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源氏が「心くらべ」に負けたのはなぜか

2023年4月27日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第33回・通算80回・№2)

先月のこのクラスの記事は、「源氏と入道の娘の『心くらべ』」
というタイトルで書きました(⇒こちらから)。今月講読した
ところで、その決着がついています。

「心くらべ」とは、意地の張り合い、根競べ、という意味合いを
持った言葉です。

源氏はプライド、世間体、紫の上への後ろめたさ、良清への
配慮などから、入道の娘を自分の許に侍らせ召人(お手付き
の女房)にしようと、考えていました。

一方の娘は、そもそも身分差のあり過ぎる源氏と結ばれた
ところで、それは源氏が明石に居る間の慰め相手となるだけ
であって、将来長きに渡って源氏に愛され続けることなどあり
得ない、と認識しており、気位の高さでは都の高貴な姫君にも
劣らない娘は、安易に源氏に靡く気には到底なれないのでした。

季節は秋となっています。源氏が須磨から明石へと移って
来たのは、晩春の3月13日でした。入道が源氏に初めて
娘の話をしたのが初夏の4月。その後文通が始まっている
ので、「心くらべ」も既に3ヶ月余に及んでいることになります。

思えば、京を離れて1年半近く、源氏は「独り寝」の夜を重ねて
来ました。紫の上に逢いたい気持ちを抑えに抑えて過ごし、
これ以上寂しさに耐えられなくなっていたのでしょう。秋という
殊更侘しさの募る季節も、その気持ちを駆り立てたようです。

源氏は「『このころの波の音に、かのものの音を聞かばや。
さらずは、かひなくこそ』など、常にのたまふ」(「この頃の波の
音に乗せて、そなたの娘の奏でる琴の音が聴きたいものだ。
そうでなくては、この秋という季節の甲斐もなかろう」と、常に
入道におっしゃるのでした)とあります。「常にのたまふ」という
のは、源氏が始終、そのよう入道におっしゃっていたわけです
から、そこには「段取りさえしてくれたら、自分が娘の所へ
行ってもよい」との意思表示が見て取れます。

入道は源氏の意を汲んで一人奔走し、8月13日の夜に源氏を
迎える準備を整えたのでした。

夜更けを待って、馬で娘の居る岡辺の宿へと向かいましたが、
途中、入江に映る月の光を見て、源氏は、このまま馬を駆って
京の紫の上に逢いに行きたいと思っておりました。これによって、
源氏の気持ちが向いている相手はやはり紫の上であり、入道
の娘に対しては、あくまで今の侘しさを慰めて欲しいだけなのだ、
ということがわかりますね。

この辺りにつきまして、詳しくは先に書きました「明石の全文訳
(10)」をご覧頂ければ、と存じます(⇒こちらから)。


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第13帖「明石」の全文訳(10)

2023年4月27日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第33回・通算80回・№1)

今月のオンライン「紫の会」は、第13帖「明石」の285頁・9行目
~289頁・9行目まで)を読みました。前半部分は4/17のほうで
書きましたので(⇒こちらから)、今日の全文訳は、後半部分
(287頁・1行目~289頁・9行目)となります。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)


明石では例によって、秋は浜風が殊更身に沁みるので、源氏の君は
独り寝も本当に侘しくて、入道にも折々話を持ち掛けなさいます。
「何とか目立たないようにして、娘をこちらに参らせよ」とおっしゃって、
ご自分がお出向きになるのはとんでもないことだとお考えですが、
娘のほうでもまた、決して源氏の君の許に出向くつもりはありません
でした。

