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『枕草子』が成立したのはいつ?

2023年5月19日(金) 溝の口「枕草子」(第52回)

2016年10月からスタートした溝の口での『枕草子』の講読会。
途中コロナ禍で、2020年3月~2022年6月迄中断。昨年7月
に再開してからは、順調に読み進め、今日は「一本一」~
「一本二十四」までを読みました。残るは「一本二十五」~
「一本二十七」までと「跋文」だけですので、来月で読了の
目途が立ちました。

「一本二十四」は、「宮仕へ所は」(宮仕えしたい所は)として、
「内裏」(一条天皇)、「后の宮」(定子)、「その御腹の一品の
宮」(修子内親王)、「斎院」(選子内親王)、「東宮の女御の
御方」(この時の東宮は後に三条天皇となる居貞親王で、
その女御は道隆の次女・原子)の五ヶ所を挙げている短い
段です。

この中で注目したいのは、修子内親王を「一品の宮」と称し
ていることです。皇族の場合、貴族の「位」に相当するもの
として定められた「品」(一品から四品まである)が与えられ
ていました。

修子内親王が一品に叙せられたのは、寛弘4年(1007年)
1月なので、この記述が清少納言の手になるものならば、
『枕草子』の完成はそれ以後、ということになります。

中宮定子(その頃には皇后)の崩御は、長保2年(1000年)
12月です。『枕草子』という作品が、それから約6年後以降
に完成したとなると、作者・清少納言が、その間ずっと定子
を追慕しつつ、加筆していったのだということになりますね。

『枕草子』が、中宮定子への、ひいては中の関白家への
敬愛の念に満ちた作品となっているのも、この期間が
あったからかもしれません。


入道の娘の印象

2023年5月15日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第34回・通算81回・№2)

このところ梅雨の走りを思わせるような雨の日が続き、
気温も20度に届かないまま過ごしてまいりましたが、
明日は25度まで上がって夏日に、そして明後日は
30度の真夏日に、との予報が出ています。身体を
こんなにも激しい気温変化に対応させるのも並大抵
ではありませんね。

本日の講読箇所では、「心くらべ」(意地の張り合い)を
続けて来た源氏と入道の娘がようやく結ばれ、第13帖
「明石」も終盤へと向かって行きます。

8月13日の夜、源氏は初めて入道の娘の住む岡辺の宿
を訪れました。入道が源氏を迎え入れるために、女房に
命じておいたのでしょう。月明かりの差し込む妻戸が少し
だけ開けてあり、そこから入った源氏は、娘にあれこれと
話かけます。

源氏の突然の訪問に娘は驚き、気を許そうとしない態度
を取り続けます。それに対し、源氏は「こよなうも人めき
たるかな」(随分といっぱしの貴婦人めいた振舞いをする
ことだ)と、不快感を募らせています。「京の高貴な女君
たちでも、ここまで近づけば、強情に拒んだりしないもの
なのに」、と思う源氏の心の内には、「受領の娘ふぜいで、
なに気取ってるんだ」、という身分差別の意識が見え見え
です。

源氏に歌を詠みかけられて、娘は返歌をします。その歌
を詠む雰囲気が、「伊勢の御息所にいとようおぼえたり」
(伊勢に下向した六条御息所にとてもよく似ている)、と
あります。

最初は馬鹿にしたようなところもあったのですが、言葉を
交わしたことで、がらりと印象が変わっています。

六条御息所といえば、貴婦人中の貴婦人で、「心にくき
よしある人」(奥ゆかしく教養溢れる人)です。その御息所
によく似ている、ということは、源氏がそれまで抱いていた
「所詮受領の娘」の想像が外れ、娘が京の上流階級の
姫君に劣らない女性であると、読者にも知らしめている
ことになります。

詳しくは先に書きました第13帖「明石」の全文訳(11)を
ご覧頂ければ、と存じます⇒こちらから


第13帖「明石」の全文訳(11)

2023年5月15日(月) オンライン「紫の会・月曜クラス」(第34回・通算81回・№1)

今月のオンライン「紫の会」は、源氏と入道の娘が結ばれる場面から
読み始めました。本日の講読箇所(289頁・10行目~295頁・3行目)の
前半部分(289頁・10行目~292頁・5行目)が、それに該当しますので、
今日の全文訳に記しておきます。後半部分は、5/25(木)のほうで
書きます。


岡辺の家の様子は、庭の木が鬱蒼と繁り、たいそう趣があり、見所の
ある住居です。海辺の家は贅を尽くして興趣に富み、こちらはひっそり
とした風情の住まいで、ここに住んでいたなら、あらん限りの物思いを
し尽くすことであろう、と娘の人柄が偲ばれて、しみじみとした思いが
なさいます。

