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桐壺の更衣のモデルは?

2016年5月26日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第2回)

夕方には雨になるという予報でしたので、折りたたみ傘をバッグに
入れて出かけましたが、帰宅時にもまだ青空が広がっていました。
雨は明日になるようです。

「紫の会」の第4木曜クラスは、第2月曜クラス同様、「桐壺」の巻の、
更衣が亡くなって季節が夏から秋になった、というところまでを読み
ました。

若宮(のちの光源氏)が三歳の夏に桐壺の更衣は亡くなりますが、
本文中に書かれている彼女のセリフは、ただ一箇所だけです。

「限りとて別るる道の悲しきにいかまほしきは命なりけり いとかく
思うたまへましかば」(もうこれでお別れ、と死出の道に赴く悲しさに
つけても、もっと生きていとうございました。こんなふうになることが
わかっておりましたならば)

これが言わば更衣の辞世の歌になるのですが、この歌を見ると、
思い出されるのが、一条天皇の中宮(亡くなった時は皇后)定子の、
次の辞世の歌です。

「知る人もなき別れ路に今はとて心細くもいそぎ立つかな」(知る人も
いない死出の道に、今はもうその時ということで、私は心細くも急ぎ
旅立って行くのですね)

詠まれている心情に共通するものが窺えます。

桐壺の更衣のモデルには、藤原沢子(仁明天皇女御・光孝天皇母)
が、帝の寵愛も深く、その亡くなった時の状況が酷似している(宮中で
俄かに病が重くなり、退出してすぐに逝去。三位が追贈された)ので、
挙げられることが多いのですが、中宮定子もまたモデルの一人として
考えられています。

一条天皇の寵愛を独占していたこと、父を亡くして後見を失ったこと、
皇子を一人残して、若くして死去したこと、など、作者が桐壺の更衣の
造型にあたって、定子をベースにした可能性は十分にあり、辞世の歌
の類似性などがあっても不思議ではありません。

中宮定子にはこの歌の他に、辞世の歌が二首あり、話がそちらに
及んでいるうちに、今日も15分の時間オーバーとなってしまいました

この後、5月9日の「桐壺の巻・全文訳」の続きを書きます。


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