「取るに足らない分際の田舎の女は、ほんの一時、都から下って来た
人の甘言に乗って、そのように軽々しく契りを結ぶこともしようが、
源氏の君は私のことなど人並みにも扱ってくださらないであろうから、
ひどい物思いの種を加えるだけのことになるのだろう。こんなに及びも
つかない高望みをしている両親も、今迄のように、まだ娘の結婚のこと
を具体的に考えずに済んでいた間は、当てにもならないことを当てに
して、将来に望みを抱いていたことであろうが、実際に源氏の君と結ば
れたなら、却って心配が尽きないことになるであろう」と思い、また、「ただ
この明石の浦に源氏の君がいらっしゃる間、こうしてお手紙の遣り取り
をするだけでも並々ではないことなのに、長年噂に聞くだけで、一体いつ
源氏の君のようなお方のご様子をちらりと拝見することがあろうかと遥か
に思い申し上げていたところ、こうして思いも掛けず明石にお住まいに
なることになって、面と向かってではないけれど、わずかに見申し上げ、
右に出る者がいない名手だと耳にしていたお琴の音も、風のまにまに
聴き、明け暮れのお暮らしぶりも身近に感じるようになり、ここまで人並み
にお扱いくださるのは、こうした海辺の賤しい者たちの中に落ちぶれて
しまった私になど、分に過ぎることなのだ」と思うと、ますます気後れが
して、全く源氏の君と結ばれるのは論外なのでした。

親たちは、長年の願いが叶うことになるはずだ、とは思うものの、軽はずみ
にも娘を源氏の君に差し出して、人並みにも扱っていただけなかった時
、どんな嘆きをすることになろうかと、娘の気持ちを思い遣ると、心配で
たまらず、「源氏の君がいくら立派なお方だと申しても、そんなことになった
ら、辛く、酷いことをなさると恨むことになろうよ、目に見えない仏や神を
当てにして、源氏の君のお気持ちも、娘の運命も考えに入れないで」などと、
立ち返って見て思い悩んでいるのでした。

源氏の君は、「この頃の波の音に乗せて、そなたの娘の奏でる琴の音が
聴きたいものだ。そうでなくては、この秋という季節の甲斐もなかろう」と、
常に入道におっしゃるのでした。

 入道はこっそりと吉日を見計らって、母君があれこれと心配するのに
耳も貸さず、家来たちなどにさえ知らせず、自分の一存で奔走して、
娘の部屋をまばゆいばかりに整えて、十三日の月が華やかに差し昇る頃
に、ただ「あたら夜の」(惜しむべき今宵の)と、源氏の君に申し上げました。

源氏の君は、風流ぶったものだなぁ、とお思いになりますが、直衣をお召し
になって身なりをお整えになり、夜更けを待ってお出でになりました。牛車
は入道がこの上なく立派に用意しましたが、窮屈だ、と源氏の君はお思い
になり、馬でお出かけになりました。惟光などだけをお供させなさいます。

岡辺の館は、海辺から少し遠く入った所にありました。道中も四方の海辺
の景色を見渡されて、いとしい人と一緒に眺めたい入江に映る月光をご覧
になるにつけても、源氏の君は先ず恋しい紫の上のことを思い出しなさると、
このまま馬に乗って通り過ぎ、京へと向かいたい気がなさるのでした。
 「秋の夜のつきげの駒よわが恋ふる雲居を翔れ時の間も見む」(秋の夜
  のつきげの馬よ、月という名を持っているなら、私が恋しく思う都へと、
  大空を翔けておくれ。束の間でもあの人の姿を見ようものを)
と、自然と独詠なさったのでした。


「代官山ASOチェレステ日本橋店」で打ち合わせ

2023年4月26日(水)

あいにくの雨となりましたが、今日は大学のクラス会の幹事4人で
打ち合わせ会食をするため、「三越前」まで電車に乗って出掛け
ました。

日本橋三越新館10Fにある「代官山ASOチェレステ日本橋店」での
ランチは二度目ですが、前回がいつだったかはっきりと憶えておらず、
ブログを見直したら、2018年の8月でした(その記事は⇒こちらから

2019年に仙台で開催されたクラス会以降、コロナ禍で4年間空いて
しまいましたが、今日幹事で集まって、具体的にいつ、どこで、と
いう話をしました。幹事の中に岡山出身の方がいらっしゃり、私たち
も来年は後期高齢者になることを思うと、遠方でのクラス会が出来る
ラストチャンスかも?と、10月末に倉敷で、と決めました。まだこの先
コロナもどうなるかわからないので、実行できない可能性もあります
が、早速ホテルも予約し、今はとても楽しみにしています。

