人権無視が許されていた時代
2022年11月28日(月) 溝の口「湖月会」(第163回)
ドゥマゴサロン 第21回文学カフェ「時代を超えて愛される源氏物語
の奥深い魅力」のオンデマンド配信を、ようやく視聴し終えました。
その中で林望氏が、「宇治十帖」は「うじうじ」としていてじれったいの
だけれど、浮舟が登場すると俄然物語が面白くなる、といったことを
お話になっていましたが、私も同感です。今このクラス(第1水曜日の
オンラインクラス、第2金曜日のクラスも同じ)が読んでいる第49帖
「宿木」辺りまでが、その「うじうじ」なので、ちょっとダレてくるところも
ありますが、浮舟登場までもう少し。頑張って読んでまいりましょう。
匂宮と夕霧の六の君の結婚は、第三夜目の「露顕(ところあらわし)」
も無事に済み、相伴客として出席した薫も、自邸に戻って来ました。
このところ、中の君を匂宮に譲ったことを後悔して悶々と眠れぬ夜を
過ごしている薫ですが、さすがにこの夜は独り寝が寂しかったのか、
母・女三宮に仕えている女房の「按察使の君」のもとで、「その夜は
明かしたまひつ」(その夜は明かされた)のでした。
夜が明けると、何の未練も見せずに出て行こうとする薫に、恨めし気
な按察使の君でしたが、薫は適当にあしらって、按察使の君の部屋
を後にしました。
大君と出会う前の薫は、全く女性に興味が無かったのか、というと、
それは精神的な意味での話で、「召人(めしうど)」と呼ばれるお手付き
の女房が何人かはいると、第42帖「匂兵部卿」にも書かれていました。
その召人たちは、薫から特別な愛情を掛けられることがなくても、それ
を受け入れ、「気近くて見たてまつらばや」(お傍でお姿が見ていたい
ものだ)と、思う気持ちから、お仕えしているのでした。
幼い頃から自分の出生に疑念を抱き、結婚に対して積極的になれない
薫でしたが、召人となら、薫は結婚という形での責任を取る必要がない
ので、とても好都合な存在だったのでしょう。
でも、召人側からすれば、これは今なら人権問題に関わってくることでは
ないかと思われます。この段落の最後に、作者もこうした召人について、
「あはれなること、ほどほどにつけて多かるべし」(哀れなことが、それぞれ
の身分につけて多いようだ)と述べています。
浮舟も母親が召人だったがために、父・八の宮に認知してもらえなかった
のですが、誰もそれを非難する人もいなかった、そんな人権無視がまかり
通る時代でもあったのです。
ドゥマゴサロン 第21回文学カフェ「時代を超えて愛される源氏物語
の奥深い魅力」のオンデマンド配信を、ようやく視聴し終えました。
その中で林望氏が、「宇治十帖」は「うじうじ」としていてじれったいの
だけれど、浮舟が登場すると俄然物語が面白くなる、といったことを
お話になっていましたが、私も同感です。今このクラス(第1水曜日の
オンラインクラス、第2金曜日のクラスも同じ)が読んでいる第49帖
「宿木」辺りまでが、その「うじうじ」なので、ちょっとダレてくるところも
ありますが、浮舟登場までもう少し。頑張って読んでまいりましょう。
匂宮と夕霧の六の君の結婚は、第三夜目の「露顕(ところあらわし)」
も無事に済み、相伴客として出席した薫も、自邸に戻って来ました。
このところ、中の君を匂宮に譲ったことを後悔して悶々と眠れぬ夜を
過ごしている薫ですが、さすがにこの夜は独り寝が寂しかったのか、
母・女三宮に仕えている女房の「按察使の君」のもとで、「その夜は
明かしたまひつ」(その夜は明かされた)のでした。
夜が明けると、何の未練も見せずに出て行こうとする薫に、恨めし気
な按察使の君でしたが、薫は適当にあしらって、按察使の君の部屋
を後にしました。
大君と出会う前の薫は、全く女性に興味が無かったのか、というと、
それは精神的な意味での話で、「召人(めしうど)」と呼ばれるお手付き
の女房が何人かはいると、第42帖「匂兵部卿」にも書かれていました。
その召人たちは、薫から特別な愛情を掛けられることがなくても、それ
を受け入れ、「気近くて見たてまつらばや」(お傍でお姿が見ていたい
ものだ)と、思う気持ちから、お仕えしているのでした。
幼い頃から自分の出生に疑念を抱き、結婚に対して積極的になれない
薫でしたが、召人となら、薫は結婚という形での責任を取る必要がない
ので、とても好都合な存在だったのでしょう。
でも、召人側からすれば、これは今なら人権問題に関わってくることでは
ないかと思われます。この段落の最後に、作者もこうした召人について、
「あはれなること、ほどほどにつけて多かるべし」(哀れなことが、それぞれ
の身分につけて多いようだ)と述べています。
浮舟も母親が召人だったがために、父・八の宮に認知してもらえなかった
のですが、誰もそれを非難する人もいなかった、そんな人権無視がまかり
通る時代でもあったのです。
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今月の光琳かるた
2022年11月26日(土)
このところずっと遅れがちな「今月の光琳かるた」ですが、11月も
残り5日となっての更新です(-_-;)
枯葉が舞い、「秋も去ぬめり」と感じることが多くなっている今の
季節には相応しい歌かと思います。
「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」
七十五番・藤原基俊

(私がいる限り頼りにしていなさい、とお約束下さったその
儚い露のようなお言葉を、命をつなぐ頼みの綱としており
ますうちに、ああ、今年の秋も空しく去ってしまうようです)
この歌、次の『千載集』の長い詞書を読まなければ、つれない男
の薄情さを恨む恋の歌と思ってしまいますよね。
「律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、度々もれにけれ
ば、法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原のと
侍りけれども、またその年ももれにければ、よみてつかはしける」
(律師光覚を維摩会の講師に、と申請したのだが、度々選に漏れ
たため、法性寺入道前太政大臣に愚痴をこぼしたところ、『任せて
おけ』とのことだったのだが、その年の秋も光覚は選に漏れて
しまったので、詠んで遣わした歌)
「律師光覚」は、作者藤原基俊の息子です。「維摩会の講師」とは、
藤原氏の氏寺「興福寺」で『維摩経』を講読する法会の講師を務め
ることをいいます。「維摩会の講師」を務めると、宮中の「最勝会の
講師」への道が開けていましたから、その決定権を持つ氏の長者
の法性寺入道前太政大臣(76番の歌の作者・藤原忠通)と、和歌
を通して近しい間柄にあった基俊にとっては、忠通が引き受けて
くれた以上間違いない、と期待していたはずで、「しめぢが原の」
