でも、多くの名作を生んでまいりました。この夏、
サントリー美術館で開催された「歌枕展」でも、このあたりのことは
紹介されていたと思います(コロナの第7波の中、都心へ出掛ける
勇気が出ず、躊躇している間に終わってしまいました・・・残念)。
作者の能因法師は、「数寄者」として有名です。「数寄」は本来「好き」
と同じなのですが、特殊な当て字として流布しています。「数寄者」
とは、今なら「オタク」と呼ばれる人たちのことです。
平安時代では、「和歌」が「数寄」の対象で、この「能因法師」という人
は、その典型的な人物として知られています。中世室町期になると
連歌が流行し、「数寄者」は連歌愛好家を指すようになりました。
さらに桃山時代には、富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も
連歌から茶の湯へと意味するところの対象が変化してゆきました。
このため江戸時代に入ると、数寄のための家「数寄屋」も、茶室の
別称として定着しました。明治以降、財界人の間で茶の湯が流行
すると、茶人達は多くの名道具の収集に走り、それが現代での
「数寄者」(本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に名茶道具を
所有する人物)の意味になっています。
能因法師の「数寄者」ぶりを示すエピソードが『古今著聞集』に伝え
られています。彼の代表歌にまつわる話です。
「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともに
立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながらこの歌を
いださむこと念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色を
くろく日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでに
よみたり」とぞ披露し侍りける」(能因法師は、極め付けの数寄者で、
「都を春霞とともに出立したけれど、秋風が吹いていたよ白河の関に
着いた時には」と詠んだのを、都に居ながらにして作詠した歌だと
発表するのは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当た
って肌を焼いてから「陸奥で修行したついでに歌を詠みました」と
言って、この歌を披露しました)
もうひとつ、数奇者の二人が「歌枕」に絡んだ宝物を披露し合う
おかしな話が『袋草紙』に見られます。ここに出て来る「長柄の橋」
も「井堤(井手)」も、共に有名な歌枕です。
東宮の護衛長を務める帯刀節信という数奇者が、初めて能因法師
と会って意気投合し、別れ際、能因法師が「今日お越しいただいた
記念にお土産としてこれをお見せしましょう。」と言って、懐中から
錦の小袋を取り出しました。その中には鉋屑が一筋入っていました。
能因は「これは私の宝物です。長柄の橋が造営された時の鉋屑
なのです」と説明しました。節信はとても喜び、自分も懐中から紙に
包んである物を取り出して、干からびた蛙を能因に見せました。
「これは井堤の蛙です」と。お互いに感動して、またそれぞれの
宝物を懐に収めて別れました。
長くなりますが、「今月の光琳かるた」も、あと5回で終わりますし、
ここでついでに、『百人一首』に詠まれている歌枕をご紹介して
おきたいと思います。( )内の数字は歌番号です。
天香具山(2)、田子の浦・富士(4)、三笠山・春日(7)、宇治(8、64)、
逢坂(10、25、62)、筑波山・みなの川(13)、陸奥・信夫(14)、
因幡山(16)、竜田川(17、69)、住の江(18)、難波(19、20、88)、
手向山(24)、小倉山(26)、みかの原・泉川(27)、吉野山(31、94)、
高砂(34、73)、末の松山(42)、由良(46)、伊吹山(51)、
有馬山・猪名野(58)、大江山・生野・天橋立(60)、奈良(61)、
三室山(69)、高師浜(72)、初瀬(74)、淡路・須磨(78)、雄島(90、)
松帆の浦(97)、楢の小川(98)
因みに、能因法師が全国を行脚して廻ったのも、実際に歌枕をその目
で確認したかったからだと言われています。
10月も明日迄となって、やっと「今月の光琳かるた」の更新です(;^_^A
旅行先の美しい紅葉や、お茶席のお菓子に使われた「竜田姫」という
練りきりなど、訪問先のブログでも、紅葉に関する記事をあれこれと
拝見するようになりました。今朝は埼玉県在住の友人から、赤く綺麗に
色付いた紅葉の写真がLINEで送られてまいりました。
はい、ですから今月は満を持しての(笑)この歌の登場でございます。
「嵐吹く三室の山のもみぢ葉は竜田の川の錦なりけり」
六十九番・能因法師

(嵐によって吹き散らされた三室の山の紅葉は、
竜田川に晒す錦となっていることよ)
竜田川は言わずと知れた紅葉の名所で、古来「歌枕」として数々の
和歌に詠み込まれてきましたが、紅葉が錦に見立てられる光景は、
美術工芸の世界でも、多くの名作を生んでまいりました。この夏、
サントリー美術館で開催された「歌枕展」でも、このあたりのことは
紹介されていたと思います(コロナの第7波の中、都心へ出掛ける
勇気が出ず、躊躇している間に終わってしまいました・・・残念)。
作者の能因法師は、「数寄者」として有名です。「数寄」は本来「好き」
と同じなのですが、特殊な当て字として流布しています。「数寄者」
とは、今なら「オタク」と呼ばれる人たちのことです。
平安時代では、「和歌」が「数寄」の対象で、この「能因法師」という人
は、その典型的な人物として知られています。中世室町期になると
連歌が流行し、「数寄者」は連歌愛好家を指すようになりました。
さらに桃山時代には、富裕な町衆の間で茶の湯が流行し、「数寄」も
連歌から茶の湯へと意味するところの対象が変化してゆきました。
このため江戸時代に入ると、数寄のための家「数寄屋」も、茶室の
別称として定着しました。明治以降、財界人の間で茶の湯が流行
すると、茶人達は多くの名道具の収集に走り、それが現代での
「数寄者」(本業とは別に茶の湯に熱心な人物、特に名茶道具を
所有する人物)の意味になっています。
能因法師の「数寄者」ぶりを示すエピソードが『古今著聞集』に伝え
られています。彼の代表歌にまつわる話です。
「能因法師は、いたれるすきものにてありければ、「都をば霞とともに
立ちしかど秋風ぞ吹く白河の関」とよめるを、都にありながらこの歌を
いださむこと念なしと思ひて、人にも知られず久しく籠もり居て、色を
くろく日にあたりなして後、「みちのくにのかたへ修行のついでに
よみたり」とぞ披露し侍りける」(能因法師は、極め付けの数寄者で、
「都を春霞とともに出立したけれど、秋風が吹いていたよ白河の関に
着いた時には」と詠んだのを、都に居ながらにして作詠した歌だと
発表するのは残念であると思って、人知れず家に籠もって日に当た
って肌を焼いてから「陸奥で修行したついでに歌を詠みました」と
言って、この歌を披露しました)
もうひとつ、数奇者の二人が「歌枕」に絡んだ宝物を披露し合う
おかしな話が『袋草紙』に見られます。ここに出て来る「長柄の橋」
も「井堤(井手)」も、共に有名な歌枕です。
東宮の護衛長を務める帯刀節信という数奇者が、初めて能因法師
と会って意気投合し、別れ際、能因法師が「今日お越しいただいた