「代官山ASOチェレステ日本橋店」のお食事は、見た目も、お味も、
サービスも、外食の喜びを与えてくれる満足度の高いものだと
思います。メインがパスタの平日限定ランチ(4,598円 税・サ込)を
いただきました

    三越ランチ③
前菜メニューの中から選んだスープ。「人参のスープ」と言われて
注文したのですが、人参入りソースを使った前菜という感じでした。
後ろに写っているちょっと塩味の効いたホイップバターも美味しい
のですが、このスープ(ソース)を、例によってお行儀は悪いのです
が、パンで綺麗に拭うようにして食べました。少しでもお皿に残る
のが勿体ないお味でしたから。

    三越ランチ②
パスタは、「蛍烏賊のスパゲティプッタネスカ 山椒の香り」を選び
しました。ホタルイカの香りが口いっぱいに広がり、山椒の香りが
それにプラスされて、これもお店ならでは、の味わいでした。
以前は+1,000円でオマール海老のパスタを選べたのですが、
今は+3,000円になっていて、さすがにそこまでは、と諦めました。

    三越ランチ①
デザートは、前回ブログにUPしたのと全く同じものですが、これは
モンブラン好きには絶対に外せません。他の皆さまも口を揃えて
「美味しい!」と召し上がっていました。ふわふわのメレンゲに
包まれたピラミッド形の「チェレステ特製モンブラン」、おススメの
一品です。

気の置けない仲間との美味しいランチタイム(今日は打ち合わせ
という大義名分も加わっていましたが)、幸せなひと時でした。


『源氏物語』における三人の楊貴妃

2023年4月24日(月) 溝の口「湖月会」(第167回)

最高気温が25度を超える夏日が続いたかと思うと、この二、三日
は、少し厚手の上着が必要となっております。大きな気温変化は、
体調を保つのに苦労しますね。

第4月曜日の「湖月会」は、第2金曜日のクラスと同じ個所を講読
しますので、今日は第49帖「宿木」で、中の君が初めて薫に浮舟
の存在を告げる場面を中心に読みました。

中の君の話しぶりから、八の宮の隠し子がいるのを察した薫です
が、本来なら、そのような八の宮の恥を晒すような話題を追及する
のは失礼だと遠慮するところを、大君に似ている、ということで、薫
は更に詳しく聞きたいと中の君を促します。その中で薫が言います。
「世を海中にも、魂のありか尋ねには、心の限り進みぬべきを・・・」
(世を憂いつつ海中に浮かぶ仙山に住んでいた楊貴妃の魂を尋ね
出したように、大君の魂のありかを探し出せるというのなら、私は
どこまでも心を奮い立たせることができましょうが・・・)と。

『源氏物語』の構想に最も影響を及ぼした作品は、やはり『長恨歌』
ではないでしょうか。玄宗皇帝が、亡くなった楊貴妃を忘れられず、
遂には臨邛の方士に命じて楊貴妃の霊魂を探し出させることになる
のですが、紫式部は第1帖「桐壺」での、亡き桐壺の更衣を忘れる
ことの出来ない桐壺帝に、玄宗皇帝の姿を重ねています。

桐壺帝に命じられて亡き更衣のお里を弔問した靫負命婦が、母君
から形見分けとしていただいた髪上げの調度類などをご覧に入れて
帝に報告します。『長恨歌』で、楊貴妃は玄宗皇帝との思い出の残る
螺鈿の箱と金の釵の一部を方士に託しました。その場面を受けて、
桐壺帝は「亡き人の住処尋ね出でたりけむしるしの釵ならましかば」
(亡き人の住処を尋ね出したという証拠の釵だったなら)と思い、次の
歌を詠まれます。

「尋ねゆく幻もがなつてにても魂のありかをそこと知るべく」(亡き更衣
の魂を尋ねる幻術士がいてほしい。人づてにでも魂のありかをそこだ
と知ることができれば)

