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第二帖「帚木」の巻・全文訳(4)

2016年11月24日(木) 溝の口「紫の会・木曜クラス」(第8回・№2)

本日読みました「帚木」の巻(53頁・3行目~61頁・14行目まで)の
後半に当たる部分(56頁・14行目~61頁・14行目)の全文訳です。
(頁・行数は、「新潮日本古典集成本」による。)

思わせぶりにはにかんで、夫に対して言うべき恨み言も気づかぬふりを
して我慢し、表面は何気なく装って振る舞い、そのくせ、胸一つに納め
きれなくなった時は、言いようもなく悲し気な置手紙をしたり、哀れな歌を
詠み置いたり、思い出してもらえるような形見の品を残したりして、
深い山里や、物寂しい海辺などに身を隠したりするんですよね。

まだ子供でした頃は、女房などが物語を読むのを聞いて、すっかり心を
打たれて、悩み抜いた挙句のことだと、涙までも落としたことでございますよ。
今思うと、それはたいそう軽々しく、わざとらしい行動です。愛情深い夫を
残して、たとえ目先に辛いことがあったとしても、夫の気持ちもわからぬように、
逃げ隠れて夫を心配させ、その気持ちを見定めようとしているうちに、夫婦の
縁が切れ、一生の物思いになってしまうのは、たいそうつまらないことです。

「よく決心なさいました」などと、周囲の人におだてられて、気持ちが昂ぶると、
そのまま尼になってしまうのですよね。決心する時は、たいそう悟りすました
ようで、この世に何の未練も無いように思えます。「まあ、何て悲しいこと。
こんなご決心をよくまあなさったことですよ。」などというように、知り合いの
人が訪ねてきたり、まだ女に未練のある夫が、出家のことを聞いて涙を流すと、
召使や、古女房たちも、「旦那様の情愛は深くていらっしゃったのに。惜しい
御身を」などと言います。本人も、額髪を触ってみても、手ごたえがなく心細い
ので、泣きべそをかいてしまうんですね。我慢しても一旦涙がこぼれ始めると、
折あるごとに堪え切れず、いろいろと後悔することになるでしょうから、仏さまも
これでは却って未練がましいとご覧になるに違いありません。この世の濁りに
染まっているよりも、なま悟りでは、むしろ悪道にさまようことになろうかと
思われます。前世からの夫婦としての縁が深く、尼にもならずに夫が捜し出して
連れ帰ったとしても、そのまま連れ添って、二人の間に生じる様々な危機を、
何とかやり過ごして来た夫婦仲であってこそ、宿縁も深く情けも湧くものでしょうに、
こんな騒動を起こしてしまうと、自分も夫も互いに今後が不安で、気が気じゃあ、
ありませんよ。

また、ちょっと他の女に心を移した男を恨んで、あからさまに仲違いをするのも
また、馬鹿げたことに違いありません。気持ちが他の女に移ったとしても、夫が
結ばれた当初の愛情を忘れず、妻をいとしく思うならば、そうした縁のある仲と
して続いて行くものを、そんなつまずきがもとで、縁が切れてしまうものなのです。

すべて何事も穏やかに、恨み言を言うべきことは、知っていますよ、という程度に
ちらっとほのめかし、恨み言を口にする場合でも、事を荒立てずそれとなく言えば、
それにつけて、夫の愛情も深まりましょう。多くは男の浮気も、妻の出方次第で
収まるものなのです。かと言って、あまりむやみに夫に勝手をさせ、放任するのも、
気楽で可愛気があるようですが、つい軽く見てしまいますね。岸に繋いでない舟が
どこを漂っているのかわからない、といったふうなのも、実際面白くありません。
そうじゃありませんか」と言うので、頭中将は頷いて、「さし当たって、綺麗だとか
可愛いとか思って気に入っている女が、夫を裏切っている疑いが出てきたら、
それこそ大変でしょう。夫のほうに落ち度がなくて女の浮気を大目に見るならば、
女の心を改めさせてでも何とかして結婚生活を続けることも出来ようかと思われ
ますが、必ずしもそうも行きますまい。何はともあれ、仲違いしそうなことがあっても、
気長に我慢するより外に、良策はないでしょう」と言って、ご自分の妹君は、この
結論にぴったりだと思われるので、源氏の君が居眠りをして言葉を挟まれないのを、
物足りなく面白くない、と思っています。左馬頭は、論議の博士となって、しゃべり
立てておりました。頭中将は、この論理を最後まで聞こうと、熱心に受け答えをして
おられるのでした。

左馬頭の話は続きます。「すべてのことに引き比べてお考え下さい。指物師が、
様々なものを思いのままに作り出すのにも、その場限りの趣味的な道具で、
きちんと作り方も決まっていない物は、見た目のしゃれているのも、なるほど
こうも作れるのだなぁ、と思われて、臨機応変に趣向を変えて、目新しく作って
あるのに惹かれて、面白く感じる物もあります。本当に格式のある、家の調度
の中でも特に際立つようにすべき定まった様式の物を、立派に作り上げること
にかけては、やはり本当の名人は違う、と、一目でわかるものでございます。

また絵所には名人が大勢いますが、墨がきに選ばれた絵師でも、上位と下位
とのはっきりと差のつく優劣の違いは、ちょっと見ただけではわかりません。
ですが、人が見たことも無い蓬莱の山、荒海の恐ろしい魚の姿、唐の国の
猛々しい獣の形、目に見えない鬼の顔などの、大げさに筆を振るった絵は、
空想に任せて一段と人目を驚かせて、真実には程遠いものでありましょうが、
それはそれでいいでしょう。

ありふれた山のたたずまい、水の流れ、見馴れた人の住まいの様子などは、
なるほどと思われ、親しみやすく穏やかな点景などを、しっとりと画面に配して、
険しくはない山の様子を、木々が茂り、幾重にも重なって浮世離れしたように
描き、近景において人家の垣根の中を描いた時、その心配りや描法などの点で、
名人のは格別の精彩を放っており、いい加減な絵師の及ばないところが多々
あるようです。

字を書くにしましても、深い素養がなくて、あちこち点長に筆を走らせ、どことなく
気取って書いてあるのは、ちょっと見ると才気があって上手そうな感じがします
けれど、やはり本格的な書法で丁寧に書き上げた書は、表面の筆の上手さは
目立ちませんが、もう一度両者を取並べて見ますと、やはり実直な書き方の
ほうが優れています。ちょっとした才芸でもこうしたものです。ましてや女の心の、
何かの折に気取って見せたような、目先だけの風情は、頼りにならないものだと
考えるようになりました。

当初の私の失敗談を、好色めいたお話ですがいたしましょう」と言って膝を
進めると、源氏の君も目を覚まされました。頭中将は大層熱心な顔つきで、
頬杖をついて、向かい合って座っていらっしゃいます。法師が世の道理を
説いて聞かせるところのような心地がするのも、一方ではおかしいのですが、
このような機会には、各自が秘め事を隠し切れずにしゃべってしまうので
ございました。


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