記念にお土産としてこれをお見せしましょう。」と言って、懐中から
錦の小袋を取り出しました。その中には鉋屑が一筋入っていました。
能因は「これは私の宝物です。長柄の橋が造営された時の鉋屑
なのです」と説明しました。節信はとても喜び、自分も懐中から紙に
包んである物を取り出して、干からびた蛙を能因に見せました。
「これは井堤の蛙です」と。お互いに感動して、またそれぞれの
宝物を懐に収めて別れました。
長くなりますが、「今月の光琳かるた」も、あと5回で終わりますし、
ここでついでに、『百人一首』に詠まれている歌枕をご紹介して
おきたいと思います。( )内の数字は歌番号です。
天香具山(2)、田子の浦・富士(4)、三笠山・春日(7)、宇治(8、64)、
逢坂(10、25、62)、筑波山・みなの川(13)、陸奥・信夫(14)、
因幡山(16)、竜田川(17、69)、住の江(18)、難波(19、20、88)、
手向山(24)、小倉山(26)、みかの原・泉川(27)、吉野山(31、94)、
高砂(34、73)、末の松山(42)、由良(46)、伊吹山(51)、
有馬山・猪名野(58)、大江山・生野・天橋立(60)、奈良(61)、
三室山(69)、高師浜(72)、初瀬(74)、淡路・須磨(78)、雄島(90、)
松帆の浦(97)、楢の小川(98)
因みに、能因法師が全国を行脚して廻ったのも、実際に歌枕をその目
で確認したかったからだと言われています。
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明石の入道の登場
2022年10月27日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第27回・通算74回・№2)
オンライン「紫の会」の第3月曜日が例会(今月は10/17)クラス
の記事を書いた際、最初に美術展やオンデマンド配信の情報の
お知らせをしていたら、それが長くなってしまい、書こうとしていた
弘徽殿の大后のことは別の機会に、ということにしました。今日
ここでそれを書いてもよいのですが、本日は全文訳が講読箇所
の後半部分ですので、やはりそこに書かれている事柄について
取り上げておくことにいたします。弘徽殿の大后については、
会場クラスでの講読時にご紹介します。
第12帖「須磨」も次回で読み終えられそうな所迄きましたが、ここで
明石の入道の登場となります。「若紫」の巻で、源氏の家来の良清
の口から、「前の播磨守で、一人娘を格別大事に育てている入道の
家がたいそう立派です。大臣家の生まれでありながら、自ら受領に
成り下がった変わり者で、娘が自分の期待通りになれなかったら、
海に身を投げよ、と遺言しているそうです」と、語られた人物です。
第5帖「若紫」での源氏は18歳。今は26歳になっています。この間に
8年の歳月が流れ、ここで初めて、明石の入道本人の登場となった
わけです。
源氏が須磨に謫居していることを知って、入道はその大切に育てて
いる娘を源氏に差し出したい、と妻(娘の母親)に語ります。堅実で
常識的、かつ現実的な妻は、あり得ない話として取り合おうとはしま
せん。それでも入道は頑固に自分の意思を通そうとしておりました。
実は、入道には「神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける」(神の
ご霊験を人知れず期待していた」ことがあり、その訳が明らかになる
のはまだまだ先の、第34帖「若菜上」においてです。その時源氏は
41歳。ここから更に15年後の話となります。
こうして見ると、明石一族を巡る物語の構想は、既に「若紫」の巻が
書かれた時点で、出来上がっていたと考えられますが、実に壮大な
構想ですね。
ここで唐突に(とは言っても、読者にも「ああ、あの時良清が話して
いたわね」と、わかるように「若紫」で布石が打ってある)明石の入道
とその娘の話が挿入されたことで、物語の近い将来に、この明石の
入道の娘が源氏との関りを持つようになるのではと、予測が立ちます。
須磨の浦と明石の浦は、約8㎞しか離れていない場所ですし、次の
巻名は「明石」ですから。
今日ここで紹介した明石の話の全文訳は(⇒こちらから)どうぞ。
オンライン「紫の会」の第3月曜日が例会(今月は10/17)クラス
の記事を書いた際、最初に美術展やオンデマンド配信の情報の
お知らせをしていたら、それが長くなってしまい、書こうとしていた
弘徽殿の大后のことは別の機会に、ということにしました。今日
ここでそれを書いてもよいのですが、本日は全文訳が講読箇所
の後半部分ですので、やはりそこに書かれている事柄について
取り上げておくことにいたします。弘徽殿の大后については、
会場クラスでの講読時にご紹介します。
第12帖「須磨」も次回で読み終えられそうな所迄きましたが、ここで
明石の入道の登場となります。「若紫」の巻で、源氏の家来の良清
の口から、「前の播磨守で、一人娘を格別大事に育てている入道の
家がたいそう立派です。大臣家の生まれでありながら、自ら受領に
成り下がった変わり者で、娘が自分の期待通りになれなかったら、
海に身を投げよ、と遺言しているそうです」と、語られた人物です。
第5帖「若紫」での源氏は18歳。今は26歳になっています。この間に
8年の歳月が流れ、ここで初めて、明石の入道本人の登場となった
わけです。
源氏が須磨に謫居していることを知って、入道はその大切に育てて
いる娘を源氏に差し出したい、と妻(娘の母親)に語ります。堅実で
常識的、かつ現実的な妻は、あり得ない話として取り合おうとはしま
せん。それでも入道は頑固に自分の意思を通そうとしておりました。
実は、入道には「神の御しるしをぞ、人知れず頼み思ひける」(神の
ご霊験を人知れず期待していた」ことがあり、その訳が明らかになる
のはまだまだ先の、第34帖「若菜上」においてです。その時源氏は
41歳。ここから更に15年後の話となります。
こうして見ると、明石一族を巡る物語の構想は、既に「若紫」の巻が
書かれた時点で、出来上がっていたと考えられますが、実に壮大な
構想ですね。
ここで唐突に(とは言っても、読者にも「ああ、あの時良清が話して
いたわね」と、わかるように「若紫」で布石が打ってある)明石の入道
とその娘の話が挿入されたことで、物語の近い将来に、この明石の
入道の娘が源氏との関りを持つようになるのではと、予測が立ちます。
須磨の浦と明石の浦は、約8㎞しか離れていない場所ですし、次の
巻名は「明石」ですから。
今日ここで紹介した明石の話の全文訳は(⇒こちらから)どうぞ。
第12帖「須磨」の全文訳(18)
2022年10月27日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第27回・通算74回・№1)
今日も快晴の青空を期待しましたが、ちょっと雲が多く、昨日ほど
スッキリとした秋晴れにはなりませんでした。でも、明日はまた
洗濯日和となるそうです。
10月のオンライン「紫の会」は、242頁・13行目~249頁・14行目迄
を読みましたが、前半部分の全文訳は、10/17に書きましたので
(⇒こちらから)、今日は後半部分(247頁・6行目~249頁・14行目)
となります。(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
明石の浦は、本当に至近距離なので、良清の朝臣は、あの入道の娘の
ことを思い出して、手紙などを遣わしましたが、娘は返事もいたしません。