が何の当てにもならない口約束だったことを知った時の落胆は、
計り知れないものがあったに違いありません。「しめぢが原の」は、
「なほたのめしめぢが原のさしも草わが世の中にあらむかぎりは」
(やはり私を頼っていなさい。しめぢが原のさしも草のように、
それほど願っているなら叶わぬことはあるまい。私がこの世に
生きている限りは)の歌を引いて、承諾の意を示しています。
この時の基俊は、もう80歳に手が届く高齢。大臣家の出身であり
ながら、「人に誇りて当世を見下し、とかくに人を非難することを
好まれければ、それにつけて謗りを得らるる事多し」(尾崎雅嘉
『百人一首一夕話』)(プライドが高く世間を見下し、何かと非難
するのを好んだので、それにつけて悪く言われることが多かった)
という性格が災いしてか、官位が上がらなかったこともあり、
せめて息子だけは出世させたいという思いが強かったのかも
しれません。
たとえ「親バカ」と言われても、というのが、この歌を詠んだ時の
基俊の心境ではなかったかと思われます。今の世でも、息子の
就職にコネを使って、頭を下げてお願いしている父親は珍しく
ないはず。いつの世にも親は子の行く末が心配でならない証し
ともいえましょう。
このところずっと遅れがちな「今月の光琳かるた」ですが、11月も
残り5日となっての更新です(-_-;)
枯葉が舞い、「秋も去ぬめり」と感じることが多くなっている今の
季節には相応しい歌かと思います。
「契りおきしさせもが露を命にてあはれ今年の秋もいぬめり」
七十五番・藤原基俊

(私がいる限り頼りにしていなさい、とお約束下さったその
儚い露のようなお言葉を、命をつなぐ頼みの綱としており
ますうちに、ああ、今年の秋も空しく去ってしまうようです)
この歌、次の『千載集』の長い詞書を読まなければ、つれない男
の薄情さを恨む恋の歌と思ってしまいますよね。
「律師光覚、維摩会の講師の請を申しけるを、度々もれにけれ
ば、法性寺入道前太政大臣に恨み申しけるを、しめぢが原のと
侍りけれども、またその年ももれにければ、よみてつかはしける」
(律師光覚を維摩会の講師に、と申請したのだが、度々選に漏れ
たため、法性寺入道前太政大臣に愚痴をこぼしたところ、『任せて
おけ』とのことだったのだが、その年の秋も光覚は選に漏れて
しまったので、詠んで遣わした歌)
「律師光覚」は、作者藤原基俊の息子です。「維摩会の講師」とは、
藤原氏の氏寺「興福寺」で『維摩経』を講読する法会の講師を務め
ることをいいます。「維摩会の講師」を務めると、宮中の「最勝会の
講師」への道が開けていましたから、その決定権を持つ氏の長者
の法性寺入道前太政大臣(76番の歌の作者・藤原忠通)と、和歌
を通して近しい間柄にあった基俊にとっては、忠通が引き受けて
くれた以上間違いない、と期待していたはずで、「しめぢが原の」
が何の当てにもならない口約束だったことを知った時の落胆は、
計り知れないものがあったに違いありません。「しめぢが原の」は、
「なほたのめしめぢが原のさしも草わが世の中にあらむかぎりは」
(やはり私を頼っていなさい。しめぢが原のさしも草のように、
それほど願っているなら叶わぬことはあるまい。私がこの世に
生きている限りは)の歌を引いて、承諾の意を示しています。
この時の基俊は、もう80歳に手が届く高齢。大臣家の出身であり
ながら、「人に誇りて当世を見下し、とかくに人を非難することを
好まれければ、それにつけて謗りを得らるる事多し」(尾崎雅嘉
『百人一首一夕話』)(プライドが高く世間を見下し、何かと非難
するのを好んだので、それにつけて悪く言われることが多かった)
という性格が災いしてか、官位が上がらなかったこともあり、
せめて息子だけは出世させたいという思いが強かったのかも
しれません。
たとえ「親バカ」と言われても、というのが、この歌を詠んだ時の
基俊の心境ではなかったかと思われます。今の世でも、息子の
就職にコネを使って、頭を下げてお願いしている父親は珍しく
ないはず。いつの世にも親は子の行く末が心配でならない証し
ともいえましょう。
第12帖「須磨」を読み終える
2022年11月24日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第28回・通算75回・№2)
『源氏物語』を読み始めても、その長さや人間関係のややこしさ
などで、この「須磨」の巻辺りまで来ると、「もういいや」となって
止めてしまうことが多く、それを「須磨返り」と称してしますが、
オンライン「紫の会」では、月曜クラスも、木曜クラスも、全員が
ここで「須磨返り」すること無く、突破。来月からは次の「明石」の
巻を読む予定です。
第12帖「須磨」の最終場面は、第13帖「明石」と完全に繋がって
おり、「須磨」のエピローグと「明石」のプロローグを兼ねている
ような段落となっています。
3月1日が「巳」の日に当たったので、源氏は海辺で「上巳の日」
の祓へをなさいました。「海の面うらうらと凪ぎわたり」(海面は
うららかに凪渡り)だったのですが、その祓へも終わり切らない
うちに、急に暴風雨に襲われ、皆命からがら源氏の館へと引き
上げてきました。
明け方になって、ようやくうとうととした源氏の夢に得体の知れ
ない者が現れて、「どうして海龍王さまよりお召しがあるのに
参上なさらないのか」と、言いながら手探りで自分を探している
様子が窺えます。そこで源氏はハッと目覚め、「海龍王は美しい
ものをたいそうひどく好むものだから、自分に目をつけたのだな」
(ナルシスト源氏、ですが、自分の容貌に自信を持つのは当然
でしょうね)と思うと、「いとものむつかしう、この住ひ堪へがたく
おぼしなりぬ」(とても薄気味悪く、この須磨の住まいに暮らす
ことが我慢出来なくお思いになりました)と結ばれています。
源氏が須磨の地を離れる日の近いことを予感させて、「須磨」の
巻は幕を閉じ、そのまま話は「明石」の巻へと続いて行くことに
なりますが、源氏の次なる運命はどのような形で紡がれるのか、
初めて読んだ当時の読者は、興味津々だったことでしょう。あの
明石入道とその娘の挿話があったことからして、おおよその見当
はついたかとも思えますけど。
須磨から明石へ。舞台が移ることで、源氏の人生にも転機が
訪れます。須磨でのどん底の日々からの脱出の日も近づいて
きました。楽しく読み継いでまいりましょう。
この場面、詳しくは先に記しました「須磨の全文訳(20)」をご覧
下さいませ⇒こちらから。
『源氏物語』を読み始めても、その長さや人間関係のややこしさ
などで、この「須磨」の巻辺りまで来ると、「もういいや」となって
止めてしまうことが多く、それを「須磨返り」と称してしますが、
オンライン「紫の会」では、月曜クラスも、木曜クラスも、全員が
