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このころの道長は

2022年11月18日(金) 溝の口「枕草子」(第46回)

オンラインクラスで読んだ時もそうでしたが、やはり会場クラス
でも、この『枕草子』の中で最も長い第260段は、読み終える迄
に9月から3回を費やしました。

中の関白家最盛時の晴れがましい積善寺供養の様子を、その
前後も含め、作者が追想して書いた段ですが、華やかな場面が
多々描かれているにも拘わらず、読後には寂寥感の漂う段と
なっています。

積善寺供養が行われたのは正暦5年(994年)で、翌長徳元年
(995年)の4月に関白道隆が亡くなり、その後、嫡男伊周は道長
との政争に敗れ、中の関白家は凋落の一途を辿る事となりました。

のちに道長は藤原氏全盛の時代を築くことになりますが、積善寺
供養の折の道長の振る舞いを見る限り、そうした自分の将来を、
自身も予知していなかったのではないでしょうか。

前回読んだ所で、道隆以下の殿方全員が女院(東三条院詮子)
をお迎えに行ったことが書かれていました。二条大路で中宮定子
の行列と合流してから積善寺に向かって出発となったからなの
ですが、その折、中宮さまがなかなかお出ましにならず、清少納言
たちは、「『いかなるらむ』と、心もとなく」(「一体何をなさっている
のかしら」とじれったく)思っておりました。

その訳は、積善寺に着いてから、中宮さまがお話くださいました。
道長が女院のお供で着ていた下襲(したがさね/束帯の内着)と
同じ物を着ていると人に見られるのを嫌って、新しい物を急遽
縫わせて着替えていたので、遅れたのだ、ということでした。

中宮さまは、「いと好きたまへりな」(随分おしゃれにこだわりが
おありの人だわね)と言って、お笑いになっていました。

この頃、道長は大納言兼中宮大夫(中宮職の長官)でしたから、
中宮定子も道長を「大夫」と呼んでおられます。つまり、ここでの
道長は定子に仕える身だったのです。

積善寺供養の日は晴天で、翌日は雨となりました。関白道隆が
中宮定子のもとへ顔を出して、「これになむ、おのが宿世見え
はべりぬる」(ほらこの通りだよ、私の運の強さがはっきりと
わかりましたな)と、得意満面の様子を見せていました。

この世は無常、と改めて思い知らされる段でした。


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コメント

No title

私も,所属していたグループの集まりで、メンバーの方と同じ日に同じ模様の服を着ていたことがあり、なんともいえない気持ちになりました。
それ以降、2人ともその服はその集まりのときは着ませんでしたが、昔も、同じような感情があったようで、安堵いたしました(^^;;

No title

utokyoさま

いつもお忙しい中をコメント戴き、有難うございます。

道長のしていること、ある意味可愛いですよね。「同じもの着ている」なんて、他の人がさほど気にすることでもないでしょうに、急ぎ新調して着替えまでして・・・。

この時点ではまだ、自分が一年後に権力闘争を繰り広げる身になろうとは、予測だにしていなかったのでしょう。だからこんなことに拘っていられた、そんな気がしますね。

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