父の入道が「申し上げたいことがあります。ほんのちょっと対面できると
有難いのですが」と言ってきましたが、こちらの申し出を承知しそうにも
ないのに、なまじ関わって、空しく帰る後姿も滑稽であろう、と、良清は
気が滅入って明石へは行きませんでした。
入道は娘についてとんでもない高望みを抱いているので、播磨の国の中
では、国守の一族だけは立派だと思われているようですが、変わり者の
入道は、受領の一族が偉いなどとは全く考えることなく年月を送って来て
いるので、源氏の君がこうして須磨においでになると聞いて、娘の母君に、
「桐壺の更衣がお生みになった源氏の光君は、朝廷のお咎めをお受けに
なって、須磨の浦に退居なさっているとのことです。娘の前世からの因縁
で、思い掛けないこともあるものなのだ。なんとかしてこうした機会に、
源氏の君に娘を差し上げたいのだが」と言いました。
母君は、「まあ、とんでもないことを。京の人が話しているのを聞くと、源氏
の君は高貴なご夫人方をとても沢山お持ちになっていて、それだけでは
なく、こっそりと帝の妻であるお方とまで過ちを犯しなさって、こんなにも
世間でお騒がれになる方が、どうしてこんなに卑しい田舎者を気にかけて
など下さいましょうか」と言うのでした。
入道は腹を立てて、「あなたはお分かりにはなれますまい。私には格別の
考えがあるのだ。だからそのつもりでおいでなさい。機会を設けてここにも
お出でいただこう」と、その気になって言うのも、偏屈で頑固一徹なことと
思われました。入道は館をまばゆいまでに飾り立てて、娘を大切にお世話
しているのでした。
母君が、「どうして、いくらご立派な方であっても、結婚の門出に、罪に問われ
て流されてお出でになった方を婿に、などと考えましょうか。そうなったところ
で、源氏の君が娘にお心を留めてくださるならともかく、冗談にもそんなことが
あろうはずはございません」、と言うのを、入道はたいそうひどくぶつぶつと
文句を言っておりました。
「罪に問われることは、唐の国でも我が国の朝廷においても、このように優秀
で、何事にも並々ではない抜群の人には、必ずあることなのです。源氏の君を
どういうお方だと心得ているのだ。源氏の君の亡き母上の御息所は、私の叔父
に当たられる按察使の大納言の娘でいらっしゃるのだぞ。たいそう素晴らしい
との評判を取って、夫の遺言を守った北の方が、その娘を宮仕へにお出しに
なったところ、帝の格別のご寵愛が肩を並べる者も無かったがために、他の人
からの嫉妬が激しくてお亡くなりになったのだけれど、忘れ形見の源氏の君が
この世に残っておられるのは、実に素晴らしいことだよ。女は理想を高く持つ
べきものなのだ。父親の私が、このような田舎者だからといって、源氏の君が
娘をお見捨てになることはあるまい」などと言って座っておりました。
この娘は、さしたる美貌の持ち主ではありませんが、親しみを感じさせ、気品が
あり、たしなみのある様子などが、なるほど高貴な姫君にも劣るまいと思われる
のでした。娘は自分の身の上を、しがない田舎者とわきまえていて、高貴な方は
自分を人並みにもお思いにはなるまい、かといって、分相応な縁組など決して
するまい、長生きして頼りに思う親たちに先立たれたならば、尼になってしまおう、
もしくは海の底に沈んでしまおう、などと考えておりました。
父君の入道は、仰々しくあがめかしずいて、年に二度、住吉神社に参詣させて
いました。神のご霊験を、入道は人知れず頼みに思っているのでした。
今日も快晴の青空を期待しましたが、ちょっと雲が多く、昨日ほど
スッキリとした秋晴れにはなりませんでした。でも、明日はまた
洗濯日和となるそうです。
10月のオンライン「紫の会」は、242頁・13行目~249頁・14行目迄
を読みましたが、前半部分の全文訳は、10/17に書きましたので
(⇒こちらから)、今日は後半部分(247頁・6行目~249頁・14行目)
となります。(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
明石の浦は、本当に至近距離なので、良清の朝臣は、あの入道の娘の
ことを思い出して、手紙などを遣わしましたが、娘は返事もいたしません。
父の入道が「申し上げたいことがあります。ほんのちょっと対面できると
有難いのですが」と言ってきましたが、こちらの申し出を承知しそうにも
ないのに、なまじ関わって、空しく帰る後姿も滑稽であろう、と、良清は
気が滅入って明石へは行きませんでした。
入道は娘についてとんでもない高望みを抱いているので、播磨の国の中
では、国守の一族だけは立派だと思われているようですが、変わり者の
入道は、受領の一族が偉いなどとは全く考えることなく年月を送って来て
いるので、源氏の君がこうして須磨においでになると聞いて、娘の母君に、
「桐壺の更衣がお生みになった源氏の光君は、朝廷のお咎めをお受けに
なって、須磨の浦に退居なさっているとのことです。娘の前世からの因縁
で、思い掛けないこともあるものなのだ。なんとかしてこうした機会に、
源氏の君に娘を差し上げたいのだが」と言いました。
母君は、「まあ、とんでもないことを。京の人が話しているのを聞くと、源氏
の君は高貴なご夫人方をとても沢山お持ちになっていて、それだけでは
なく、こっそりと帝の妻であるお方とまで過ちを犯しなさって、こんなにも
世間でお騒がれになる方が、どうしてこんなに卑しい田舎者を気にかけて
など下さいましょうか」と言うのでした。
入道は腹を立てて、「あなたはお分かりにはなれますまい。私には格別の
考えがあるのだ。だからそのつもりでおいでなさい。機会を設けてここにも
お出でいただこう」と、その気になって言うのも、偏屈で頑固一徹なことと
思われました。入道は館をまばゆいまでに飾り立てて、娘を大切にお世話
しているのでした。
母君が、「どうして、いくらご立派な方であっても、結婚の門出に、罪に問われ
て流されてお出でになった方を婿に、などと考えましょうか。そうなったところ
で、源氏の君が娘にお心を留めてくださるならともかく、冗談にもそんなことが
あろうはずはございません」、と言うのを、入道はたいそうひどくぶつぶつと
文句を言っておりました。
「罪に問われることは、唐の国でも我が国の朝廷においても、このように優秀
で、何事にも並々ではない抜群の人には、必ずあることなのです。源氏の君を
どういうお方だと心得ているのだ。源氏の君の亡き母上の御息所は、私の叔父
に当たられる按察使の大納言の娘でいらっしゃるのだぞ。たいそう素晴らしい
との評判を取って、夫の遺言を守った北の方が、その娘を宮仕へにお出しに
なったところ、帝の格別のご寵愛が肩を並べる者も無かったがために、他の人
からの嫉妬が激しくてお亡くなりになったのだけれど、忘れ形見の源氏の君が
この世に残っておられるのは、実に素晴らしいことだよ。女は理想を高く持つ
べきものなのだ。父親の私が、このような田舎者だからといって、源氏の君が
娘をお見捨てになることはあるまい」などと言って座っておりました。
この娘は、さしたる美貌の持ち主ではありませんが、親しみを感じさせ、気品が
あり、たしなみのある様子などが、なるほど高貴な姫君にも劣るまいと思われる
のでした。娘は自分の身の上を、しがない田舎者とわきまえていて、高貴な方は
自分を人並みにもお思いにはなるまい、かといって、分相応な縁組など決して
するまい、長生きして頼りに思う親たちに先立たれたならば、尼になってしまおう、
もしくは海の底に沈んでしまおう、などと考えておりました。