次は第41帖「幻」。光源氏の物語最後の巻です。前年の秋に亡くなった
紫の上をひたすら追慕して過ごす源氏の一年を描いていますが、冬に
なり、時雨がちな空を眺めて源氏が詠んだ歌です。

「大空を通ふ幻夢にだに見え来ぬ魂の行方尋ねよ」(大空を自由に
翔ける幻術士よ、夢にさえ現れぬ紫の上の魂の行方を尋ねておくれ)

桐壺帝の桐壺の更衣、源氏の紫の上、そして薫の大君。亡くなっても
なおその魂までもが求められる女君たちが、『長恨歌』の楊貴妃に
なずらえられて、第一部、第二部、第三部、それぞれに描かれている
のです。


鶏肉と筍のバルサミコ炒め

2023年4月23日(日)

先日、ブロ友さんの筍の記事を見て、私が「5本目の筍で『鶏肉
と筍のバルサミコ炒め』を作りました」と、コメントをしたところ、
「鶏肉と筍のバルサミコ炒め?作り方知りたいですよ~ぉ」との
コメ返しを戴きました。

これは私のオリジナル料理ではなく、ちょうど何か新しい筍料理が
ないかなぁ、と思っていたところ、新聞で紹介されていたものです。

昨年、筍にはバルサミコ酢が合う、と教えてくださったブロ友さんも
いらして、実際筍にバルサミコソースを掛けたら美味しかったことも
あり、作ってみました。なかなかいいお味ですよ。今回、さやえんどう
を買い忘れたので、山椒の芽で彩りを誤魔化しましたが、山椒との
相性も悪くなかったです。

   鶏肉とタケノコのバルサミコ炒め

材料)2人分
鶏もも肉   250g
茹でた筍   160g
さやえんどう  10枚(買い忘れ💦)
バルサミコ酢  大さじ1と1/2
砂糖       大さじ1
酒        大さじ1
醤油       小さじ2

作り方)
① 筍は長さ4㎝位の薄切りにする。さやえんどうは筋を取る。
② 調味料を全部合わせておく。
③ 鶏肉は3㎝程度の削ぎ切りにし、酒大さじ1/2、塩少々で
 下味をつける。
④ プライパンにオリーブオイル大さじ1/2を入れて熱し、③に
 片栗粉をまぶして皮側を下にして約3分、裏返して約2分、
 鶏肉に火が通るまで焼く。
⑤ ④に①を加えて、1分程炒める。
⑥ ⑤に②を加え、汁気が無くなったら火を止める。


伊周礼賛

2023年4月21日(金) 溝の口「枕草子」(第51回)

溝の口の「枕草子の会」も先が見えてまいりました。今日は、
第292段~第298段までを読みましたので、残るのは一本
(別本の意)の27段と跋文のみです。6月読了というのが
区切りとしても良いので、それを目標としています。

本日講読した中で、清少納言の思いが一番込められている
段となると、やはり第293段かと思われます。

時は正暦5年(994年)の夏、中の関白家の絶頂期です。

一条天皇が、中宮定子の上御局(清涼殿の中で女御や更衣
に与えられた控室で、定子の場合は弘徽殿の上御局だった)
においでになる時、定子の兄・伊周が参上して、帝に漢詩の
ことなどを奏しているうちに、夜がたいそう更けて、「丑四つ」
(午前2時半)になっていました。帝も柱に寄り掛かって眠って
おられます。

その時、下級女官の使っている童が捕まえて隠していた鶏が、
犬に追われて逃げ込んで来て、鳴き声を立てたので、帝も驚い
て目を覚まされました。「いったいどうして鶏が?」と、お訊ねに
なった帝に、伊周は「声、明王の眠を驚かす」(声が聡明な君主
を眠りから覚まさせる)と答えたのでした。

またその翌日、中宮さまが帝の夜の御殿に召されておられた
夜中頃に、清少納言が自分の部屋に下がろうとして、召使を
呼ぶと、伊周が「送ってあげよう」と言って、エスコートしてくだ
さいました。その途中で「遊子なほ残りの月に行く」(遠くへ旅
する人は、やはり残月の光の中に歩き続ける)と口ずさむ伊周
を、作者は「またいみじうめでたし」(またとっても素晴らしい)と
褒めちぎりました。