三昧堂が近くて、鐘の音が松風と響き合って、物悲しく聞こえ、岩の上
に生えた松の根の張り具合が、趣深い様子です。庭の植え込みの中で、
秋虫が声の限りに鳴いています。源氏の君は、邸内のあちこちの様子
などをご覧になりました。

娘を住まわせている一画は、念入りに磨き立てて、月の差し込んだ真木
の妻戸口が、ほんの僅か押し開けてありました。源氏の君が躊躇いがち
に何かとおっしゃっても、娘は源氏の君とこうまでお近づきにはなるまい、
と深く思っているので、何となく嘆かわしくて打ち解けようとしない態度を、
源氏の君は「なんとまぁ、貴婦人ぶった態度であることよ。そう簡単には
逢い難い高貴な女でさえ、ここまで近づいてしまえば、我を張って拒む
ことは無いのが今までの例だったのに、自分がここまで落ちぶれている
のを見くびっているのであろうか」と、口惜しく、あれこれと思い悩んで
おられました。

「思い遣りなく無体なことに及ぶのも、今の場合は相応しくない。かと
言って、意地の張り合いに負けるのも体裁の悪いことだし」などと、
思い乱れて恨み言をおっしゃるご様子は、本当にものの情趣を解する
人に見せたい程でした。
 
娘の傍の几帳の紐に触れて、箏の琴が音を立てたのも、琴を取り
片づけた様子も無く、くつろぎながら琴を手慰みに弾いていた様子が
察せられて風情があるので、源氏の君は、「このずっとお噂に聞いて
おります琴もお聞かせいただけないのですか」など、あれこれと
おっしゃるのでした。

 「むつごとを語りあはせむ人もがな憂き世の夢もなかば覚むとや」
 (仲睦まじく話せる人が欲しいのです。この辛い世の夢もそれで
  半ば覚めるあろうかと思われまして)
と、源氏の君が歌を詠みかけなさると、
 「明けぬ夜にやがてまどへる心にはいづれを夢とわきて語らむ」
 (明けることの無い夜の闇の中に、そのまま迷っている私には、
  どれが夢であると、はっきり分けてお話することができましょうか)
と、ほのかに答える娘の様子は、伊勢に下向した六条御息所にとても
よく似ていました。

娘は何も知らされずにくつろいでいたのに、このような思い掛けない
ことになり、困り切った挙句、近くの部屋の中に入って、どう戸締りした
のか、襖がびくともしないのを、源氏の君も、無理に意を押し通そう
ともなさらないご様子でした。でも、いつまでもそのようにばかりして
いられましょうか。

実際の娘の様子は、たいそう上品で、すらりとしていて、気が引ける
ような気高い雰囲気があるのでした。このような結ばれるはずもない
二人が結ばれたという深いえにしをお思いになるにつけても、ひとしお
しみじみとした感じがなさいます。お逢いになったことで、ご愛情も
深まったことでありましょう。いつもは嫌な秋の夜長も、すぐに明けて
しまった気がするので、人に知られまいとお思いになるにつけても、
気が気ではなくて、源氏の君は、心を込めてまたの逢瀬を約束して
お帰りになりました。
 
後朝の文が、今日はたいそうこっそりと届けられました。つまらない
良心の呵責というものですね。岡辺の家でも、こうした源氏のお通い
が何とか世間に知られないように、と憚って、お使いの者も大袈裟に
歓待できないのを、入道は残念に思っておりました。

この後は、人目を忍びながら、時々お出でになります。源氏の君の
お住まいと岡辺の宿は少し離れているので、途中に自然と口さがない
土地の若者もうろうろしているかもしれない、と気をお遣いになって、
お通いも控え目なのを、娘がやっぱり思った通りだ、と嘆き悲しんで
いるのを、ほんとうにどうなることかと、入道も、極楽往生の願いも
忘れて、ただひたすら源氏の君のご来訪を待っているのでした。
出家の身で、今更俗世のことに心を乱すのも、たいそうお気の毒な
気がいたしました。


「宿木」の年立に二つの説

2023年5月12日(金) 溝の口「源氏物語を読む会」(第168回)

今週は、月・水・金と講読会があり、昨日はコンサートと、4回も
出掛けました。コロナ禍以降新記録かも(笑)。ですから、ブログ
の更新も私にしては頻繁です。

このクラス、今日読んだのは、間もなく冬を迎える9月20日過ぎ
に宇治を訪れた薫が、阿闍梨の山寺に八の宮邸を御堂として
移築する相談をし、その夜は宇治に泊まって弁の尼と語り、翌日、
紅葉した蔦を持ち帰り、中の君の許へ土産として届けさせた、と
いうところ迄です。