ここで「須磨返り」すること無く、突破。来月からは次の「明石」の
巻を読む予定です。
第12帖「須磨」の最終場面は、第13帖「明石」と完全に繋がって
おり、「須磨」のエピローグと「明石」のプロローグを兼ねている
ような段落となっています。
3月1日が「巳」の日に当たったので、源氏は海辺で「上巳の日」
の祓へをなさいました。「海の面うらうらと凪ぎわたり」(海面は
うららかに凪渡り)だったのですが、その祓へも終わり切らない
うちに、急に暴風雨に襲われ、皆命からがら源氏の館へと引き
上げてきました。
明け方になって、ようやくうとうととした源氏の夢に得体の知れ
ない者が現れて、「どうして海龍王さまよりお召しがあるのに
参上なさらないのか」と、言いながら手探りで自分を探している
様子が窺えます。そこで源氏はハッと目覚め、「海龍王は美しい
ものをたいそうひどく好むものだから、自分に目をつけたのだな」
(ナルシスト源氏、ですが、自分の容貌に自信を持つのは当然
でしょうね)と思うと、「いとものむつかしう、この住ひ堪へがたく
おぼしなりぬ」(とても薄気味悪く、この須磨の住まいに暮らす
ことが我慢出来なくお思いになりました)と結ばれています。
源氏が須磨の地を離れる日の近いことを予感させて、「須磨」の
巻は幕を閉じ、そのまま話は「明石」の巻へと続いて行くことに
なりますが、源氏の次なる運命はどのような形で紡がれるのか、
初めて読んだ当時の読者は、興味津々だったことでしょう。あの
明石入道とその娘の挿話があったことからして、おおよその見当
はついたかとも思えますけど。
須磨から明石へ。舞台が移ることで、源氏の人生にも転機が
訪れます。須磨でのどん底の日々からの脱出の日も近づいて
きました。楽しく読み継いでまいりましょう。
この場面、詳しくは先に記しました「須磨の全文訳(20)」をご覧
下さいませ⇒こちらから。
第12帖「須磨」の全文訳(20)
2022年11月24日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第28回・通算75回・№1)
オンライン「紫の会」は、第3月曜クラスも第4木曜クラスも、今月で
第12帖「須磨」を読み終えました。
講読箇所は、250頁・1行目~256頁・13行目迄ですが、話の切れ目
の都合上、11/21の前半部分(⇒こちらから)のほうが長くて、今日の
後半部分は、254頁・8行目~256頁・13行目迄と短くなっています。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
三月一日に巡って来た巳の日に、「今日こそ、悩み事がおありの方は、
禊をなさるべきです」と、知ったかぶりの人が申し上げるので、源氏の
君は、海辺の景色もご覧になりたくて、たいそう簡略に、軟障だけを
引き巡らして、この摂津の国へ京から通ってきている陰陽師を呼んで、
お祓いをさせなさいました。
舟に大きな人形を載せて流すのをご覧になるにつけても、我が身の
ように思われて、
「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき」(見も
知らぬ大海原に流れて来て一方ならぬ悲しい思いをしていることだ)
と独詠して座っておられるご様子は、海辺の晴れがましい場所で、
言いようもなくご立派にお見えでした。
海の面がうららかに凪ぎ渡って、果てしなくみえるところに、過去、未来
のことが思い続けられて、
「八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ」(八百万
の神々も、私を哀れとお思いのことだろう。これという犯した罪はないの
だから)
と、源氏の君がおっしゃると、急に風が吹き始め、空も真っ暗になりました。
お祓いもし終えないうちに、人々は大騒ぎとなりました。肱笠雨とかいう
俄雨が降って来て、とてもじっとしていられないので、皆帰ろうとする
けれど、傘を差す暇もありませんでした。俄雨だけでも思い掛けないこと
なのに、強風がすべての物を吹き散らし、未曽有の暴風雨となりました。
波がたいそう荒々しく立ち寄せて、人々は足も地に着かない有様でした。
海面は、夜着を張り詰めたように光り満ちて雷が鳴り、稲妻が光ります。
雷が落ちてくるような心地がして、やっとのことで源氏の君のお住まいに
辿り着いて、「こんな目に遭うのは初めてのことだ。風などは吹くにしても、
その兆しがあってのことであろうに。信じがたい珍しい出来事だ」と、動転
していますが、雷はなお止まずに響いて、雨脚が当たった所を突き通って
しまいそうなくらい、音を立てて落ちていました。こうしてこの世は滅びて
しまうのか、と、人々は心細く思っていますが、源氏の君は、静かに読経
をしておられました。
日が暮れると、雷は少し鳴り止んで、それでも風は、夜になっても吹いて
おりました。「これは多く立てた願の力でありましょう。もうしばらくあの調子
だったら、波にさらわれて、海に吞み込まれてしまったでしょう。津波という
ものに、たちまち人は命を落とすものだと聞いているが、まったくこんなこと
はまだ経験したことがなかった」と、人々は言い合っておりました。
明け方に、みんな休みました。源氏の君もうとうとしておられると、何者の
姿ともわからない人が現れて、「どうして海龍王さまよりお召しがあるのに
参上なさらないのか」と言って、手探りに捜しまわっている、と見ているうち
に、はっと目が覚めて、さては海龍王が、たいそうひどく美しいものを愛でる
ものなので、自分に目を付けたのだな」と、お思いになると、とても気味が
悪く、源氏の君はこの住まいを耐え難くお思いになったのでした。
第十二帖「須磨」了
オンライン「紫の会」は、第3月曜クラスも第4木曜クラスも、今月で
第12帖「須磨」を読み終えました。
講読箇所は、250頁・1行目~256頁・13行目迄ですが、話の切れ目
の都合上、11/21の前半部分(⇒こちらから)のほうが長くて、今日の
後半部分は、254頁・8行目~256頁・13行目迄と短くなっています。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
三月一日に巡って来た巳の日に、「今日こそ、悩み事がおありの方は、
禊をなさるべきです」と、知ったかぶりの人が申し上げるので、源氏の
君は、海辺の景色もご覧になりたくて、たいそう簡略に、軟障だけを
引き巡らして、この摂津の国へ京から通ってきている陰陽師を呼んで、
お祓いをさせなさいました。
舟に大きな人形を載せて流すのをご覧になるにつけても、我が身の
ように思われて、
「知らざりし大海の原に流れ来てひとかたにやはものは悲しき」(見も
知らぬ大海原に流れて来て一方ならぬ悲しい思いをしていることだ)
と独詠して座っておられるご様子は、海辺の晴れがましい場所で、