父君の入道は、仰々しくあがめかしずいて、年に二度、住吉神社に参詣させて
いました。神のご霊験を、入道は人知れず頼みに思っているのでした。
草子地が代弁しているもの
2022年10月24日(月) 溝の口「湖月会」(第162回)
昨日はちょっと動くと汗ばむほどの陽気でしたが、今日は一気に
10度程気温が下がり、上着も少し厚めのものにしましたが、外へ
出た途端、思わず「寒い~」。
このクラスは第49帖「宿木」前半の終わりのほうを読んでいます
(10/5、10/14と同じです)。
「草子地」という言葉は、このブログでも度々使っておりますが、
わかり易く言えば、「作者の主観によって書かれている地の文」
ということになりましょうか。ですから、客観的な事柄の説明の
ような地の文は、草子地とは言いません。
本日の講読箇所の最後のほうで、中の君の立場に対する長い
草子地が出てまいります。要約すると、次のようになります。
「夫婦は一夫一婦が当然だと思っているような身分の者なら、
今回の中の君のように、夫が自分よりも後から別の妻を迎えた
となれば、恨みもするだろうし、周りの者も同情するであろうが、
匂宮は将来東宮から帝へ、と世間でも噂されているお方なので、
何人もの妻をお持ちになろうと、誰も中の君をお気の毒だ、など
とは思わない。むしろ、零落した宮家の姫君が、二条院に引き
取られ、この上ないご寵愛を受けている事を、幸運な方だ、と
世間では噂しているようだ。中の君ご自身としても、これ迄余り
にも大事にしてもらっていたのが、急に体裁が悪いことになって
情けないのであろう。」
これに中の君の心内語が続きます。「こうした男女の仲をどうして
大変な事のように人は思うのだろうと、昔物語や他人の話として
見聞きしている時は、不思議な気がしていたが、成る程いい加減
に済まされない事だったのだ」と。そして、「我が身のこととなって、
初めてよくおわかりになったのでした」と結ばれています。
中の君の立場でばかり書き続けると、読者も中の君は気の毒な人、
という印象を強く持つようになります。でも第三者から言わせれば、
中の君は恵まれた人なのです。この長い草子地は、作者がそうした
客観的な立場の人の意見を代弁する形で挿入し、当事者と第三者
の意識の違いを、読者にも伝えようとしたのではないでしょうか。
昨日はちょっと動くと汗ばむほどの陽気でしたが、今日は一気に
10度程気温が下がり、上着も少し厚めのものにしましたが、外へ
出た途端、思わず「寒い~」。
このクラスは第49帖「宿木」前半の終わりのほうを読んでいます
(10/5、10/14と同じです)。
「草子地」という言葉は、このブログでも度々使っておりますが、
わかり易く言えば、「作者の主観によって書かれている地の文」
ということになりましょうか。ですから、客観的な事柄の説明の
ような地の文は、草子地とは言いません。
本日の講読箇所の最後のほうで、中の君の立場に対する長い
草子地が出てまいります。要約すると、次のようになります。
「夫婦は一夫一婦が当然だと思っているような身分の者なら、
今回の中の君のように、夫が自分よりも後から別の妻を迎えた
となれば、恨みもするだろうし、周りの者も同情するであろうが、
匂宮は将来東宮から帝へ、と世間でも噂されているお方なので、
何人もの妻をお持ちになろうと、誰も中の君をお気の毒だ、など
とは思わない。むしろ、零落した宮家の姫君が、二条院に引き
取られ、この上ないご寵愛を受けている事を、幸運な方だ、と
世間では噂しているようだ。中の君ご自身としても、これ迄余り
にも大事にしてもらっていたのが、急に体裁が悪いことになって
情けないのであろう。」
これに中の君の心内語が続きます。「こうした男女の仲をどうして
大変な事のように人は思うのだろうと、昔物語や他人の話として
見聞きしている時は、不思議な気がしていたが、成る程いい加減
に済まされない事だったのだ」と。そして、「我が身のこととなって、
初めてよくおわかりになったのでした」と結ばれています。
中の君の立場でばかり書き続けると、読者も中の君は気の毒な人、
という印象を強く持つようになります。でも第三者から言わせれば、
中の君は恵まれた人なのです。この長い草子地は、作者がそうした
客観的な立場の人の意見を代弁する形で挿入し、当事者と第三者
の意識の違いを、読者にも伝えようとしたのではないでしょうか。
中宮さまとの絆
2022年10月21日(金) 溝の口「枕草子」(第45回)
昨日、今日と、「これぞ秋晴れ」という、心地よいお天気となり
ました。明日迄は続く、とのことですので、夏布団のカバーや
タオルケットなどを洗濯して片付けたいな、と思っています。
『枕草子』最長の第260段に入って2回目。話は一旦、中宮さま
が内裏から二条宮へと退出された夜へと時間が遡った場面に
なります。
中宮さまのお供をする女房たちが、用意された牛車に、我先に
と乗ろうとする姿を見て、新参者の清少納言は気持ちが引けて
しまいます。同じようにこの光景を醒めた目で見ている右衛門と
いう女房と二人、中宮さまの身近に仕えている女房たちの牛車
がすべて出発し終わり、下級女官を運ぶ段になって、ようやく
係の役人に気付かれ、二条宮へと向かったのでした。
中宮さまの乗られた御輿は、とっくに二条宮に到着していました。
二条宮の御座所にお入りになるとすぐ、中宮さまは清少納言を
「ここに呼べ」とお命じになります。若い女房たちが、牛車が到着
する毎に見て探しましたが、居ません。
中宮さまは「あやし。なきか。いかなるぞ」(変ねぇ。いないの?
どうしたのかしら?)と気を揉まれ、やっと到着すると、「どうして
こんなに心配するほど姿を見せなかったの?」とお訊ねになり
ました。
この時の清少納言は出仕してまだ半年も経っていない新参の
女房です。にもかかわらず、中宮さまは早くも、清少納言を古参
の女房以上に、身近に置きたいと思っておられたことがわかる
エピソードです。最初から、息がぴったりと合う主従関係だった
のですね。
清少納言が長く里下がりをした時に、「いはで思うぞ」と山吹の
花びらに書いて寄こされたり(それについては⇒こちらから)、
「白い紙と高麗縁の御座」の話を憶えていてプレゼントして
くださったり(それについては⇒こちらから)と、中宮さまが作者
を常に求めておられたことが、作者にはこの上ない喜びとなり、
それが永遠の敬愛の念となって、『枕草子』として結実したのだ
と思います。
昨日、今日と、「これぞ秋晴れ」という、心地よいお天気となり
ました。明日迄は続く、とのことですので、夏布団のカバーや
タオルケットなどを洗濯して片付けたいな、と思っています。
『枕草子』最長の第260段に入って2回目。話は一旦、中宮さま
が内裏から二条宮へと退出された夜へと時間が遡った場面に
なります。
中宮さまのお供をする女房たちが、用意された牛車に、我先に
と乗ろうとする姿を見て、新参者の清少納言は気持ちが引けて
しまいます。同じようにこの光景を醒めた目で見ている右衛門と
いう女房と二人、中宮さまの身近に仕えている女房たちの牛車
がすべて出発し終わり、下級女官を運ぶ段になって、ようやく
係の役人に気付かれ、二条宮へと向かったのでした。
中宮さまの乗られた御輿は、とっくに二条宮に到着していました。
二条宮の御座所にお入りになるとすぐ、中宮さまは清少納言を
「ここに呼べ」とお命じになります。若い女房たちが、牛車が到着
する毎に見て探しましたが、居ません。
中宮さまは「あやし。なきか。いかなるぞ」(変ねぇ。いないの?