本文の内容につきましては、まだ第4月曜日のクラスと、オンライン
クラスで同じ個所を読みますので、その時に取り上げるとして、
先ずは、「宿木」の巻の年立に、二通りの説があることをご紹介
しておきたいと思います。

通説では、第49帖「宿木」での薫は、24歳~26歳の4月迄、として、
本日講読の第2年目の記事では25歳ということになっています。

その根拠です。第47帖「総角」(薫24歳)で、既に匂宮と夕霧の
六の君との縁談が具体的に進んでおり、薫の従者が親しくなった
八の宮邸に仕える女房にそれを話し、その女房がまた同僚たち
に語ったことで大君の知るところとなり、大君は病状を更に悪化
させて死に至る、という経緯を辿っています。となると、「宿木」の
第1年で、夕霧が六の君の婿選びに苦慮し、帝が女二宮を薫に
降嫁させようとなさっていることを知って、薫を諦め、匂宮へと
思い至るのが、「総角」の翌年とは考え難く、「総角」と同年、と
捉えるのが妥当、とされてきました。

では何故新説が生じたか、というのが、今日の講読箇所の一部
の記述に拠るものなのです。薫は山寺の阿闍梨を呼んで、「例の
かの御忌日の経仏などのことのたまふ」(いつものように、大君の
ご命日の法要に供養する経巻や仏像のことをおっしゃる)、と
あります。八の宮が亡くなったのは8月。ですから9月下旬の今、
これからの法要に関してとなると、当然11月中旬に亡くなった大君
の法要ということになります。

ここで問題視されているのが「御忌日」という表現です。この年を
通説に従って「総角」の翌年と考えるなら、大君の一周忌となります。
一周忌には「御果(おんはて)」という言葉が使われるのですが、
それが用いられず、しかも一周忌らしい記述もないことから、この
「宿木」の第2年は、大君逝去の翌々年、つまり薫26歳と考えるべき、
とするのが新説です。

さて皆さまなら、どちらの説を選ばれますか?決めかねるところです
よね。このような場合、いつも逃げているようですが、私は、ご自分が
こちらと思うほうで、と申し上げております。通説の根拠のほうに事の
重さを感じるので、一応、「宿木」の第2年は従来通り、薫25歳として
話を進めています。


フジコ・ヘミング スペシャルコンサート

2023年5月11日(木)

今日は表題のコンサートを聴きに、姉と親戚の者と三人で、
大船の「鎌倉芸術館」まで行って来ました。

昨年暮れに、ブロ友さんがフジコ・ヘミングさんのコンサート
にいらして、「いつまでも心に残りそうな、いいコンサートでした」
と書いておられる記事を拝見して、私も一度は生で聴いてみたい
とずっと思っていたので、チャンスを窺っていました。

意外にも機会は早くに訪れ、2月にチケットを購入し、今日を
楽しみにしておりました。

会場の「鎌倉芸術館」は大船駅から徒歩10分位の、緑豊かな
場所に立つ文化施設です。以前に「舞楽」を観に行って、とても
良い印象の残っている所です。大ホールといっても1500席ですが、
今日はその座席が埋め尽くされていました。

歩行器を押しながら舞台に登場されたフジコ・ヘミングさん、今
90歳だそうです。でも、ピアノに向かって座られると、姿勢自体も
変わって見えました。

第1部は、先ず東京フィルハーモニー交響楽団とのモーツァルト
の「ピアノ協奏曲第21番」の演奏、続いてピアノ独奏で、ショパン
の「ノクターン第1番」と、フジコ・ヘミングさんの代名詞のように
なっている「ラ・カンパネラ」が演奏されました。

「ノクターン」を聴いている途中から涙が止まらなくなりました。
映画などを見て涙が出ることはよくありますが、コンサートで
泣いたことは自分でも記憶にありません。もう何年も、生の
コンサートを耳にすることがなかったからかもしれませんが、
フジコ・ヘミングさんの人生が重なるかのような、鍵盤を叩く音
には、若いピアニストのハイグレードな演奏とはまた別の感動
の源があるのだと思いました。

私も突発性難聴で右耳の聴力を失って18年になります。片耳が
聞こえない状態にも慣れましたが、そんなことも共感の涙に
繋がったのかもしれません。

第2部は、東フィルによるベートーベンの交響曲第5番「運命」の
演奏でしたが、その間もフジコ・ヘミングさんは舞台の端に座って
姿勢を崩すことも無く、じっと耳を傾けておられました。

今日、フジコ・ヘミングさんの生演奏を聴けて本当に良かったです。

       フジコ・ヘミングのコンサート③
            「鎌倉芸術館」の前で

       フジコ・ヘミングのコンサート①
       本日のプログラム。フジコ・ヘミングさんが
       描かれた絵も素敵です。


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