言いようもなくご立派にお見えでした。
海の面がうららかに凪ぎ渡って、果てしなくみえるところに、過去、未来
のことが思い続けられて、
「八百よろづ神もあはれと思ふらむ犯せる罪のそれとなければ」(八百万
の神々も、私を哀れとお思いのことだろう。これという犯した罪はないの
だから)
と、源氏の君がおっしゃると、急に風が吹き始め、空も真っ暗になりました。
お祓いもし終えないうちに、人々は大騒ぎとなりました。肱笠雨とかいう
俄雨が降って来て、とてもじっとしていられないので、皆帰ろうとする
けれど、傘を差す暇もありませんでした。俄雨だけでも思い掛けないこと
なのに、強風がすべての物を吹き散らし、未曽有の暴風雨となりました。
波がたいそう荒々しく立ち寄せて、人々は足も地に着かない有様でした。
海面は、夜着を張り詰めたように光り満ちて雷が鳴り、稲妻が光ります。
雷が落ちてくるような心地がして、やっとのことで源氏の君のお住まいに
辿り着いて、「こんな目に遭うのは初めてのことだ。風などは吹くにしても、
その兆しがあってのことであろうに。信じがたい珍しい出来事だ」と、動転
していますが、雷はなお止まずに響いて、雨脚が当たった所を突き通って
しまいそうなくらい、音を立てて落ちていました。こうしてこの世は滅びて
しまうのか、と、人々は心細く思っていますが、源氏の君は、静かに読経
をしておられました。
日が暮れると、雷は少し鳴り止んで、それでも風は、夜になっても吹いて
おりました。「これは多く立てた願の力でありましょう。もうしばらくあの調子
だったら、波にさらわれて、海に吞み込まれてしまったでしょう。津波という
ものに、たちまち人は命を落とすものだと聞いているが、まったくこんなこと
はまだ経験したことがなかった」と、人々は言い合っておりました。
明け方に、みんな休みました。源氏の君もうとうとしておられると、何者の
姿ともわからない人が現れて、「どうして海龍王さまよりお召しがあるのに
参上なさらないのか」と言って、手探りに捜しまわっている、と見ているうち
に、はっと目が覚めて、さては海龍王が、たいそうひどく美しいものを愛でる
ものなので、自分に目を付けたのだな」と、お思いになると、とても気味が
悪く、源氏の君はこの住まいを耐え難くお思いになったのでした。
第十二帖「須磨」了
宰相の中将の須磨来訪
2022年11月21日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第28回・通算75回・№2)
オンライン「紫の会」では、今年の2月から第12帖「須磨」を
読み始め、10ヶ月をかけて今月で読了となりました。来月
からは第13帖「明石」に入る予定です。
年が改まり(源氏27歳)、源氏の須磨での侘住まいも、一年
近くになろうとしていました。思い出されるのは相変わらず
懐かしい京のことばかり。そんな折、思いも掛けない訪問者
がありました。宰相の中将です(この方、通称がないので
面倒なのですが、もとの頭中将、左大臣家の嫡男、葵上の
兄)。昔からずっと親友で、末摘花や源典侍を巡っては妙な
ライバル心を発揮したりもして来ましたが、源氏が須磨に
流謫してからというもの、京に居る中将も「世の中あはれに
あぢきなく、もののをりごとに恋しくおぼへたまへば」(世の中
がしみじみとつまらなく思われて、何かにつけて源氏のこと
が恋しく思われてならないので)、「ことの聞こえありて罪に
あたるともいかがはせむとおぼしなして、にはかにまうで
たまふ」(この一件が噂となって罪に当たることになっても
止むを得ないと決心なさって、にわかに須磨へとお出でに
なった)のでした。
一晩中、漢詩を作って過ごし、夜が明けると慌ただしく中将は
帰って行きます。お互いになまじの再会が却って辛く思われる
のでしたが、強い絆を再確認することにもなりました。
宰相の中将は右大臣家の婿(四の君が正妻)なので、京で
源氏の二条院を訪問する程度のことは大目に見てもらえも
したでしょう。でも須磨ではそういうわけにはまいりません。
源氏は勅勘の身で、自ら退居したとはいえ、流罪と同じ意味
を持って須磨で暮らしているのです。弘徽殿の大后をはじめ、
右大臣一派の知るところとなれば、当然罪に問われることに
なりましょう。それを承知の上で、須磨へとやって来たのです
から、これは並の者には出来ない真似で、宰相の中将に
男気を感じる場面です。
源氏が京へと召還されたのちは、二人は政治上のライバル
となってゆきます。前斎宮(六条御息所の娘)の入内など、
この時の熱い友情を思い出し、源氏は遠慮してもよさそうな
気がするのですが、権力の座を賭けての政治闘争の前には、
そうしたことも消え失せてしまったようです。
光源氏と頭中将(一般的な呼び名で)、どちらに肩入れしたく
なるか、という話になれば、私は頭中将に一票ですね。
この場面、詳しくは先に書きました全文訳の「須磨(18)」を
ご覧頂ければ、と存じます⇒こちらから。
オンライン「紫の会」では、今年の2月から第12帖「須磨」を
読み始め、10ヶ月をかけて今月で読了となりました。来月
からは第13帖「明石」に入る予定です。
年が改まり(源氏27歳)、源氏の須磨での侘住まいも、一年
近くになろうとしていました。思い出されるのは相変わらず
懐かしい京のことばかり。そんな折、思いも掛けない訪問者
がありました。宰相の中将です(この方、通称がないので
面倒なのですが、もとの頭中将、左大臣家の嫡男、葵上の
兄)。昔からずっと親友で、末摘花や源典侍を巡っては妙な
ライバル心を発揮したりもして来ましたが、源氏が須磨に
流謫してからというもの、京に居る中将も「世の中あはれに
あぢきなく、もののをりごとに恋しくおぼへたまへば」(世の中
がしみじみとつまらなく思われて、何かにつけて源氏のこと
が恋しく思われてならないので)、「ことの聞こえありて罪に
あたるともいかがはせむとおぼしなして、にはかにまうで
たまふ」(この一件が噂となって罪に当たることになっても
止むを得ないと決心なさって、にわかに須磨へとお出でに
なった)のでした。
一晩中、漢詩を作って過ごし、夜が明けると慌ただしく中将は
帰って行きます。お互いになまじの再会が却って辛く思われる
のでしたが、強い絆を再確認することにもなりました。
宰相の中将は右大臣家の婿(四の君が正妻)なので、京で
源氏の二条院を訪問する程度のことは大目に見てもらえも
したでしょう。でも須磨ではそういうわけにはまいりません。
源氏は勅勘の身で、自ら退居したとはいえ、流罪と同じ意味
を持って須磨で暮らしているのです。弘徽殿の大后をはじめ、
右大臣一派の知るところとなれば、当然罪に問われることに
なりましょう。それを承知の上で、須磨へとやって来たのです
から、これは並の者には出来ない真似で、宰相の中将に
男気を感じる場面です。