どうしたのかしら?)と気を揉まれ、やっと到着すると、「どうして
こんなに心配するほど姿を見せなかったの?」とお訊ねになり
ました。
この時の清少納言は出仕してまだ半年も経っていない新参の
女房です。にもかかわらず、中宮さまは早くも、清少納言を古参
の女房以上に、身近に置きたいと思っておられたことがわかる
エピソードです。最初から、息がぴったりと合う主従関係だった
のですね。
清少納言が長く里下がりをした時に、「いはで思うぞ」と山吹の
花びらに書いて寄こされたり(それについては⇒こちらから)、
「白い紙と高麗縁の御座」の話を憶えていてプレゼントして
くださったり(それについては⇒こちらから)と、中宮さまが作者
を常に求めておられたことが、作者にはこの上ない喜びとなり、
それが永遠の敬愛の念となって、『枕草子』として結実したのだ
と思います。
宇治十帖のハイライト
2022年10月19日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第235回)
本日、湘南台のクラスで読んだ第51帖「浮舟」のハイライトは、
「浮舟」の巻のみならず、「宇治十帖」全体のハイライトと言える
のではないでしょうか。「源氏絵」としても、この場面は、多くの
絵師たちによって描かれておりますし、宇治川に架かる朝霧橋
のたもとには、モニュメントが建てられています。
2月10日頃に、宮中で「作文〈さくもん・漢詩を作る〉の会」が開催
され、薫も匂宮も参加しました。吹雪となって、管弦の遊びは中止
となり、匂宮の控室に皆が集まっていた時、薫が「衣かたしき今宵
もや」(宇治では浮舟が寂しい独り寝の中で私を待っていること
だろう)と、古歌を引いて口ずさんだのを耳にされた匂宮は、浮舟
が待っているのは自分一人ではないのだ、と気づかされ、居ても
立っても居られなくなり、無理な算段をして宇治へと向かわれた
のでした。
翌朝まだ暗い内に、匂宮は誰の目も気にせず、浮舟と二人だけ
の時を過ごそうと、腹心の家来の時方に用意させた対岸の小家
に浮舟を連れ出されました。匂宮に抱かれて小舟で宇治川を
渡る浮舟。途中、常緑樹の木陰の茂っている橘の小島の辺りで、
歌を詠み交わします。
「年経ともかはらぬものか橘の小島の崎に契る心は」(年が経とう
が変わったりするものですか。変わらぬ緑の橘の小島の崎で約束
する私の心は)
と、匂宮は永遠の愛を誓われます。中の君にもそうでしたが、匂宮
は、その時々、目の前にいる女性のことだけを考える人なので、
これはリップサービスではなく、今の正直な気持ちなのです。
「橘の小島の色はかはらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」(橘の小島
の色と同じようにあなたの愛は変わらなくとも、この浮舟のような私
は、どこへ流れて行くことになるのやら)
この歌の中の「浮舟」が巻名となり、人物呼称ともなっています。
以前にも書いておりますが、浮舟ほど、付けられた呼称がその人
のイメージと合致している例は、他にないと思います。この先、二人
の男性の狭間を、水に漂う小舟のように危うく揺れ動く女君だから
です。
次回はその対岸の小家で、濃密な二日間を送る二人が描かれて
いるところから読みますが、ここまで来ると読者も、千年前の物語
というより、今風の小説を読んでいるような感覚になりますね。

小舟に乗った浮舟と匂宮のモニュメント。
後ろの橋は宇治川に架かる朝霧橋です。
薄暗い写真ですみません🙇
本日、湘南台のクラスで読んだ第51帖「浮舟」のハイライトは、
「浮舟」の巻のみならず、「宇治十帖」全体のハイライトと言える
のではないでしょうか。「源氏絵」としても、この場面は、多くの
絵師たちによって描かれておりますし、宇治川に架かる朝霧橋
のたもとには、モニュメントが建てられています。
2月10日頃に、宮中で「作文〈さくもん・漢詩を作る〉の会」が開催
され、薫も匂宮も参加しました。吹雪となって、管弦の遊びは中止
となり、匂宮の控室に皆が集まっていた時、薫が「衣かたしき今宵
もや」(宇治では浮舟が寂しい独り寝の中で私を待っていること
だろう)と、古歌を引いて口ずさんだのを耳にされた匂宮は、浮舟
が待っているのは自分一人ではないのだ、と気づかされ、居ても
立っても居られなくなり、無理な算段をして宇治へと向かわれた
のでした。
翌朝まだ暗い内に、匂宮は誰の目も気にせず、浮舟と二人だけ
の時を過ごそうと、腹心の家来の時方に用意させた対岸の小家
に浮舟を連れ出されました。匂宮に抱かれて小舟で宇治川を
渡る浮舟。途中、常緑樹の木陰の茂っている橘の小島の辺りで、
歌を詠み交わします。
「年経ともかはらぬものか橘の小島の崎に契る心は」(年が経とう
が変わったりするものですか。変わらぬ緑の橘の小島の崎で約束
する私の心は)
と、匂宮は永遠の愛を誓われます。中の君にもそうでしたが、匂宮
は、その時々、目の前にいる女性のことだけを考える人なので、
これはリップサービスではなく、今の正直な気持ちなのです。
「橘の小島の色はかはらじをこの浮舟ぞゆくへ知られぬ」(橘の小島
の色と同じようにあなたの愛は変わらなくとも、この浮舟のような私
は、どこへ流れて行くことになるのやら)
この歌の中の「浮舟」が巻名となり、人物呼称ともなっています。
以前にも書いておりますが、浮舟ほど、付けられた呼称がその人
のイメージと合致している例は、他にないと思います。この先、二人
の男性の狭間を、水に漂う小舟のように危うく揺れ動く女君だから
です。
次回はその対岸の小家で、濃密な二日間を送る二人が描かれて
いるところから読みますが、ここまで来ると読者も、千年前の物語
というより、今風の小説を読んでいるような感覚になりますね。

小舟に乗った浮舟と匂宮のモニュメント。
後ろの橋は宇治川に架かる朝霧橋です。
薄暗い写真ですみません🙇
『源氏物語』関係の美術展やオンデマンド配信の情報
2022年10月17日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第27回・通算74回・№2)
第12帖「須磨」の残りが約13頁というところから今月は読み始め
ましたから、若干の余談を挟んだとしても、2回あれば十分に
読み終えられる量なので、今日はゆとりを持って臨みましたが、
最初に、美術展情報、更にはオンデマンド配信情報なども飛び
交い、20分ほどここで時間を使ってしまいました。結果、終了も
20分延長した時間になってしまいました🙇
美術展情報としては、
「三井記念美術館」の「大蒔絵展」
「静嘉堂@丸の内」の「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」
オンデマンド配信としては、
ドゥマゴサロン 第21回文学カフェ「時代を超えて愛される源氏物語
の奥深い魅力」
を紹介し合いました。訪問先のブログでも、二つの美術展に関して
は、記事になさっているのを拝見しております。
「大蒔絵展」では、徳川美術館の「国宝源氏物語絵巻」が、前期で
「宿木・第一段」、後期で「柏木・第一段」が展示され、既に行って
来られた方は、「宿木」での絵巻に描かれている場面を読み終えて
おられるので、良いタイミングでご覧になれたようです。
「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」展は、ちょうど来月の
初めに別件で丸の内に出掛けることになりましたので、私も昨日
予約のチケットをネットで購入しました。「静嘉堂文庫美術館」は、
以前は世田谷区岡本に在り、こちらは我が家から比較的行き易い
場所だったので、大好きな俵屋宗達の「源氏物語関屋澪標図屛風」
や「曜変天目」は、何度か目にしておりますが、今回新たな丸の内
の「明治生命館」という場所で、また堪能して来たいと思っている
ところです。
オンデマンド配信も教えていただいて、早速配信の購入手続きを
済ませました。11月1日~11月30日迄、と1ヶ月間配信されるのが
