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箏の琴の名手ここに在り

2023年6月22日(木) オンライン「紫の会・木曜クラス」(第35回・通算82回・№2)

源氏と入道の娘が結ばれて約1年。源氏28歳の7月20日過ぎ、
京への召還の宣旨が下されました。8月に入り、いよいよ源氏
の出立が明後日となった日、源氏は入道の娘と最後の逢瀬の
時を持ち、初めて娘の弾く箏の琴の音を聴きます。

入道が自慢して、源氏もそれが聴きたいから娘に逢いたいと
望んだにも拘らず、娘はこれまで源氏の前で琴を演奏していま
せんでした。

源氏は箏の琴の一番の名手は藤壺だと思ってきました。当世風
で、聞く人誰もが「ああ素晴らしい」と満足する演奏でしたが、
入道の娘の琴の音は、「あくまで弾き澄まし」(どこまでも音が
澄み切っており)、「心にくくねたき音ぞまされる」(奥ゆかしく、
癪に障るほど、音色が優れている)のでした。

「ねたし」(癪に障る)というのは、この場合最大の褒め言葉として
使われています。源氏はどうして何ヶ月物もの間、無理強いを
しても聴かなかったのだろう、と悔やまれ、いっそう入道の娘に
心惹かれます。再会の約束をなさり、京から持ってきた自身の
琴の琴を「また搔き合はせするまでの形見に」(また一緒に合奏
する時までの形見に)と、明石に残して行くことにしたのでした。

初めて声に出して歌を詠み交わした時の入道の娘の印象は、
その雰囲気が六条御息所にとてもよく似ている、というものでした。
そして今、箏の琴の音が藤壺にも優ると源氏に思わせたのです。
六条御息所や藤壺は、貴婦人中の貴婦人。その二人に劣らない
入道の娘は、すぐさま都の上流貴族社会で通用する、つまり
源氏の妻として何ら不足のない女性だということがわかります。
ただ一つ、彼女に不足していたのは、出自が受領階級という、
本人の力ではどうすることもできない身分だったのです。


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コメント

No title

おはようございます。

源氏物語、頑張って一応読み終えた(疲れました)だけで、余り記憶も定かではないのです。
が、明石の入道とその娘は、とても惹かれました。

出自、切ないです。

No title

こすずめさま

『源氏物語』を通読なさっていらっしゃるのは、長年の愛読者の一人として、とても嬉しく存じます😃

原稿用紙にして2,500枚前後の長編、しかも名前も憶え難く、人間関係もややこしく絡み合っていて、読み通すのは余程興味がなければ至難の業だと思います。

出自で苦労を強いられる姿は、明石の上のように本人が優れていればいるほど気の毒に感じられますね。

拙ブログは、講読するクラスによって、物語が前後してしまい、わかり難くてすみません。カテゴリのクラス別にアクセスしていただくほうが、話が続いて読み易いかもしれません。それでも後で書いたもののほうが、先に出て来てしまいますけど・・・🙇

No title

昔は、身分の差によって理不尽なことに出会うことも多々あったようですね・・・・・
生まれたときから人生の選択肢がかなり狭まっているというのは、とても辛いことで、今は良い時代になったとつくづく思います。

No title

utokyoさま

いつもコメントを有難うございます。

今だって平等とは言い難いかもしれませんが、昔のような生まれながらの身分による差別がまかり通っていた時代に比べると、生き易くなっていると言えましょうね。別のところでの生き難さもあるとは思いますが。



No title

明石の上を個人的に好きになれないのは、紫上びいきが過ぎる故。わかってはいるのですが、自分が寂しくつらい状況にある時の「本気」は、相手の女性が優れていればいるほど許しがたいものです。ただ、今回、琴の音を的確に分析していただけたことは非常に勉強になりました。なるほど、六条御息所の雰囲気に、藤壺に勝る琴の腕。当時の技芸の嗜みは、その人の内面を映じるものですから、身分さえ整っていれば、明石の入道の娘は、源氏の妻として、紫上に迫る女性だったと描かれているわけですね。その彼女が、后がねである娘をもった。う~ん、ますます紫上の苦悩が身に沁みます。紫上も結局は、その身分故に女三宮に遠慮することになるわけです。身分による縛り。重苦しくのしかかります。

No title

吹木 文音 さま

コメントを有難うございます。

昨夜返信を書いて送信ボタンを押した途端、FC2画面にアクセス出来なくなって、何度やり直しても、再起動してもダメで、コメントの返信は諦めました。遅くなってごめんなさい🙇

光源氏もそうですが、史実においても、当時の上流貴族社会に生きる男性たちは外戚として政治的実権を握るため、娘の入内に懸命になっていましたよね。源氏はその娘の格上げのために、身分の低い実の母親からは引き離し、出自の良い妻に養女として育てさせる、という形を取りました。のちに夕霧も同じようなことをしています。それぞれの女性の思いなど、無視した酷いやり方だと感じます。

以前のブログにも書きましたが、晩年の紫の上が「女ばかり、身をもてなすさまも所狭う、あはれなるべきものはなし」(女ほど、身の処し方も窮屈で、可哀想なものはない)と述懐しています。これは直接的には落葉の宮に同情しての思いですが、そのような個人の問題を超越したところでの当時の女性の生き難さを訴えたものと考えられます。

『源氏物語』は、女君たちの哀しみが切ない物語だと思います。

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