源氏が京へと召還されたのちは、二人は政治上のライバル
となってゆきます。前斎宮(六条御息所の娘)の入内など、
この時の熱い友情を思い出し、源氏は遠慮してもよさそうな
気がするのですが、権力の座を賭けての政治闘争の前には、
そうしたことも消え失せてしまったようです。
光源氏と頭中将(一般的な呼び名で)、どちらに肩入れしたく
なるか、という話になれば、私は頭中将に一票ですね。
この場面、詳しくは先に書きました全文訳の「須磨(18)」を
ご覧頂ければ、と存じます⇒こちらから。
第12帖「須磨」の全文訳(19)
2022年11月21日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第28回・通算75回・№1)
先月のブログで、11月は余談もせずに第12帖「須磨」を読み終える
と宣言しました。結果的に読み終えはしましたが、また20分の時間
オーバーとなってしまいました(;^_^A
今月の講読箇所は、250頁・1行目~256頁・13行目迄ですが、話の
切れ目の都合上、今日の前半部分のほうがかなり長くなります。
その前半部分は、250頁1行目~254頁・7行目迄です。後半部分は、
第4木曜日(11/24)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
須磨では新年になって、日も長くて退屈なところに、植えた若木の桜も
ちらほらと咲き始めて、空の様子もうららかなのですが、これまでの
あらゆることが思い出されて泣き出されることも多いのでした。
二月二十日過ぎ、昨年京を離れた時、おいたわしく思った女君たちの
ご様子などが、とても恋しくて、紫宸殿の左近の桜は盛りになったこと
だろう、先年の花の宴での桐壺院のご様子や、朱雀帝が美しく上品で、
源氏の君の作った漢詩を口ずさみなさったことも、思い出しておられ
ました。
「いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり」(いつとは
なしに宮中の人が恋しいのだが、桜を挿して楽しんだ花の宴の日が
今日また巡って来たことよ)
所在無さを持て余していた頃、致仕大臣家の三位の中将は、今は宰相
となり、人柄がたいそう優れているので、世の人望も重くていらっしゃる
けれど、世の中をしみじみとつまらなく思われて、何かにつけて源氏の
君が恋しく思われなさるので、これが噂となって罪に問われようともやむ
を得ない、と決心なさて、急に須磨へとお出でになりました。源氏の君を
一目見るなり、珍しく嬉しいにつけても、中将は喜びと悲しみが一つの
涙となって、こぼれ落ちるのでした。
源氏の君のお住まいは、言いようもなく唐風であります。場所の風情は、
絵に描いたようなので、竹で編んだ垣根がずっと巡らしてあり、石の階段
や、松の柱が、粗末ではありますが、珍しく趣深く感じられました。木こり
のように、薄紅色の黄色味がかった袿に、縹色の狩衣、指貫という、
粗末な成りをして、わざと田舎びて装っておられるのが却って素晴らしく、
見ると思わず微笑まれてしまうお美しさでした。
お使いになっている道具類も当座の物が用意してあるだけで、御座所も
すっかり覗き込めます。碁、双六の盤や付属の道具、弾棊の道具などが、
田舎風に拵えてあって、念誦の用具は、勤行に励んでおられるのだなぁ、
と見えました。
お食事を差し上げるにも、殊更場所柄らしく、風情あるように調理して
あります。海士たちが漁をして、貝の類を持参したのを、傍にお呼び
寄せなさってご覧になりました。海辺で長年暮らしている様子などを、
家来に問わせなさると、様々苦労の多い身の辛さを申し上げます。
何やらしゃべっているのも、苦労が多く不安なことは同じこととて、何か
自分と異なることがあろうか、と可哀想にとご覧になります。お二人が
お召し物などを賜りなさるのを、海士は生きている甲斐があった、と
思っておりました。
馬たちを近くに立て並べて、向うに見える倉か何かに入っている稲を
取り出して食べさせて飼っているのなどを、中将は珍しくご覧になります。
「飛鳥井」を少し歌って、一別以来のお話を、泣いたり笑ったりしながら、
若君(夕霧)がまだ何の分別もなくていらっしゃる悲しさを、祖父の大臣
が明けても暮れても思い嘆いておられる、などと中将が語りなさると、
源氏の君は堪え難くお思いになっておりました。
お二人のお話は尽きそうにもないので、なまじその一端も伝えることは
出来ません。一晩中一睡もせず、漢詩を作り夜を明かされました。そう
は言っても世間の噂になるのを恐れて、中将は急ぎお帰りになります。
こうして再会が叶っただけに、却って別れは辛くなるのでした。盃でお酒
を召されて「酔ひの悲しび涙そそく春の盃のうち」と、二人声を合わせて
口ずさみなさいます。お供の人も涙を流しておりました。供人たちも其々、
直ぐに別れの時が来るのを惜しんでいるようでした。
明け方の空に雁が列を作って飛んで行きます。源氏の君が、
「故里をいづれの春か行きて見むうらやましきは帰るかりがね」(懐かしい
京の都をいったいいつの春になったら見ることができるのだろう。羨ましい
のは北に帰って行く雁である)
と歌を詠まれると、宰相の中将はまったく出発する気になれず、
「あかなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ」(心残りなまま
この須磨の地を立ち去って、花の都へ帰る道にも迷うことになりましょう)
と、返歌をしたのでした。
中将からの都からの土産の品々は風流に仕立ててありました。このような
有難い訪問の見送りの品として、源氏の君は黒馬を差し上げなさいました。
「勅勘の身である私からの贈り物など不吉だと思われることでしょうが、
北風に吹かれて、いななき勇んで故郷に帰るでしょう」とおっしゃいます。
またとないような名馬の様をしております。中将は「これを形見に思い
出してください」と言って、有名な笛などを贈られたくらいで、人目に立つ
ようなことは、お互いになさることが出来ませんでした。
日が次第に高く上って気忙しいので、何度も後ろを振り返ることばかりして
中将が出て行かれるのを、お見送りになる源氏の君は、「なまじ会わない
ほうが良かった」と思っておられるご様子でした。中将が、「いつまた
お目にかかれることでしょう。いくら何でもこのままでは」とおっしゃると、
源氏の君は、
「雲近く飛びかふ鶴もそらに見よわれは春日のくもりなき身ぞ(宮中の近く
にいるあなたも見ていてください。私はこの春の日のように曇りのない
潔白な身なのですから)
一方ではそう期待しながらも、このような目に遭った人は、昔の賢人でさえ、
はかばかしく再び政界に復帰することは難しかったのですから、どうして
都の地を再び見ることがあろう、とは思っていないのです」などとおっしゃい