有難いです。リンボウ先生(林望氏)とロバート・キャンベル氏の
対談ですが、お二人共お話上手な方なので、これも楽しみです。
ということで、最初、このブログ記事の表題を、「弘徽殿の大后は
利口な人」と書いていたのですが、前置きのつもりの話がここまで
長くなってしまったので、「『源氏物語』関係の美術展やオンデマンド
配信の情報」と、表題を替えました。今日の講読箇所は、まだ別の
2クラスでこれから読みますので、弘徽殿の大后の話は、どちらかで
ご紹介することにいたします。
本日読みましたところの前半部分の全文訳は、先に書きましたので、
そちらをご覧頂ければ、と思います(⇒こちらから)。
第12帖「須磨」の残りが約13頁というところから今月は読み始め
ましたから、若干の余談を挟んだとしても、2回あれば十分に
読み終えられる量なので、今日はゆとりを持って臨みましたが、
最初に、美術展情報、更にはオンデマンド配信情報なども飛び
交い、20分ほどここで時間を使ってしまいました。結果、終了も
20分延長した時間になってしまいました🙇
美術展情報としては、
「三井記念美術館」の「大蒔絵展」
「静嘉堂@丸の内」の「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」
オンデマンド配信としては、
ドゥマゴサロン 第21回文学カフェ「時代を超えて愛される源氏物語
の奥深い魅力」
を紹介し合いました。訪問先のブログでも、二つの美術展に関して
は、記事になさっているのを拝見しております。
「大蒔絵展」では、徳川美術館の「国宝源氏物語絵巻」が、前期で
「宿木・第一段」、後期で「柏木・第一段」が展示され、既に行って
来られた方は、「宿木」での絵巻に描かれている場面を読み終えて
おられるので、良いタイミングでご覧になれたようです。
「響きあう名宝―曜変・琳派のかがやき―」展は、ちょうど来月の
初めに別件で丸の内に出掛けることになりましたので、私も昨日
予約のチケットをネットで購入しました。「静嘉堂文庫美術館」は、
以前は世田谷区岡本に在り、こちらは我が家から比較的行き易い
場所だったので、大好きな俵屋宗達の「源氏物語関屋澪標図屛風」
や「曜変天目」は、何度か目にしておりますが、今回新たな丸の内
の「明治生命館」という場所で、また堪能して来たいと思っている
ところです。
オンデマンド配信も教えていただいて、早速配信の購入手続きを
済ませました。11月1日~11月30日迄、と1ヶ月間配信されるのが
有難いです。リンボウ先生(林望氏)とロバート・キャンベル氏の
対談ですが、お二人共お話上手な方なので、これも楽しみです。
ということで、最初、このブログ記事の表題を、「弘徽殿の大后は
利口な人」と書いていたのですが、前置きのつもりの話がここまで
長くなってしまったので、「『源氏物語』関係の美術展やオンデマンド
配信の情報」と、表題を替えました。今日の講読箇所は、まだ別の
2クラスでこれから読みますので、弘徽殿の大后の話は、どちらかで
ご紹介することにいたします。
本日読みましたところの前半部分の全文訳は、先に書きましたので、
そちらをご覧頂ければ、と思います(⇒こちらから)。
第12帖「須磨」の全文訳(17)
2022年10月17日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第27回・通算74回・№1)
オンライン「紫の会」は、来月で第12帖「須磨」を読み終えられるはず
なのですが、今日も20分も時間オーバーしながら、予定したところ迄
届かなかったので、次回(11月)は心して余談をせぬよう、読み進める
ようにいたします(宣言したからには実行しなければ、ですね)。
今月の講読箇所は、243頁・13行目~249頁・14行目迄ですが、下記
の全文訳は、その前半部分(243頁13行目~247頁・5行目)です。
後半部分は、第4木曜日(10/27)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
都では月日が経つにつれて、帝をはじめとして源氏の君を恋しく申し
上げる折節が多うございました。東宮は、ましてや常に思い出されては、
そっとお泣きになるのを、見申し上げる乳母や、それ以上に王命婦は、
とてもお気の毒に、と拝見しておりました。
藤壺は、東宮の御身に凶事が起こりはせぬかとご案じにばかりなって
おられたところへ、源氏の君もこのように流浪なさっているのを、ひどく
思い嘆かれておられました。
源氏の君のご兄弟の親王たちや、親しくしておられた公卿などは、初めの
うちはお便りを差し上げておられる方もございました。しみじみとした漢詩
を交換し合い、それにつけても、源氏の君の漢詩が世の礼賛をお受けに
なるばかりなので、弘徽殿の大后がお聞きになって、厳しくおっしゃいました。
「朝廷のお咎めを蒙った人は、気ままに日々の食事を味わうことさえ難しい、
と言われてるようです。なのに源氏の君は風情ある住居を構え、今の治世
を悪く言って非難をし、また世間の者は、あの鹿を馬と言ったという人の
間違っていたのと同様に、源氏の君に追従しています」などと、大后の
良くない発言の噂がいろいろと伝わってくるので、関わっては面倒だ、と
思い、源氏の君にお便りを差し上げる人はすっかりいなくなってしまわれ
ました。
二条院の紫の上は、時が経つにつれて、心の慰められる時がありません。
東の対で源氏の君にお仕えしていた女房たちも、皆こちらに移ってお仕え
し始めた頃は、紫の上のことを、まさかそれほどでもあるまい、と思って
いましたが、お傍近くでお仕えし慣れるにつれて、優しくて美しい紫の上の
ご様子や、日々の暮らし向きのお心遣いも、行き届いていて趣深いので、
お暇を取って出て行く者もおりません。出自の良い女房たちには、紫の上
は、時たま姿をお見せになることもございました。大勢の女君たちの中で、
とりわけ源氏の君がご寵愛になるのも無理はない、と源氏の君付きだった
女房たちは紫の上を見申し上げておりました。
須磨のお住まいでは、長くなるにつれて、とても我慢できないようにお思い
になりますが、自分でさえあきれ果てるような運命と思われるこのような
わび住まいに、どうして紫の上を連れてくることが出来ようか、不似合いな
ことだと思い返しなさいます。田舎なので、全てのことが、都とは様子が
異なり、物珍しい下々の暮らしを見聞なさるにつけても、心外で、私が
こんな所に居るのは勿体ない、と我ながらお感じになっておられました。
煙がとても近くに時折立って来るのを、これが海士の塩焼く煙なのだろうか、
と思っていらしたのは、実はお住まいの後ろの山で、柴というものをけぶらせ
ているのでした。珍しく思われて、
「山がつのいほりに焚けるしばしばもこととひこなむ恋ふる里人」(山賤の小屋
で焚く柴ではないが、しばしば便りを寄越して欲しいものだ、恋しい都の人よ)
と、独詠なさるのでした。
冬になって、雪の降り荒れる頃、源氏の君は空の様子も格別に心細くご覧に
なって、琴の琴を気の向くままにお弾きになって、良清に歌わせ、惟光が
横笛を吹いて、合奏なさいます。心を込めて趣深い曲などをお弾きになる
ので、他の楽器は音を止めて、涙を拭い合っていました。
昔、胡の国に遣わされたという王昭君のことを思い遣られて、帝の胸中は
どんなに辛かったであろう、この世で自分がいとしく思っている人(紫の上)を、
そんなふうに遠くへ行かせてしまったら、などと思うと、実際に起こることの
ように不吉に思われて、「霜の後の夢」と吟じなさるのでした。月光が大層
明るく射し込んで、かりそめの旅の御座所は、奥まで隈なく月が照らして
います。床の上に夜深い空も見えます。入りかたの月光が、身に染むように
見えるので、
「ただこれ西に行くなり」と独り言をおっしゃって、
「いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはづかし」(この先、
私も果てしない旅の空のどこにさすらうのであろう。まっすぐ西を指して行く
月が私を見ていることも気恥ずかしく思われる)