伊周が口にしたのは、いずれも『和漢朗詠集』にある漢詩の
一節ですが、その場にマッチした漢詩を即座に朗吟できる
伊周に、まだ出仕して一年も経たない清少納言が、どんなに
心服し、ときめいたかは、察することが出来ますね。

伊周は『栄花物語』の巻五「浦々の別れ」で、「かの光源氏も
かくやありけむ」(あの光源氏も、このようだったのだろうか)と
書かれていて、イケメンだったようですし・・・。

この翌年、伊周や中宮定子の父・関白道隆が亡くなってしまい
ました。まだ43歳でした。これを境に、伊周の順風満帆だった
人生も一変します。私は平安中期の歴史を一番大きく変えた
のは、道隆の急死だったと思います。来年の大河ドラマで、
定子や伊周の配役はまだ発表になっていませんが、道隆は
井浦新さんですね。道隆のイメージからすると、ちょっと線が
細い感じもしますが、どんな道隆像が生み出されるのか、
とても楽しみです。


第51帖「浮舟」を読み終える

2023年4月19日(水) 湘南台「源氏物語を読む会」(第241回)

今日の日中の最高気温は、24度台の夏日ギリギリのところ
まで上がりました。明日は完全に夏日になるとの予報です。
まだ4月だというのに・・・。着る物に困ってしまいます。

2000年4月にスタートした湘南台クラス。今月から24年目に
入ったということになるのですね。最初の数年は、年に10回
のペースでしたし、コロナ禍で17回の休講もありましたが、
それにしても丸23年が経ったとは!今日で第51帖「浮舟」を
読み終え、第52帖「蜻蛉」に少し入りましたので、先は見えて
来ておりますが、私の50代、60代、そして70代前半を共に
過ごしたと思うと感慨深いものがあります。

さて、その「浮舟」の巻の最後ですが、薫の命令で、警護が
厳しくなった宇治を、無理な算段をしてこっそりと訪れた匂宮
でしたが、結局浮舟とは言葉を交わすことも無く帰らざるを
得ませんでした。

翌朝になって、浮舟も匂宮の描いた絵を見ては、その折の
匂宮の姿を思い出し、昨夜一言も申し上げられないまま
終わったことが、一際悲しく思われるのでした。

そのうちに、浮舟の母君からの「悪い夢を見て不吉な気が
してならないので、宇治の山寺で誦経をして貰うように」
との手紙を携えた使者がやって来ました。母君自身は、
浮舟の異父妹の出産が近くて家を空けられないので、
宇治へは出向けなかったのです。

乳母も、「妙に胸騒ぎがしてならない。母上のお手紙にも
夢のことをが書かれていましたし、宿直の者はしっかりと
警護するように」と、女房に言わせていました。

お傍近くで寝ている右近は、「そんなに物思いに耽っていて
は魂も身を抜け出して彷徨うといいますから、母君の夢見
も悪いのでしょう。どちらかお一人をお選びになって、その
結果がどうなろうと、思う通りになさってくださいませ」と
言って嘆いております。

それを受けて、最後の一文となります。

「萎えたる衣を顔におしあてて、臥したまへりとなむ」(糊気の
落ちた着物を顔に押し当てて、横になっておられた、という
ことです)。

母君、乳母、右近、それぞれに浮舟の身を案じていながら、
空回りしています。こうした周囲の人々の様子を描くことで、
いっそう浮舟の孤絶した哀しみが浮かび上がって来る構図と
なっています。

涙と嗚咽が漏れないように、着古した着物を顔に押し当てて
いる浮舟、切ない姿ですね。

「浮舟」の物語は、ここで一旦幕を閉じることになります。


弘徽殿の大后と朱雀帝親子

2023年4月17日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第33回・通算80回・№2)

第13帖「明石」も後半に入りました。

季節は夏から秋へと移り、ずっと「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けてきた源氏と入道の娘の間に進展がありますが、その前に
一度、舞台が明石から京に替わる場面が出てまいります。