ます。
宰相の中将は、
「たつかなき雲居にひとりねをぞなくつばさ並べし友を恋ひつつ(頼る人
もなく、私は宮中で一人声を上げて泣いております。いつも一緒であった
友を恋しく思いながら)
もったいなくも親しくさせていただいて、なぜあんなに仲良くしていたのか、
と却って悔しく思われます折が多うございます」と、しんみりお話になる
間もなく、お帰りになってしまわれたあとは、源氏の君はいっそう悲しく、
ぼんやりと物思いに沈んでおられるのでした。
先月のブログで、11月は余談もせずに第12帖「須磨」を読み終える
と宣言しました。結果的に読み終えはしましたが、また20分の時間
オーバーとなってしまいました(;^_^A
今月の講読箇所は、250頁・1行目~256頁・13行目迄ですが、話の
切れ目の都合上、今日の前半部分のほうがかなり長くなります。
その前半部分は、250頁1行目~254頁・7行目迄です。後半部分は、
第4木曜日(11/24)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)
須磨では新年になって、日も長くて退屈なところに、植えた若木の桜も
ちらほらと咲き始めて、空の様子もうららかなのですが、これまでの
あらゆることが思い出されて泣き出されることも多いのでした。
二月二十日過ぎ、昨年京を離れた時、おいたわしく思った女君たちの
ご様子などが、とても恋しくて、紫宸殿の左近の桜は盛りになったこと
だろう、先年の花の宴での桐壺院のご様子や、朱雀帝が美しく上品で、
源氏の君の作った漢詩を口ずさみなさったことも、思い出しておられ
ました。
「いつとなく大宮人の恋しきに桜かざしし今日も来にけり」(いつとは
なしに宮中の人が恋しいのだが、桜を挿して楽しんだ花の宴の日が
今日また巡って来たことよ)
所在無さを持て余していた頃、致仕大臣家の三位の中将は、今は宰相
となり、人柄がたいそう優れているので、世の人望も重くていらっしゃる
けれど、世の中をしみじみとつまらなく思われて、何かにつけて源氏の
君が恋しく思われなさるので、これが噂となって罪に問われようともやむ
を得ない、と決心なさて、急に須磨へとお出でになりました。源氏の君を
一目見るなり、珍しく嬉しいにつけても、中将は喜びと悲しみが一つの
涙となって、こぼれ落ちるのでした。
源氏の君のお住まいは、言いようもなく唐風であります。場所の風情は、
絵に描いたようなので、竹で編んだ垣根がずっと巡らしてあり、石の階段
や、松の柱が、粗末ではありますが、珍しく趣深く感じられました。木こり
のように、薄紅色の黄色味がかった袿に、縹色の狩衣、指貫という、
粗末な成りをして、わざと田舎びて装っておられるのが却って素晴らしく、
見ると思わず微笑まれてしまうお美しさでした。
お使いになっている道具類も当座の物が用意してあるだけで、御座所も
すっかり覗き込めます。碁、双六の盤や付属の道具、弾棊の道具などが、
田舎風に拵えてあって、念誦の用具は、勤行に励んでおられるのだなぁ、
と見えました。
お食事を差し上げるにも、殊更場所柄らしく、風情あるように調理して
あります。海士たちが漁をして、貝の類を持参したのを、傍にお呼び
寄せなさってご覧になりました。海辺で長年暮らしている様子などを、
家来に問わせなさると、様々苦労の多い身の辛さを申し上げます。
何やらしゃべっているのも、苦労が多く不安なことは同じこととて、何か
自分と異なることがあろうか、と可哀想にとご覧になります。お二人が
お召し物などを賜りなさるのを、海士は生きている甲斐があった、と
思っておりました。
馬たちを近くに立て並べて、向うに見える倉か何かに入っている稲を
取り出して食べさせて飼っているのなどを、中将は珍しくご覧になります。
「飛鳥井」を少し歌って、一別以来のお話を、泣いたり笑ったりしながら、
若君(夕霧)がまだ何の分別もなくていらっしゃる悲しさを、祖父の大臣
が明けても暮れても思い嘆いておられる、などと中将が語りなさると、
源氏の君は堪え難くお思いになっておりました。
お二人のお話は尽きそうにもないので、なまじその一端も伝えることは
出来ません。一晩中一睡もせず、漢詩を作り夜を明かされました。そう
は言っても世間の噂になるのを恐れて、中将は急ぎお帰りになります。
こうして再会が叶っただけに、却って別れは辛くなるのでした。盃でお酒
を召されて「酔ひの悲しび涙そそく春の盃のうち」と、二人声を合わせて
口ずさみなさいます。お供の人も涙を流しておりました。供人たちも其々、
直ぐに別れの時が来るのを惜しんでいるようでした。
明け方の空に雁が列を作って飛んで行きます。源氏の君が、
「故里をいづれの春か行きて見むうらやましきは帰るかりがね」(懐かしい
京の都をいったいいつの春になったら見ることができるのだろう。羨ましい
のは北に帰って行く雁である)
と歌を詠まれると、宰相の中将はまったく出発する気になれず、
「あかなくにかりの常世を立ち別れ花の都に道やまどはむ」(心残りなまま
この須磨の地を立ち去って、花の都へ帰る道にも迷うことになりましょう)
と、返歌をしたのでした。
中将からの都からの土産の品々は風流に仕立ててありました。このような
有難い訪問の見送りの品として、源氏の君は黒馬を差し上げなさいました。
「勅勘の身である私からの贈り物など不吉だと思われることでしょうが、
北風に吹かれて、いななき勇んで故郷に帰るでしょう」とおっしゃいます。
またとないような名馬の様をしております。中将は「これを形見に思い
出してください」と言って、有名な笛などを贈られたくらいで、人目に立つ
ようなことは、お互いになさることが出来ませんでした。
日が次第に高く上って気忙しいので、何度も後ろを振り返ることばかりして
中将が出て行かれるのを、お見送りになる源氏の君は、「なまじ会わない
ほうが良かった」と思っておられるご様子でした。中将が、「いつまた
お目にかかれることでしょう。いくら何でもこのままでは」とおっしゃると、
源氏の君は、
「雲近く飛びかふ鶴もそらに見よわれは春日のくもりなき身ぞ(宮中の近く
にいるあなたも見ていてください。私はこの春の日のように曇りのない
潔白な身なのですから)
一方ではそう期待しながらも、このような目に遭った人は、昔の賢人でさえ、
はかばかしく再び政界に復帰することは難しかったのですから、どうして
都の地を再び見ることがあろう、とは思っていないのです」などとおっしゃい
ます。
宰相の中将は、
「たつかなき雲居にひとりねをぞなくつばさ並べし友を恋ひつつ(頼る人
もなく、私は宮中で一人声を上げて泣いております。いつも一緒であった
友を恋しく思いながら)
もったいなくも親しくさせていただいて、なぜあんなに仲良くしていたのか、
と却って悔しく思われます折が多うございます」と、しんみりお話になる