いつものように眠れない暁の空に、千鳥がとてもしみじみとした声で鳴きます。
「友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚の床もたのもし」(千鳥の群れが声を
合わせて鳴く夜明けは、一人目覚めて床で泣く私にも心強く感じられる)
他に起きている人もいないので、源氏の君は繰り返し一人口ずさんで横に
なっておられました。
まだ夜が明け切らないうちに手をお清めになって、お経などを唱えておられる
のも、供人たちには珍しいことのように、ただもうご立派にお見えになるので、
源氏の君をお見限りすることはできず、京の家に一時たりとも退出出来ずに
いるのでした。
オンライン「紫の会」は、来月で第12帖「須磨」を読み終えられるはず
なのですが、今日も20分も時間オーバーしながら、予定したところ迄
届かなかったので、次回(11月)は心して余談をせぬよう、読み進める
ようにいたします(宣言したからには実行しなければ、ですね)。
今月の講読箇所は、243頁・13行目~249頁・14行目迄ですが、下記
の全文訳は、その前半部分(243頁13行目~247頁・5行目)です。
後半部分は、第4木曜日(10/27)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
都では月日が経つにつれて、帝をはじめとして源氏の君を恋しく申し
上げる折節が多うございました。東宮は、ましてや常に思い出されては、
そっとお泣きになるのを、見申し上げる乳母や、それ以上に王命婦は、
とてもお気の毒に、と拝見しておりました。
藤壺は、東宮の御身に凶事が起こりはせぬかとご案じにばかりなって
おられたところへ、源氏の君もこのように流浪なさっているのを、ひどく
思い嘆かれておられました。
源氏の君のご兄弟の親王たちや、親しくしておられた公卿などは、初めの
うちはお便りを差し上げておられる方もございました。しみじみとした漢詩
を交換し合い、それにつけても、源氏の君の漢詩が世の礼賛をお受けに
なるばかりなので、弘徽殿の大后がお聞きになって、厳しくおっしゃいました。
「朝廷のお咎めを蒙った人は、気ままに日々の食事を味わうことさえ難しい、
と言われてるようです。なのに源氏の君は風情ある住居を構え、今の治世
を悪く言って非難をし、また世間の者は、あの鹿を馬と言ったという人の
間違っていたのと同様に、源氏の君に追従しています」などと、大后の
良くない発言の噂がいろいろと伝わってくるので、関わっては面倒だ、と
思い、源氏の君にお便りを差し上げる人はすっかりいなくなってしまわれ
ました。
二条院の紫の上は、時が経つにつれて、心の慰められる時がありません。
東の対で源氏の君にお仕えしていた女房たちも、皆こちらに移ってお仕え
し始めた頃は、紫の上のことを、まさかそれほどでもあるまい、と思って
いましたが、お傍近くでお仕えし慣れるにつれて、優しくて美しい紫の上の
ご様子や、日々の暮らし向きのお心遣いも、行き届いていて趣深いので、
お暇を取って出て行く者もおりません。出自の良い女房たちには、紫の上
は、時たま姿をお見せになることもございました。大勢の女君たちの中で、
とりわけ源氏の君がご寵愛になるのも無理はない、と源氏の君付きだった
女房たちは紫の上を見申し上げておりました。
須磨のお住まいでは、長くなるにつれて、とても我慢できないようにお思い
になりますが、自分でさえあきれ果てるような運命と思われるこのような
わび住まいに、どうして紫の上を連れてくることが出来ようか、不似合いな
ことだと思い返しなさいます。田舎なので、全てのことが、都とは様子が
異なり、物珍しい下々の暮らしを見聞なさるにつけても、心外で、私が
こんな所に居るのは勿体ない、と我ながらお感じになっておられました。
煙がとても近くに時折立って来るのを、これが海士の塩焼く煙なのだろうか、
と思っていらしたのは、実はお住まいの後ろの山で、柴というものをけぶらせ
ているのでした。珍しく思われて、
「山がつのいほりに焚けるしばしばもこととひこなむ恋ふる里人」(山賤の小屋
で焚く柴ではないが、しばしば便りを寄越して欲しいものだ、恋しい都の人よ)
と、独詠なさるのでした。
冬になって、雪の降り荒れる頃、源氏の君は空の様子も格別に心細くご覧に
なって、琴の琴を気の向くままにお弾きになって、良清に歌わせ、惟光が
横笛を吹いて、合奏なさいます。心を込めて趣深い曲などをお弾きになる
ので、他の楽器は音を止めて、涙を拭い合っていました。
昔、胡の国に遣わされたという王昭君のことを思い遣られて、帝の胸中は
どんなに辛かったであろう、この世で自分がいとしく思っている人(紫の上)を、
そんなふうに遠くへ行かせてしまったら、などと思うと、実際に起こることの
ように不吉に思われて、「霜の後の夢」と吟じなさるのでした。月光が大層
明るく射し込んで、かりそめの旅の御座所は、奥まで隈なく月が照らして
います。床の上に夜深い空も見えます。入りかたの月光が、身に染むように
見えるので、
「ただこれ西に行くなり」と独り言をおっしゃって、
「いづかたの雲路にわれもまよひなむ月の見るらむこともはづかし」(この先、
私も果てしない旅の空のどこにさすらうのであろう。まっすぐ西を指して行く
月が私を見ていることも気恥ずかしく思われる)
いつものように眠れない暁の空に、千鳥がとてもしみじみとした声で鳴きます。
「友千鳥諸声に鳴く暁はひとり寝覚の床もたのもし」(千鳥の群れが声を
合わせて鳴く夜明けは、一人目覚めて床で泣く私にも心強く感じられる)
他に起きている人もいないので、源氏の君は繰り返し一人口ずさんで横に
なっておられました。
まだ夜が明け切らないうちに手をお清めになって、お経などを唱えておられる
のも、供人たちには珍しいことのように、ただもうご立派にお見えになるので、
源氏の君をお見限りすることはできず、京の家に一時たりとも退出出来ずに
いるのでした。
落葉の宮のその後
2022年10月14日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第162回)
南関東はこのところ、スッキリとしない雨模様の日が続いております。
幸い今日は傘を使わずに済みましたが、明日も、東海以西は晴れ
マークが多い中で、やはり曇りマークになっています。
10月5日のオンライン「源氏の会」と同じ第49帖「宿木」の、匂宮が
夕霧の六の君との結婚の初夜を終えて、二条院の中の君の許へ
と戻って来られたところから、第二夜のために、再び出かけて行か
れるところまでを読みました。
帰邸後、すぐに匂宮は六の君に「後朝〈きぬぎぬ〉の文」を遣わされ
ました。これは当時のマナーです。文を使者に持たせると、そのまま
中の君の居る西の対へとお渡りになりました。
間もなく、夕霧から格別の禄を貰い受け、振舞酒に酔った使者が、
中の君とご一緒であることへの気遣いも忘れ、西の対に六の君から
の返事のお手紙を持参しました。
今更どうすることも出来ず、これは秘密の通い所からの手紙でもない
ので、匂宮は中の君にも隠し隔てのない態度でいよう、と、その場で
手紙を広げてご覧になりました。
すると、その手紙は「継母の宮の御手なめり」(養母の落葉の宮の
ご筆跡のようだった)ので、匂宮はホッとして、手紙を下に置かれた
のでした。
ここで読者も思い出します。そうだった、六の君の実母・藤典侍は
源氏の腹心の家来だった惟光の娘。母親の身分が低いので、夕霧
は、父・源氏がしたのと同じように、六の君を実母から引き離し、
皇女という高貴な身分の落葉の宮の養女にして、六の君の格上げ
を図ったのだったと。
今丁度、高座渋谷のクラスで、夕霧が落葉の宮に拒絶されながらも、
外堀から埋めていく形で、間もなく二人は結ばれる、というところを
読んでいます。第39帖「夕霧」です。落葉の宮が六条院の東北の町
の女主人となり、藤典侍腹の六の君の養母となっている、と記されて
いたのは、第42帖「匂兵部卿」でした。
その後、落葉の宮が物語の中で登場することは無く、「夕霧」の巻で