今日は全文訳も、その部分になっていますので(⇒こちらから)、
ここで紹介する話題もそこから取り上げました。

話は晩春の3月13日に戻ります。桐壺院が源氏の夢枕に立ち、
「住吉の神のお導きに従って、早く須磨の浦を立ち去るように」
とおっしゃった後、「帝にも奏上せねばならぬことがあるので、
これから急ぎ京に上ることにする」と言って、立ち去られました。

その言葉通り、京でも雷鳴が轟き、風雨が激しい中、桐壺院は
朱雀帝の夢の中に姿を現し、とてもお怒りのご様子で、朱雀帝
を睨んでおられました。「聞こえさせたまふことども多かり。源氏
の御ことなりけむかし」(桐壺院が朱雀帝に向かって、申し上げ
なさったことは沢山ございました。源氏に関することだったよう
ですね)とあります。

桐壺院の怒りというのは、第10帖「賢木」での遺言が守られて
いないことにあったのだと考えられます。父院が、源氏を重用
するように、と強く言い残され、朱雀帝自身もその遵守を誓った
にも拘わらず、母・弘徽殿の大后や外祖父の右大臣に阻まれ
て、果たせずにいたからです。

怖くなった帝は、母・弘徽殿の大后に相談します。すると、どう
でしょう。

「雨など降り、空乱れたる夜は、思いなしなることはさぞはべる。
軽々しきやうに、おぼしおどろくまじきこと」(雨などが降って、
天気が悪い夜には、そうだと思いこんでいることが、そんなふう
に夢に現れるものなのです。下々の者のように、おどおどする
ものではありません)と、一刀両断のもとに切り捨てています。

「怨霊」なるものが恐れられていた時代です。古くは藤原四兄弟
が疫病(天然痘)で次々と亡くなった時、陥れた長屋王の怨霊の
仕業だと噂され、近くは清涼殿に雷が落ち、5人の死傷者を出し、
醍醐天皇は体調を崩して譲位、まもなく崩御されたのも、菅原
道真の怨霊による祟りだと信じられていました。このような中で、
弘徽殿の大后の科学的で胸のすくようなセリフは、肝っ玉の
据わりようが窺え、痛快でさえあります。
 
その後太政大臣(もとの右大臣)の死去や、弘徽殿の大后の
体調不良なども加わって、ますます気弱になった朱雀帝は、度々、
源氏を復位させよう、と大后に提案なさいます。でも大后は頑と
して受け入れず、「罪に懼ぢて都を去りし人を、三年をだに過ぐ
さず許されむことは、世の人もいかが言ひ伝へはべらむ」(罪に
問われるのを懼れて都を捨てた人を、三年も経たないうちに許し
ては、世間でもどんなふうに噂するか知れたものではありません)
などと、逆に厳しくお諫めになるのでした。

この「三年」というのはちゃんと法律に照らし合わされたもので、
757年に施行された「養老律令」の中に、流罪に相当しなくても
配流された者の仕官の許可は最低三年後、と定められていま
した。

以前に、弘徽殿の大后が中国の『史記』にも通じた人であると
述べましたが(その記事は⇒こちらから)、ここで更に法律にも
明るい知的な女性であったことがわかります。これはそのまま
作者紫式部自身にあてはまることでありましょう。

それにしても、弘徽殿の大后からすると、この朱雀帝の気弱な
性格は、どんなに歯がゆく感じられたことでしょうね。


第13帖「明石」の全文訳(9)

2023年4月17日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第33回・通算80回・№1)

今日は高校同期の女声合唱団が、横浜のみなとみらいホール
での合唱祭に出演するので、そのメンバーや応援に行く人も
あり、第4木曜日への振替希望者が多く、参加者は5名だけで
した。いつにも増して、のんびりと雑談に花を咲かせ、講読した
箇所は僅かでした。会場クラスと6月で足並みが揃うようにしたい
ので、意図的に、の部分もありましたが・・・。

今月のオンライン「紫の会」の講読箇所は、第13帖「明石」の
285頁・9行目~289頁・9行目まで)となります。今日の全文訳は、
その前半部分(285頁・9行目~286頁・14行目)です。後半部分
は、第4木曜日(4/27)のほうで書きます。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成 源氏物語二」による)