間もなく、お帰りになってしまわれたあとは、源氏の君はいっそう悲しく、
ぼんやりと物思いに沈んでおられるのでした。
このころの道長は
2022年11月18日(金) 溝の口「枕草子」(第46回)
オンラインクラスで読んだ時もそうでしたが、やはり会場クラス
でも、この『枕草子』の中で最も長い第260段は、読み終える迄
に9月から3回を費やしました。
中の関白家最盛時の晴れがましい積善寺供養の様子を、その
前後も含め、作者が追想して書いた段ですが、華やかな場面が
多々描かれているにも拘わらず、読後には寂寥感の漂う段と
なっています。
積善寺供養が行われたのは正暦5年(994年)で、翌長徳元年
(995年)の4月に関白道隆が亡くなり、その後、嫡男伊周は道長
との政争に敗れ、中の関白家は凋落の一途を辿る事となりました。
のちに道長は藤原氏全盛の時代を築くことになりますが、積善寺
供養の折の道長の振る舞いを見る限り、そうした自分の将来を、
自身も予知していなかったのではないでしょうか。
前回読んだ所で、道隆以下の殿方全員が女院(東三条院詮子)
をお迎えに行ったことが書かれていました。二条大路で中宮定子
の行列と合流してから積善寺に向かって出発となったからなの
ですが、その折、中宮さまがなかなかお出ましにならず、清少納言
たちは、「『いかなるらむ』と、心もとなく」(「一体何をなさっている
のかしら」とじれったく)思っておりました。
その訳は、積善寺に着いてから、中宮さまがお話くださいました。
道長が女院のお供で着ていた下襲(したがさね/束帯の内着)と
同じ物を着ていると人に見られるのを嫌って、新しい物を急遽
縫わせて着替えていたので、遅れたのだ、ということでした。
中宮さまは、「いと好きたまへりな」(随分おしゃれにこだわりが
おありの人だわね)と言って、お笑いになっていました。
この頃、道長は大納言兼中宮大夫(中宮職の長官)でしたから、
中宮定子も道長を「大夫」と呼んでおられます。つまり、ここでの
道長は定子に仕える身だったのです。
積善寺供養の日は晴天で、翌日は雨となりました。関白道隆が
中宮定子のもとへ顔を出して、「これになむ、おのが宿世見え
はべりぬる」(ほらこの通りだよ、私の運の強さがはっきりと
わかりましたな)と、得意満面の様子を見せていました。
この世は無常、と改めて思い知らされる段でした。
オンラインクラスで読んだ時もそうでしたが、やはり会場クラス
でも、この『枕草子』の中で最も長い第260段は、読み終える迄
に9月から3回を費やしました。
中の関白家最盛時の晴れがましい積善寺供養の様子を、その
前後も含め、作者が追想して書いた段ですが、華やかな場面が
多々描かれているにも拘わらず、読後には寂寥感の漂う段と
なっています。
積善寺供養が行われたのは正暦5年(994年)で、翌長徳元年
(995年)の4月に関白道隆が亡くなり、その後、嫡男伊周は道長
との政争に敗れ、中の関白家は凋落の一途を辿る事となりました。
のちに道長は藤原氏全盛の時代を築くことになりますが、積善寺
供養の折の道長の振る舞いを見る限り、そうした自分の将来を、
自身も予知していなかったのではないでしょうか。
前回読んだ所で、道隆以下の殿方全員が女院(東三条院詮子)
をお迎えに行ったことが書かれていました。二条大路で中宮定子
の行列と合流してから積善寺に向かって出発となったからなの
ですが、その折、中宮さまがなかなかお出ましにならず、清少納言
たちは、「『いかなるらむ』と、心もとなく」(「一体何をなさっている
のかしら」とじれったく)思っておりました。
その訳は、積善寺に着いてから、中宮さまがお話くださいました。
道長が女院のお供で着ていた下襲(したがさね/束帯の内着)と
同じ物を着ていると人に見られるのを嫌って、新しい物を急遽
縫わせて着替えていたので、遅れたのだ、ということでした。
中宮さまは、「いと好きたまへりな」(随分おしゃれにこだわりが
おありの人だわね)と言って、お笑いになっていました。
この頃、道長は大納言兼中宮大夫(中宮職の長官)でしたから、
中宮定子も道長を「大夫」と呼んでおられます。つまり、ここでの
道長は定子に仕える身だったのです。
積善寺供養の日は晴天で、翌日は雨となりました。関白道隆が
中宮定子のもとへ顔を出して、「これになむ、おのが宿世見え
はべりぬる」(ほらこの通りだよ、私の運の強さがはっきりと
わかりましたな)と、得意満面の様子を見せていました。
この世は無常、と改めて思い知らされる段でした。
隠れ家での二日を過ごしたのち
2022年11月16日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第236回)
コロナの感染者数がまた増加に転じています。第8波が始まったの
でしょうか?東京では昨日から1万人を超えていますが、神奈川で
1万人を超えるようになると、会場での例会がまた難しくなるのでは、
と案じているところです。
このクラスは先月、第51帖「浮舟」のハイライトシーンである、匂宮が
浮舟を連れ出して小舟で宇治川を渡る場面を読みましたが、今日は
続いての対岸の隠れ家での濃密な二日間を過ごすところから、逢瀬
の後の浮舟の心の揺れが始まったあたりまでを読み進めました。
匂宮に惹かれる気持ちが抑え難くなっている浮舟。でも、母君や乳母
は、薫が浮舟を京に引き取り、妻妾の一人として扱おうとしていること
に「いとめやすくうれしかるべきこと」(とても世間体も良く、嬉しいこと)
と、ホッとしています。自分でもそう願っていたはずなのに、今浮舟の
脳裏に浮かぶのは匂宮のことばかり。うとうとしても夢に現れるのは
匂宮、という有様でした。
自由に宇治へ通うことが許される身分ではない匂宮ですが、浮舟への
思いが情熱的な言葉で綴られた手紙が送られてまいります。浮舟の
匂宮への恋心は一段と募りますが、かと言って薫を嫌っているわけで
はありません。思慮深くお人柄が立派な方だ、と好意を持っているだけ
に、いっそう悩むことになるのです。
「薫が匂宮とのことを知って疎まれることになったら生きて行けようか。
薫の妻の一人として京へ迎え取られることを楽しみにしている母親
からも、とんでもない娘だと思われよう。今こんなに私に夢中の匂宮
は、浮気なご性分だと聞いているから、きっと今だけのことだろう。
百歩譲って私を京に囲って愛し続けてくださってとしても、中の君が
それをどう思われるだろう。二条院での出来事だけを手掛かりに匂宮
が自分を見つけ出されたことからしても、同じ京の内で薫に知られずに
済むことはあるまい。ここで道を外して薫に疎まれては、それはやはり
悲しいことであろう」
ここでの浮舟の心中です。利口とは言えない浮舟ですが、それでも
わかってはいるのです。理屈ではわかっていてもその通りにできない、