29歳だった夕霧が、今51歳になっていますので、この間に22年の
歳月が流れています。
落葉の宮にも様々な思いがあったはずです。でも実子が無く、六の君
を養女として育てることになった時の心境などは、何も書かれていま
せん。作者も二番煎じになるので止めておこうと思ったのか、明石の
姫君を巡る実母(明石の上)と養母(紫の上)の複雑な内面世界が
丹念に描かれていたのとは対照的です。少しスポットが当てられて
いてもよかったのではないかと思うのですが、落葉の宮の心の内は
覗くことが出来ません。
ただ、ここで六の君に代わり、匂宮の後朝の文に返事をしたため、
それは「あてやかにをかしく書きたまへり」(上品に趣深くお書きに
なっていた)というのですから、不本意な夕霧との再婚ではありまし
たが、22年の時を経て、今は六の君の養母として、立派に役割を
果たしていることはわかりますね。
南関東はこのところ、スッキリとしない雨模様の日が続いております。
幸い今日は傘を使わずに済みましたが、明日も、東海以西は晴れ
マークが多い中で、やはり曇りマークになっています。
10月5日のオンライン「源氏の会」と同じ第49帖「宿木」の、匂宮が
夕霧の六の君との結婚の初夜を終えて、二条院の中の君の許へ
と戻って来られたところから、第二夜のために、再び出かけて行か
れるところまでを読みました。
帰邸後、すぐに匂宮は六の君に「後朝〈きぬぎぬ〉の文」を遣わされ
ました。これは当時のマナーです。文を使者に持たせると、そのまま
中の君の居る西の対へとお渡りになりました。
間もなく、夕霧から格別の禄を貰い受け、振舞酒に酔った使者が、
中の君とご一緒であることへの気遣いも忘れ、西の対に六の君から
の返事のお手紙を持参しました。
今更どうすることも出来ず、これは秘密の通い所からの手紙でもない
ので、匂宮は中の君にも隠し隔てのない態度でいよう、と、その場で
手紙を広げてご覧になりました。
すると、その手紙は「継母の宮の御手なめり」(養母の落葉の宮の
ご筆跡のようだった)ので、匂宮はホッとして、手紙を下に置かれた
のでした。
ここで読者も思い出します。そうだった、六の君の実母・藤典侍は
源氏の腹心の家来だった惟光の娘。母親の身分が低いので、夕霧
は、父・源氏がしたのと同じように、六の君を実母から引き離し、
皇女という高貴な身分の落葉の宮の養女にして、六の君の格上げ
を図ったのだったと。
今丁度、高座渋谷のクラスで、夕霧が落葉の宮に拒絶されながらも、
外堀から埋めていく形で、間もなく二人は結ばれる、というところを
読んでいます。第39帖「夕霧」です。落葉の宮が六条院の東北の町
の女主人となり、藤典侍腹の六の君の養母となっている、と記されて
いたのは、第42帖「匂兵部卿」でした。
その後、落葉の宮が物語の中で登場することは無く、「夕霧」の巻で
29歳だった夕霧が、今51歳になっていますので、この間に22年の
歳月が流れています。
落葉の宮にも様々な思いがあったはずです。でも実子が無く、六の君
を養女として育てることになった時の心境などは、何も書かれていま
せん。作者も二番煎じになるので止めておこうと思ったのか、明石の
姫君を巡る実母(明石の上)と養母(紫の上)の複雑な内面世界が
丹念に描かれていたのとは対照的です。少しスポットが当てられて
いてもよかったのではないかと思うのですが、落葉の宮の心の内は
覗くことが出来ません。
ただ、ここで六の君に代わり、匂宮の後朝の文に返事をしたため、
それは「あてやかにをかしく書きたまへり」(上品に趣深くお書きに
なっていた)というのですから、不本意な夕霧との再婚ではありまし
たが、22年の時を経て、今は六の君の養母として、立派に役割を
果たしていることはわかりますね。
万が一のことを考えて
2022年10月10日(月) 溝の口「紫の会」(第60回)
10月の第2月曜日は「スポーツの日」という名称に変わったの
ですね。今年はたまたま10月10日が第2月曜日と重なったと
いうことですが、以前は「体育の日」として、10月10日に固定
されていました。今では三連休にするため、「成人の日」も
1月15日ではなく、1月の第2月曜日です。でも、こうした日は、
やはり昔の何月何日で決まっていた時のほうがよかったなぁ、
と思うのは、昭和の古い人間の感覚なのでしょうか。
「紫の会」の会場クラスは、第12帖「須磨」で、源氏が須磨への
出立を2、3日後に控え、大切な人たちとの別れを惜しむ場面を
読んでいます。左大臣邸、花散里、藤壺などには、直接別れの
挨拶をするために出向いていますが、朧月夜には、逢っておき
たくとも、それはあまりにも危険なので、お手紙だけを差し上げ
ました。
「逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや流るるみをのはじめなりけむ」
(あなたとは逢うことが叶わず、あなたを恋して泣いたことが
流浪の身となるきっかけだったのでしょうか)
と、事実を曲げた書き方になっています。手紙文のすぐあとに、
「道のほどもあやふければ」(途中で何かあって朧月夜の許に
届くかどうか危ういので)と地の文にありますが、源氏は手紙が
誰か別の人に見られた場合を想定して、この恋は自分の片思い
で、まだ実っていないのだ、という言い方をしているのです。
万が一、弘徽殿大后方に手紙が渡ったとしても、これを証拠に
更なる窮地に追い込まれることのないよう、気遣いをした、と
いうことになりましょう。
のちに第35帖「若菜下」で、柏木は女三宮へ、密通の事実が
はっきりとわかる詳細な恋文を贈り、それが源氏によって
見つけられてしまい、柏木は身の破滅を招くことになりました。
それを思うと、源氏は役者が一枚上な感じがしますね。
もっとも、源氏にとっては、朧月夜は絶対的な存在という程
ではなく、柏木にとっての女三宮は、唯一無二の存在でした
から、同じ次元で比べては、柏木が気の毒かもしれません。
10月の第2月曜日は「スポーツの日」という名称に変わったの
ですね。今年はたまたま10月10日が第2月曜日と重なったと
いうことですが、以前は「体育の日」として、10月10日に固定
されていました。今では三連休にするため、「成人の日」も
1月15日ではなく、1月の第2月曜日です。でも、こうした日は、
やはり昔の何月何日で決まっていた時のほうがよかったなぁ、
と思うのは、昭和の古い人間の感覚なのでしょうか。
「紫の会」の会場クラスは、第12帖「須磨」で、源氏が須磨への
出立を2、3日後に控え、大切な人たちとの別れを惜しむ場面を
読んでいます。左大臣邸、花散里、藤壺などには、直接別れの
挨拶をするために出向いていますが、朧月夜には、逢っておき
たくとも、それはあまりにも危険なので、お手紙だけを差し上げ
ました。
「逢ふ瀬なき涙の河に沈みしや流るるみをのはじめなりけむ」
(あなたとは逢うことが叶わず、あなたを恋して泣いたことが
流浪の身となるきっかけだったのでしょうか)
と、事実を曲げた書き方になっています。手紙文のすぐあとに、
「道のほどもあやふければ」(途中で何かあって朧月夜の許に
届くかどうか危ういので)と地の文にありますが、源氏は手紙が
誰か別の人に見られた場合を想定して、この恋は自分の片思い
で、まだ実っていないのだ、という言い方をしているのです。
万が一、弘徽殿大后方に手紙が渡ったとしても、これを証拠に
更なる窮地に追い込まれることのないよう、気遣いをした、と
いうことになりましょう。
のちに第35帖「若菜下」で、柏木は女三宮へ、密通の事実が
はっきりとわかる詳細な恋文を贈り、それが源氏によって
見つけられてしまい、柏木は身の破滅を招くことになりました。
それを思うと、源氏は役者が一枚上な感じがしますね。
もっとも、源氏にとっては、朧月夜は絶対的な存在という程
ではなく、柏木にとっての女三宮は、唯一無二の存在でした
から、同じ次元で比べては、柏木が気の毒かもしれません。
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