その年は、朝廷に神仏のお告げがしきりにあって、物騒に思わ
れることが多々ございました。三月十三日、雷鳴が轟き、稲妻が
光って、雨風の騒がしい夜となっていたところ、帝の御夢で、
桐壺院が清涼殿のお庭に続く階段にお立ちになって、ご機嫌が
とてもお悪く、帝を睨んでおいでになるのを、帝は恐縮してご覧
になっていました。

父院が帝に申し上げなさったことは沢山ございました。源氏の君
に関することだったようですよ。

帝はとても恐ろしくて、源氏の君がお気の毒だとお思いになり、
弘徽殿の大后に申し上げなさると、母后は、「雨などが降って、
天候の悪い夜は、そうだと思い込んでいることが夢に現れるもの
なのです。下々の者のように、おどおどするものではありません」
とおっしゃいました。

父院が帝をお睨みになった際に目が合った、と夢にご覧になった
せいか、帝は御目も患われて、堪え難くお苦しみになられます。
物忌などを、宮中でも、皇太后宮でも数知れず執り行われました。

太政大臣(元の右大臣)がお亡くなりになりました。亡くなられても
不思議ではないご高齢でしたが、次々に自然と穏やかではない
ことが続くうえに、大后もどことなくお加減がお悪くなられて、時が
経つにつれて弱ってこられるようなので、帝におかれては、ご心痛
の種が尽きないのでした。

「やはり、この源氏の君が本当に罪も犯していないのに、このように
逆境に沈んでいるならば、必ずその報いを受けることになろうか
と存じます。この上はやはり、源氏の君に元の位を与えましょう」と、
たびたびお考えになっておっしゃるのに対し、大后は、「世間も、
それでは軽々しい処置だと非難しましょう。罪を怖れて都を去った
人を、三年も経たないうちに許すことをなさっては、世間の人も、
それはどうしたものだろう、と噂することでしょう」などと、大后が
厳しくお諫めになるので、帝が遠慮なさっているうちに、月日が
経って、お二人のご病気は、それぞれに次第に重くなっていらっ
しゃいました。


「人形(ひとがた)」としての浮舟

2023年4月14日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第167回)

今日はコートを着て歩くと汗ばむほどの陽気でしたが、明日は
一転して冷たい雨の降る一日となるようです。最高気温は8度
も下がるとか。まだ衣更えは出来ませんね。

なかなか話が進展しない第49帖「宿木」ですが、ようやく次の
ステップが見え始めました。

再び匂宮が不在の夕方、中の君の許を訪れた薫は、御簾と
几帳の間に身体を滑り込ませて、中の君への思いを訴えます。
次第に外が暗くなって来ても、薫は帰ろうとしません。中の君
は先夜の事もあるので、「わづらはしとのみ」(面倒な事だと
ばかり)思っておりましたが、大君をいつまでも忘れることが
できない薫は、「昔おぼゆる人形をもつくり、絵にも描きとりて」
(亡き大君を偲ぶ人形でも作り、絵にも写しとって)、それに
向かって勤行をしたい、と言います。その人形(ひとがた)という
言葉をきっかけとして、中の君が「人形のついでに、いとあやしく
思ひ寄るまじきことをこそ思ひ出ではべれ」(そういえば、人形と
おっしゃったついでに、とてもおかしな思いつくはずもないことを
ふと思い出しました)と、先日母親に連れられて二条院を訪ねて
来た、大君によく似た異母妹(浮舟)の存在を語り始めたのでした。

この「人形のついで」という形で切り出されたことが、浮舟に求め
られるものを示している、と言ってよいでしょう。

「人形(ひとがた)」とは、禊や祓えの際に、身についた罪障や穢れ
を移して水に流す、木製や紙製の人間の形代(かたしろ)です。

浮舟は大君の形代として物語の中に登場してきますが、同時に
中の君の身代わりとして、水に流される運命をも背負っていたの
ではないかと思われます。


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