これが人の性(さが)というものかもしれません。千年も前に、それを
物語のテーマとして取り入れているところに、『源氏物語』の凄さを
感じますね。
コロナの感染者数がまた増加に転じています。第8波が始まったの
でしょうか?東京では昨日から1万人を超えていますが、神奈川で
1万人を超えるようになると、会場での例会がまた難しくなるのでは、
と案じているところです。
このクラスは先月、第51帖「浮舟」のハイライトシーンである、匂宮が
浮舟を連れ出して小舟で宇治川を渡る場面を読みましたが、今日は
続いての対岸の隠れ家での濃密な二日間を過ごすところから、逢瀬
の後の浮舟の心の揺れが始まったあたりまでを読み進めました。
匂宮に惹かれる気持ちが抑え難くなっている浮舟。でも、母君や乳母
は、薫が浮舟を京に引き取り、妻妾の一人として扱おうとしていること
に「いとめやすくうれしかるべきこと」(とても世間体も良く、嬉しいこと)
と、ホッとしています。自分でもそう願っていたはずなのに、今浮舟の
脳裏に浮かぶのは匂宮のことばかり。うとうとしても夢に現れるのは
匂宮、という有様でした。
自由に宇治へ通うことが許される身分ではない匂宮ですが、浮舟への
思いが情熱的な言葉で綴られた手紙が送られてまいります。浮舟の
匂宮への恋心は一段と募りますが、かと言って薫を嫌っているわけで
はありません。思慮深くお人柄が立派な方だ、と好意を持っているだけ
に、いっそう悩むことになるのです。
「薫が匂宮とのことを知って疎まれることになったら生きて行けようか。
薫の妻の一人として京へ迎え取られることを楽しみにしている母親
からも、とんでもない娘だと思われよう。今こんなに私に夢中の匂宮
は、浮気なご性分だと聞いているから、きっと今だけのことだろう。
百歩譲って私を京に囲って愛し続けてくださってとしても、中の君が
それをどう思われるだろう。二条院での出来事だけを手掛かりに匂宮
が自分を見つけ出されたことからしても、同じ京の内で薫に知られずに
済むことはあるまい。ここで道を外して薫に疎まれては、それはやはり
悲しいことであろう」
ここでの浮舟の心中です。利口とは言えない浮舟ですが、それでも
わかってはいるのです。理屈ではわかっていてもその通りにできない、
これが人の性(さが)というものかもしれません。千年も前に、それを
物語のテーマとして取り入れているところに、『源氏物語』の凄さを
感じますね。
船旅の経験が無い作者
2022年11月14日(月) 溝の口「紫の会」(第61回)
季節外れの暖かさは昨日までで、今日は一気に寒くなるとの
予報だったので、結構厚着をして出掛けましたら、思ったほど
寒くはなく、帰りの電車内では汗ばむほどでした。ただ明日は
12月並みの気温になるということですから、しっかり寒さ対策
をしなければなりませんね。
「紫の会」の会場クラスは、オンラインクラスを追いかける形で
読んでいますが、今回、第12帖「須磨」の前半(京に残る人々
との別れ)から後半(須磨での源氏の生活)へと入りました。
京から須磨への移動は、「御船に乗りたまひぬ」(御船にお乗り
になった)とあります。
おそらく、山崎から乗って淀川を下り、難波で一泊。翌日再び
乗船して、海岸沿いに須磨を目指したのでありましょう。
その時、海上の光景を目にしながら源氏がどのような思いを
抱いたのか、「道すがら面影につと添ひて」(道中も紫の上の
面影が瞼から離れず)だったのですから、波間に浮かぶ船と、
揺れる源氏の胸の内とを交錯させながらの効果的な心情表現
に期待するところなのですが、そうしたものは描かれていません。
なぜでしょうか?
ここでの船旅はさほど長くもありませんが、第22帖「玉鬘」では、
玉鬘が九州から船で上京しています。それでも、海上の光景と
いったものは殆ど書かれていません。
おそらく作者の紫式部には、船旅の経験が無かったからだと
思われます。清少納言は『枕草子』の中で、実にリアルに航海
の様子を記しています。静かでのどかな海が急に荒れだす恐怖、
水夫たちの動き、屋形船の乗り心地や、港に停泊した際の夜景
の美しさ等々。
紫式部も清少納言も、受領階級の娘。共に国司として赴任した
父親の任国に同行しています。紫式部は越前国(福井県)へ、
清少納言は周防国(山口県)へ。紫式部の場合は陸路だった
でしょうし、清少納言のほうは、船で瀬戸内海を下った、と考え
られます。
平安貴族の女性たちには、船旅というのはごく稀な経験だった
と言えましょうが、紫式部が一度でもその体験をしていれば、
『源氏物語』の中にも生かされていたのではないかと、ちょっと
残念な気もしますね。
季節外れの暖かさは昨日までで、今日は一気に寒くなるとの
予報だったので、結構厚着をして出掛けましたら、思ったほど
寒くはなく、帰りの電車内では汗ばむほどでした。ただ明日は
12月並みの気温になるということですから、しっかり寒さ対策
をしなければなりませんね。
「紫の会」の会場クラスは、オンラインクラスを追いかける形で
読んでいますが、今回、第12帖「須磨」の前半(京に残る人々
との別れ)から後半(須磨での源氏の生活)へと入りました。
京から須磨への移動は、「御船に乗りたまひぬ」(御船にお乗り
になった)とあります。
おそらく、山崎から乗って淀川を下り、難波で一泊。翌日再び
乗船して、海岸沿いに須磨を目指したのでありましょう。
その時、海上の光景を目にしながら源氏がどのような思いを
抱いたのか、「道すがら面影につと添ひて」(道中も紫の上の
面影が瞼から離れず)だったのですから、波間に浮かぶ船と、
揺れる源氏の胸の内とを交錯させながらの効果的な心情表現
に期待するところなのですが、そうしたものは描かれていません。
なぜでしょうか?
ここでの船旅はさほど長くもありませんが、第22帖「玉鬘」では、
玉鬘が九州から船で上京しています。それでも、海上の光景と
いったものは殆ど書かれていません。
おそらく作者の紫式部には、船旅の経験が無かったからだと
思われます。清少納言は『枕草子』の中で、実にリアルに航海
の様子を記しています。静かでのどかな海が急に荒れだす恐怖、
水夫たちの動き、屋形船の乗り心地や、港に停泊した際の夜景
の美しさ等々。
紫式部も清少納言も、受領階級の娘。共に国司として赴任した
父親の任国に同行しています。紫式部は越前国(福井県)へ、
清少納言は周防国(山口県)へ。紫式部の場合は陸路だった
でしょうし、清少納言のほうは、船で瀬戸内海を下った、と考え
られます。
平安貴族の女性たちには、船旅というのはごく稀な経験だった
と言えましょうが、紫式部が一度でもその体験をしていれば、
『源氏物語』の中にも生かされていたのではないかと、ちょっと
残念な気もしますね。
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